リネッタとシルビア 1
シルビアは今、1人で朝の明るい森を歩いている。
エリオットが主都シマネシアを離れて、ひと月が経った。
あれからもシルビアは相変わらず自由な感じで毎日を過ごしていたが、さすがに以前のように毎日森に行くことはできず、数日に1度トーラムかサーディスに森に連れて行ってもらって薬草を摘むことで息抜きをさせてもらっていた。
もちろんそれだけではシルビアの食費は賄えないので、トーラムとサーディスが交互に食事代を払っている状態が続いている。
しかし、ここ最近のシルビアは、食事の量は変わらないものの、森に行かない日は宿屋の自分の部屋でおとなしく寝ていたり、一人でも落ち着いて街を散歩できるようになっていた。ネズミを見ても、ごはん!と興奮することもなくなった。
そのため、ようやく、森の浅い明るいところならば1人で出歩いてもいいとトーラムからお許しが出た。
ただし、街から出る時はかならず門番に声をかけ、日が傾く前には街に戻るという約束である。
シルビアがリネッタだった頃(?)は一人で旅をしていたのだから、分別がつくならば、部屋に閉じ込めるより多少は一人の自由な時間を持たせてもいいだろう、と、トーラムとサーディスが気を利かせた結果だった。
(うーん、まだ体の感覚は戻らないみたいね……)
「モウすこシかかル。」
シルビアは森の中をどんどんと進みながら、リネッタに答える。
シルビアが落ち着きを見せ始めた理由。それは、リネッタの意識がそこそこのレベルまで回復し、シルビアとリネッタの会話が成り立つようになったからだった。
実のところ、リネッタの意識だけならばだいぶ前に戻っていた。
シルビアが拾われてから、20日ほど経ったあたりだ。
それからリネッタの意識が会話ができるレベルまで回復するのにもう20日ほどかかったが、それは大気の魔素だけに頼った回復方法では絶対にあり得ないほどの速度である。
一度は体が透けるほどまで魔素を失ったのだ。最悪、リネッタの意識は完全に消えてしまう可能性もあった。しかし、リネッタがここまで回復できたのはシルビアのあの食事の量にあった。
シルビアは、食事を介して、失った魔素を強制的に体に補充していた。
本来、自らの体を構成する魔素を失ってしまった者の治療には、魔素補充液の原液が使われる。
それもただ飲ませるのではなく、大きな桶に魔素補充液の原液をなみなみと注ぎ、その中に体を浸すことによって、ゆっくりと体に魔素を馴染ませながら吸収させていく。
魔素補充液を飲ませるやり方もあるが、大半は体内の魔素量だけが回復して意味がない上に、原液に慣れていない者はもれなく酷い魔素酔いを起こすことになる。
そして、もちろんこの治療には莫大なお金がかかるので、通常、体を構成する魔素まで使うのならば、それは死が前提になったときだけだ。
リネッタが元居た世界であるレフタルでは禁忌とされてはいるが、“命に変えてでも誰かを守る最終手段”として、そのやり方を知っている魔法使いは多い。
そんな禁忌を犯したシルビアは、しかし、食事しながら体内で食べたものを魔素に戻し、強制的に体に取り込むという通常では考えられない方法で、順調に自身を治療していた。
この世界の魔術師はもちろん、リネッタを始めとしたレフタルの魔法使いにさえ到底出来ない芸当である。
一度体内に入ったものを魔素に戻すこと自体、異常なのだ。その魔素を意識的に体に吸収するなんてことは、どんな高位の魔法使いであっても、不可能に近い。
それを平然とやってのけているシルビアは、当然のごとく、人ではなかった。
もともとシルビアは、リネッタの中に存在していなかった。
シルビアは、リネッタとともに転移の魔方陣でこの世界に転移したときに、転移の魔法陣の作用でリネッタと融合してしまったのだ。
