火鬼猿と解体屋
前に進む。
ひたすら前に進む。
幹を蹴って枝から枝へ、時には地面を這うように。
クソ野郎どもめ。
あの腹の立つ、にやけたしたり顔を思い浮かべ毒づく。
それと同時に、自分の愚かさにも毒を吐きたい気分だった。
ずっと追ってくる統率された獣のような殺気。
こんな森の中でも平気で追いかけてくるのだから、雇われの獣人の傭兵だろう。
鳴り物入りでこの国にやってきたらしいどっかのアホ聖国のアホ騎士は、安全な場所でふんぞり返って報告を待っているに違いない。
まあ、その殺気もじわじわと距離が空きはじめているので、こうやって森の中を進んでいれば傭兵どもはそのうち俺を見失うはずだ。
確か、この先には川があった。
霊獣化した獣人どもの感覚の鋭さは厄介だが、それでも限度はあるし、体力が無尽蔵なわけでもない。
川を越えれば獣人も諦めるだろう。獣人が追えないとなれば、能無し騎士どもも諦める。
とりあえず今は逃げることに専念する。
あのクソ野郎どもに仕返しするのは、いつでもいい。
そう、例え年単位で時間が開こうとも、遅くはない。
奴も自分も、寿命など無いに等しい魔人なのだから。
クソが。
いつもなら、隠匿の刻印でらくらくスルーしているはずの、敵。
覚えてろよ。
胸糞悪い顔をもう一つ思い出してさらに毒を吐く。
と、急に視界が開けた。
河原へ出たようだ。
あたりを見渡すとそこには――先客がいた。
しかも、子供。
まずい。
慌てて刻印を解除する。
こんな所で悲鳴を上げられるわけにはいかないのだ。
殺してもいいが、今はできるだけ痕跡を残したくなかった。
折角逃げ切れるところだというのに、さて、どうするか。
俺が一瞬迷うと、子供が何かに気づいたようにこちらを向いた。
白いワンピースを着ただけの、獣人の少女。
金髪に、焦げ茶の猫耳と細長い尾。混色か。
……、……ん?
互いが互いの姿を確認し、お互いに首を傾げる。
どこかで会った気が――いや、今はそれどころじゃない。
――攫う。
そう決め、一瞬で距離を詰めようとして――少女が不意に口を開いた。
「あ、肉の貴族。」
可愛らしくも、よく通る、高い声。
……。
………?
肉の貴族?
言葉の意味が分からず、思わず思考が停止し、そのぶん行動が遅れる。
その間にも少女は言葉を続けた。
「あ、えと……。」
少女は一瞬困った顔をして、それからバツの悪そうな顔をした。
「あの時、名前、教えてくれなかったでしょう。えっと、屋台通りで、肉串をいただいた、孤児院の……えと、頂いたお肉はあのあと孤児院の皆で食べました。ありがとうございました。」
ぺこりと頭を下げてそう締めくくる。
孤児院?肉?
――可愛らしい少女でしたなあ。
ふいに、ジジイのふやけたような笑顔が浮かび、そうして思い出した。ああ、あの時の孤児か、と。
「お前、何でこんなとこにいンだ?」
「人を探しています。この辺りにいるって聞いたので。」
「こんな森の奥にゃ獣しかいねェだろ。」
「いるらしいんです。たぶん。それで、ちょっとでもいいので、話ができたらいいんですけど。」
「そうか。」
この辺りに、小さな集落でもあるのだろうか、と、この辺りの地形を思い浮かべる。
この森で魔人を討伐しようなんて考える以上、無いとは思うのだが……。
しかし、どうしたものか。
この少女は俺が魔人だと知れば、あとから来るだろう傭兵どもに俺がここで川を渡ったことを言うだろう。やはり攫うしかない。
うまくジジイと合流できれば、引き渡してもいい。機嫌取りくらいにはなるだろう。
そんなことを考えていた矢先、ふいに己の体が動いた。
反射的に掴んだのは、目の前を横切ろうとした、矢だった。
風切り音が後から聞こえた気がしたが、さすがにそれは気のせいだろう。
……追いつかれたか。
一瞬で事を理解し、俺は少女をその場に放置して逃げようと川向こうへと視線を向け――視線の端で、少女が体に矢を受けて川に落ちていくのを、見た。
「なっ……」
訳が分からず反射的に少女のほうへと駆けようとして――、やめる。
