狼と夜遊び
ひどく耳障りな甲高い音だった。
その瞬間、狼らの気配が変わり目つきも変わる。姿勢を低くし、今にも駆け出さんと足に力が込められる。……さっきの耳障りな笛の音は、何かの合図だったのだろうか。
「……?」
しかしシルビアはそんな状態でものんきに狼を眺めており、違和感に首を傾げただけだった。
たしかにシルビアは威嚇どころか何もせずぼんやりと立っているだけだが、相手は人ではなく家畜でもない。となると人に飼い慣らされた猟獣の可能性が高い。シルビアから漏れるかすかな魔獣の気配くらいには気づきそうなものである。そして気配に気づけば、賢い狼らは戦うにしろ逃げるにしろシルビアの出方を窺うだろう。しかし彼らは戦いが始まってもいないのにひどく興奮していて、しかもシルビアに気づきながらもシルビアではない何かに意識を向けていた。
シルビアと狼の群れの中にいる飼い主だろう獣人以外に、このあたりに人影はない。狼の獲物になりそうなものもいない。なのに狼らは殺気立ち、目をらんらんと光らせて鼻を鳴らしていた。
狼らの目に、シルビアは映ってはいない。
それを敏感に感じとったシルビアはちょっとだけ拗ねた。
狼の群れと対峙したのがリネッタだったならば何かしらの範囲魔法で狼を無効化して放置するところだろうが、シルビアは遊びたかった。たとえ内側でリネッタが狼の毛だらけになりそうだと嫌そうな顔をしていたとしても、だ。ここ最近はずっと暇で暇で仕方なかったのだ。いくら日向ぼっこが好きで日がな一日寝ていられるシルビアでも、限界だった。
シルビアはにっこりと笑った。月を背にしていたので誰にも見えることはなかったが、非常に可愛らしい笑みだった。
「アそボうー♪」
――大気がびりびりと震える。前触れもなくシルビアから発せられた強烈な強者の気配にのまれた狼らの体がびくんと跳ねる。
強制的にシルビアを知覚させられ、得体の知れない恐怖が体を硬直させ――他に命令されたことがあったはずだが――とにかく今はあの恐ろしい何かをどうにかしなければならないと、本能が警鐘を鳴らしはじめる。
それは繊細さなど欠片もない、実にシルビアらしいただひたすらに暴力的な威嚇であった。
(……威嚇っていうより、挑発のほうが正しいかしら。でも、挑発に恐怖は必要ないわよね。)
リネッタがそんな事を考えている間にも、シルビアは行動に出ている。
威嚇して敵意(?)を集めたなら、次はどうするか。もちろん攻撃である。
丘のてっぺんから、シルビアは狼の群れへと駆け下りる。下り坂であっという間にトップスピードに乗ったシルビアは、その勢いのまま先頭にいた狼に体当りして弾き飛ばした。狼は後方にいた狼を3、4匹巻き添えにしながら勢いよく跳ね飛ばされ、そのまま動かなくなる。
何が起こったのか理解できず、狼らが立ちすくむ。シルビアはおもむろにそばにいた棒立ちの狼の首根っこを掴むと、自らの3倍はあるだろう狼を体ごと振りかぶってそのまま大地に叩きつけた。
――ギャゥンッ
地面に叩きつけられた狼の断末魔と震動に、ようやく狼らは我に返った。跳ねるように後方に飛び退り、シルビアとの距離を開ける。
「にげル、だメ。」
シルビアはゆっくりとしっぽを揺らしながら、周囲を囲む狼らをぐるりと見回した。
辺りの魔素を操作し、辺り一帯に威圧の魔法を無差別に発動し、逃げ腰だった狼の思考を上書きする。逃げるという選択肢を奪われた狼は、後ずさりすらできなくなり混乱した。
リネッタは――すでに一線を超えてしまっているのでいまさらではあるが――シルビアを止めるかどうか悩んだ。何の目的があってここで群れていたのかはわからないが、狼らの興奮具合から考えてシルビアが挑発(?)しなくとも、狼はシルビアを襲っていただろう。
中央にいた獣人の男はいつの間にかどこかに行ってしまっていたし、狼を止める気配もなかった。つまり興奮した狼の群れが野放しになっているということで、まあ、よくはわからないが危険なので狩ってしまってもいいだろう。たぶん。
この土地の人々を守るということは、巡り巡ればカトリーヌを守ることに繋がるはずだし、護衛任務のうちと考えられなくもない、し?……うん、たぶん。