リネッタが転移前には持っていて転移後に消えていたもの、その材料が、走馬灯により蘇ったリネッタの幼い頃の記憶と共に、自ずとリネッタにシルビアの正体を指し示していた。
――月の女神の神獣。
それは、月の女神である太月の守護すると云われている森と、そこに住まう森の民を守っていた、守護神獣。
愚かな森の民に呪われてあっけなく討伐された、美しく賢い、哀れな魔獣だった。
リネッタはその魔獣の核を媒体とした短杖を3歳の誕生日に両親から送られ、以降、魔改造を繰り返しながらずっと愛用していた。
魔獣の核は、魔獣の存在そのものである。
だからこそ、強力な魔法具には強力な魔獣の核、それも一切欠けのないものが使用される。
しかし、完璧な核の中にはその魔獣の意識までもが眠っている、という事を知る者はいない。
なぜならば、数十年に一度はどこかの国の研究室で、生きている獣に魔核を埋め込んで人造魔獣にするという研究が立ち上がるものの、魔核を埋め込まれた獣はみな、生きたまま肉が変色して腐りはじめたり、数時間は生きたものの突然息絶えたり、あるいは魔素を暴走させて研究所に甚大な被害をもたらしたりと、魔核がまともに受肉することは一度もなかったのだ。
故に、本来ならばシルビアの意識も魔核の中で眠り続け、魔核が壊れると同時に消えるはずだった。
しかし、シルビアの魔核はリネッタと融合し、受肉してしまった。
その影響でシルビアの意識も、完全なる眠りからまどろみへと中途半端に目覚めてしまった。
本来ならばあり得ない、魔核の受肉。
それは、リネッタに一つの答えを――人生をかけるだろうと思われたその問の答えを気づかせるのに充分すぎる、ヒントだった。
(私の体が、転移の秘密に繋がっていたなんて……)
リネッタが導き出したのは、転移の魔法陣の、根本的なからくりだった。
しかしそれは、運びたいものを一旦魔素に戻し転移先で再構築するという、言うだけなら簡単だが、実際にそれを詠唱魔法でやろうと思うとかなり、いや、どう考えても非現実的な方法であった。
行きの転移に使われるのは転移させたい物を一旦魔素に戻すという魔法だが、これはまだ、詠唱魔法でもなんとかできる範囲だ。
この世界にある全てのものは、魔素で出来ている。その魔素を操って変化させるのが、詠唱魔法や魔法陣だ。
しかし、魔素は一度変化するとその形で安定する力が働き、形が定着してしまう。その安定してしまったものを魔素に戻すには、魔素が必要になる。
わかり易い例が、リネッタの命を救った、あの魔法抵抗だろうか。
魔法抵抗とは、受けた魔法の効果に対して、自らの魔素を消費することにより魔法の効果を相殺するという、受動的な魔法だ。
つまり、形があるものだろうがないものだろうが、それを魔素の状態へと戻すには魔素を必要とするということだ。
魔素に近い魔法でさえ魔素に戻すのに結構な魔素を消費するのに、魔法で出現させたわけではない完全に形が出来上がってしまっているものを魔素に戻すとなれば、それこそ多大な魔素が必要となるはずだが、まあ、これは気力と根性でなんとかなるだろう、たぶん。
しかし、2つめ。運びたい先で、魔素に戻したものを再構築するという魔法は、あまりにも現実離れしている。
詠唱魔法も魔法陣も、魔素を現象やら何やらに変化させることができる。
その理屈で言えば、世界を構成している全てのものは魔素でできているのだから、詠唱魔法であれ魔法陣であれ欲しいものは全て魔素が足りれば作り上げることができる、ということになる。
例えば、羽ペン、インクの満たされた壺、獣皮紙、小腹が空いた時のサンドイッチ。その全てを、魔法は無から生み出すことができるのだ。
しかし、レフタルの魔法使いは誰もが知っている。
詠唱魔法にそんなことは不可能だ、と。
詠唱魔法は、構成する内容が複雑であれば複雑なほど、詠唱が長くなるのが特徴だ。
それは、詠唱という行為が展開させている魔素の構成を助けているからだ。
