懐かしい、腹立たしいにおい
「何を企んでいる。」
カトリーヌがお茶をしている間、いつものように部屋の絨毯の上に淡い光で魔法陣を描きながらうんうん唸っていると、誰かがこの部屋に近づいてくる気配を感じて私はさっと魔法陣を消して扉に視線を向けた。
扉を開け放ったのは、見たことのない男の人だった。
そして一言目がそれである。
「えっと。」
一体何の話だろうか。
狼の件がバレた?いやまさか。だって洗っても毛が残りそうだった服は跡形もなく燃やしたし、体は頭から川に飛び込んできれいに洗った。行きも帰りも空間把握の魔法(狭)であたりを伺っていたし、そんな出入りを見張るような魔法陣もなかったから誰にも見られてはいないはずだ。
(服を燃やしたあとに鞄を持ってきていないことを思い出して、下着で帰ったのはここだけの話である。)
「……。」
よく見れば、男の人は腰に剣を差している。カトリーヌが居ないうちに邪魔な獣人を消してしまおうという魂胆なのだろうか?
だとしたら斬られる前提で行動すべきかもしれない。
と、男の人の後ろには、見覚えある老齢の紳士が困ったような苦笑を浮かべて立っていた。たしかあれは……ハ……ハアなんとかという執事だ。魔道具を見せてくれたから顔だけは覚えている。その執事が付き従っているということは、この男の人はお偉いさん?
カトリーヌの両親は見たことがあるし、カトリーヌの嫌いだという第二夫人とその娘も見かけたことがあるが……ああ、あれか、カトリーヌが言っていた関係悪化中の兄か。その兄が、何用でここに来たのだろうか。
とりあえず問答無用で斬りかかられても困るので、私は無詠唱で自分を覆うようなかたちの防御壁の魔法を展開した。
その瞬間カトリーヌの兄(仮)が剣を抜き放ち、刃先を私に向ける。いや、答えないからっていきなりそれはちょっと血気盛んすぎるのでは……そもそもカトリーヌの兄だという人は、病弱だと聞いてるんだけども。
「クロード様?」
訝しげに執事が声を掛ける。カトリーヌの兄らしきこの人はクロードという名前らしい。いや、兄かどうかはまだわからないけれど。
「今、何をした。」
「……?」
私は困った。
何をしたと言われても、何もしていない。
強いて言えば、カトリーヌの兄(仮)がこっちに刃先を向けている剣でばっさりされないよう、防御壁を張っただけだ。
「――え?」
私は思わず、声を漏らした。
「え……え?」
「何だ、急に……」
カトリーヌの兄(仮)が眼光鋭くこちらを見ているが、私はそれどころではなくなっていた。
――今、この人は、何に反応して剣を抜いた?
まさか。ありえない?
いやでも、可能性がなくは、ない。
私はおもむろに、そこそこ魔素を消費するような攻撃魔法を構成した。無詠唱なので威力は落ちるが、発動すればこの屋敷は間違いなく吹き飛ぶ程度の破壊力はあるだろう。
部屋を満たしていた魔素が大きくうねり、私の意のままに動いて魔法を形作っていく。
「ッ!?な、何をしている!!!!」
「な、何をおっしゃってるんですか、クロード様!?」
カトリーヌの兄(仮)が狼狽え、焦ったように声を上げて反射的に剣を振りかぶったのを、慌てて執事が止めた。
瞬間、私が構成していた魔素が霧散した。さすがにあのまま攻撃魔法を撃つわけにはいかないし、何より集中が続かなかった。
「お、お……おお……」
無意識に、口から声が漏れる。
この人は――確実に感じている。
「今のは何だ!何をした!答えろ獣人!」
「おおおおおおおおお兄様!?」
「なっ!?」
「お兄様ですか!?」
「何の話だ!僕はカトリーヌの兄であって、お前の兄ではない!不躾な!」
「ああ……お兄様……素晴らしい……」
「はあ?」
ふるふると両手が震えていた。私はカトリーヌの兄を見つめる。
この世界に、まさか魔素を感じることができる人がいるだなんて思わなかった。体質だろうか、それとも血すじだろうか、こんなにはっきり魔素を感じられる人がこんな近くにいることに気づかなかっただなんて。カトリーヌが魔素にまったく反応しなかったので思いもよらなかった!
