トカゲ 2
シルビアは駆け出しながら流れるように付与魔法を自身にかける。そうしてあっという間に赤いトカゲの目の前まで到達したが、シルビアが殴りつける前に赤いトカゲは迎え撃つようにかぱっと口を開けて――シルビアが飛び退くと同時に、青い毒の霧があたり一面に広がった。赤いトカゲがはさらに翼でゆるやかな風を起こし、青い霧は広範囲に広がっていく。
シルビアは防御壁の魔法で毒の噴射を直に浴びることは回避できたものの、前面だけを覆っていただけだったので毒の霧を浴びる前に後方に避けたのだろう。普段であれば毒の霧など気にせずつっこみそうなものだが……ストレンキーの前まで飛び退いたシルビアは自らの鼻をつまみ思い切り顔をしかめていた。
「ぐぐグ……クサ、い……」
私にはわからないが、どうやらとんでもなくくさいらしい。シルビアが目をぱちぱちさせると涙がぽろぽろ落ちる。霧が届かない場所ですら目にしみるのだろうか……。普通の人がこの場にいたらひとたまりもないような恐ろしい毒、なのだろう。しかしシルビアは解毒の魔法をするでもなく、「グザイ……」と目をこすっている。
――ガォッ
すぐ後ろにいたストレンキーが吠えるとその圧でぶわりと風が起こり、毒の霧が文字通り霧散する。
青い霧が晴れたそこでは、くちばしからぽたぽたと毒を垂らしながら赤いトカゲが仁王立ちでこちらを見据えていた。
「グルォァ……」
ぬ、っとストレンキーが前に出る。4つある目の3つは隙なく赤いトカゲを睨んでいるが、1つはシルビアに向けられていた。……え、もしかしてその目って全部別々に動く?
「むう。」
とうめきながらも、シルビアは頷いた。そして、ぺたりとストレンキーの太い腕を触ると身体強化の魔法を使う。――シルビアはどうやらクサいのが苦手らしいが、ストレンキーは気にならないのだろうか。
そういえば魔獣が臭いものを嫌がるというのは聞いたことがない。シルビアは人である私と混ざってしまったせいで、そういった“苦手”ができたのかもしれない。
「ガゥ……」
ストレンキーがひどく人間臭い動きで、ばし、と胸の前で左手の拳を右手の手のひらを叩いた。そして、ぐっと背を低くすると真正面から赤いトカゲに突っ込んでいく。
「ギャァ!」
赤いトカゲは羽ばたいて空へと飛び退りながら毒の霧を吐いて撒き散らし、ストレンキーが吠えて吹き飛ばしても構わず低空からさらに毒の霧を吐き続け、あっという間に辺り一面を毒霧の海に変えた。ストレンキーの周囲も濃い青い霧に覆われ、私からはすでにその影すら見えない。シルビアはあまりの臭さに鼻を摘まんだまま「ムひ。」と呻いて、さらに後ずさった。
赤いトカゲがシルビアの挑発に縛られていなければ、そのまま空を飛んで逃げ出せるのだろうが……
「ッ!?」
様子を窺って低空でホバリングしていた赤いトカゲの毒爪を、毒霧の海から伸びたゴツく毛むくじゃらな手が捕らえた。
「ギッ!?」
赤いトカゲはそのまま毒の霧に引きずり込まれ、大地に叩きつけられた。ストレンキーを中心に一気に霧が晴れる。赤いトカゲをなんとか捕らえたストレンキーだが、どうやら反撃されて脇腹を赤いトカゲに食いつかれているようだった。
「グゥ……」
「ギギギ……」
ストレンキーが首を狙って噛み付こうとするが、赤いトカゲは素早く脇腹を離してそれを避けた。それから両翼を勢いよく羽ばたかせてストレンキーから距離を取ろうとするものの、ストレンキーはがっちりと掴んでいた毒爪を引き寄せ、赤いトカゲの翼の付け根に噛み付いた。
赤いトカゲは怯まず、お返しとばかりに傷ついたストレンキーの脇腹に濃縮したような黒に近い紫色の毒を吐きかける。
じゅ、と離れて見ていたシルビアにもその音が聞こえた。
「ッ……ルル……グル……」