(毛だらけならまだなんとか川で洗えるけど、血まみれはやめてね。)
結論を出したリネッタは、それだけ伝えてあとはシルビアに任せることにした。
武器を持っていないシルビアだが、魔獣相手には魔法で生み出した刃を爪のように使って戦ったりもするのだ。もちろんそうなると血まみれは不可避なので、あえてそれだけはきちんと口に出し(?)た。
「わカッタ!!」
シルビアは元気よくそう返事をして、にこにこしながら大きく頷く。
周囲の狼らはシルビアの出方を窺うようにじりじりと輪を詰めていたが、シルビアの場違いな明るい声に警戒を強めたように足を止めた。
ルルル……
狼が唸る。
狼らは本来なら即座に逃げなければならないところなのに、興奮剤のせいで思考能力が落ち逃げるタイミングを逃していた。その上、シルビアに威圧の魔法をかけられ、後がない。
相手は恐ろしい強者であり、下手に襲いかかれば返り討ちにあうだろうというのは薬のせいで回らない頭でもなんとか理解はしているものの、どうにか隙を見つけようにも、そもそもここに群れているのは繁殖期ですら群れることのない血牙狼であり、周囲の狼と連携などとれるわけもなかった。
と、しびれを切らしたのか一頭が輪から飛び出し、シルビアに喰ってかかった。狼らの中でも縄張り争いの経験の浅い若い個体である。それに釣られるように何頭かが続き、見た目だけならばひと噛みでもすれば死んでしまいそうなほど小さなシルビアに決死の覚悟で向かう。
たしっと地を蹴り高く飛び上がり真正面から襲いかかる狼を、シルビアは目をキラキラさせて迎え撃った。速さで負けているかもしれない相手に飛びかかるのはどう考えても失策だが、注目はされるだろう。そこに隙ができることを知っている聡い狼らが死角からシルビアを襲うべく走る。
襲いかかってくる狼の攻撃をシルビアは背を低くして駆け抜けすれ違うように避け、その尻尾を掴むとそのまますぐ後ろを疾走してきていた狼の両前足の間に入り込み腹部に頭突きした。重い打撃音ののち狼の巨体がわずかに浮き――どさりと落ちる頃にはすでにシルビアは体の下から抜け出して、尻尾を掴んだ狼を勢いよく左にいた狼に叩きつけていた。
動けなくなった狼の尻尾から手を離し、背後から競うように襲いかかってきた2匹のうちの片方の横っ面に振り返りざまに回し蹴りを入れると、すぐ隣にいたもう片方にぶつかり怯んだので、「わッ!」と吠えて衝撃波を発生させて跳ね飛ばす。
シルビアの体当たりで、蹴りで、肘鉄で確実に仕留められ、狼の数がみるみる減っていく。結局、半刻もしないうちに30頭ほどいた狼はその全てが動けなくなっていた。シルビアの一撃が重いため、一度でも当たれば戦闘不能に陥ってしまい、結果的に息がある狼も多かったが、どの個体も骨を折られ、内臓を潰され、動けずにいた。
シルビアは不満げに口をとがらせる。
遊ぶというには手応えがなさすぎ、なおかつこれらは変な匂いがするのでちょっと気分が悪かった。
「クさイ。」
顔をしかめ、足元でぐったりしている狼を見下ろすシルビア。
(……薬、かしら?)
リネッタは、狼の群れが興奮状態にあったこととシルビアの不快そうな感情から、変な匂いは薬か何かだとあたりをつけた。もしそうならば、興奮した狼の群れを使って、あの獣人が何をしようとしていたかが問題である。
とはいえ、頼る相手もいないし、夜中に抜け出したことがばれると大変なので、リネッタは(まあいいか。)と見なかったことにした。ここもそのうち誰かに見つかるだろうし、これらの原因究明はリネッタの仕事ではない。
それよりもリネッタには今すぐにやらなければならない事があった。
(帰る前に毛だらけをどうにかしましょう。服はどうしようもないから捨てるとして、水浴びは私がするから水場を探して、シルビア。)
「わカタ!」
リネッタの頼みに、シルビアは大きく頷く。
水浴びは嫌いだが、狼の変な臭いが戦っている間に毛だらけになったシルビアにも移っていて、嫌な気分だったのだ。
すんすんと水のにおいを嗅ぎつけると、シルビアは何事もなかったようにその場をあとにした。




