閑話 神の獣
彼女が生まれたのは、今からニ千年ほど昔に遡る。
生まれたときは、どこにでもいる矮小な獣の仔だったそれは、偶然かはたまた神にそう定められていたのか、ある時大量の魔素を浴び、魔核と知恵を得た。
しかし、知恵を得た彼女が知ったのは、知恵があるだけではこの森で生き残ることはできない、ということだった。
体も小さく、力も弱い。大きな獣や魔獣の餌となるべくこの森に生まれた小さな獣。
しかし、本能は“生き続けて子を残せ”と叫ぶ。そしてそのためには、餌として森の糧になるわけにはいかない。
体が小さければ、それを活かせばいい。
力は弱いが、大量の魔素を浴びたおかげか体内の魔素量は豊富なのだ。それを力として使えばいい。
まずは力を磨かなければ。
小さな魔獣が最初に覚えた魔法は、気配を消し周囲の環境と同化するという、身を隠すための魔法だった。
森を糧にするのは、自分だ。
強者の餌になるために、私は生まれたわけではない。
そうして百何十年かかけて、その小さな魔獣は森を自由に闊歩できるまでの力を得た。
魔素を浴びたことで変質した金色の毛並みは、梳かれているわけでもないのに美しい黄金の小川のようだ。鮮やかなブルーの瞳は小さな魔獣の本来の色だが、もう片方の瞳は魔素を浴びた事で自然とグリーンへと変色していた。そんな姿は、緑にまみれている森のなかで、嫌でも目立つ。
魔獣が生まれるよりも前から森で暮らし続けている人々は、いつの間にか現れたその小さな魔獣の姿があまりにも神々しく見えたので、「あれは幻獣の類ではないだろうか。」と噂をするほどだった。
――その噂が本格的に信じられ始めたのが、今から約800年ほど前。
真夜中に突然現れた強力な魔獣が、森に住まう人々の集落を襲っている最中の事だった。
この森はいわゆる魔素溜まりにあり、森の中は魔素が濃く、その影響で年に3、4回ほど強力な魔獣が現れる。
人々はその強力な魔獣を森の外へと出さない為の番人として、森の中腹に集落を作り暮らしていた。
魔素溜まりの森はただの獣でも油断ならない敵となるため、彼らは夜中でも寝ずの見張りをたて、きちんと塀の外を監視していた。
強力な魔獣というのは生まれる前に予兆があるとはいえ、気を抜きすぎるのはよくないと集落の皆が知っている。
しかし、魔素溜まりの恩恵は人々にもあり、強力な魔獣も集落の人々だけで充分対処できていた。
1年に1度くらいは油断して体を欠損する者が出たりすることもあるが、これは、魔素溜まりにある森の被害としてはかなり少ないと言えるだろう。
しかし、その夜は違った。
魔獣の気配に見張りが気づいたのは、集落の人々が寝静まった夜中の2時か3時あたりだった。
その大型の魔獣は、何の予兆もなく現れたかのように突如として村に襲い掛かってきたのだ。
バキバキと森の木が倒される音と唐突にビリビリと感じ始めた強力な魔獣の気配に、集落の見張りをしていた者たちはすぐさま警笛を鳴らした。
そして、それと同時に不安も覚える。
見張りをするときは、必ず一人は広範囲の索敵の魔法を定期的に使っているはずだ。
しかし、見張りらが気づいたときにはすでに魔獣は集落のすぐそばまで来ていた。
索敵役に何かしらの問題があった可能性がある。
そんな見張りらの不安をよそに、集落の人々の避難はあまり迅速とはいえない速度で始まった。
魔獣の予兆はなかったのだから、そんなに強い魔獣ではないだろう。
どうせいつものように集落を囲む塀の外で倒されるだろう。
見張りも兵士だ。彼らだけでも少し弱いくらいの魔獣ならば戦えるし、有事のときのために交代で詰めている兵もいる。
そんな考えが人々の中にはあった。
しかし、現実はそんなに甘くはない。
森の木々をなぎ倒して集落の塀まであっという間にたどり着いた大型の魔獣は、大きな咆哮を一つあげると、集落の中へと侵入すべく塀に体当たりを始めた。
それは二足歩行の巨大な魔獣だった。表皮は夜に紛れるような、黒。
夜勤だった兵士たちが必死に集落の塀に強化魔法を使ってはいるが、魔獣が体当たりするたびに塀にビキビキとひびが入った。
見張りの一人が避難を警告する音程の高い警笛を吹くまでに、そんなに時間はかからなかった。
