魔術師協会の研究室で
アリダイル聖王国は、西大陸有数の大国である。
一個師団全員が魔術師で構成されているという【聖杯騎士団】を擁する軍事力はもちろんのこと、国土でいえば隣接しているトリットリア小国、マウンズ小国、シマネシア小国の三小国からなる連合王国アトラドフよりも広い。現在歴王がいるディストニカ王国と比べると倍はあるだろう。
平地や丘陵地帯が多く、その地形を生かした酪農や農業が発展していて食料自給率が高い。そのため飢饉などが起こったとしてもそれほど危機的状況に陥ることはなく、聖王都に近い領地の街では食すために育てられている肉を平民でも当たり前のように口にする。
その最たる場所が聖王の住まう聖王都だろう。聖王都の近くにも森はあるし作物や人に被害が出るので害獣退治はするが、聖王都の人々がその肉を食べることはないのだ。害獣の肉が売られるのはスラムのような小汚い場所で、食べるのも一部の物好きやその日の食事に困るような貧困層のものたちだけである。
聖王都に住む人々は当然のように自然に生えている果実を採って食べることもない。そういう自然を自然のまま扱うことは、聖王国の人々にとって恥ずかしい行いなのだ。
なぜならばこの聖王国は、“真なる人の国”であるから。
今、アリダイル聖王国は獣人を同じ人だと認めていない。
ほんの40年ほど前までは獣人への差別禁止を聖王が声高に叫んでいたのに、だ。
40年ほど前に歴王だった先代の王ガビルが今代の聖王に王位を譲ったあと、聖王国の誰しもが新たな歴王には現聖王が選ばれると確信していた。しかし、ガビルが崩御すると同時に選ばれた歴王はディストニカ王国のオルカ王であった。
すると獣人容認派よりの中立だった現聖王は手のひらを返したように獣人排除派になり差別を推奨。それは、差別の土台が根強く残っていた聖王国全土にまたたくまに広がり、前歴王が生涯をかけて作り出していた獣人容認の気配は聖王都からあっさりと消えたのだった。
その後、どこからわいたのか自然の恵みを活かすようなものは獣臭いという風潮が広まり始め、今に至る。
もちろん食肉も果樹園で採れる果実も地方ではそれなりの価格になるため、聖王国に住まう人々全てが自然の果実や害獣の肉を食べないわけではない。聖王都に近づくほど、そういった行いが敬遠されるようになっているだけだ。
しかし、森の果実を食べるもの害獣を食べるのも森に住んでいる亜人が行うことであって、真なる人はそうあるべきではないという国風は国民のほぼ全てが知っているし、そう考えている。
その意識教育は平民の子どもにすら、小さい頃から当たり前のように行われているのだ。
子どもに言って聞かせるのは、大罪を犯していた獣人の国を成敗し、聖王国を建国した歴王アリダイルの話だ。絵本や子供の何気ない遊びひとつとっても、獣人は獣や亜人や悪者であり真なる人と同列視されることはない。
そんな国だからこそ、先代歴王に感化されて容認派になってしまった領もあるものの、基本的に貴族たちは平民よりも遥かに選民意識が高い。
しかし権力を持っているがゆえに煩わしいしがらみに囚われ、堂々と獣人を排除できないという貴族だっているだろう。
そう、このティリアトス辺境領のように。
……などと考えていたトリットリア小国生まれの魔術師ダーキンソンは、紹介された辺境伯の息子と娘だという2人組が獣人の子どもを連れていることに内心とても驚いていた。
しかもどう見ても子どもなのに傭兵のような格好をし、娘のほうの護衛をしているという。
この聖王国の貴族が獣人を雇い、あまつさえそばに置くなどとは思ってもみなかったダーキンソンは、現れたこの街の代官の話を半分上の空になって聞き流していた。
しかしこのヒュランダル魔術師協会の支部長である上司はきちんと聞いていたようで、代官の言葉に眉をひそめていた。
「ダンカン様。ええ、もちろん魔法陣を見ていただくのは問題ありません。魔術師協会は全ての魔術師に扉を開いております。ですが、その、なぜ獣人、のかたも……ご一緒なのでしょう?」
「リネッタは、カトリーヌ様が雇われている腕の良い護衛だ。昨日、青鉤鳥の毒袋が届けられたのは知っているか?」
「ええ、もちろんです、素晴らしい状態で、いつもよりも多くの解毒剤を作ることができたと報告をうけております。」
「その青鉤鳥を狩ったのがリネッタだ。」
「なんと……」
「疑うというのならば、我々が帰ったあとにでも傭兵ギルドに聞いてみろ。とにかく今は、どのような方法で解毒剤を作っているのか見せろ。」
