表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編

奇妙な事件

作者: 今眠居

 私がその奇妙な事件に遭遇したのは、学生の時だった。

 その事件は解決しないまま、十年の時が経った。友人は行方不明となり、生き残った私も心的外傷を負った。事件のあった時節になると私はその時の恐怖を思い出す。今もカーテンの向こうに奴がいるのではないか。そう思ってしまう事がある。そうなると私は不安になり、まんじりともせず朝を迎えるのが常だった。もしかしたら私も事件当時、抵抗せずに殺されていた方が楽だったのかもしれない。睡魔と不安が鬩ぎ合っている間、必ず一度はそう考える。友人は行方不明という扱いになっていたが、私は彼の死を確信していた。

 私が彼と友人になったのは高校に入ってすぐ、同じクラスになったのがきっかけだった。私は友人を作るのが下手で、周囲が新しい友達を作ろうと躍起になっている最中も、窓際で本を読んでいた。他人というものに興味はあったが孤独である事にもそれほど困ってはいなかったし、迎合してまで友達が欲しいとは思わなかった。その内、何か機会があれば出来るだろうと思っていた時に話しかけてきたのが彼だった。

 彼との関係は良好だった。互いに不干渉で時折、他愛の無い話を二言、三言交わすだけの仲だった。私は本を読むのが好きで、暇があれば本を読んでいた。私が本を読んでいる間、彼はただ近くにじっと座っているのである。私は彼を気には留めていたものの、自ら進んで話しかけにいく事は無かった。こんな私に付き合っていて、彼は何が楽しかったのだろうかと今でも疑問に思う。彼は決して友人の少ない人間では無かったが、後に聞いたところによれば一番仲が良かったのは私だったようだ。ただその関係が、もしかしたら彼の死という残酷な結果をもたらしたのかもしれない。

 事件の当日も、彼は私が読書に一区切りをつけるのを待ってくれていた。学校には新旧二つの図書室があるが、私が利用するのは専ら古い方の図書室だった。旧図書室は学校とは別に建てられた西洋風の建物で、敷地面積が広く、二階は吹き抜けになっていて、そこを貫くように背の高い本棚が鎮座している。新図書室よりも沢山の蔵書があった。しかし離れになっていて利便性は悪いし、全体的に古くて汚らしいという事で利用する生徒はほとんどいない。私は変わり者だったのか、そんな旧図書室を毎日のように利用した。そして陽が傾いて辺りが朱色に染まる頃になって、ようやく本を閉じるのである。毎日の習慣のようなものだったが、その日だけは違った。

「おい」と彼が突然大きな声を上げた。一年来、彼のそんな姿を見たことが無かったので、私はすっかり驚いて彼を見た。しかし彼が見ていたのは私ではなかった。本棚の立ち並ぶ向こう側へと目を向けている。何事かと私が尋ねると、何者かがいるのだと彼が答えた。他の生徒が来る事は珍しい事ではあったが、出入りが禁止されているわけではないので、そういう事もあるだろう。しかしそういう事ではないのだと彼は言った。

「見てみろよ。ずっとこっちを見てやがる」

 忌々しそうに言う友人の肩越しに覗くと、確かにそこには人の顔らしきものがあった。それは本棚の影から顔だけを出し、警戒するようにこちらを窺っている。夕焼けに染まった室内では遠方にいるそれを判然と認識出来ない。あまりにじっとしているので置物のようにも思えたが、旧図書館で図書以外のものを見たことは終ぞ無い。それにほとんど影になっていて表情は見えなかったが、どうやら口をもごもごと動かしているらしいというのが見て取れた。彼はたぶん生徒の誰かなのだろうと当たりをつけていたのだろう。そんな彼の態度につられて私も最初はそれを人だと思っていた。だがよくよく見てみると何か様子がおかしい。顔の覗く位置が妙なのである。その顔は本棚と比べたと時、私たちの腰辺りの高さから覗いていた。すると肩や手、あるいは足が見えても不思議ではないのだが、それは顔以外は全く本棚の向こうに隠れてしまっている。随分と難しい体勢で覗いている事になるのではないか。次第に私の違和感は膨らんできて、それは恐怖に変わった。

