現実逃避
私は氷漬けになった森のあの広場でしばらく放心したのち、はっと我に返ってそそくさと移動し、やや薄暗いものの僅かに陽光の差し込む場所を見つけて手近な倒木に座っていた。
手には二角兎のサンドイッチ。
野菜を練り込んで固めに焼いた緑色のパンはマウンズで食べていた香草パンよりもしっとりしていて、思っていたよりも草臭くない。甘めに味付けされ炙られたやや柔らかめの香ばしい肉と一緒に挟んであるのは、歯ごたえのある厚い葉物野菜だ。肉と野菜の食感の違いが楽しく美味しい素晴らしいサンドイッチを夢中で食べ、あっというまに完食してしまった。
美味しいものを食べると満たされる。
シルビアが魔核を飲み込んだときも、同じように満たされたのだろうか?――いや、忘れよう。もう過ぎたことだ。
サンドイッチの包みを鞄に押し込み、足元に立てかけてあった剣を手に取る。
これは、シルビアによって氷に閉ざされていた大地から救出した魔剣だ。見た目は至って普通の金属製の剣だが、なんとなくやや短い気もする。
その刃の中央部分、根本から3分の1あたりまでに精密な魔法陣が刻まれていた。魔法陣は(魔素効率が一番良いであろう)正円が一般的だが、それは二等辺三角形のような形になっていて、剣の形に沿うように作られていた。
慎重に――魔法陣を壊さない程度に徐々に魔素を流し込むと、2つある魔法陣が淡く輝き剣全体が白く輝きはじめる。
魔法陣はそれぞれが独立しているわけではなく、片方の魔法陣を発動させると連動してもうひとつの魔法陣も発動し、ふたつでひとつの効果を剣に及ぼしていた。狭い場所に効果の高い魔法陣を刻む技術として複数に分けるというやり方は某王都の壁にもあったし、実は一般的に使われている技術なのかもしれない。
魔法陣を発動してみたものの、重さも、たぶん剣の強度も変わってはいない。
私は立ち上がり、その諸刃の剣をさっきまで座っていた倒木に振り下ろしてみる。
倒木は、そこそこの手応えとともに叩き切れ、剣先が大地に刺さった。静かな森に破壊音だけが響く。
「ふうん……。」
刃こぼれは(ぱっと見は)していない。魔素で作られた刃が剣を覆っているからだ。
剣自体を強化するのではなく、それを覆うように魔法の刃が展開している。これならば魔獣の攻撃を受け止め、その硬く分厚い皮膚を切り裂き骨を砕くこともできるだろう。
剣は至って普通のものなので、変に力が加われば折れるだろうが。
淡い光を放つ魔法陣をじっと見る。
非常に細かな古代語が刻まれ複雑な紋様を描いていていかにもな魔法陣だが、古代語を細かくしなければならないのも、2つに分けで剣の両面に刻まなければならないのも、ひとえに魔素効率が悪いからだ。正円ではないことがそれに拍車をかけている。
魔法陣ではなく、剣自体に魔素を通してみる。
この世界の魔道具は、魔法陣が発動している間に、魔法陣が刻まれている物を構成している魔素をわずかずつだが消費してしまう。しかし、剣を構成している魔素に変化はなかった。
実は灯りの魔法陣でさえ、発動している間は刻まれている壁を構成している魔素を消費している。
もちろんそれは――魔素の毒に侵されているという間違った知識ではあるものの――この世界の人々も知っていて、魔法陣が刻まれている物が劣化するのを防ぐために、魔道具は定期的に魔道具屋へ持っていき整備する必要があるとトイルーフさんから聞いた。
持ち運べない灯りの魔法陣などは、数年に一度、魔道具屋が出張して専用の魔素墨なる液体を魔法陣に塗ることで壁の劣化を防いでいるらしい。魔素墨が何なのかは教えてもらえなかったが、魔法陣が発動したときにその魔素墨の魔素を消費するようになるのだとしたら、たぶん魔素に近しい……ああ、魔素クリスタルを液体にしたもの、かもしれない。
「液体の魔素クリスタルかあ……」
割れば魔素に戻り跡形もなくなる魔素クリスタルを液体にする技術にはちょっと興味がある。液体ということはなにかに染み込ませて使うこともできるはずだ。そしてたぶん、魔素ポーションとしても使えるだろう。
この世界には、当然ながら魔素ポーションがない。魔素が毒だと思われているのだから、魔素ポーションとはつまり毒薬ということだ。魔素墨もきっと毒だと思われているに違いない。
そして、魔道具が高価な理由のひとつも魔素墨だろう。魔素クリスタルが高いのだから、それと同じような効果の魔素墨も当然高いはずだ。
そのものが高価な魔道具は、さらに買ったあとも年に1~3回は魔素墨を塗り直さなければならず、使うときには魔素クリスタルを消費する。……魔道具屋が儲かるはずである。
「効率が良ければそんなお金かかんないんだけどなあ。」
静かな森に、思わず漏れた言葉が溶ける。
そう、全ては魔素効率の悪さが原因なのだ。あと、魔素クリスタル“だけ”しか魔素を込められないことになっているのも問題だろう。別に魔素墨なんて使わなくとも、生き物は別として、物自体の魔素が減れば減ったぶんの魔素を継ぎ足してやればいいのだから。
と、ふとさっきまで当たっていた僅かな陽光が私を外れていることに気づき、私は「む。」とうめいた。
……そろそろ現実を見なければならないようだ。
私は、静かな森を見回した。そう、“静かな森”だ。
ここは下の森の中腹あたりで、大型の獣どころか魔獣がいても何らおかしくない場所のはずなのに、生き物の気配が一切無い。虫はいる。しかし、小動物よりも大きいものは逃げてしまったのだ。シルビアの魔法に恐れをなして。
直径が50メートルほどあったあの広場を覆い、さらに森の一部までをも氷に閉ざしたあの魔法は、『凍結波動の魔法』という。
本来ならば、冷気を放出する向きや範囲などを指定して足止めなどに使うのだが、シルビアがそんな細かいことをするはずもなく、“山火事が消えればなんでもいい”と周囲の魔素を取り込みつつ全方向に向けて放ったせいでああなってしまった。
そしてその結果シルビアの周囲にあったものは全てが凍りつき、シルビアの放出した恐ろしい魔法の気配に周囲にいた獣たちは一目散に逃げたのだった。もちろんその中には、青鉤鳥もいるわけで。
「今から上の森に行くわけにも行かないしなあ。」
静かすぎる森に、私のつぶやきが溶けた。




