ブライダル闘技場編
===another view
Gライブラリの作った仮想空間がかき消すように消えた。
ワイヤーフレームだけのシンプルな箱状の情報空間が露わになる。
どう、と。
その床に銀河が仰向けに倒れた。
「銀河さん!」「銀兄っ!」
メシエと鈴が叫ぶ。銀河がぴくりとも動かない。
「シュシュシュ。無駄だ。こやつの情報核は破壊した。肉体は現実世界で無事だろうが、もはや精神を失った木偶人形よ」
耳障りなワールの言葉にメシエが顔をあげ、きっ、とにらむ。
「皇女にソル星系まで逃げられたのは計算外だったが、これはむしろ奇貨。皇女と共に始祖の船、そして地球までもが手に入るとはな」
「下がりなさい、下郎」
メシエは一喝した。
おどおどした小動物めいたところが影を潜め、古き血筋の皇家の主としての顔となっている。
「シュシュ。下郎とは、言うものだな。私はお前の夫となる身だぞ」
「戯れ言を!」
「シュシュシュシュ」
ワールは舌を前後にひょこひょこ動かして擦過音を鳴らした。ワールの笑い声だ。
「気が強いのも良い。調教のしがいがある」
メシエは怒りで顔を真っ赤にし、そして同時に、気付く。
「……何者です、お前は」
「何を今さら。私はワールの長、シャッコウ大竜長だ」
「お前についているタグは違っているようですが?」
「何?」
ワールは自分の身体を確認し、そしてシャッと鋭く舌を鳴らした。
仮想空間が消えた時に、ワールについていたタグも消えている。
「引っ掛けたか、小娘が」
「奇妙だと思ったのです。ワールが反乱“できる”はずがない。皇国の兵権を預けているのです。ワールが反乱“できない”ように、始祖様は手を打ってあります」
「始祖の船で調べたか。忌々しきは、あの船よ」
シャッ。ワールの舌が低い擦過音を出す。
メシエはポシェットに手を入れ、リモコンを操作した。自分と銀河をログアウトさせる緊急離脱ボタンを押す。反応はない。
「シュシュシュ。無駄だ。この情報空間はロックしてある。Gライブラリにアクセスしたのは失敗だったな」
「Gライブラリに対してここまでアクセス権を行使できるのは、超越体のみ。やはり、お前はワールではありませんね。正体を明かしなさい!」
「シュシュシュシュ、いいだろう、だがそれはお前の精神核を我がものとしてからだ!」
ワールが左の掌を持ち上げた。
――始祖様! 力を!
メシエは右腕の腕輪に願いを込めた。情報空間の中でも、この腕輪の力なら届くはず。
「鎧装!」
白い光が、メシエの身体を覆う。同時に、ワールの右の掌から圧縮情報の礫が放たれる。
ぱしんっ。
圧縮情報は白い光に触れるや、淡雪のように溶けた。
「シッ。まるで歯が立たぬか。だが――」
ワールはメシエを見た。
光が消え、メシエの身体を白いドレスが覆う。ふわりと丸く広がったスカートを持つ、可憐な装いだ。
Gライブラリの情報空間であるから、鎧装に物理的な防御力はない。しかし、圧倒的な情報密度を持っており、生半可な情報体では侵食はおろか、触れることもできない。
ゆらり。一瞬だけ剣のようなものがメシエの腰に出現し、陽炎のように揺れて、消えた。
「シュシュシュ。やはり完全体ではないな。ケースⅡか。これならば、恐れることはない」
ワールの左の掌からチリチリと細い稲光が情報空間を構成するワイヤーフレームに伸び、空間構成情報を書き換えていく。
床が白い砂を敷き詰めたグラウンドに。
