リネッタとシルビア 2
(それにしても、一つの体に二つの意識って、不思議な感じね。)
森を歩くシルビアに、リネッタはそう呼びかける。
「ウン。ふしギ。」
シルビアはそう、口に出した。
リネッタの体は、まだ、シルビアに支配(?)されていた。
シルビアが感じている感覚のうちリネッタと繋がっているのは、視覚、聴覚のみである。
しかもそれは、ただ映像と音楽を見聞きしているように、自分のことではないような不思議な感覚だった。
なぜリネッタに体の支配権(?)が戻らないのか、リネッタにもシルビアにも分からなかった。
シルビアは深く考えること自体が苦手であり、この状態に関してはシルビアはなんの役にも立っていなかったし、リネッタもシルビアが元は魔獣だと知っているので期待すらしていなかったのだが。
ただ、シルビアが目覚めて助けてくれたことには大いに感謝をしていたし、きちんとした会話は成り立つので、それだけで――そう、ネズミやヘビを生きたまま丸かじりしそうにならなくなっただけで――充分だった。
リネッタは、実は、体の支配権はもうしばらくはそのままでもいいとさえ考えていた。
体が自動的に食事をしたり動いたりしてくれるのだから、そのぶん色々と出てきた疑問をじっくり考えることが出来るのだ。
はっきりと意識が戻ったリネッタは、その長い自由時間の間、自らの体に起こっていることを調べることに集中していた。
リネッタが転移の反動でシルビアの魔核と融合してしまったその影響は、リネッタの体に様々な変化を及ぼしていた。
一番の変化は、何といってもリネッタが人族でなくなってしまったことだろうか。傍目には耳と尾が生えているだけなのだが、実際は体の半分以上が魔獣化してしまっていた。
寿命も相当長くなっているだろう。魔獣に寿命はない(と考えられている)ので、もしかしたら寿命自体なくなってしまっている可能性もある。
事実、リネッタの左胸あたりには変わらず心臓があるが、そのちょうど反対側、右胸のあたりには、人族には絶対にないものが存在していた。そう、シルビアの魔核である。
リネッタは魔獣化してしまった自分の体にさすがにショックを受けたが、それ以上に、魔核のお陰で寿命が伸びた(かもしれない)ことを研究者として大いに喜んだ。
リネッタの愛杖にはいくつもの魔法の媒体が競合しないように絶妙なバランスで取り付けてあったが、その全てをリネッタは体に取り込んでしまっているようだった。
この世界に転移した少しあとにリネッタを襲った体調不良のような不思議なふわふわした感覚は、きっと体にとって異物なそれらが時間をかけて馴染んでいった影響だったのだろうとリネッタは結論づけた。
しかし、その力を自覚していなかったからなのか、シルビアというメインの媒体が眠っていたからなのか、シルビアが目覚める前のリネッタは杖のないときと同じ力しか使えていなかった。
まあ、シルビアが寝ているときでも、家や研究室や遺跡などにこもって研究することが大好きだったリネッタが日向ぼっこが好きになったり、初めて入る森で一切迷わなかったりしたのは間違いなくシルビアの影響だろうが。
それほど、リネッタの見えない部分での変化はすさまじいものだった。
(とはいえ、この世界でやることは変わらないけどね。)
例えば、魔獣狩りを専門にしている傭兵などならこの体の変化には狂喜乱舞するだろう。
しかしあいにくとリネッタは研究者だ。体内魔素量が増加したことよりも、単純に寿命が伸びて好きなだけ研究できることのほうが嬉しかったし、それ以外の変化については、この時点では特に気にする事はなかった。自分の体なんて、いつでも実験できるのだから。
シルビアが、ずんずんと森を進む。
トーラムとサーディスから許されていた森の浅い所はとうの昔に過ぎているが、目的地はまだ先だ。
リネッタには試したいことがあった。しかしここらではまだ、誰かに見られてしまう可能性がある。
そうしてお昼を少し過ぎた当たりで、リネッタとシルビアは森のいくぶんか深いところに着いた。
リネッタには、周りに人の気配はないように感じる。
しかしシルビアは立ち止まり、「マッてて。」と言って、靴を脱いで裸足になり、その場に座った。
シルビアが、静かに目を閉じる。
どうやら、何か、魔獣だった頃の魔法を使おうとしているようだった。
己の体の深くにうずまく魔素の感覚に、リネッタはこれから何が始まるのかワクワクしながらそれを見守った。
「…………。」
シルビアが、体の中に眠っている膨大な魔素を、じわじわと外へ放出していく。
何か魔法を構成するわけでもなく、ただ放たれた魔素は、空気中を漂うだけだ。
(これは……?)