 何かが変だから先生に知らせよう。私がそう言うよりも一瞬早く、友人は顔が覗く方へ歩き出した。「気味の悪い奴だ」と彼は呟いた。私も同感だったが、その言葉が含む意味は大きく違っていた事だろう。顔が本棚の影に引っ込み、彼が逃すまいと走りだそうとした。その時、私が彼に追いついて、その肩をしっかりと掴んでいなかったら、今日の私の命は無かったかもしれない。彼の行く手にあった本棚が爆発したように本をまき散らしたのである。旧図書室の本棚は仕切のない作りをしていて、両側から本を取り出せるようになっている。その本棚の向こう側から、おそらくは彼の頭を狙って何者かが手を伸ばしたのだ。だがその手は人間のものではなかった。大型獣が持つような毛深く、鋭い爪を備えた前足だった。私たちは驚いて声を上げる事すら忘れた。獣の前足は獲物を探すように周囲をしばらく掻いた後、本棚の向こう側へと消えた。一瞬の静寂を置いて、地面を揺するような低いうなり声が旧図書室の中に響く。

 このままここにいては不味いと判断した私は友人の腕を引いた。彼は私の言わんとしている事を理解したらしく口を一文字に結んだまま頷き、立ち上がるが早いか駆けだした。私達は二人そろって出口へと向かった。すると本棚を一つ隔てて重い足音が聞こえてくる。私達の背後で本が次々にまき散らされた。本棚の向こうにいる何者かが私達を追ってきている事は明らかだった。本棚の列はもうすぐ切れてしまい、そこから扉の前まで遮蔽物になるようなものは何もない。危険だったが、しかし止まれば捕まってしまう。私は神にこの時だけの祈りを捧げながら足も折れよとばかりに地面を蹴った。背後で何かが勢いよく動くのが感ぜられる。私達は旧図書室の重い扉に肩から体当たりをかまして外に転がり出た。肩の痛みもそこそこに背後を振り返ると、閉まりゆく扉の隙間に人の物ではない瞳があった。

 私達はすぐに職員室へと向かい、あった事を全て話したが、教員達は俄には信じてくれなかった。渋る教員をなんとか旧図書館まで引っ張っていったが、その時にはもう私達を追いかけた何者かの姿は消えていた。ただ撒き散らされた本はそのままだったし、大型獣につけられたような爪痕がそこここに残っていた。私達は扉に体当たりをした際に肩を脱臼していて、すぐに病院へ行くことになった。学校は一時警察を呼ぶ騒ぎになったが、犯人が見つからないという事で、翌日には旧図書室が閉鎖されただけで普段通りに戻っていた。

 それから三日後、近隣の民家で熊が見つかり射殺されたという話を聞かされた。もしかしたら旧図書室にいたのはこいつなのではないか、という話になった。当事者である私達ですら、何事も無く日々が過ぎて行くのに従って、私達を追いかけてきたのは熊だったのだろうと納得していった。あの時見た人の様な顔などといった細かい事は、すっぽりと記憶から抜けてしまっていたのだ。だが半月が過ぎた頃、友人の様子が変化した。顔色白く思い詰めた表情をした彼は「俺はもうすぐ死ぬかもしれない」と私に打ち明けた。何事かと尋ねると、彼は異様な影を見たというのだ。夕暗がりで正体は判然としなかったが、異様に大きな獣が民家の屋根に陣取っていたのだという。細長い尻尾をゆらゆらと揺らす様は猫の仕草に似ていたが、頭は小さく、その姿は今まで見たことのあるどんな動物とも違うのだという。そしてその生き物は友人をじっと見た後、民家の向こうへと姿を消したらしい。確かに薄気味の悪い経験だったかもしれないが、だからといって何故死ぬという事になるのか。私は笑ってしまった。しかし彼は旧図書室で追いかけられた時の事と関連づけて考えていたらしい。そしてそれはたぶん正しかったのだ。「あの時、追いかけてきた奴なんだと思う。たぶん……」そう言って肩を落とし、教室を去っていった彼に、私は何が出来たのだろうか。