周囲の壁が弧を描いて円形に。
天井がドームに。
「これは?」
「シュシュ。ここは闘技場よ。そして結婚式場でもある。メシエ皇女よ、ここでそなたのドレスをはぎ取って敗北と隷従の悦びを教えてやり、しかる後に我が妻としてふさわしい存在に情報核を書き換えてやろう」
シュシュシュシュ。
興奮して舌を激しく出し入れするワールに、メシエがわずかに怯む。育ちの良い彼女は、ぶつけられる敵意には自らも戦意をかき立てて対抗できる。だが、むき出しの強い欲望をぶつけられると、戦意よりも先に嫌悪とひるみが出てしまう。
「この変態トカゲっ!」
ワールから見てメシエの斜め後ろ。低い位置から罵声が飛んだ。
意表を突かれた様子で舌を引っ込めたワールが地面に倒れたままの銀河を、そしてその傍らに立つ鈴を見た。
「マスコット・ドロイドかと思えば……なんだ、貴様は」
「地球人の鈴谷鈴よ! さっきから聞いてれば、女の子に失礼なことばかり、べらべらべらべら! あんた、うちの学校の男子より、下品よ!」
「シッ。下等生物が」
不快げにワールは舌を鳴らした。右の掌を、鈴に向ける。
「死ね」
「いけません!」
メシエが間に割り込んだ。腕に小さな丸い盾が浮かぶ。
ワールが放った情報体が盾の表面で弾かれる。
「メシエ皇女よ。お前の相手はコレでしよう」
闘技場のグラウンドが開き、下から檻がせり出した。
檻の中から出てきたのは、巨大な黒い獣だ。外見は猫科に似ている。
「レフ・クァールよ。オリジナルである完全生命体ではないが、情報闘技体にはうってつけでな」
レフ・クァールは無言で跳躍し、メシエに飛びかかった。
肩に盛り上がったコイル状の物体から放射された電撃がメシエを撃つ。
「くっ」
メシエが盾を掲げた。メシエと鈴の周囲を、半球状の不可視の障壁が覆う。電撃はその表面を流れ落ち、グラウンドに黒い円形の焼けた線を残した。
その間にさらに接近したレフ・クァールの鋭い爪が、メシエを袈裟懸けに薙ぐ。
この一撃で損傷を受けたのはメシエではなく、黒い獣の方だ。白いドレスに触れた爪が、煙をあげて蒸発する。
「あうっ」
しかし、顔を歪めて苦悶の声をあげたのはメシエの方だった。
肉体――情報体には傷ひとつない。しかし、メシエは目を大きく見開いて何かを探るように周囲を見回した。
「探しても無駄だ。その恐怖はお前の内面から来ている」
「何を……したのです……」
「レフ・クァールの爪は恐怖のイメージを相手に引き起こす。情報核を侵食はしないが、大事に育てられた姫君にはつらいだろう? シュシュシュシュ」
「卑怯な……ここが闘技場というなら、あなたが戦いなさい……」
気丈に耐えるメシエの唇が、わずかに震えている。
それは、ワールにこの上もない愉悦を与えた。
「シュシュシュシュ! 戦うとも。その厄介なドレスがすべてはぎ取られた後にな!」
レフ・クァールは闘技場のグラウンドから吸い上げた情報量で爪を再生させ、再びメシエに襲いかかる。
「ああっ!」
何度繰り返しても、攻撃は通らない。しかし、恐怖のイメージはメシエの心を確実に蝕んでいく。
――私は、何をしているんだろう?
形のない恐怖であるからこそ、それはメシエを自省へと誘う。
――父上も、兄上もいなくなった。私ひとりで、頑張っても……
家族も、友達も、故郷も失った。
自分にしかできない、そう言い聞かせて、寂しくて悲しい気持ちを抑えてきた。
その結果はどうだ?
