床の焦げ注意
「………。」
屋敷の誰もが寝静まったあたりで、私は静かに目を開けた。
屋敷の中で動いているものはほんの2、3人しかいない。
これなら大丈夫だろう。
私は静かに起き上がり、息を潜めてふかふかのベッドから降りた。
そうしてそっとカトリーヌのベッドに近寄ると、小さく小さく『睡眠の魔法』とつぶやいた。
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カトリーヌに雇われてからひと月。
シルビアが表に出ることはなかったが、意外と出番(?)はあった。
何より助かったのが、食事の時である。
シルビアの鼻はいい。
どれくらい良いかといえば、リネッタが表に出ていたとしても風下ならば1キロほど先の獣や血の匂いなら分かるくらいである。
そのため、リネッタの食事に混ぜられている毒ではないがお腹を下しそうなものも、シルビアならば敏感に感じ取れていた。
リネッタは半魔獣であるので魔獣用に誂えた特別な毒でもないかぎりは別にお腹を下したりはしないのだが、やはり食べ物ではない何か(雑巾の絞り汁とか!)が入っていると思うと、どうにも口をつけようとは思えず食事をよく残していた。
侍女たちは、混ぜ物をした皿だけ毎回口が付けられていないためそのうち混ぜ物をしなくなったが、獣人はやはり獣なのだと嫌味のネタが増えただけであった。
(ひマ。)
ぼそりとシルビアがつぶやいた。
確かにリネッタはここのところ毎日屋敷の中にいて、シルビアが体を動かす機会がない。
とはいえ雇い主を置いて外に行くわけにもいかないので、どうしようもないのだが。
リネッタはひとりのときは空間把握の魔法(狭)を使い続け少しずつ把握する範囲を広げる練習をしていたが、感覚で魔法を使うシルビアが助言できるはずもなく、シルビアは目覚めているあいだじゅうただひたすら暇だった。
「そうね……私も散歩くらいは、したいわね……」
シルビアから漏れる声に、リネッタもぼそりとこたえる。
外に出る機会はあるものの、お嬢様であるカトリーヌについて馬車から外を眺めるだけなのだ。こうも刺激の少ない期間が長いと、閉じこもって研究することが大好きだったリネッタでさえ多少動かなければならない気がしてくるのだった。
ではどうすればいいのか。一番現実味がありそうなのは、唯一カトリーヌがリネッタから離れている勉強の時間くらいである。しかし、部屋に軟禁状態になっているのはひとえに屋敷内を獣人にうろつかれたくないからであり、勝手に部屋から出るわけにもいかない。
たぶん、堂々と歩いていれば、屋敷どころか敷地内にいるだけで睨まれる確率が高い。たぶん10割くらいの確率で咎められるだろうし、さすがに白昼堂々窓から抜け出すわけにもいかない。
となれば。
「夜、か……」
私はボソリとひとりごちたのだった。
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睡眠の魔法はなんの抵抗もなくカトリーヌの意識を刈り落とす。
……実はこの睡眠の魔法は、名前に“睡眠”とついてはいるものの、魔法にかかっている対象が本当に“寝ている状態”なのか分かっていない。この魔法にかかると夢をみず、魔法にかかった対象は魔法にかけられる直前から魔法から覚めた直後までの時間経過の感覚も無いのだ。
つまり、起きている状態で睡眠の魔法をかけられた場合、魔法をかけられた!と思った瞬間すでに魔法から覚めているのである。
これは深層催眠を含めた睡眠の魔法の上位魔法全てに当てはまり、この睡眠の魔法系統の魔法がかかった相手が本当に“寝ている状態”なのかという疑問はレフタルではたびたび議論されているものの、結論は未だに出ていない。
そんなことを考えながらカトリーヌを揺すったり強めに肩を叩いたりして目覚めないことを確認し、私はカトリーヌのベッドから離れ、だだっぴろい部屋の中央に立った。
カトリーヌの私室はもともとが広かったので、私用のベッドや小さな荷物棚を置いてもまだ余裕がある。さすがご貴族サマだ。ベッドを置いたらもうあとは足場しかなかった傭兵宿の部屋を考えると、すごい差である。
まあ、私は別にあの狭い部屋でも全然問題ないんだけど。
小さく息を吐いて、私はゆっくりと右手を前に突き出した。
新しい試みに少しだけ緊張するが、大丈夫、失敗してもたぶん絨毯がちょっと焦げるだけだ。……いや、絨毯が焦げるのはまずいか。
手のひらを床に向け、ゆっくりと魔素を放出する。
詠唱もなく構成もされていない魔素は音もなくゆっくりと下へと向かい、周囲の魔素と混じり合うことなく魔素のまま床に広がってゆく。
『 ――召喚陣 』
充分に魔素が床に溜まったのを確認してから、静かに唱える。それと同時に開いていた手のひらを閉じて、人差し指で床を指差ようにくるりと左回りに円を描くようにまわせば、床にただ広がるばかりだった魔素が私の意志をもってゆるやかにうずまき始めた。
魔素は仄かな光を帯びながら、私の思い通りの形へとゆっくりと姿を変えていく。
それは最初に円を描き、複雑な模様を描き、最後に古代語を並べて、淡く光る魔法の線で描かれた魔法陣をつくりあげた。
そうして出来上がった魔法陣は私の管理下から離れ、独立したひとつの魔法陣として周囲の魔素を取り込んでゆっくりと回転しながら光を強め――ほどなくして、じわり、と魔法陣の中央に濃い紫の染みを生んだ。
その染みからひょっこりと顔を出したのは、影妖精である。
影妖精が完全に出現すると回転しながら光を放っていた魔法陣はふっと消え、部屋の床は何事もなかったようにもとに戻った。
「――よし、焦げてない。」
新しい魔法陣の研究なのにまず何より確認しなければならないところがそこなのはいかがなものかとも思ったが、ここは借り物の部屋で、敷かれているのは高級な絨毯なのだ。雇われている私が粗相をするのはまずいのである。
待機状態の影妖精に視線を向けると、きょろきょろと部屋を見回していた。
詠唱魔法で召喚したときと同じような状態であるので、たぶんこっちも大丈夫だろう。試しに呼び寄せて魔素を与えると問題なく吸収したので、召喚時間も伸ばすことができそうだった。
私は影妖精に寝ているカトリーヌを守るよう指示を出すと、カトリーヌのお下がりのネグリジェから自分の鞄にしまっていた白い薄汚れたボロワンピースに着替え、自分に身体強化の付与と衝撃軽減の付与をかけた。
体が半分以上魔獣になっているとはいえ、カトリーヌの部屋は2階にある。しかも天井が高く作ってあるために、2階とはいえ結構な高さなのだ。窓から飛び降りるなら、最低限、これくらいの付与はほしかった。
静かに窓に近づき、カーテンを開ける。
空間把握の魔法(狭)で調べるに、今、この窓が視界にはいるようなところにいる者はいない。出るなら今である。
窓を全開にして、ふちに足をかける。一旦振り返り、ベッドで寝て?いるカトリーヌを確認し、カトリーヌの枕元で一緒に寝ている影妖精を見なかったことにして視線を外に戻すと、私はひらりと窓から飛び降りた。