ピィィィィィィィィィィィ……。
ビリビリと家ごと震わせる魔獣の咆哮と、あまり聞く事のない色音の警笛。
そのあとすぐに集落の塀が壊されたのだろう破壊音が耳に飛び込んできたあたりで、ようやく人々は集落に何かしらの異常が起きているのだと理解した。
慌てて家から飛び出した人々が見たのは、破壊された5メートルほどある集落の塀と、その塀と肩を並べている、塀よりも大きな魔獣。
夜中にもかかわらずギラギラと光って見える4つの赤い目は、意思があるかのごとく独立してぎょろぎょろと動き、それぞれが己の餌を探すようにあたりを見回しているようだった。
そこで人々はようやく命の危機を感じ、悲鳴を上げた。
魔獣が集落の中へと侵入した場合、人々は避難用の地下道を通って逃げる手はずになっている。
しかし、ここ数百年、そんなことは起きていなかったのだ。
戦えない人々は我先にと逃げ惑い、地下道の入り口では人が殺到して大混乱に陥った。
そんな人々の悲鳴やら罵声を遠くに聞きながら、集落に侵入した魔獣の前に立ちふさがっているのは、運悪く今日が夜の詰め番だった3人の兵士と、3人の見張りだ。
索敵の魔法を使う番だった見張りがいないことから、彼にはやはり何かあったのだろう。
今、魔獣の前には6人いる。
いつもなら、強力な魔獣だろうが気を抜かなければなんとか時間稼ぎができ、無事に人々の誘導が終わった仲間が到着してから態勢を整え直して戦い始めることが出来るだろう。
しかし今日は違う。
大抵、予兆もなくいきなり集落を襲いに現れるものは魔獣ではなく、魔素にあてられただけのただの狂った獣の群れ、もしくは妖精か、魔獣だったとしても生まれたばかりの小さな魔獣ばかりなのだ。
そういう敵を想定した装備しか、彼らは持っていなかった。
救いがあるとすれば、武器だけはいつも使い慣れたものをきちんと持っていたことだろうか。
しかし、人々の避難の時間を稼ぐことができるかどうかは、正直な話トントンだ。
全員が防御壁の魔法を使えるとはいえ、こんな魔獣とやりあうなんて全く考えていなかった彼らは、魔法を強化するための装備なんてしているわけがない。
彼らの自慢の対魔獣用の防具は今、きれいに磨かれた状態で家で眠っている。魔素ポーションも僅かしか持っていない。
これだけ大きな魔獣を相手するのに、今の装備と人数では心もとないどころの話ではなかった。
とはいえ、この装備で時間を稼がなくてはならない。
魔獣の足止めをする6人の兵士がしていることは、ひどく単純なことだった。
防御壁を張る。何重にも張る。張り続ける。
魔獣は、魔法を使うまでもないとでも考えているのか、ときには体当たりで、ときには複数ある腕を振り回して、薄い陶器のように防御壁をパキパキとあっさり壊していく。
兵士は必死に魔法に魔素を込めているが、実質、武器だけの増幅では、こういった強力な魔獣に対してはどんなに頑張ってもこの程度の防御しかできなかった。
本来、こういった魔獣と戦う場合は、特殊な媒介を施した大型の盾や宝珠などで魔法を強化するのだ。それでようやく魔獣の一撃をも跳ね返す強力な障壁を張ることができる。
ただの腕の一振りで壊されていく防御壁の魔法。
兵士たちは少ない魔素ポーションをがぶ飲みしながら必死に抵抗するが、それもあと数分で全員の魔素は枯渇するだろう。
そうすればこの魔獣は兵士たちを蹴散らし、集落に侵入して好き勝手に暴れるだろう。
ああ、母は足が悪い。
この混乱の中、無事に逃げることが出来ただろうか。
魔素が枯渇し、体を構成する魔素にまで手をつけた兵士がその場にへたり込んでそんなことを思った、そんなときだった。
突然何かの光が魔獣の腹から放たれたかと思うと、その魔獣が突然、咆哮ではなく叫び声を上げた。
その顔はみるみるうちに怒りに染まり、今まで必死に殴りつけていた防御壁の魔法を放置して振り返り、おもむろに兵士たちに背を向ける。
兵士が訝しげに見れば、巨大な魔獣の腰のあたりからどす黒い血が流れていた。
どこからか援護の魔法でも飛んできたのだろうか?しかし、背中側からということは、森の方から……?