たったひとり、敵の罠にかかって、こんな所で戦わされ、辱めを受けようとしている。
悔しさと寂しさで、涙がにじんだ。
メシエの心が折れそうになった、その時。
「メシエさん! しっかり!」
鈴の声が、メシエの心に届いた。
「目を開いて! 相手を見て! あの獣、どんどん動きが雑になってる!」
鈴の忠告に、はっ、となってレフ・クァールを見る。
鈴の言う通りだった。メシエが反撃をしないことをいいことに、レフ・クァールは最初のように電撃で目くらましをすることなく、直線的に近づいてメシエを爪で攻撃しては後ろに下がっていた。
メシエは鈴に感謝した。昨日の夜、布団を借りて同じ部屋で眠った時、あれこれとお互いについて話をした。
――すごく、楽しかった。
地球とネロス。これまで何の縁もなく生きてきた。無関係な相手であったからこそ、布団の中でおしゃべりをしながら、久しぶりに女の子としての自分に戻れた気がした。
メシエは鎧装の装備にアクセスする。
戦闘用の装備はすべて使用不能のまま。しかし、移動に関する装備は使えた。
鎧装は内部の空間を畳むことで、実際には宇宙戦艦並の兵装や装甲を有している。その荷重を背負って自由に動けるよう、機動力のための装備の出力もまた、宇宙戦艦並である。
それが使えるのだ。諦めるにはまだ早い。
「やって――みる!」
チャンスは一度だけ。
そしてそのタイミングはすぐに来た。
レフ・クァールが飛びかかろうと、ぐっ、背中を曲げる。
「今っ!」
使用する装備は瞬間転移。黒い獣のすぐそばに、白いドレスのメシエが出現する。
レフ・クァールの目が丸く広がる。
「ブースト、オン!」
ドレスの下、足首に据え付けられたブースターが唸りをあげる。
ぶわっ、とスカートが広がる。メシエの白い足が太ももまで露わになる。
「いけっ!」
ブースターで加速されたメシエの足が、黒い獣の頭部に激突した。
レフ・クァールの巨体が、宙に蹴り飛ばされる。
メシエの足下のグラウンドが、反動でひび割れる。
レフ・クァールはそのまま闘技場の天井に激突し、情報核を失って消えた。
ばしゅうう。
運動量を熱の形で吸収した慣性駆動システムが、スカートを膨らませながら、足下に余熱を放出する。
「シシッ。姑息な手を」
ワールが、不快そうに舌を鳴らす。
「姑息なのはどっちですか」
身構えながら、メシエは考える。
――この男、どこかおかしい。
クーデターを成功させ、メシエを情報空間の牢獄に閉じ込めておきながら、闘技場で宇宙生物にメシエを襲わせるなど、力の使い方がひどく稚拙で、アンバランスだ。
――その点では、私もあまり誉められたものではありませんが。始祖の船に、皇家の腕輪。この二つがあっても、使いこなせないでこうしてバタバタしているわけですし。
ちらりと、後ろを見る。
倒れた銀河に寄り添う、デフォルメされた鈴の姿。
――銀河さんは手遅れかもしれませんが、鈴さんだけでも……鈴さんだけ?
何かがメシエの中で引っかかった。
そして、それが意識を散漫にさせた。
「シシシシッ!」
メシエの隙をついてワールが飛びかかってきた。
「っ!!」
反射的に足首のブースターを噴射させ、メシエが飛び退く。
「あっ?」
飛び退きながら、メシエが気付く。ワールの動きがフェイントであることに。
ワールはメシエでなく、メシエの後ろにいた鈴と銀河に向かっていた。メシエは自分から飛び退くことで、ワールの進路を空けてしまったのである。
「いけない!」
空中で再びブースターを点火。慣性駆動システムでベクトルを吸収。強引に進路をねじ曲げてワールの前方に割って入ろうとする。
そしてここまでの全てが、ワールの計算のうちだった。
「シュシュシュ! 戦馴れしていない小娘はたやすいなっ!」
「ブースト・オン!」
着地したメシエがレフ・クァールを倒したブースト・キックを繰り出す。
しかし、連続した無駄な動きで、鎧装の機動力は低下していた。足首のブースターから噴射する光が弱々しい。
「無駄だっ!」
そして何より、ブースト・キックの軌跡は読まれていた。ワールは自分の長い尻尾をグラウンドにたたき付け、反動で体を斜めに倒す。メシエのキックが空振りする。
「シュシュシュシュッ! 倒れろっ!」
ワールの左腕の掌から圧縮情報の礫が、メシエに放たれる。鎧装が自動生成した盾が、礫を弾く。メシエがわずかによろめいた。
ワールの右腕の籠手がハンマーとなって鎧装の上からメシエを殴る。メシエが膝をつく。
ワールの尻尾が、鞭のようにしなってメシエの足に巻き付き、引きずり倒す。
「ああっ?!」
シャッ!ワールが舌を鳴らした。倒れたメシエにのしかかり、マウントポジションから連続して左右の拳をたたき付ける。