と、そこへ息を切らして走ってきたのが、カトリーヌだった。
カトリーヌらしき足音を聞いた瞬間、カトリーヌの兄が舌打ちでもしたそうな表情で構えていた剣を下ろしたのをちらりと横目に見つつ、カトリーヌにこの大発見を伝えるべく私は扉へと視線を向ける。
カトリーヌは、なぜかかなり焦ったような顔で勢いよく部屋に入ってきた。
「カティ!あなたのお兄様は素晴らしい方ね!!!」
あまりにも高揚しすぎて、勢いで人前でカトリーヌを愛称で呼んでしまったがしょうがないだろう。
魔素が見えない・感じることが出来ないというのがこの世界の常識だ。だから、魔法陣の研究をしていても、研究中の魔法陣が実際に発動していたとしても、発動だけしてなんら効果を及ぼさない状態だと“発動していない”とみなされてしまう。
私が魔素を感知できるのは、隣世界の住人だからだ。
しかし今、目の前にいるこの人は、カトリーヌの兄だというこの人は、この世界で生まれた正真正銘この世界の住人なのだ!
魔素が毒だと思われ、魔素効率の悪い魔法陣を使い続けるこの世界の住人に光明をもたらすかもしれない超逸材なのである。誰が聞いても興奮するだろう。
「――リネッタとかいったな。」
魔素がなんたるかも知らないカトリーヌの兄は、胡乱げな視線をこちらに向けるばかりなのが残念でならない。
「お前は貴族どころか領民でもない汚らしい孤児だ。どんなに妹が親しくしようと、身の程をわきまえろ。10才でも、お前を雇っている妹は貴族だが、貴族に雇われたからといって身分が高くなるわけではないことくらいは分かるだろう。
あと、僕の名前はクロードだ。雇われた家の嫡男の名前くらいは覚えろ。」
などと喚いているが、今はそういう話はどうでもいいのだ。
私は話を続けようと口を開きかけて――
(――クさイ。)
という底冷えするようなシルビアのつぶやきが聞こえ、首を傾げた。
瞬間流れ込んでくる、川辺のイメージ。興奮して頭に血が上っていたのが、すっと冷める。
(しッテるニおイ……)
――ああ。
シルビアの言わんとしていることを察して、私は部屋に遮音結界の魔法をかけた。これは単に声や音を漏らさないだけの魔法だ。音が聞こえなくとも読唇術などで会話の内容がばれるので、基本的にこういう閉鎖された空間で使うのがいい。
空間把握の魔法(狭)で、両隣の部屋で聞き耳を立てている誰かがいることは分かっていた。あとはカトリーヌに扉を閉めてもらえば、窓から覗き見でもしない限りこれからする会話が外に漏れることはないだろう。
その魔素の動きに反応してカトリーヌの兄、クロードが剣を構え直したが、扉を閉めるのが先決である。
カトリーヌに頼むと、こくこくとうなずいて慌てて扉を閉めた。
「……妹を雑用に使うとは……いや、その前に。……お前、今、何をした。」
クロードが低い声で言う。
「聞き耳を立てている者がいると困るので。」
それだけ言って私はカトリーヌに視線を向けて話を続けようとしたのだが、クロードに遮られる。
しょうがなく、魔素の動きを感じているのがクロードだけであることを話し、核心に近づくような話を切り出したのだが、なぜかカトリーヌが睨まれた。ごめんカトリーヌ、でもこれはかなり重要な話なので許してね。
「たぶん、体が弱くなったのは毒か何かの影響です。その副産物として、魔素の動きを感じることができるようになったのだと思います。」
執事のハールトンが「そのようなことは絶対にありません。」とは言うものの、私の鼻は一切感じていないがシルビアの鼻はしっかりとクロードが放つ独特の魔素の残り香を捉えていた。