 次の日、友人は行方不明になった。学校からも彼の親からも、そして自分の親からも再三彼の行き先に心当たりはないかと聞かれたが、私には全くなかった。彼の携帯電話に発信してみても応答はなく、ただ単調な電子音が響くばかりだった。「彼は思い詰めた様子だったらしい。何か理由を知らないか」と教員に言われた時、私は何も思いつかなかった。彼に相談された内容を関連づけて考える事を全くしなかったのだ。夕暮れに怪物を見たという荒唐無稽な話と、身近な人物の失踪という現実的な話を結びつけて考えられるほど私の頭は柔軟ではなかった。ただそれが結びつく事になるのには、それほど時間は掛からなかった。

 友人の失踪を聞かされた日の事だった。自宅へ帰った後、風呂を浴びて二階にある自室へと戻ると部屋がとても暗かった。夕日が漏れるはずの薄い窓掛けが暗闇に沈んでいる。ああ、失踪した友人の事を考えていて、もうすっかり日が沈む頃になってしまったのだ。私は独りごちた。彼の事を考えるあまり食事もあまり喉を通らず、読書をする気分にもならない。朝に失踪を聞いてからずっと鬱々とした気分のまま一日を過ごしていた。怪物の話を思い出したのは、その時だったが、だからといって何が出来るわけでもなかった。彼は身の危険を感じる余り、何処か遠くへと行ってしまったのではないだろうか。だとしたら彼は今、何処にいるのだろうか。再び会う事は出来るのだろうか。憂鬱な気分にため息をつく。私に出来るのは友人の身を案じて、全く繋がらない電話をかける事だけだった。携帯電話を手に取り、友人の番号に発信する。今度こそは掛かるのではないか。そう思いながら何度も発信していた。結局、彼に通じる事は遂に無かったのだが、その代わりに私は自室で彼の携帯電話の着信音を聴くことになった。その意味を理解し、ぞっとするのには少しばかりの時間を必要とした。私は耳に当てた携帯電話から単調な発信音を聴きながら、もう片方の耳で彼の携帯電話に使われている着信音を確かに聴いたのだ。立ち上がった私は耳を澄ます。そして窓掛けの向こうから音が漏れてくる事に気がついた。窓の外には縁側がある。彼の携帯がそこにあるというのだろうか。しかし、何故。その答えを知るために、私は窓掛けに手を伸ばした。開けようとしたその時、窓掛けから急に光が差し込み、私の目を焼いた。反射的に目を閉じる。次に目を開けた時、開いた窓掛けの向こうに沈みゆく夕日が見えていた。部屋の中がいつもの明るさに満ちている。今まで部屋の中が暗かった事実が、急に恐怖となって私にのしかかってきた。窓掛けは視線を遮るばかりで遮光性はない。陽光を遮る別の何かがそこにあったのだ。それが何なのかは分からない。ただ聞こえなくなった着信音が、それがなんであるのかを暗示していた。

 しかしそんな出来事があっても、私は誰にも相談出来ないでいた。荒唐無稽な話を信じてくれそうな人間はいないのだ。友人の親とは何度か電話で話をする機会があったが、何も言うことは出来なかった。友人の携帯電話の着信音を聴いてから二日間は何事もなく過ぎ、それから決定的な事が起きた。私は友人と同様に、夕暮れの帰り道で民家の屋根に登った怪物を見たのだ。夕日を背にしたその姿は影に覆われ輪郭しか分からないが、その体躯は明らかに大きい。虎や獅子を一回り大きくすればそうなるだろうかと思われた。細長い縄のような尻尾を猫のようにゆらゆらと揺らし、じっとこちらを睨み付けている。私は隠れる事も出来ずに立ち竦むしかなかった。しばらくそんな私の様子を観察していたその影は、民家の向こうへと消える。ああ、友人が見たのはこれなのだ。私は自分が友人と同じ末路を辿るであろう事を確信した。