右。左。右。左。右。左。右。左。
「シャッ!シッ!シャッ!シッ!シャッ!シッ!」
「うっ、あっ、あっ、ああっ」
猛烈なラッシュ。メシエが生身のままなら、とうに挽肉になっている。鎧装を展開しているからこそ、無傷でいられる。
しかし、終わりのない連撃に、その鎧装が解けはじめる。ドレスの切れ端が空中に散って消え、メシエの肌が露出していく。
「メシエさん! このっ!やめなさいよ、変態トカゲっ!」
鈴が叫ぶ。少しでも相手の注意をそらそうと。
けれどワールはその罵倒が聞こえていないかのように、ひたすらメシエを殴り続ける。
油断はなく、慈悲もない。
メシエがまとう鎧装は、ネロス皇家が五万年にわたって受け継いできた逸品だ。これを完全に無力化するまで、ワールは間断なく攻撃を続けるつもりだった。その過程でやり過ぎてメシエの情報核が破壊されて精神的死を迎えても、それはそれ、と考えている。
優先順位がこのようにきちんと決まっているから、鈴の罵声は、雑音として処理する。
この時、ワールは彼の手持ちの情報において正しい判断をした。
このまま事態が推移すれば、メシエは鎧装を失って無力化され、ワールのなすがままとなったはずだ。
ワールが間違っていたとすれば、ただ一つ。
それは、彼の最初の一撃で、メシエのそばにいた地球人が精神的死を迎えている、という状況判断であった。
===another view end
さて――
この俺こと、一星銀河は情報空間内で何が起きているのか、すべて認識していた。
問題は、認識と理解が、行動につながらないことだ。
俺の現状は、たとえるならば幽体離脱した幽霊のようなものだ。
肉体――といっても、情報空間内の肉体だが、これを動かすことはできない。グラウンドに間抜け顔で横たわっているのは、もはや俺とは関係のないリンク切れのオブジェクトだ。なのに俺が情報空間内で自我を保てている理由は不明だったが、推測はできた。
昨夜、アパートの戦いの中で俺が吸い込んだ、霧のようなナノマテリアルという物質が原因だろう。Gライブラリによると、ナノマシンの素となるナノマテリアルには幾つかのバージョンがあり、俺の体内にあるものはプレーンな状態で体内に入っているだけでも、肉体を強化し、破損箇所を修復してくれるらしい。トカゲ野郎の攻撃を受けた際、俺の脳みそが焼け切れるのをこいつが防いでくれたというわけだ。
ナノマテリアルは、レオという、ポンコツな戦闘ドロイドが俺にくれたプレゼントだ。レオは、そしてレオを送り込んだ何者かは、この状況における第三のプレイヤーだ。
第一のプレイヤーは、俺を殺そうとし、今もメシエを殴り続けている、胸くそ悪いトカゲ野郎だ。こいつが動いたことで、このゲームは始まっている。こいつは絶対に殺す。
第二のプレイヤーは、メシエだ。彼女は第一のプレイヤーであるトカゲ野郎の反乱によって、プレイヤーとしてゲームの盤上に引き上げられた。もし父か兄が生きていれば、彼らがメシエの立場にあっただろう。
そして、第三のプレイヤー。わざとポンコツな戦闘ドロイドを通して俺に――メシエではなく、俺に――ナノマテリアルを届けたプレイヤーは、未来人だ。未来人であることを隠す気はないようだが、俺に詳細な未来情報をくれる様子もない。
理由は想像がつく。
自分たちのいる未来を、守るためだ。俺が未来情報を知って行動することで、歴史が大きく変わることを、この第三のプレイヤーは恐れているのだろう。
おかげで、第三のプレイヤーが俺を助ける気なのか、利用するだけなのかも不明なままだ。俺の体は、ナノマテリアルの一時保管所で、誰か――たとえば、メシエが危機になった時に彼女を救うために使うのが、未来人の決めた俺の役割かもしれない。
少なくとも、情報空間内ではナノマテリアルは使えない、ということだけはGライブラリにアクセスして分かった。ナノマテリアルは俺の生身の方の体の中にある。
もちろん、俺とてメシエが戦っている間、ぼんやりとそんなことだけ考えて過ごしていたのではない。
俺がまず試みたのはGライブラリへアクセスし、情報空間の制御を奪うか、メシエと俺と鈴をログアウトさせて逃げることだった。
Gライブラリそのものは、実に単純で操作は簡単だった。知性化テストの記録を見ても、宇宙連邦の一般的な知的レベルの基準は、ずいぶんと低い。そしてGライブラリは一般的な宇宙連邦の構成員でも使えるようになっている。
しかし、操作が簡単でも、権限がなければ何もできないのはGライブラリも地球のコンピュータも変わらない。
俺たちが閉じ込められた情報空間へのアクセス権限は、トカゲ野郎が握っており、俺とメシエが、勝手にログアウトできないようになっていた。
――俺と、メシエ?
