第五話 少女の悲しみ、少年の痛み
それから特に何も変わらないまま、アルファルドはステラと一緒に過ごしました。
毎日のお世話をして、傍に居るだけの毎日です。
そんな中でも、ステラの身体は日に日に弱っていきました。
冷たい死の感触が近付いてくるのが分かります。
自分はもうすぐ死ぬと嫌でも実感してしまいます。
そして、アルファルドは自分が死んだあとも生き続けるのです。
人間ではない、偽物の人形。
こんなにも生きていたいと願う自分を差し置いて、偽物であるアルファルドが生き続けるのです。
それはステラにとって許しがたいことでした。
けれどステラにはアルファルドが必要でした。
動けない自分の代わりに身体の世話をしてくれる彼の存在がなければ、とっくに命を落としていると分かっているからです。
最近のアルファルドはリゲルの家に戻ることなく、ずっとステラの傍についています。
それはまるで、ステラを心配しているかのような態度でした。
表情一つ変えずに、棒読みの言葉で、ステラを心配しています。
それが本物なのか偽物なのか、ステラには分かりませんでした。
ステラの冷静な部分は、アルファルドはリゲルの命令に従って、ステラの世話をしているだけなのだと断じます。
そして感情的な部分は、もしかしたら本当に自分を心配して、労ってくれているのかもしれないと思ってしまいます。
信じたい気持ちはもちろんあります。
けれどそうするには、アルファルドという少年はあまりにも『人形』すぎたのです。
何を言っても、何をされても、表情一つ変えない木偶人形。
変えることが出来ないのだと分かっていても、それでも変わって欲しいと思うのです。
表情が変わらなければ、アルファルドが何を考えているのか、ステラには分かりようがないからです。
ステラはアルファルドに対して『出来ないこと』を求めてしまっているのです。
人間ではない偽物の人形だと詰っても、心の底では人間に近付いて欲しいと思ってしまうのです。
自分は一人ではない思いたいのかもしれません。
それは無駄な願いだと分かっていても、ステラは諦めたくありませんでした。
何故なら、今のステラに残されているのは、自分の命と、アルファルドだけだからです。
どれほど忌々しいと思っていても、アルファルドしか縋るものがないのです。
「本当に、アルファルドを見ていると腹立たしいわ」
「ごめんなさい」
忌々しげに呟くステラに、アルファルドは謝ります。
アルファルドは何も悪くないのですが、少しでもステラの気持ちが晴れてくれればと、自分が痛みを引き受けるのです。
「どうして謝るのよ。アルファルドは何も悪くないでしょ」
そしてアルファルドのそんな態度すらも、ステラの気に障るのでした。
二人はどうしようもなくすれ違ったまま、理解し合うことが出来ません。
他でもない、ステラがそれを拒んでいるのです。
「僕には謝ることしか出来ませんから。僕が傍に居るだけで、ステラは辛い気持ちになるのなら、それはとても悪いことなのでしょう?」
「だから、どうしてそうなるのよ」
怒ればいい、とステラは思います。
酷い言葉をぶつけているのですから、怒ってくれればいいと願うのです。
そうすればアルファルドの心が分かります。
傷ついているのが分かります。
彼にも傷つくだけの心があるのだと、感じることが出来ます。
けれど酷い言葉を受け入れて、悪意を受け止めるだけの彼から『心』を感じることは出来ませんでした。
人形は所詮人形。
どこまで行っても心などありはしない。
そんな風に思い知らされて、ステラは泣きたくなります。
「僕には、そうすることしか出来ませんから」
もちろん、アルファルドは傷ついています。
ぶつけられた言葉に、向けられた悪意に、とても傷ついています。
けれどそれを表に出すことは出来ません。
出したくても、出すことが出来ないのです。
声は平坦で、表情は変わらず、涙すらも流れない、無機質な人形でしかないアルファルドには、心を示す術が存在しないのです。
「そう。別にいいけどね。どうせ、こんな不毛なやり取りももうすぐ終わるわ。私はもう、長くないし」
「……本当に、治らないんですか?」
「治るのならとっくにそうしてもらっているわ。父さんや、母さんや、兄さんと同じように、私は死ぬのよ」
その言葉は諦めているような内容なのに、声だけは違っていました。
死にたくない、まだ生きていたい、どうして死ななければならないのだろう、という悲痛な叫びが聞こえてくるような声でした。
生きていたい、と足掻く姿があまりにも切なくて、哀れで、アルファルドはステラをそのままにしておけなくなってしまいました。
