第二夫人アイダ
カトリーヌのいない静かな晩餐も最後のあたりは和やかなムードで終わり、辺境伯と第一夫人であるエレオノールが自室に戻ってから、数刻ののち。
エイラは朝からずっと引きずっていたイライラをアイダの自室で垂れ流していた。
「あのひ弱なボンクラが、なんですって?領主の資格がジューブンにある?他国の、よりにもよってあの糞王のとこから来た女の血を引いた子どもが、伝統あるこの領地を継ぐなんて悪夢だわ!」
今日一日我慢に我慢を重ねて表情を取り繕っていたエイラは、ややヒステリックに、しかしできるだけ小声でそう吐き捨てると大げさにため息をついてみせた。
侍女が一人部屋の中に待機しているが、アイダもエイラも気にしてはいない。彼女はエイラより5つほど年上のエイラ専属の侍女で、アイダが実家から連れてきた信用のおける侍女のひとり娘であった。そしてその親であるアイダ専属の侍女は部屋の外で待機しており、部屋の外の声が聞こえる範囲に誰かが近寄れば扉をノックして知らせるようにしてあった。
「カトリーヌも何なの?汚らわしい獣なんて屋敷に入れて……自分の部屋だけならまだしも、あまつさえ精霊様に祈りをささげることもある神聖な浴室にまで入れるなんて。
本当、元からおかしかったけど、盗賊に襲われてさらに頭がおかしくなったとでもいうの!?」
そんな、憤り、義妹を罵る実娘を、アイダはハーブティーを片手に優しい目で見つめていた。
溜まった鬱憤をここですべて処理しておかなければ、エイラはこのイライラを明日まで引きずり、そのうちそれは溜まりに溜まって致命的なボロを出すという形で露呈する。そのことをエイラ本人が一番分かっているので、ここでは彼女は一切我慢することなく、言いたいことを言いたいだけ母親に訴える。
アイダはこうなったエイラについては何も言い返さず、ただ、「そうね。」「もちろんよ。」「わかるわ。」とひたすら同意することに徹し、えんえんと続きそうな話であるにも関わらずきちんと聞くのであった。それが娘のため、ひいては自分のためであることをきちんと理解しているが故に。
――トリットリア小国でカトリーヌを襲った賊について、エイラは何も知らない。
正義感が強いエイラがその真相を知れば、ひどく狼狽えるだろう。そして、感情の制御がまだできていない彼女には、その動揺を隠し通すことなどできないとアイダは分かっていた。罪悪感から秘密を誰かに漏らす可能性まであると考えていたのだ。そのため、アイダは何ひとつエイラに話していなかった。
アイダは、何も知らないまま心からまっすぐにカトリーヌに対して憤っているエイラを――純真無垢な自らの娘を、心から愛らしく思っていた。
「余所からのこのこやってきた自分の立場がわかってない女と、それが産んだ病弱な息子と、頭の悪い娘なんて……ほんと、なんでお父様はあんなのを正妻として娶ったの?
よっっっっぽど顔が好みだったとか?顔で選んだとして、わざわざ遠くの糞王のとこから引っ張ってくるほど当時のあの女の顔はよかったの?ねえ、お母様――」
「そうね、確かに美しかったと思うわ。」
話を振られ、アイダはやんわりと苦笑いを浮かべた。その言い方ではまるでアイダ(とアイダを含めたこの国の令嬢)の顔が、あの女と比べて劣っていると言わんばかりであるし、同意させることでアイダがそれを認めざるを得ないようにしているようである。
しかし可愛い娘のエイラにそんな気は全く無いだろうし、気が立っていて今だけはそういうことまで気が回らないのも理解できるので、アイダはそれを指摘することはせず、「私もフルグリット様の御目に適ったということは、私がもう少し出逢うのが早ければ、第一と第二が入れ替わるくらいはしていたかもしれないわね。」と続けて、少しだけ会話の内容を変えるだけに留めた。
――そう、私が第一夫人だったならば。この領地を継ぐのが最初から私の血を継ぐアーロンであれば、後継者問題なんて一切起こることはなかったのに。
アイダはぎりりと奥歯を噛み締め、ゆっくりと冷えていく心をエイラが悟らないよう気を配りながら小さく深呼吸することで落ち着かせる。
アイダが辺境伯と出逢ったのは、辺境伯がカトリーヌと結婚し第一子を設けた直後くらいであった。
クロードの乳母がアイダの叔母にあたる人で、その紹介でアイダは辺境伯と知り合ったのだ。
アイダは子爵家の次女で、そろそろ結婚相手を決めなければ“行き遅れ”と言われてもおかしくない年齢に達していたので、辺境伯の第二夫人として話を振られたときアイダはその話に飛びついた。
辺境伯の領地は広く、その半分以上が豊かな大地である。
領地には大地がぱっくりと割れたような深い谷があり、その最深部には魔獣の巣もあって危険地帯となってはいるが、谷にほど近い場所には大きく堅牢な街が作られており、谷の魔獣から領地を守る拠点となっている。
その街には魔獣狩りを主とするランクBを中心とした傭兵パーティーが何組も拠点にしていて非常に賑わっており、魔獣対策の費用を捻出して余りある税収入を確保していた。
谷から離れた場所では農畜が盛んに行われているし、国境付近では兵士の強化に余念がない。控えめにいっても子爵家の次女が嫁ぐにしては破格の相手であった。
しかしアイダはそれだけで良しとはしなかった。最初は容姿も整っているし性格も良いしなにより地位の高い辺境伯の第二夫人の座に満足していたのだが、問題は第一夫人にあったのだ。彼女は――
「お母様?」
いつの間にか考え事をしてしまっていたアイダは、エイラの言葉にはたと我に返った。
「あら、ごめんなさい、つい考え事をしてしまっていたわ。」
しまったと思いながら、素直に謝る。エイラはまだ話し足りていないというのに、上の空で聞いてしまった。エイラは満足していないかもしれない。満足するまで話さなければ、エイラはボロを出すかもしれない。アイダは内心焦った。
しかしアイダを見ていたエイラの顔は先程までとうって変わって、憑き物が落ちたようにスッキリしていた。どうやらアイダが考え事をしている間もずっと喋り続け、満足するまで暴言を吐き切ったようである。
「お母様も疲れているのね。そうよね、単純な私がこれだけ苛ついているのに、この領地の未来を心から案じておられるお母様が憤らないわけがないもの。
ああ、可哀想なお母様……よりにもよってお母様が気に入られていた花のタイルの浴室を獣人が使って、ショックを受けられているのね?私たちが使うこともある浴室のひとつに汚らわしい獣が入ったというだけでも信じられないのに。本当、カトリーヌは癪なことばっかりして!