俺は情報空間の設定をもう一度、確認した。ユーザとして登録されているのは俺とメシエの二人だけ。鈴の名はない。
考えてみれば、鈴は俺のおまけのような形でここに来たわけだし、情報体もぬいぐるみみたいなものだ。
――使える、かもしれない。
俺はトカゲ野郎にぎゃんぎゃん吠えている鈴に近づいた。
近づいたといっても、俺の自我は霧のように情報空間に広がっているので、それを集約させた感じである。
『鈴、聞こえるか、鈴』
「え?」
鈴がグラウンドに横たわったままの俺の抜け殻を見た。
「銀兄、無事だったの?」
『何とかな。だが、肉体は動かせない。だからお前にやってもらいたいことがある』
「やってもらいたいこと?」
俺は鈴に『やってもらいたいこと』を説明した。
そして、待つことしばし――
俺とメシエは、小さなワイヤーフレームの情報空間の中にいた。
「なるほど、こうなるのか」
「え? え?」
トカゲ野郎の連打に耐え、ぎゅっと身を縮こまらせていたメシエが、きょろきょろと周囲を見回す。そして、俺に気が付いてぱっと、顔を輝かせる。
「銀河さん! やっぱり無事だったんですね!」
「気付いていたのか」
「はい。鈴さんが無事でしたから。それなら銀河さんは生きていると信じていました。……おお、始祖よ、感謝します」
目に涙を浮かべ、メシエは俺の無事を喜んだ。まだ会って一日と経っていない、住んでいる星も違う、この俺を。
あまり時間がないことは、分かっていた。
まだ俺とメシエは、肉体は鈴の部屋に、そして精神はトカゲ野郎の作った情報空間に閉じ込められている。ここは、その中に作った急ごしらえの小部屋だ。すぐに解析され、上位権限で破壊されるだろう。
つまるところ、一時的な避難所である。三匹の子豚でいうと、藁の小屋だ。しかも、これを作ったことで俺の存在はトカゲ野郎にバレてしまった。今度は確実に殺しにかかってくるだろう。
次の手を打たなくてはいけない。遅滞なく。即座にだ。
それでも俺は抑えきれない衝動にかられ、メシエを抱きしめていた。
「あ――」
「結婚しよう、メシエ」
今はそんなことを言っている場合ではない。動物的本能に身を委ねている場合ではないのだと、俺の中のフロイト先生が超自我のハンマーを振りかざして激怒する。
そもそも、メシエが俺に望んでいるのは、愛とか恋とかエッチとかの、精神的・肉体的に結ばれた結婚ではない。地球の代官という身分を俺に与えることが目的の、宇宙連邦の法をかいくぐるための結婚である。
出会ったばかりの、しかも別の星の男にいきなり抱きしめられたメシエが気持ち悪いとか、生理的にこれはないとか、こんな勘違いをするから精神的に幼稚な男は結婚できないのだとか、そういうダメだしをしてくるリスクだってあった。
あるいは、公衆の前でのプロポーズのように、断りにくい環境で告白されても、それは脅迫の一種でしかない。やめてよね、こういうの、みたいに後で蔑まされる可能性の高い、危険な行為でもあった。
メシエが俺のことを知らないように、俺もまたメシエを知らない。俺のこの行動が、メシエにどんな印象を与えるのか、それが俺とメシエの今後の関係にプラスにせよマイナスにせよ、どう働くのか、Gライブラリにアクセスしても計算できはしない。
というか、俺とメシエに今後の関係というものがあるかどうかも、怪しかった。次の瞬間には、トカゲ野郎が俺とメシエの精神核をぶち壊してふたり揃って精神的死を迎えることだって考えられた。