「は、承知いたしました。」
やや納得はしていない空気をにじませながらも、上司はダーキンソンに目配せした。
ダーキンソンは初めて出会う貴族にどぎまぎしながらも、頭を下げ、「ようこそいらっしゃいました。」とどうにか声を絞り出した。
そして、そばにある物置き棚の一番下の引き戸を開けて、重く大きな器を取り出してテーブルに載せた。その器は半透明のガラスで、底に大きな魔法陣が刻まれている。
器はよく磨かれていて、小さな傷はあるものの汚れてはいない。この器には毒を入れるわけで、少しでも汚れてしまっていたとしたらそれは毒の可能性があるということだ。しかも、基本的にこの器は青鉤鳥の毒にしか使わない。他の魔道具よりもはるかに丁寧に扱ってしまうのは仕方のないことだろう。
ダーキンソンは器を裏返し、刻まれている魔法陣が見えるようにした。
「この器型の魔道具に刻まれている魔法陣は“解毒剤の魔法陣”といいまして……この器に入れたものが毒ならば、魔法陣を発動させるとそれに対応した解毒剤になるのです。」
「解毒剤を入れたらどうなるんだ?」
「変化しません。元の毒になることは絶対にありません。」
「では、毒以外のものを入れたら?」
「様々なものが試されたようですが、毒以外には影響はないようです。」
「では、この魔道具で毒を作り出すことはできないのだな?」
「はい。」
毒という言葉にやや強い反応を示す貴族の青年に、これは実際に毒を出して解毒剤を作ってみせるのはなしだな、と考えながらダーキンソンは静かに頷いた。
この魔法陣は毒から解毒剤が作れるが、その効果は不可逆だ。解毒剤はどれだけ時間が経とうとも――腐ることはあるが――解毒剤のままだし、解毒剤を毒にすることも出来ない。
あくまでも解毒剤の魔法陣は解毒剤生成専用だ。そうでなければこの魔法陣は市井に広まることもなく使用禁止になっている。
「まあ。とても複雑な魔法陣なのですね。」
貴族の娘が興味津々な様子で器に近づき、流れるように「ねえリネッタ――」とすぐ後ろについていた護衛の獣人の少女に声をかける。
ダーキンソンは獣人が魔法陣に興味を示すわけがないだろうと思いながら、貴族の娘に進められるように魔法陣に視線を落とした少女を眺めた。
ふと視線の端に上司が見えたのでちらりと視線だけを向けると、生粋の聖王国人だという上司は露骨に顔をしかめているところで、うっかり目が合ってしまった。上司は苦虫を噛み潰したような顔をしてからなんとか表情を取り繕い始める。
アリダイル聖王国は人至上主義の国である。しかも魔術師協会は聖王都に総本山があり、アリダイル聖王国に拠点のある魔術師協会は他国の協会よりも発言力がある。
しかし、このヒュランダルの街に限っては誰であろうと獣人差別などできやしないのだ。この街には、いや、あの魔獣の巣がある土地を治めるためには獣人が必要不可欠。獣人を差別していたとしても、それを表に出せば街に居づらくなるのは当人である。
もちろんそんな獣人が堂々と闊歩するこのヒュランダルの街の魔術師協会に在籍しているのは、ダーキンソンも含めて他国の魔術師ばかりであり、聖王国内にありながらこの協会の発言力は他国と同じか少し低いといってもいいくらいであった。
……つまり自称生粋の聖王国人であるのにこんな場所に配置されてしまった上司は、何をやらかしたのか他の聖王国内の魔術師協会からこの街に左遷されてここにいるのである。
「……。」
リネッタと呼ばれた獣人の少女が、眉をひそめて魔法陣を見ている。
まあ、見ろと言われたから見ているのだろうが、何かを考えているわけではなく、ただ本当に見ているだけだろう。獣人は魔法陣を使えないし、毛嫌いする者もいるほどなのだから。
それよりも、こんな小さな子どもが青鉤鳥を狩ったことにされていることに、ダーキンソンは少なくないショックを受けていた。
ダンカン曰く傭兵ギルドで確認できるということだったが、あり方は違うが魔術師協会と同じく国をまたぎ国家権力に屈しないはずの傭兵ギルドで実績が捏造されたことも、貴族が望んだからといってそれを叩き上げの傭兵でもあるダンカンが容認していることも、ダーキンソンにとっては信じがたいことなのだ。
しかし、貴族の戯れでそういった正しいものが捻じくれてしまうことは実際はよくあることだ。
この街の代官も結局は権力に溺れてしまったのだろう。ダーキンソンはそう結論づけながら、魔法陣を興味深げに見つめている貴族2人と獣人の少女を眺めていた。