それは、私を穿ったあの毒矢と同じニオイ。つまり、毒を生成したのが同一人物ということだ。
シルビアの心がざわついているのが手に取るように分かるが、とはいえ毒を生成した人物がこの近くにいるわけでもないので横に置いといて、まずはその毒で体を蝕まれているであろうクロードをどうにかしなければならないだろう。
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「……匂い?」
私の言葉に一番に反応したのはクロードだった。
胡散臭そうな顔でこちらを眺めている。
「鼻がいいんです、獣人なので。」
「それと、魔素を……感じる?ことが、どう繋がるんだ。」
「説明するには、専門知識が足らないので、簡潔に言います。」
「――クロード様。」
「いい、ハールトン。好きに喋らせてみたい。リネッタ、聞かせてみろ。」
なにか言いかけたハールトンを、クロードが手で制した。
構えていた剣を鞘に戻し、私に視線を投げる。
「クロード様に用いられた毒ですが、普通の毒よりも、魔素に近いものです。その魔素に近いものを長期間摂取した結果、魔素が体に慣れて、魔素を感じやすい体質になったのだと思います。」
「魔素は毒だからな。じゃあ僕は、料理に毒性の強い魔素を混ぜられていた、ということか。」
「概ね、そういうような感じです。」
毒性の強い魔素って、いやそれはもう魔素ではなくてただの毒ですけど。とは口には出さず、神妙に頷く。この世界の人々は魔素を毒だと思いこんでいるし、それを利用したほうがわかりやすいのならそれはそれでいいだろう。
勘違いしやすいように魔素に近い毒という表現をしたが、クロードに使われていたのは、実際は魔法で生み出した不安定な状態の毒だろう。だからこそシルビアがその“魔素の匂い”に反応したのだ。
「信じられません。」
ハールトンが静かに言った。
「もちろん、すぐに信じるのは難しいと思います。」
当たり前だ、この家の家令を統括している執事長の立場としても、爵位を継ぐ嫡男に何年もの間毒が盛られていたなど、到底受け入れられないだろう。しかし、料理か飲み物かなにかはわからないが毒は確実に体に取り入れられ、蓄積している。
「食事に毒が混ぜられなくなれば、体調も少しずつ崩しにくくなると思います。今はそれでしか、証明できません。」
――と。
「リ、リネッタ、様!」
突然カトリーヌが私を様付けで呼んだ。
クロードも、ハールトンも、もちろん私も目が点である。
「リネッタ様……あの……わ、わたくし、どうしても兄を助けたいんです!ですから、その……わたくし、精霊に愛されているリネッタ様に、お願いしたく……今すぐ、兄を癒やしてはいただけないでしょうか!!」
「……カティ?」
「でも、精霊に愛されているのはカトリーヌ様で――」
「わたくしは!気絶など、しておりません、でした……」
「えっ。」
「たしかに賊の剣に斬られ、死にかけてはおりましたが、その……意識は、あったのです。」
お、おう。
「ですからあのとき、リネッタ様が精霊様にお願いしてわたくしを癒やしてくださったのを、わたくし、知っております!」
あああああああ……。
「カティ?死にかけたというのはどういうことだ?それに、精霊様だと?」
「お兄様は黙っていてください!」
「なっ……」
「リネッタ様、お願いです、兄を、クロードを癒やしてください!」
「あ、あー……」
3人の視線が私に集中する。
なるほど、魔法で傷を治したときにカトリーヌだけ気がつくのが早かったのは、そもそも気絶なんてしていなかったからか……いや、早すぎるとは思ったんだけど、あああ……。
これ、どう切り抜けよう……。