そっと手を伸ばして、頭に触れようとします。
少しでも彼女を慰められればいいのに、という願いを込めて撫でようとしました。
けれど、火のような激しさでステラはそれを拒絶しました。
「触らないでよっ!」
「っ!?」
触れようとした手は、とても強い力で弾かれてしまいました。
ステラは涙混じりにアルファルドを睨み付けます。
ここでアルファルドに慰められることだけは、ステラにとって耐え難いことだったのです。
アルファルドに頼りきりで、彼に生かされているからこそ、その手を受け入れることが出来ません。
「偽物の手で、偽物の感情で、私に触らないでっ!」
「ご、ごめんなさい。怒るとは思わなくて……」
アルファルドは戸惑いながら謝ります。
ステラがどうしてこんなに怒っているのか、アルファルドには分からなかったのです。
「どうして、どうして私が死んで、あなたが生き続けるのよっ! 偽物のくせにっ! 人形でしかないくせにっ! 人間みたいに喋って、心配するふりなんかしてっ!」
「………………」
限界まで我慢し続けた感情が、アルファルドの軽率な行動によって溢れかえってしまいました。
アルファルドは何も悪くない、と理性では分かっています。
人間が自分に近づけないからこそ、人形である彼が自分の傍にいてくれるのです。
けれどステラは人間に傍に居て欲しかったのです。
最期ぐらい、誰かの温もりに触れて過ごしたかったのです。
その願いは叶わず、自分は死ぬのだと思うと、色々なことが耐えられなくなってしまいました。
その感情をぶつける相手はたった一人、人形でしかないアルファルドだけです。
だから思いっきりぶつけます。
感情を、悪意を、そして拒絶の意志を。
自分が死ぬのにあなたが生き残るのは許せない、という素直な気持ちをぶつけるのです。
アルファルドはただその言葉を受け止めるだけでした。
そうすることしか出来なかったのです。
「どうして黙っているの? これだけ酷いことを言ってるんだから、何か言い返しなさいよ。悲しくないの? 悔しくないの? そんな心も無いくせに、人間のふりなんかして、気に入らないのよっ!!」
溢れ出した感情は止まりません。
衰弱した身体で叫び続ければ、それだけ命が縮みます。
けれど、ステラは気にしませんでした。
命を燃やしてでも、アルファルドに文句を言いたかったのです。
「……悲しいし、傷ついていますよ。けれど、ステラに較べたら大したことはありません」
やっとのことで、アルファルドはその気持ちを口にしました。
言うべきでは無いと思っていました。
けれど気持ちを吐き出すことをステラが望んでいるのなら、辛い気持ちであっても受け止めようと決めていました。
たとえ何一つ伝わらなくても、自分には確かに心があるのだと知って欲しかったのかもしれません。
「傷ついている? 本当に? 表情一つ変わらないくせに。声ですら平坦なくせに。信じられないわ。あなたに心があるなんて認めない。絶対に認めないわっ! あなたはただの偽物で、いつかは壊れるだけの木偶人形でしかないっ!」
「……あります。僕にも、心はあります。それだけは、信じて下さい」
アルファルドにとって、心を否定されることは一番辛い事でした。
自分には確かに心があるのに、それがどうしても伝わらない。
悲しいのに涙が出ない、というのは壊れそうなほどに辛いことでした。
「どうしたら、信じてくれますか? 僕はステラに癒やされて欲しいと思っているんです。ステラの為に出来ることがあるなら何だってしてあげたい。そう思っている心は、どうやったら伝わりますか?」
「何でもしてくれるの?」
ステラは馬鹿にしたように笑います。
信じていないからこそ、嗤います。
「僕に出来ることなら何だってします。だから、信じて下さい。僕を、僕の心を、信じて下さい」
「なら、やってもらおうじゃない。その偽物の命を私の為に捧げてくれるなら、アルファルドの心を信じてあげる」
「命を、捧げる?」
意味が分からず、アルファルドは首を傾げます。
ステラの口元は奇妙に歪んでいました。
最期の希望に縋るように、そしてアルファルドを更なる絶望に突き落とすのが楽しいとでも言うように。
「私の為に何かをしたいんでしょう? たった一つだけあるのよ。私の病気を治す方法が」
「え?」
「夜魔の森。ここはそう呼ばれているわ。私達の一族が守護していた森は、もうすぐ原初に還ることになる。守護者である私達の命が尽きれば、この森は人間が足を踏み入れることはないでしょうね」
「ステラ? あの、それと、病気を治す方法と、一体どう関係があるのですか?」