兵士たちは何が起こったのか全く理解ができず、ただ唖然として、唸る魔獣の、血の流れ出る背中を見上げた。
すると森の方から一直線に伸びる細い光が魔獣の胸を貫き、兵士たちの見上げている魔獣の背中を抜けていった。遅れて、シュピッという音が聞こえる。
胸を撃ち抜かれた魔獣は怒り狂ったように再び叫び声を上げて、森の方へとひときわ大きく咆哮を放つ。
魔素の込められた耳をつんざくようなその咆哮は破壊された集落の塀をミシミシと軋ませ、咆哮を向けられた近くの木々は吹き飛び、強風となって森の木々を揺らした。
兵士たちは、助けが来たのだと思った。
時間的にもタイミング的にもおかしいはずなのに、そのときはそんなことを考える余裕など兵士にはなかった。
魔獣が背中を見せた隙に、兵士が二人、慌てて詰め所に戻って予備の魔素ポーションを持ち出した。
この量を飲めば確実に数日間は魔素酔いをしてひどい目に合うだろう。しかし今がチャンスなのだ、飲まないわけにはいかない。
ちょうど避難も終わったのか、他の兵士たちも装備を整え6人の兵士たちのもとへとちらほら集まり始めていた。
しかし、魔獣は森に潜む何かを睨むように、兵士たちには背を向けているままで――
突然、魔獣の周辺の魔素がうねりはじめた。
魔獣が森に向かって大きな魔法を放とうとしているのだ。
兵士たちは顔を見合わせ、頷きあい、それぞれが高速で防御壁の魔法の全文詠唱をし始める。
防具は無いが、他の兵士たちが持ってきた魔素を増幅する媒介はあるし、人数も揃ったのだ。これならば魔獣の大魔法は多少防げるはずだ。
しかし、次の瞬間兵士たちが目にしたのは、魔獣の口から放たれた赤黒い光線のような魔法だった。
それは一直線に森へと伸び、破壊を撒き散らす。
魔獣の後ろで防御壁の魔法を張っていた兵士たちは、その赤黒い魔法を息を呑んで見ていた。
魔法の余波は集落にも襲いかかっていたが、塀を含めた建物はいくつか倒壊したものの、防御壁の魔法のおかげで兵士たちは無事であった。
しかし森は――直撃を受けた木々は即座に消滅し、木々の壁には異質な赤黒い炎のくすぶる穴が開いていた。周囲の木々は魔法が掠ったところだけが綺麗にえぐれ、そこから赤黒い炎が広がり次々とボロボロ焼け落ちていく。
それは、その魔法がどれほど凶悪だったのかをありありと物語っていた。
「呪いの息吹……だと!?」
兵士の一人が掠れた声でつぶやいた。
息吹とは、主に竜種が使う魔法の一つである。
はたから見れば口から吐き出しているように見えるが、もちろん炎やら光線やらを実際に吐いているわけではない。口の辺りからそれらしく魔法を発動させているだけだ。
魔獣は当たり前のように無詠唱で魔法を使うが、実は、魔素を構成する手順は詠唱魔法と同じである。よっぽど魔素の扱いに長けた魔獣でもない限り、魔獣も体内の魔素を体の外に放出してから構成し、魔法を発動させているのだ。
それは、息吹に限らず体内で魔素を構成する場合、うまく魔素を誘導しなければ魔法を放つ際に自らの体の内側にダメージを負ってしまうからである。
しかし、魔素を体外で構成するにしても、咆哮系の魔法ならともかく、当たれば焼け落ちるような炎などを口の付近に出現させる場合、自らには被害が及ばないように、他の魔法を並列使用する必要もある。
そういった様々な理由から、息吹を使う魔獣は総じてランクが高いとされていた。
兵士たちはぞっとした。
もしあの呪いの息吹を集落側に放たれていたら、たとえ万全な防御壁の魔法であっても、集落に甚大な被害が及んでいただろうから。
あの赤黒い炎は、周囲に燃え広がらないところを見ても、受けた者が死滅するまで消えない呪いの炎の可能性が高い。それは、死霊系の魔獣が使う魔法の中でも特に恐ろしい魔法だった。
そんな恐ろしい魔獣の呪いの息吹を放たれた森側にいた魔法使いは無事なのだろうか?いや、あの息吹の直撃を受けて生き残れる者がはたしているのか……
兵士たちは祈るような思いで森に視線を向けていた。
呪いの息吹を放った魔獣もまた、森の方を睨んでいた。
その視線の先で、ひらり、と何かが森から姿を現す。
それは、月の光を受けて黄金に輝く、小さな小さな、獣。
「あれは―――。」
大きさで言えば、兵士の前に立ちふさがっている魔獣の五分の一程度だ。
そんな小さな獣が、耳をピンと立て、細長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら宝石のようなオッドアイの瞳で魔獣を見据えていた。
その獣からは、魔獣から感じるような強烈なプレッシャーも、魔素のうねりも感じられない。
しかし、神々しいまでの姿と上品な身のこなしでゆっくりと歩いてくるその小さな獣に、兵士たちは魅入ってしまった。
