精霊様のお導き(?)
シルビアが自由落下している頃、カトリーヌは代官の屋敷の書庫の窓辺で一人、本を読んでいた。
精霊の奇跡について書かれているもののなかでも、よっぽど貧しくない限りどの一般家庭にも置いてある、ごく僅かな献金で手に入れることのできる本だ。逆に言えば、高額の献金をしているような貴族の屋敷にはまず置いてないものである。
この聖王国に流通している精霊関連の本は、その全てを精霊神殿が管理しており、献金することで手に入れることができる。
聖王国では精霊についての本は精霊神官のみ書くことが許され、内容にも厳しい規定がある。さらに他国で書かれたものを精霊神殿以外が売ったり配布したりすることは禁じられているため、国境に面した街などではともかく聖王都では精霊神殿の神官が書いたものだけが出回っていた。
カトリーヌの住む屋敷にも、聖王国の精霊神官が書いたものしか置いていない。
精霊についての本は多種多様で、今カトリーヌが読んでいるようなごくごく安価で民衆でも手に入れられるよう書かれているもの以外にも、子ども向け、商人向け、傭兵向け、そして高名な精霊神官が手ずから書いた王侯貴族専用のものまで様々だ。
カトリーヌの傍らに置いてあるテーブルにも精霊関連の本が積まれているが、この書庫には貴族向けに書かれたものがないかわりに、商人向けと傭兵向け、そして武官向けのものと、なんと他国で書かれたものまでが置いてあった。
カトリーヌが読んでいる民衆向けの本には、精霊への感謝の祈りから始まり、様々なかたちで人々に恩恵を与えてきた偉大なる精霊たちの力や、精霊王の祝福と精霊の祝福の違い、なぜ獣人が精霊の恩恵を受けられないのかが子どもにもわかりやすいようにごく簡単に書かれている。
カトリーヌが注目したのはその中の、精霊が人々の前に現れたときの姿のページであった。
“精霊様が祝福を与えてくださるときにとる姿は様々ですが、可愛らしい小鳥の姿をされていることが多いようです。”
その他にも、七色に輝く蝶や、白銀の毛並みを持った鼠や兎、輝く黄金の瞳を持つ猫や狐など様々だが、人型のものは全く載っていなかった。
カトリーヌは、近くのソファの上で寛いでいる“幻影の精霊”に視線を向ける。
肩口まで伸びた紫の髪はゆるく内巻きになっていて、髪と同色の瞳は黒目がちで非常に可愛らしい。背中には細やかな模様の入った薄い黒い羽が2対ついている。そしてその体は、なんと向こう側が透けて見えている。
“なるほどこれが本来の精霊様に近いお姿なのだろう”と、カトリーヌは思っていた。それほど神秘的で、美しく、精巧な姿だった。
今はソファの上で飛んだり跳ねたりして遊んでいるけれども。
と、そんな精霊がふわりと宙に浮き、ふわふわとカトリーヌのほうへと近づいてきた。なんだろうと見ていると、暗い場所を好むはずの精霊が珍しく窓辺に近づき外を見る。
カトリーヌもつられて外を見やると、屋敷の裏門のところで門番と小柄な獣人の少年が話していた。いや、話しているというよりも、少年が何かを訴えていて門番がそれを突っぱねているようである。
カトリーヌはぱたんと本を閉じると立ち上がり、「行ってみましょう。」と精霊に声をかけた。
精霊はとくに応えることもなく、指示に従うよう音もなくカトリーヌのスカートの中に潜り込んだ。
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「お願いだから話をさせてくれよ!」
「だから、まず俺が聞いてやるって言ってんだろ。」
「そ、それじゃだめなんだよ。誰が聞いてるかわんないし……直接言わないと、それに早くしないといけないんだ!」
「例えお前がどういった情報を持っていたとしても、俺はここを通すわけにはいかないんだ。それが仕事だからな、諦めろ。」
屋敷の裏門の外側で、少年と門番が言い争っている。少年は、黒い大きな耳と尾をもった12、3才くらいの獣人だった。
ダンカンの屋敷の裏門は荷馬車が一台なんとか通れる程度の幅で、現在たて格子の門扉は閉まっていた。
カトリーヌは静かに近づき、声をかける。
「どうしたのです?」
「っ!?……ここは危険です、お屋敷にお戻りください。」
振り返った門番が、門扉ごしに声をかけてきたのがカトリーヌだとわかり、困惑したような顔で頭を下げる。
獣人の少年はいきなり現れた自分と同い年くらいの少女に探るような視線を向けたが、門番が頭を下げたのを見て慌てて自らも頭を下げた。
「いえ、よいのです。門を少し開けてくださらない?」
「は、いえ、しかし……」
カトリーヌは門番に微笑みかけるが、一方の門番は非常に困った顔になった。相方が使いに出ている今、裏門には門番が一人しかおらず、カトリーヌを止められるものはいない。