一瞬びくんと体を跳ねさせたがそれでもストレンキーは赤いトカゲを離さなかった。片手で赤いトカゲの首を、反対の手で翼爪を掴み、足で毒爪を押さえて力を込めている。
「ギッ……ギギャッギャッ」
ばたばたと赤いトカゲがもがくが、ストレンキーはがっちりと組み伏せているために動かない。やがて赤いトカゲの翼の付け根の皮が破れるギチギチという音があたりに聞こえ始めた。赤いトカゲは必死に反対の翼爪でストレンキーを掻き、足を踏ん張るが――身体強化の魔法で肉体が超強化されたストレンキーはびくともしない。
「ググ、ググググ……」
「ギャッギャッギギ……ィ……」
逃げようと暴れる赤いトカゲと、噛み付いたまま翼を肩口から引き裂かんとするストレンキー。
その攻防は、ばきんと翼の骨が外れる音を合図にして終わった。
ストレンキーが赤いトカゲの強烈な蹴りで数メートルほど弾き飛ばされる。
毒を体に入れすぎたのだろう。ストレンキーは立ち上がるが、ふらふらとしていてだいぶ頼りない。分厚い毛皮に護られているだろう背中からは赤い血が流れ、濃い毒をまともに受けた脇腹は青黒く変色していた。息は荒く、毒が全身を侵して内側から殺していっているのが私の目からでもわかる。
……身体強化の魔法で肉体は強化されても、毒への耐性がつくわけではない。赤いトカゲの毒を受ければ、たとえ魔獣だとはいえ死ぬ可能性が高い。そもそもさっきまで、ストレンキーはこの毒で死にかけていたのだ。
赤いトカゲの翼は片方が完全に折れて半ばまで裂け、根本からはどくどくと青い血が流れていた。もう片方の翼は無事だが、ストレンキーの背中を裂いたその翼爪は欠けてしまっている。しかし戦意はまだあるようで、折れた翼をかばうようにしつつもストレンキーを睨みつけていた。
「グルォァ……」
「ギェッ!ギャッ!」
互いに動かず牽制しあっていると、ふいに魔素がストレンキーに集まり始めた。ストレンキーの4つある目に魔素が集まっている。傍から眺めていたシルビアの毛がふんわり逆立つ。ストレンキーと睨み合っていた赤いトカゲは、しばらくすると頭を振ったり足を踏み鳴らしたり落ち着かない素振りをしはじめた。
――魔眼にはいくつか種類があるが、ストレンキーの魔眼はたぶん幻惑系だろう。多眼系の魔獣は複数の魔眼を持っていることもあるが、4つの目はすべて同じ魔眼を発動しているように見えた。
しかし、ストレンキーが毒で弱っているためか効きが悪い。赤いトカゲは目の焦点をふらふらさせながらも、未だストレンキーを認識している。
それでもストレンキーは足を踏み出し、牙を剥いて赤いトカゲに向かっていった。毒に侵されている以上、時間をかけるわけにはいかないことはわかっているのだろう。赤いトカゲは飛んで時間稼ぎをすることが出来ないため、力負けしているとはいえ、まともにぶつかるしか無い。
(相性が悪かったのね。)
私はそんなことを考えながらその戦いを眺めていた。
ストレンキーはたぶん魔獣として純粋に強いのだろう。シルビアが喜び勇んで会いに行く程度には強い、はずだ。しかし赤いトカゲは空を飛び手の届かない場所から魔獣をも殺す毒を撒き散らすので、いくら力で勝っているストレンキーでも対処のしようがない。
さっきだってストレンキーは毒に倒れていたが、戦っていた形跡がなかったので不意打ちで毒をもらったのかもしれない。そもそも赤いトカゲの魔獣はそういう戦い方をするのだろうし。
シルビアが戦闘にまじりたくてそわそわしているが、離れた場所でもくさいので匂いの中心に踏み込む勇気が出ないらしい。というか倒したいだけなら離れた場所から魔法を打ち込めばいいだけなのだが、シルビアはじゃれあいたいのだ。
赤いトカゲが臭くなければ本当に三匹でじゃれ合っていたのだろう。本当に赤いトカゲの毒が臭くてよかったと心から思った。




