夜のお散歩
庭木をすり抜け、3メートルほどの屋敷の塀もかるがる飛び越え、シルビアは駆けた。
周りの景色の流れる速さに、私は同じ体であるはずの自分とシルビアの運動能力の差についてあらためて考えさせられていた。
以前私がどこかの王都でなんとかとかいう貴族のおっさんの屋敷から逃げる際、やはり同じくらい高い塀を飛び越えようとしたのだが、手をかけるのが精一杯でシルビアのように飛び越えることなどできなかった。
シルビアが目覚めた影響なのか私の運動能力もシルビアに引っ張られるようなかたちで上がっているし、今なら私でもあの塀をなんとか飛び越えることはできるだろう。しかし、さすがにかるがると、とはいかない。
逆に魔法に関してはシルビアの魔法はいろいろとアバウトで、精密に範囲や威力を加減することが苦手なようだった。
辺境伯の屋敷は街から少し離れた、街道を少し脇道に入った丘の上に建っていて、そこからしばらく走れば田畑に囲まれた大きな街、街を背にして走ればしばらくは丘陵地帯が続いている。
シルビアには目的のようなものはなさそうだった。街道を背にしてひた走っているが、一体どこまで行こうというのか、シルビアの足は止まらない。
「タのしい!」
そう叫ぶように言ったシルビアは心底楽しそうだった。
あまりの速さに、耳元で風がごうごうと音を立てている。シルビアの全速力は、早馬よりも早い。森のなかの障害物なども勝手知ったる庭のように避けるでもなくすり抜けていくように走るのだ。それから逃げ切った逃足鶏は一体何者なのだろうか――
という疑問はさておき、シルビアがぴたりと足を止めた。まだ辺境伯の屋敷から5キロと離れていないほどの距離だった。
「ニく。」
すんすんと鼻を鳴らして、シルビアが言った。どうやら視線の先にある丘の向こう側に、“肉”がいるらしい。
シルビアは私の内側から空間把握の魔法が使えるが、私は使えない。そのため月灯りしかない今、しかも丘の向こうに隠れているらしいそれが何なのか、私にはわからない。まあ、肉だし人ではないことは確かだけど。
シルビアは気配を隠すこともなく、丘へと進路を変えて走る。そう遠くないので、あっという間だ。シルビアが丘のてっぺんに到着し、向こうを見やると……そこには30頭ほどの狼の群れが屯していた。
「にク、いパイ。」
にしし、とシルビアが嬉しそうに笑う。
いや確かにいっぱいだけど。食べないよ?
シルビアが風上にいたからか、狼の群れが一斉にこちらを向いた。
初めて見る狼だが、普通の狼よりだいぶ大きい。あたりが暗いのでよくわからないが、黒っぽい毛色のようだった。
「ン、ひト?」
狼の視線にこれっぽっちも怯んだ様子もなく、シルビアが首を傾げる。
たしかによく見れば狼の群れの中央辺りに人影が見える、気がする。あちらもシルビアを視認したらしく、こちらを向いていた。いや、顔を見られたら困るので逃げてくださいシルビアさん、月を背にしているから今なら逃げられるはず。
しかしシルビアは動かない。耳をぴこぴこと動かし、「うルサイ。」と不快そうな声を出した。
その瞬間こちらを見るだけだった狼たちが、姿勢を低くし、戦闘態勢に入ったのがわかった。
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なんだあれは。
男は眉をひそめてそれを見た。
すぐそばの丘の上に、三ツ月を背にして小さな人影がこちらを見ている。
顔はよく見えないが、頭の上にははっきりと同胞を示す耳が風に揺れていた。
しかし、どう考えても仲間ではない。こんな時間に子どもが一人で何をしているというのか。
男は一瞬悩んだ。生かすか、殺すか。
しかし男には時間がなかった。普段は群れない血牙狼をこんな大所帯にしてしまったのだ。まだ薬は残っているし薬の効果が確かなものだとは思うが、獣使いでもないのに狼に囲まれていると、自分に襲いかかってくるのではないかと考えてしまい気が気ではない。
それに、もう遅いのだ。その子どもの後ろ、遠くの空に白く細く上がる狼煙がみえる。
計画を次の段階に移さなければ。
――あの街での獣人の肩身は果てしなく狭い。街の端の端にわずかに土地を与えられているだけなのだ。屈強な獣人ならともかく、街の大通りを獣人の女子供があるけば石が飛んでくることもあるほどだ。
男はこれから獣人を獣と罵る人の街を襲おうとしているところだった。
もともとこのあたりは“丘の国”と呼ばれている獣人が治める地だった。それをアリダイルが攻め滅ぼし、破壊の限りをつくしたあとに新しい人だけの国を作ったのが、アリダイル聖王国だった。
まずはこの辺境の地を取り戻す。そしていずれはアリダイル聖王国を滅ぼす足がかりにするのだ。
そのためには、今、つまずくわけにはいかない。
それに、この近辺に森はなく、狼の群れは嫌でも目立つ。30匹の大きな狼の群れなど、いつまでも隠し果せるものでもなかった。
街を囲う塀は高いが門番さえどうにかなれば街に入るのは容易い。そして、門が開かれれば狼煙があがる。そう、子供の後ろに見えるのがそれだ。あとは男が狼を放せば、街のいたるところにある特殊な匂いに向かって狼が街になだれ込み、人々を襲う。
獣人の同胞を、しかも子どもを殺すのは、とも思ったが、もう狼には興奮剤も与えていて、あとは合図を出して街に向かって放すしかできない状態だった。もう仲間は手を汚してしまっているのだ。自分の都合で計画を止めるわけにはいかない。
今ここで狼を放せば、狼と街の間にある“障害物”はすべて狼によって轢き潰されるだろう。
しょうがないことなのだ。こんな真夜中に、こんなところにいるあの子どもが悪い。俺は、悪くない……。
男が意思を固め子どもに視線を向けると、こんなに多くの狼がいるというのに子どもはこちらを見たままだった。恐ろしい光景に足がすくんだのだろうか。
男は、小さな鉄製の笛をそっとくわえ、深く息を吸い、強く吹いた。
来週はお休みします、すみません。