門番は、少年に「勝手に入るなよ!」と睨んでから、しぶしぶ人一人ぶんだけ門を開けた。
「何を話していたのです?」
「なあ、オレを代官様に合わせてもらえないか!?」
「あ、お前!不敬だぞ!」
と、門番が少年の頭を小突いた。
「イテッ。だ、だって、おじさんじゃ話になんないじゃないか!」
「そりゃそうだ、お前がやってること自体が、話にならないんだからな。お前みたいなやつは5日に一度は必ず来るんだ、自分が住んでいる街への不服を訴えにな。そんなことうちの代官様に言ったってどうしようもないんだ。」
「違う、別にそんなことを言いに来たわけじゃ……」
「じゃあなんだ、話してみろ。」
「……ここじゃ話せない。」
門番のもっともな問いに、しかし少年は耳と尾をしょげさせて力なく応える。
精霊様は、窓からこの少年を見ていた。これは、この少年から話を聞きなさいという精霊様のお導きかもしれない。それならば、導きに従わなければならない――。
カトリーヌは門番と少年のやり取りを見ながら、そんなことを考えていた。
「小さな獣人さん、あなたのお名前は?」
「……えっ、と、アギトです……。」
「そう、アギト。わたくしの名前は、カトリーヌ・トル・ティリアトス。このティリアトス領の領主の娘ですわ。」
「カトリーヌ様!?」
そう門番が避難めいた声を上げても、カトリーヌは止まらない。
「アギト、わたくしで良ければお話を聞かせていただけないかしら?」
「えっ!?」
「私では、貴方をこのお屋敷の敷地にいれてあげられないの。でも話ならば聞くことができるわ。」
「カトリーヌ様、お戯れはお止めください。一人でも例外を作れば、こういった輩が後をたたなくなります。」
門番が困ったようにカトリーヌに視線を向けたが、カトリーヌは「大丈夫よ。」と、柔らかく微笑んで応えた。
「私がこの少年の話を聞くのは、精霊様のお導きによるものです。ですから、何があっても、わたくしが全て責任を取りましょう。」
「精霊様のッ!?」
カトリーヌの絶対的な自信を含んだ物言いに、なぜか大いに門番が怯む。たかだが14歳の小娘のはずなのだが、このときのカトリーヌには形容し難い威圧感があった。もちろん、リネッタから“カトリーヌを守り、陰ながら支えなさい”と指示されていた精霊様の仕業である。
「わたくしは大丈夫ですから、貴方は仕事の続きをなさってください。」
「……わかりました。」
門番は頷き、門の端の定位置に戻る。
それを見届けてから、カトリーヌはアギトに向き直った。
「さあ、アギト。お話してちょうだい?」
獣人の少年アギトは、カトリーヌのただならぬ威圧感にやや気圧されながらも、なんとか言葉を紡ぐ。
「は、はい……あの、実は、オレの、友達が……変なやつに騙されて、その変なやつが、お代官様のお屋敷に、魔獣?をけしかけるって、言ってたらしくて。オレ、怖くて……オレの友達、そんなやつじゃないのに、オレ、止めようとしたら、変なやつの仲間に殺されかけて、オレ、逃げて、来たんだ……」
カトリーヌはその言葉を一言も漏らさないようしっかりと聞き――「なんですって!?どこの街!?」と慌てて声を上げた。
「リリヒルズです……」
「隣街……貴方は今すぐに報告に行きなさい!私はもう少し詳しく話を聞いておくから!」
そう言われた門番が、「は、はいぃ!」と声を裏返して門番の仕事を放り出して屋敷へと走っていく。
カトリーヌは、やはり精霊様の導きだったのかと思い湧き上がってくる感情に自らの身体を抱いてぶるりと体を震わせた。
「アギト、よく、知らせてくれたわ。」
「う、うん。オレの友達は、奴らの飯を食ってから、変になったんだ。オレは食わなかったけど、スラムのみんなは食べちゃった、と、思う。でも、お代官様のお屋敷を襲うとか、普段はそんなこと絶対にしないいい奴らなんだ!」
「わかったわ。代官にはしっかり伝えておくわ。それで……いつ決行されるかとかは聞いていない?」
「おととい、3日後の、夜って、だから……」
「今夜ね。急がないと……でもきっと間に合うわ。お友達も、できるだけ助ける。だから……もう大丈夫よ。」
「あ、ありが……ぁれ……ぇ?」
カトリーヌの自信満々の声に、ほっとした笑みでお礼を言いかけた少年の体がふらりと傾ぎ、そのまま倒れてしまった。
「まあ!」
慌ててカトリーヌが近づくが、スカートの中にいるだろう精霊が動く気配はない。
リリヒルズで殺されそうになったあとここまで走ってきたのだ。隣町とはいえ、子どもの足では1日以上かかる道のりのはずで、気が緩んで疲れが出ただけだろう。
カトリーヌはそう考え、少年を屋敷の敷地内の手近な木陰に移動させると、自ら門を閉め、門番が人を呼んでくるのを待つことにした。