辺りに漂うシルビアの魔素が、ゆっくりと周囲の魔素と混ざり合いはじめる。
それは、ごく自然に、溶け合うように。
そうして、大気中の魔素と混じりあったシルビアの魔素は、薄まりながらまるで霧が森を包み込んでいくかのように、静かに森へと広がっていく。
魔素が広がっていくにつれ、リネッタは、自らの存在がゆっくりと形を失い始めて森の一部になっていくような錯覚に襲われていた。
シルビアの意識は呼吸する度に深く森と同調していき、風が獣の毛をくすぐって流れる感覚、その風で木々が僅かにきしむ音……虫が葉を噛む音すら聞こえる気がした。
大地へ、大気へ、シルビアの魔素は溶けて薄まりどんどんと広がっていく。
そうしてたっぷり時間を使って森に魔素を行き渡らせたあと、ゆっくりと開いたシルビアの輝く青と緑のオッドアイには、周囲の“全て”が映っていた。
大気の魔素を経由して森の隅々までを視ることの出来る、リネッタの知らない、魔獣の魔法。
小さなアリ一匹でさえ、シルビアから逃れられてはいないようだった。
(これが、シルビアの視野……。)
リネッタはシルビアの使った魔法と流れ込んでくる情報量に、ただただ圧倒されていた。
詠唱魔法にも索敵の魔法はあるが、それの比ではないほどの――空間把握の魔法といっても過言ではないほどの精密な魔法だ。把握している範囲は、半径2キロはあるのではないだろうか。
(これは、何の為の魔法なの?)
シルビアの集中を途切れさせてはならないとは考えつつも、リネッタは思わず聞いていた。
しかしシルビアは、特に苦でもないように軽い調子で「ごはんサガす。」と答える。
(は?)
「アト、ねルの、どこがイイカナって、さがス。ぬれてナイとこ。」
(え?それだけ?それだけのために、こんな大掛かりなことするの?)
「オーカガリ?」
(だってこれ、かなり広い範囲を視てるし……そもそも、ここまでしっかり視る必要あるの?)
シルビアの視野は、大地の下で眠る幼虫さえ捉えている。
「マソ、コゆい。ミえる。……オーカガリ、ミえないの、ミエる。」
(見えないの……ああ、なるほどね。)
シルビアの話す単語だけではよく分からないが、同じ体を共有しているからか、リネッタには不思議とシルビアの考えていることが理解できた。
つまり、大気中の魔素の濃いこの世界では、レフタルで発動するよりも効果が強力になる、ということらしい。シルビアが魔獣として生きていた頃は、魔素の濃い魔素溜まりと呼ばれる森に住んでいたが、その時は半径1キロくらい見えたらいい方だったそうだ。いや、それでも強力なのには違いないのだが。
そして、“見えないの”というのは――いつだったかリネッタが召喚した影妖精やその他の妖精、そして擬態を得意としている獣や魔獣のことのようだ。
影妖精の上位妖精である不可視の妖精をはじめとした見えにくい、もしくは見えない彼らを気配だけで捉えるのは、知恵のある魔獣でも困難な事だったのだろう。
もちろん詠唱魔法にある索敵の魔法でも、不可視の妖精を含めた擬態する妖精や魔獣を見つけ出すことはできる。
ただし、索敵の魔法は一瞬で周囲を把握する類の魔法なので、対象がこちらに気づいていたり移動速度が早かったりすると逃げられてしまうし、最悪、探している間に背後に回られて不意をつかれてしまったりするので、一定間隔ごとに使わなければならない。
しかし、シルビアのこの空間把握の魔法(仮)は、シルビアが集中している限り切れることはないようだ。
リネッタは、周囲の魔素と自らの魔素を溶け込ませるからこそ長時間の発動がなし得るのだろう、と、適当に仮定した。
そして、魔獣の使うリネッタの知らない魔法に、心を踊らせるのだった。
と、シルビアが視線を森の奥へと向けた。
「ごはん……?」
(ではないわね。これは……薬草を摘んでるんじゃないかしら。)
それは、リネッタとシルビアから見て街の方へ1,8キロほど向かったあたりだ。
人の傭兵が何人かで、草をむしっているようだった。
トーラムとサーディス、そしてシルビアが上質な薬草をたくさん傭兵ギルドに持ち込んだ結果、それを見ていた傭兵たちは、自分も上質な薬草がたくさん見つけられるのではないかと薬草摘みをするようになった。
もちろんそんなにうまくいくはずもなく、大多数の傭兵は普段通りの仕事に戻ってしまったのだが、低ランクの傭兵たちは、仕事がない時には多少のお金になると、森の浅い場所で積極的に薬草を摘むようになったのだ。
(ていうかシルビア。いいかげん、人族をごはんと呼ぶのはやめたほうがいいんじゃない?あなた、助けてくれたトーラムとサーディスも、最初は食べる気だったでしょう。)
リネッタが呆れたように言うと、シルビアは、「むむ。モウたべナイ。」と答える。
(まあ、元が魔獣だったからしょうがないんだろうけど。でも、人族が軽めのおやつっていうシルビアのイメージが流れ込んでくるのは何とかしたいところね……。)
実際、シルビアが川べりで助けられた時トーラムとサーディスを見て「あ、ごはんだ。」と言ったのは、助けてくれた2人に対して、「ごはんを食べさせて下さい。」と言ったわけではない。
そう、もし、2人が助けたのがシルビアが目覚めた後であれば、トーラムとサーディスは本当の意味で、シルビアの“ごはん”になってしまっていただろう。
シルビアは、リネッタと会話ができるようになるまで、トーラムとサーディス以外の人や獣人を“ごはん”と呼んでいたのだが、何も知らない周りからすれば微笑ましいそれは、リネッタにとってはぞっとする話だった。
「あ、アッチ。あれは、ごはん?」
リネッタがぶるりと無い体を震わせていると、シルビアが街とは正反対の方を向いて指をさした。
(ああ……そうね。)
シルビアに導かれるようにそれに視線を向けたリネッタは、静かに同意した。
“あれ”ならば、ちょっとした実験にちょうどいいかもしれない、と。