つまるところ、俺のこのプロポーズは後先を考えない、現時点ではリスクばかり大きくて意味のない、やる理由が欠片も存在しない、つまり、昨日までの論理的な俺であれば、決してやらないことであった。
ようするに――
ようするに、だ。
それだから、昨日までの俺は結婚できないでいたのだ。
「はい」
メシエが、ぎゅっと俺の背中に手を回して言った。
「結婚を、お受けします」
むにいい。
メシエの大きなおっぱいが、しかもドレスがボロボロになってかなり際どいことになっているおっぱいが、俺に押しつけられた。
ここがどこで、今がどういう状況なのか、忘れてしまいそうな気分になった。今こそ、俺の中のフロイト先生の超自我ハンマーの出番だが、おっぱいの感触が脳髄に染み渡るや否や、フロイト先生は消えてしまった。
俺の超自我、弱いな。
胸が、いや、背中が熱くなった。
――なぜ背中?
『結婚の誓約を確認し、承認した』
背中側から声が聞こえた。深い、静かな女性の声。
『宇宙連邦から我が受けた権限で地球人、一星銀河をメシエ・N・ジェネラルの伴侶としてネロス皇家に迎え入れ、保護と権利、そして義務を与える』
「この声は……」
メシエが顔を上げて周囲を見回す。そして何かに気付いて、俺から離れて――さらば、おっぱい――自分の腕輪に呼びかけた。
「始祖様! 始祖様なのですか?」
『部分的に肯定。この皇主の腕輪は、着用したメシエ皇家の自我を取り込み、合成する』
「そうですか……それで、始祖様。お願いがあります」
『現状は認識している。一星銀河に我を委譲せよ』
「はい!」
メシエは嬉しそうにうなずき、俺の右腕を握った。
「銀河様、さあ、手を!」
「お、おう」
メシエに促されるまま、俺は右腕をメシエの右腕とくっつけた。
腕輪が眩い光を放ち、俺は目を閉じた。
『一星銀河よ。これより汝を暫定的に皇主の腕輪の主とする』
頭の中に、腕輪の声が聞こえる。
「未開惑星の原始人だが、いいのか?」
『今は非常時だ。韜晦するでない。時間が惜しい』
「すまん」
『だが、諧謔は知性でもある。その精神のありようを忘れるなかれ』
「ありがとう。正直、びびってるんで助かる」
『かまわぬ。さて、メシエが我を委譲させたのは、これから、おぬしにあのワール、いや超越体と戦ってもらうためだ』
「メシエでは力を発揮できないのか? 正当な保有者なのだろう?」
そう聞くと、声の調子が、わずかに変わった。
『メシエは始祖の船のマスターとなった。腕輪の主と兼任はできぬ。これは安全措置である』
どことなく抑揚のない、録音した声を再生した感じ。
「分かった。で、俺も鎧を着ることになるのか? まさか、メシエみたくドレスじゃあるまいな」
『鎧だ。今のそなたなら、ケースⅡ……ケースⅢの鎧装が可能であろう』
「今、自動翻訳で頭の中にケースⅡ=コモンとケースⅢ=アンコモンって流れてきたぞ」
ゲームのレアリティは宇宙連邦にもあるのか、と疑問が生じる。
『自動翻訳は、その人間の脳内からニュアンスの一番近い言葉を引っ張ってくる。感性で把握するのには向いているが、あくまで本人の語彙に依存する』
つまり、現代日本で暮らす俺がゲームでレアリティの概念を知っているから、自動翻訳が関連する言葉を引っ張ってきたということか。
「俺の語彙が増えれば、正確さが増すということか。で、ケースⅢであのトカゲに勝てるのか?」
『勝つ必要はない。我がこの情報空間のアクセス権を奪い、お前とメシエをログアウトする時間を稼げばよいのだ』
「そいつは、ありがたいな」