お母様がお疲れになるのは当たり前だわ。ごめんなさい、いつも私ばかり言いたいことを言ってしまって。お母様だって、言いたいことはあるわよね。私で良ければ聞きますわ。」
その言葉を、アイダは多少の驚きをもって聞いた。そして、大きな慈しみの心を持って、受け入れる。顔には自然と笑みが浮かぶ。
「ふふふ、いいのよエイラ。確かに浴室のあのタイル画は気に入っていたけれど、別にあそこしか浴室がないわけではないわ。それに獣が入って汚していたとしても、きれいに洗えば済む話よ。さすがに獣でも拾われた恩くらは感じているでしょうし、よっぽど頭の悪い獣でもないかぎり、汚れをこすり付けたりはしないはずよ。」
「違うのよお母様、獣人が屋敷の中にいると空気が汚れる気がするの。浴室だってきっと獣に汚されているわ。……お母様は、そうは思わないの?」
「そうね、多少は汚れているかもしれないわ。でもここは聖王様が治めてくださっていた国で、私たちは毎日かかさず精霊様にお祈りしているでしょう。多少の汚れならば、精霊様が清めてくださるはずよ。」
「精霊様が……そんな……!」
アイダの言葉に、とたんにエイラは顔を青くした。
「精霊様の手を煩わせるなんて本当、カトリーヌは……いえ、カトリーヌを産んだあの女も、その血を引く病弱息子も、本当、この家にとって害悪でしかないわね。
早くどうにかしないと、この領地から精霊様からのご加護がなくなってしまうわ!」
本気でそう思って言葉に出しているのだろう。アイダは自らの教育方針が間違っていなかったのだと、心から嬉しく思った。
エイラは正真正銘、体も心も聖王国の貴族だ。多少ヒステリックなところはあるが、社交界に出れば誰からも愛されるだろう。
出自からして“辺境伯の娘”なのだ、現在進行系で自分と違い引く手あまたであったが、アイダは娘には婿を取らせるつもりであった。そうしてアイダとその婿に、ゆくゆくは辺境伯を継がせるアーロンの良き理解者として側に仕えさせようと考えていた。
カトリーヌについては、そのうちアイダの家に繋がりのある男爵あたりの次男か三男の嫁にしてアーロンには関わらせないようにすればいい。そして一番の問題である第一夫人のエレオノールは屋敷の敷地内に離れでも建てて、“元”辺境伯と好きなように生きればいいと思っていた。
アーロンが領主になったあともあの2人と仲良くしておけば、お家問題で荒れたとか、嫡男から爵位を簒奪したとか、そういったマイナスイメージを付ることなくアーロンを辺境伯に据えることができる。
現在の辺境伯については、そのうち息子が死んでふさぎ込むようになるだろうエレオノールにつきっきりになってまともに働かなくなるだろう。エレオノールのムスコンっぷりは王都にまで響くほどであり、息子が死ねばエレオノールがどうなるかは一目瞭然であったし、辺境伯がエレオノールのことを愛しすぎているのも悪い意味で有名であった。
もちろん、同じ子どもを持つ親として、アイダは“病弱な息子をもった”エレオノールの気持ちが痛いほどわかる。
エレオノールの息子であるクロードは小さい頃は元気いっぱいのやんちゃな男の子であったが、大きくなるにつれて病弱になりよく風邪を引くようになって、エレオノールのムスコン具合は年を追うごとに加速していた。
――まあそれは、辺境伯が言うような体力や気力の問題だけではないけれど。
うっすらと唇に弧を描いて、アイダは満面の笑みを浮かべた。
それは娘や息子に対しての愛からなのか他の何かしらからなのかは不明であるが、その顔をみたエイラはほっとしたような表情でそっと椅子に座ったままのアイダに抱きついた。
「お母様、大好きよ、私のお母様。あんまり思いつめすぎないでね。」
「エイラは本当に優しい、いい子ね。」
アイダは抱きついてきたエイラの頭を撫でてやりながら、「ほら、今日はアーロンと一緒に寝てあげるのでしょう?」と優しく声を掛ける。
アーロンはまだ10歳であり、優しくてよくかまってくれる姉のエイラが大好きであった。
カトリーヌに対しても同じように懐いているのは気に入らないが、アーロンがカトリーヌやエレオノールと仲がよければいずれアーロンが辺境伯になったあと動きやすくなるだろうし、それはそれでしょうがないとアイダは自分を納得させていた。
しぶしぶアイダから離れるエイラに微笑みかけ、「いってらっしゃい。私も寝るわ。」と、アイダも席を立つ。
……カトリーヌが連れてきた、あの獣人は、役に立つかもしれない。
そんな事を考えながら、アイダは部屋から出ていくエイラを見送った。




