リネッタとシルビア 0
それは突然だった。
リネッタは降り立った森の河原で、偶然再開した肉の貴族(仮)とたわいない話をしていた。
その会話の最中、急に感じたわずかな魔力のうねり。
体が傾いた違和感に気づいたときには、すでに悪意の塊のような2本の矢がリネッタの体を射抜いていた――。
確実に背中へと貫通しているだろう射抜かれた腹と足は、不思議と痛くはない気がするし、そうでもない気がする。
スローモーションのようにゆったりと思考が引き伸ばされるような感覚の中、視線を森へと向けると、驚愕したような顔の肉の貴族と目が合った、ような気がした。
――完全に気を抜いていた。
肉の貴族にこれっぽっちの危険も感じていなかったリネッタは、防御壁の魔法なんて張っているわけがなく。
そこに殺る気まんまんで飛来した矢は、常時発動している防御膜の魔法などいともたやすく貫いて、リネッタの体へと突き刺さった。
あ、やばい……。
そう声を出したつもりが、口から溢れたのは、ごぷ、という湿ってくぐもった音と、鮮血。
どうにか体のバランスを取って着水だけでもうまくやろうと思ったのに、思うように四肢が動いてくれない。……手足が痺れているような気がする。
しかし、そんな中でも頭はどうにか動いているようで、なぜかひどくゆっくりした感覚で岩から川へと落ちていきながら、リネッタは「このまま落ちたら溺死確実かな。」などと、他人事のように考えていた。
王都の孤児院で見た、王都巨壁を構築する魔法陣。
もう一度見たかった……あわよくば研究したかった……。
転移の魔法陣を発動させた時の、あのまばゆい光。
転移に成功した時は、本当に嬉しかった。
神は信じていないけれど、あの時ばかりは感謝したっけ。
その魔法陣を、遺跡の地下で発見したとき。
転移の可能性を見出した時の、あの、全身が総毛立つような衝撃。
両親に、古代魔法の遺跡に一緒に行かないかと誘われたとき、着いていって本当に良かった。
まあ、古代じゃなくて、隣世界の技術だったんだけども……。
あ、これ、走馬灯だ。
そう気づいても、リネッタの体はまだ川に落ちていく最中だった。
時は正確に刻まれているはずなのに、逆らうように思考は引き伸ばされ、その間ずっとリネッタの脳裏には過去に向かって懐かしい思い出が浮かんでは消えていく。
研究部屋に篭もる日々、初恋のおじいちゃん、魔法学校の入学式、若い頃の両親の顔、そして記憶はさらに遡って、とうとう“そこ”に到達した。
川に落ちる直前、最後の最後に思い出した最古の記憶。
それは初めて魔獣と対峙したときの、記憶。
リネッタが魔法に強い興味を抱くきっかけとなった、美しい黄金の魔獣。
その魔獣の耳と尾に、強い既視感を覚えて――
――――あっ!?
ドボッ……ゴボボボボボボボボボ…………
カチリと最後のピースがはまった瞬間、リネッタは背中から川に落ちた。
途端に思考は時と同じ速度で回り始めて、一瞬にしてリネッタの視界は青と泡で埋め尽くされる。
(あ、ああ、せっかく、わかっ、た、の、に……。)
心残りしかない声にならない言葉も水の流れにかき消され、リネッタは意識を失った。
ゴボボ、ゴボッ……
流れの早い水に体をもまれながら、リネッタと入れ替わりに目覚めたのが、彼女――シルビア――だった。
それは、静かな沼の底に降り積もっていた澱が突然かき回され舞い上がるような、意識の浮上。
焦げ茶だったリネッタの耳と尻尾は、まるで水に濯がれて色が抜けていくように煌めいてリネッタの髪と同じ金色に染まり、確かな意思を持ってゆっくりと開かれた瞳は、片方は宝石をそのままはめたかのような鮮やかなブルー、そしてもう片方は森の新緑を写し取ったかのようなグリーンに輝いている。
その目覚めは、リネッタの生存本能だったのか、シルビアの意思だったのかは、今となっては分からない。
しかしシルビアが、己の危機をしっかりと自覚していたことは確かだろう。
深い川の中で水に揉まれながら、シルビアはまず自らの体の自由を奪っている猛毒を浄化の魔法で即座に無効化した。
毒は、子供に対して致死量の何倍もの体を麻痺させるものと感覚を鈍くさせるもの、そして、それらに対して酷く弱いが確実に死をもたらすであろう出血毒を含むものだったが、解毒の魔法の上位魔法である浄化の魔法はそのどれをも綺麗さっぱり消し去った。
シルビアに知る由はないが、麻痺と感覚を鈍らせるという2種の毒は、解体屋が、空飛ぶ魔獣を殺さないように弱らせて捕らえるために元々矢に仕込んでいた毒であった。
3つめの出血毒だけは、“もし、麻痺毒と神経毒で少女が生き残ったときに、万が一火鬼猿が川に落ちた少女を助けても、確実に助からない”ようにと嫌らしくも絶妙な毒加減で後から仕込まれたものである。