ねっとりとした気配が、体にまとわりつく感覚。
「本当に貴方は、自分以外への殺気には疎いですねえ?」
「……。」
うざったい気配を放ちながら森から現れたのは、鬱蒼とした森の中だと言うのに薄い紺色のシャツに黒いパンツ姿という、ひょろい男だった。
ウェーブかかった暗い紫色の髪は肩口で切り揃えられ、前髪はいつ見ても腹立たしくなるタレ目を半ばまでかくしている。口元はいつものように口角が上がり、だらしない笑顔を浮かべていた。
手には、闇を纏う弓を構えもせずに持っている。
「解体屋……。」
こいつは、俺と同じ魔人だ。
刻印は毒。弓にまとわりついている闇がそれだ。
その毒でじわじわなぶるのがこいつの枷であり、解体屋という通り名の由来でもある。
今コイツは、なぜかクソ聖王国の魔人討伐騎士団と行動を共にしている。
さすがの俺も、まさか魔人が魔人討伐騎士団と手を組むとは思わなかった。じじいもそうだ。そうしてまんまと一杯食わされ、俺は今、逃げているのだ。
――だが、こいつは俺を追っていなかったはず。
俺と戦えば、嫌でも自分が魔人だとばらしてしまうことになるのだから。
「なぜここにいる。」
「ふ、ふふふ、いえね、偶然なんですよ?貴方は見ませんでしたか?大きな魔獣がこの辺りに降りていくところを。私はてっきり、貴方もその魔獣を目撃してここに着いたのかと思ったのですがね?まあ、そうして来てみれば、居たのは貴方と、幼い子供一人でしたがね?」
「お前は、人側に付いたんじゃなかったのか?」
「ええ、そうですよ?今、私は人側にいます。というか私は人ですが?なんですか、私を人じゃないみたくに言わないで下さいよ。ふふ。」
イラっとしたが、それはまあいつものことだ。
「なんで俺じゃなく子供を狙った?」
「……はーあー?」
解体屋は眉を歪め、大げさに首を傾げた。
「人側のお前が、なぜ子供を殺した?」
「……はあああ?どうしたんですか?貴方、ご自分の立場はご存じでえ?泣く子も笑いながら殴り殺す、火鬼猿様ですよー?」
ぱっと呆れたような顔になったかと思えば、すぐににやけ顔に戻し、「ああ、それとも。」と続ける。
「まさか、隠匿の大層なご趣味に貴方も毒されてしまったとか?ふふふふふ、まあ、いいんですけどね?あの趣味と私の趣味は、通ずるところがありますから。」
「ああそうかよ、どっちも気色悪いけどな。ただな。あの傷じゃ、俺が殺したことには出来ねえンじゃねえかと思ってよ。」
言いながら、刻印を発動する。まあ、時間稼ぎくらいにはなったか。
「おや、もうそんなに時間が経ってしまったのですね。」
残念そうに、しかしどこか面白げに、解体屋が言った。
一度解除した刻印は、短いながらも一定時間が経たなければ発動することはできない。
解体屋が現れた時はやばいかと思ったが、どうやらここで戦うつもりはないようだった。
しかし、獣人どもの気配がもうそこまで来ている。これ以上の長居は無用だ。
「ふふふ、それにしても、貴方が。虐殺の火鬼猿と呼ばれた貴方が。血まみれの魔人と呼ばれた貴方が。ふふ、ふ、ふくくくく……。子供一人に、心を痛めるなんて。ちょっとしたサプライズのつもりだったのに、むしろ私が驚かされてしまいましたねえ。」
「痛める心なんて持ち合わせてねーけどな。ケッ。」
俺は解体屋に背を向けた。
解体屋の毒は脅威だが、当たらなければどうということはない。そして、奴の隠しきれない気色の悪い殺気のまとわりついた矢を、俺は今まで一度も体に受けたことはない。
解体屋もそれをわかっているのか俺の背を狙うことはなかった。
点々とある岩を飛び移りながら難なく反対側へと渡り、何の気なしに振り返ると、すでに解体屋の姿はなかった。代わりに、獣人の気配がさらに近づきつつあった。
解体屋はなぜここに来たのだろうか……本当に、魔獣でもいたのだろうか?いや、まさか。ここは確かに深い森だが、それでも主都近郊なのだ。魔獣がいればすぐに討伐隊が組まれ、あっという間に狩られるだろう。
疑問符を浮かべつつ、俺は隣の小国に続く森へと飛び込んだ。