「グガアアアアアアアアア!!!」
森から出てきたのが小さな獣だと知って、魔獣は怒りを露わにした。
こんな小さな、いつもなら何気なく踏み潰しているであろう獣におちょくられたのだ。
そう、相手は、いつもならば歯牙にもかけない矮小な獣。
魔獣はその瞬間、その小さな獣を侮った。
その矮小な存在のはずの小さな獣から、複数回、攻撃を受けたにも関わらず、だ。
魔獣は、狂っただけの獣ではない。それ故、強い。
しかしこの時、この魔獣は深く考えることができなかった。
相手は、自分に“気配を感じさせないまま傷を負わせる”ほどに強いのだと、相手との力の差に気づいていれば、この魔獣の結末は変わったかもしれない。
そして、大きな魔獣の侮りが、魔獣の命取りとなった。
くぁ、と小さな獣があくびでもするかのように口を上げた瞬間、その小さな口から放たれた光が魔獣を焼き貫いたのだ。
兵士には、魔素のうねりは一切感じられなかった。
それは、体内で完璧に魔素の動きを把握しているということだ。
そして小さな獣から放たれた輝く“息吹”は正確に魔獣の核を貫いて――そこであっけなく全てが終わった。
それは兵士にも、そして魔獣にとっても一瞬の出来事だった。
魔獣は、核がなければ存在を保てない。
核は魔獣の存在そのものだ。
核が割れれば最後、魔獣だったものはただの汚染された肉の塊と同じになる。
魔獣の核を破壊した小さな獣は、魔獣が倒れ伏して動かないのを満足気に目を細めて眺め、兵士に一瞥もくれることなくくるりと背を向けて、何事もなかったように尻尾をピンと立てたまま森へと消えていった。
「か……神が……ムルナス様が使わしてくださった、神獣……だったのか……?」
全てを見守っていた兵士の一人が、感極まったようにそう言った。
魔獣に襲われていた人々にとっては、あの小さな獣が現れなければ、集落に甚大な被害が及ぶところだったのだ。
そうすれば兵士も含め、死人も多く出ただろう。
たかだか1匹の小さな魔獣が、集落を救った瞬間だった。
実際の被害は、塀と建物がいくつかだけ。死人どころか、けが人すらいない。
息吹持ちの強力な魔獣に不意打ちされたにしては被害がないに等しいという、誰が聞いても信じないような、あり得ない終わりだった。
夜が明け、地下に逃げ込んでいた集落の人々は兵士からその小さな救世主――黄金の毛並みを持つ、美しい神の獣――の話を聞いて驚いた。
疑おうにも、集落の塀の外には恐ろしい形相をした大きな魔獣が倒れている。
体内から核を取り出してみると、それはきれいに真っ二つに割れて、光を失っていた。
――そして、その小さな獣は神獣として崇められることとなったのだ。
誰もが、大きな魔獣を倒したその小さな獣も魔獣だろうとは思ったが、誰一人それを口にすることはなかった。
その小さな獣がいなければ、今頃、集落は酷い有様になっていただろうから。
もちろん、小さな獣――彼女も、人々を救うためにあの魔獣を倒したわけではない。
“何か煩いのがいるなあ。”
そんな程度の考えだった。
魔獣の咆哮が、集落の塀に体当りする音が、たまたま集落の近くで寝ていた彼女の眠りを妨げたのだ。
森から姿をそれらしく現したのも、実際は、遠くから適当に息吹撃っとけば死ぬだろうと思った相手の魔獣が、こちらが魔法を2発撃っても死なないどころかやり返してきたので、しょうがなく、正確に一撃で葬るためという理由だった。
さすがに相手の魔獣が見えない位置からでは、体内に隠れている核に狙いを定めることはできなかったのである。
それからその小さな獣は、森と集落を守る神獣として人々に崇められるようになった。
集落の人々は、定期的に変わる小さな獣の寝床があるだろう場所には近づかないようにし、森に祭壇をいくつか設けて、月に2度、供物を捧げるようになった。
ある時、偶然に人々が供物を捧げているところを見かけた小さな獣は、人々を敵として見ることをしなくなった。
彼女の中で森に住む人々は、“骨ばっかりで美味しくないオヤツ”から“たまに旨い肉をくれるいいやつ”に格上げされたのだ。
それからというもの、小さな神の獣はたまに集落周辺に出没しては人々の畑仕事などの日々の営みを眺めるようになった。
人々は、それが魔獣だと知っていたが――あえて、逃げたりすることはない。
こちらが何もしなければ、あちらも何もしないと分かっていたからだ。
何を見ているのか、何も見ていないのかはわからないが、知恵ある小さな神の獣はそれからもずっと、飽きることなく、人々を眺め続けた。
それは何百年も続き――
いつしか小さな知恵ある魔獣は、人々の言葉を理解するまでに至っていた。