「もちろん関係はあるわよ。私の病気は夜魔の森に棲む狼が原因だもの」
そしてステラは自分がどうして死の病に冒されてしまったのかを話してくれました。
この夜魔の森は、ステラの一族が守護する森でした。
ずっと昔から、彼女の一族が守って、管理してきたのです。
森に棲む動物たちと共存し、森の中にある薬草や木の実などを時折分けて貰ったりもしていました。
そんな日がずっと続くと思っていたのですが、ある日、その日常は壊れてしまいます。
森に棲む狼が病気にかかってしまったのです。
一時的に発生した森の瘴気が原因でしたが、それは狼たちの中に病気として残り続けました。
そしてその病気が原因で凶暴化した狼に、ステラのお父さんが噛まれてしまったのです。
噛まれたお父さんは病気になってしまいました。
それは狼達と違って、人間に死をもたらす病気でした。
そして家族全員に感染する病気でもありました。
治す方法はありました。
それは森の奥にある『翡翠の欠片』という花の胚珠を食べることでした。
翡翠の欠片の胚珠は万能薬としての効果を持っているので、どんな病気でもたちどころに治してくれます。
けれど翡翠の欠片は狼たちの生息する場所の奥にあります。
凶暴化している狼を相手にしながら翡翠の欠片が群生している場所にたどり着くことは、お父さんにも出来ませんでした。
病気で身体が弱ってしまえば尚更です。
特殊な病気なので、一般の治療薬も効果がありません。
そうして、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、みんな死んでしまいました。
生き残ったのはステラだけですが、彼女ももうじき死んでしまいます。
翡翠の欠片の胚珠を取ってくることは誰にも出来ません。
狼を相手取れるほど強い人も居ませんし、一度でも噛まれたら病気になってしまいます。
死ぬと分かっていて、そこへ向かおうとする人は誰もいませんでした。
話を全て聞いたアルファルドは、ようやく納得出来ました。
リゲルは治療法を知っていながら、アルファルドにそれを教えませんでした。
それは誰にも実行出来ないからこそ言えなかったのです。
仮初めの希望を持たせて、再び絶望させたくはないと考えたのでしょう。
「翡翠の欠片、その胚珠があれば、ステラは死なずに済むのですね?」
「そうよ。人間はそこに辿り着けない。けれど人間ではないアルファルドなら、病気にかかる心配はない。狼たちには襲われるでしょうけど、どうせ偽物の身体なんだから痛くなんかないでしょう?」
「………………」
この身体は無機物で出来ています。
神経など通っていませんから、狼に噛まれたところで痛みを感じることはありません。
「だったら取ってきてよ。私の為に何かをしたいっていうのなら、その身体が壊れる覚悟で胚珠を取ってきてよ。私を、助けてよっ!」
それは最期の願いだったのかもしれません。
誰にも縋れなかった少女の、死ぬ間際の叫びと願いでした。
「分かりました。僕が、翡翠の欠片の胚珠を取ってきます」
「……本当に、行くつもりなの?」
「ええ。僕がステラの為に出来ることは、きっとそれだけでしょうから」
「壊れるかもしれないのよ」
「そうですね。でも、僕はステラの為に存在していますから。この身体もステラの為に使いたいんです」
「……ふん。なら、好きにしなさい」
「はい。きっと胚珠を取ってきますから、だから諦めないで待っていて下さいね」
「期待なんかしないわよ。どうせ、途中で壊れるに決まってるんだから」
「そうならないように頑張ります」
「………………」
そしてアルファルドはステラの家から出て行きました。
ステラに残された時間は決して多くはありません。
少しでも早く胚珠を手に入れてあげたくて、アルファルドは森の奥に足を踏み入れます。
ステラの一族以外は決して奥に踏み込もうとしなかった夜魔の森は、全ての人間を拒む闇に包まれていました。
けれどアルファルドは人間ではなく人形です。
闇を恐れたりはしません。
人間を拒む気配も無視出来ます。
たった一人の少女を助ける為に、アルファルドは前に進むのです。
「待っていてください、ステラ。きっと、手に入れてきますから」
ステラに笑って欲しい。
幸せになって欲しい。
そして、自分に笑いかけて欲しい。
アルファルドはそれだけを願っていました。
一度も自分に笑いかけてくれなかったステラですが、彼女はどんな時でも本気をぶつけてくれたのです。
ありのままの自分でぶつかってくれたのです。
そんな彼女の心からの笑顔を見てみたいと、アルファルドは焦がれるほどに願いました。