本来ならば、麻痺毒と神経毒が体に入った時点で、リネッタは死んでいただろう。リネッタに打ち込まれたのは巨大な魔獣をも弱らせる毒であり、解体屋が最後の毒を入れなくとも、子どもの命を刈り取るには充分な劇薬だったのだ。
しかし、リネッタが息すらしていないもののかろうじて生きているのは、解体屋の毒が刻印を使ったものだからに他ならなかった。
リネッタを救ったもの。
それは、もともとリネッタの体に備わっていた、魔法抵抗である。
解体屋の毒は、解体屋の思い通りの性質を持たせることができる特別な毒だ。強さはもちろん、使用前ならば一度決めた毒の種類や強さを後から変更することさえも可能である。
しかし、変質しやすい解体屋の毒は、物体としてどちらかと言えば不安定だった。
それはつまり、魔素に近いということだ。そして、魔法陣にしろ魔法にしろ、発動した効果が魔素に近しいほど、魔法抵抗で防ぎやすくなる。
そうしてリネッタは、矢の毒を体に受けた際、持ち前の魔法抵抗の高さで毒に抵抗したのだった。
もしこれが魔法陣を使わずに生成された純粋な毒物だったならば、リネッタは確実に助かっていなかっただろう。
シルビアは体の自由が戻るとすぐに周囲の水を無理やり操って、自らの身体を川岸へと移動させた。水が逆巻き、川の流れを無視して真横に流れてリネッタの体を岸へと押し上げる。
「がはっごほっ……ぐ……はぁ、はぁ。」
水を吐きたいだけ吐き、シルビアは体がしっかり息を吹き返したのを確認する。
それからシルビアは何のためらいもなく体を貫通した矢を握りしめ、一気に引き抜いた。
最初に腹の矢を。そして、足を貫通していた矢も。矢じりの返しのせいでボロボロになった傷口からはどくどくと血が流れ落ちたが、それも治癒の魔法ですぐに塞ぐ。
しかし、シルビアが出来ることにもそのあたりで限界が来つつあった。
美しい金色に輝いていたシルビアの毛色が、魔素の消費とともに色褪せ、輝きを失っていく。
リネッタの豊富な魔素は、解体屋の毒に抵抗した時に半分ほどが消し飛んでいた。
そして出血したまま川を流されたことで、魔素を溜めておく役目をしている血を致死量に近いほど失ってしまった。
浄化の魔法を使った時点で、リネッタの魔素はすでにすっからかんになってしまっていたのだ。
シルビアは危険だと知っていたが、リネッタの体を構成する魔素を消費して無理やり周囲の水に干渉し、川の流れを変えていた。
それは、魔法と呼ぶのさえ烏滸がましいような、原始的な力だった。
自らを構成する魔素を消費したことで、リネッタの体は若干不安定な状態になっていた。
毛色は元の焦げ茶色へと戻り始め、魔素を宿した輝く瞳すら、淡く濁った色へと変色しはじめている。
しかしそこに、あいつが現れた。
魔獣とリネッタの死体を探しに川岸を下ってきた、解体屋である。
シルビアは今すぐにでも飛びかかって喉元に食らいついてやりたい気持ちをぐっと押さえる。
今、見つかってしまえば、確実に殺される。シルビアでもそれくらいの分別は、つく。
霞む意識をなんとか気力で奮い立たせて、シルビアは解体屋に見つかるまいと、魔法を使った。
それは、シルビアが最初に覚えた魔法で――――
解体屋がゆっくりとした足取りでシルビアの隣を通り過ぎ、もう戻ってこないと確信して魔法を解除したときには、リネッタの体を構成していた魔素は完全に不安定な状態になってしまっていた。
リネッタの指の先が少し透け始め、ずっと感じていた体の重みが薄れつつあった。
これ以上体の魔素を失えば、リネッタそのものが消滅するだろう。体の魔素を消費するということは、そういうことだ。
しかし、それでも解体屋に見つかるよりはいいと、もうまともに動かない頭で、シルビアは考えていた。
この世界は、空気中の魔素が濃い。この豊富な魔素の中ならば、寝ていれば、体の魔素は自然と、少しずつでも回復していくはずだ。
正直なところ、水が苦手なシルビアは未だに下半身が川に浸かったままなのが気になったが、リネッタの体はもうこれっぽっちも動いてくれそうにはなかった。
今は、休まなければならない。
そして、次に目覚めた時、適当にそこら辺の獣でも捕まえて腹を膨らませてから、これからのことを考えよう。
そうしていつか、絶対にあの紫の髪の男に仕返しをしてやるのだ。
そう心に誓いつつ、シルビアは静かに意識を手放した。
それからまる1日川べりで大気中の魔素を補充したリネッタの体は、なんとか透けていない状態までは回復していた。
しかし意識はまだ戻っていなかった。
トーラムとサーディスがシルビアを見つけたのは、そんな時だった。
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