炎や水、空気の圧縮などの想像しやすく単純なものならまだしも、羽ペンというすでに完成された一本が持つ複雑に絡み合った魔素の構成を真似するのは容易いことではない。
例えそれができて、なおかつ必要な魔素量が足りていたとしても、詠唱は1時間以上かかるかもしれない。しかも魔法が完成するまでの間ずっと魔素の構築を維持し続けなければならない。もちろん、集中力を欠かせば展開させていた魔素の構成はすぐに揺らいで霧散するだろう。
複数人でやれば多少は楽かもしれないが、羽ペンひとつでそれなのだ。
それならば、誰かに借りるなり自分で買いに行くなりしたほうが有意義な時間が過ごせるだろうと誰しもが考える。
どうりでレフタルの魔法使いに転移魔法が完成させられないはずだ、とリネッタは深く納得していた。
しかし魔法陣ならば、と、リネッタは続けて考える。
魔法陣は魔素の構成を描き出したものだ。詠唱魔法とは違い、そこに長時間の集中は必要ない。
まあ、羽ペンを構成する魔法陣を描く場合、魔法陣を描くためのスペースとしてそこそこ広い場所が必要になるだろうし、それ相応の魔素クリスタルが必要にはなるのだが、それも金さえあればどうとでもなる。
転移の魔法陣は、送る方の魔法陣にはモノを魔素に戻す効果があり、届く方の魔法陣には魔素に分解したモノを元通りにするという効果があったのだろう。
無から何かを生み出すわけではないが、それでも届く側の魔法陣はかなり大規模なものになるはずだ。しかし、あの王都の孤児院にはそれらしい魔法陣は見当たらなかった。いったいどこに魔法陣が隠されていたのだろうか。
……いや、それはおいおい考えればいいだろう。今は、転移の魔法陣の研究が進んだことをよろこぶべきだ。
リネッタは満たされた気持ちで、フフン、と笑った。
(私が魔法陣に感じた可能性は、当たっていた……。)
レフタルの魔法研究者たちは、魔法陣は詠唱魔法より劣っていると思い込み研究から手を引いたが、そんなことは一切無かったのだ。
瞬間的な応用力を考えれば、もちろん詠唱魔法に軍配が上がる。
しかし、魔法陣には無限に広がる可能性があるのだ。リネッタはそれを見抜き、転移の魔法陣を完成させてこの世界に――
(……あれ?)
と、そこでリネッタにひとつの疑問が浮かんだ。
(私の想像が正しいとしたら……私をこの世界に再構築した時の魔素は、どこから持ってきたのかしら。)
レフタルでリネッタを分解した魔素は、リネッタ本人の魔素を使っていた。
そのせいで、リネッタの魔素が馴染みに馴染んだシルビアの魔核と融合してしまったのだが、まあそれはさておき。
リネッタ本人の魔素がリネッタと愛杖の全てをきちんと分解するぶんに足りたからこそ、リネッタはこの世界に来ることができた。
では、“リネッタ”という、羽ペンどころではない複雑な魔素の構成が必要な存在をこの世界に構築したときの膨大な魔素は、どこからもたらされたのだろうか。
羽ペンだけでも相当量の魔素が必要なのだ。
確かにこの世界の空気中には魔素が満ち満ちてはいるが……空気中の魔素だけで“リネッタ”という存在を構築するには明らかに足りないはずだ。それこそ、孤児院を中心としたかなり広い範囲での大気中の魔素の消失が起こってしまってもおかしくないほどに。
しかし、リネッタが現れたあの日、周辺の魔法陣が発動しなくなっただの、魔素クリスタルが勝手に消えただのという話は聞かなかった。
(転移の魔法陣を完成させるのは、まだまだ先になるわね……)
リネッタは、転移の魔法陣の研究が大幅に進んだことを喜びつつも、まだまだ残る謎にそうつぶやくのだった。
リネッタがこの世界に構築されたあの日、ディストニカ王国の王都で何が起こったのか。リネッタが何の魔素を消費して、この世界に構築されたのか。
それをリネッタが知るのはずっと後の話である。