俺は本心から言った。肉体的にも経歴的にもごくごく一般的な日本人である俺は、喧嘩が強い方ではないし、格闘戦も射撃戦も、そもそも戦いのやり方を知らない。
時間を稼げば後は腕輪がやってくれる、というのでほっとしている一面もある。
けれど――
「ダメだ。あのトカゲはここで殺すぞ」
『なんだと? それは不可能だ。超越体を殺すことはできない』
「超越体ってのがトカゲを操ってるわけか。そいつはあんたのことは知ってるんだよな?」
『もちろんだ。我らは不倶戴天の敵だ。この五万年に幾度も戦っている』
「あんたが今、何をしようとしているか、超越体は理解していると思うか?」
『確実に』
「超越体は、地球の転移座標を知っているな?」
『……知っている』
やはり、と俺は思った。
腕輪の主にとっては、地球など未開人の住む惑星のひとつに過ぎないだろうが、俺にとっては大事な故郷である。ブラックホール爆弾を落とされるわけにはいかない。
「ならば、殺すのは決定事項だ。あんたには、そのための手を考えて欲しい」
『……了解した。我はお前の積極性と戦意に対して驚きもし、感心もしている。これは滅多にないことだぞ』
笑みを含んだ、面白がっている感情の流れが、腕輪から俺に伝わってきた。
『しかし、そうなれば、お前の肉体と精神に負担をかけることになる。危険があるぞ』
「現実世界の俺の体内には、ナノマテリアルが入ってる」
俺は自分の推測も含めて昨夜からの出来事を腕輪に説明した。
『我が休眠状態の間に、そのようなことがあったのか。よかろう。ケースⅤで鎧装する』
脳内に流れる、ケースⅤ=スーパーレアのイメージ。これ、俺が江戸時代の人間だったら、相撲の番付で大関のイメージだったのだろうかと考えてしまう。
『ケースⅤともなれば、かなりの負担がかかるが、ナノマテリアルの量から推測して、肉体を無から復元することも可能だ』
「肉体はともかく、俺の精神はどうするんだ」
『我がサポートしよう。人格や記憶が一部抜けるかもしれないが、それは我の中にある歴代皇主から補填する』
「ありがたいことで」
皇主の腕輪が俺を脅して楽しんでいるのは、何となく分かった。
俺は目を開けた。金の腕輪が、俺の右腕にはまっていた。
メシエが、目を閉じる前と同じ姿勢で俺を見上げていた。目を閉じている間の腕輪との会話は、瞬時に行われていたようだ。
「あのトカゲ野郎は、俺が殺す」
俺がそう言うと、メシエはこくん、と小さくうなずいた。
「はい。銀河様、ご武運を」
「あー……『銀河様』はちょっと……『銀河さん』でいいよ」
妙にくすぐったい。
「それでは、結婚前と同じです」
メシエが不満そうに頬を膨らませる。呼び方の変化には、彼女なりのこだわりがあるのだろう。
夫としては――うむ。
いい言葉だな、夫としては、って。
夫としては、妻のこだわりに、寛容でありたい。それが夫婦円満の秘訣だから。
「もう少しくだけた表現はないかな?」
しばらく考えて、メシエは俺の耳元に唇を近づけ、小さく囁いた。
「あなた、ご武運を」
ぎゅっ。
気が付けば、俺はメシエを抱きしめていた。
『いつまでイチャついている。来るぞ』
不機嫌そうな腕輪の声。
直後に、俺が作り出した情報空間の壁面が割れた。
壁の向こうに見えたのは、空間の果てまでずらりと並んだ赤い甲冑の群れ。一体を除く全員が甲冑を砲撃戦モードにして、重力子砲を構えている。
『なんと?!』
「消えよ、我が宿敵」
驚く腕輪に対し、ワールは、しっ、と舌を鳴らした。
次回:『スペース婚活:ウェディングリング編』へつづく