 私はすぐに行動を起こした。誰にも相談出来ないのなら自分で解決するしかない。私は自分を囮にして怪物を捕まえる計画を立てたのである。帰り道で怪物を見た私はすぐに友人の両親に電話をかけ、いつ友人が失踪したのかを聞き出した。これは思いの外、正確な時間を知ることが出来た。十六時を挟んで二度、買い出しを頼む電話をかけたが、二度目にかけた時には出なかったのだという。その時間を元にして私は行動した。次の日、学校を休んでホームセンターへ行き、滑車とロープ、それからしっかりした作りの綱を買った。これを旧図書室へと持っていき苦労しながら仕掛けた。もしかしたらその時も怪物は何処かから私を見張っていたのかもしれない。ただそれまでの経緯から、怪物は夕方にしか襲ってこないと予想していた。私は罠をしっかりと仕掛けて十六時を待った。

 携帯電話の時計が運命の時間を告げた時、すぐには何も起きなかった。もしその時、何か少しでも物音がしたら私は行動を開始できるようにしていたが五分、十分と過ぎても何も起きない。もしかしたら何も襲ってこないのではないか。そんな楽観的思考が脳裡を掠めた時、ふと思いついて携帯電話の発信ボタンを押した。発信先は友人の携帯電話。着信音が聞こえた。跳ねるように私が走り出した途端、それまで居た場所に何かが落ちてきた。だが後ろを振り返って、それが何であるかを確認している暇はない。距離を取るために本棚の間を全力で駆け抜ける。空気を振るわせる音が、足を通じて伝わってくる振動が、置かれている本が浮き上がる様が、私の背後を何かとてつもない物が追ってきている事を知らせていた。何度か道を変えて走っていると、前方に本が積み上がって通行不能になっている場所が見えた。それを仕掛けたのは私だった。何者かがしっかり追ってきている事を耳で確認した私は、迷わず本の山へと向かい、そして横へ飛んだ。その先には本棚がある。そこに置いてあった本は予め抜き出して通路に積み上げてあった。私の身体は棚の間をするりと抜ける。それと同時に私の走っていた通路を何か大きな物が通り過ぎて、本の山にぶつかった。この一連の行為は、私を追う何者かと距離を取ると同時に、罠にかかるかどうかを占う意味があった。私は本を天井付近まで吹き飛ばす力に恐怖すると同時に、成功の可能性がある事に歓喜していた。私は追いつかれない為に何度か道を変えて走り、それから機を見て出口へと一直線に向かった。背後から何かが迫ってくる。もう引き返す事は出来ない。作戦を成功させる以外に生き残る道は無かった。

 罠の上を飛び越した私は、そのままの勢いで二階から垂れ下がったロープを引いた。仕掛けが動き出す。自分の力だけではどうにも出来ないだろうと考えていた私は、引っ張ったロープで本を落下させ、その重さで獲物をつり上げる計画を立てていた。本が落ち、滑車が音を立てる。地面に敷いた網が勢いよく持ち上がり、その中に私を追跡していた何者かが勢いを殺しきれずに飛び込んだ。私はロープを固定し、罠に掛かったそれを見た。その時の驚きようを表現する言葉を私は知らない。網に掛かっていたのは、顔は猿、胴は狸、尾は蛇、四肢は虎、声は鵺に似るという名も無き怪物だった。それが網の中で暴れているのである。

 私は逃げ出すようにその場を離れ、すぐに職員室へと駆け込んだ。気が動転した私は上手く喋る事が出来ず、教員達を旧図書室へと連れて行くには腕を引っ張っていくしかなかった。なんとか旧図書室へと教員達を連れていく事が出来た私だったが、その場の光景を見て私は愕然とした。怪物は網を破って逃げていたのだ。努力は全て水泡に帰した。私は近く、死ぬ事になるのだろうと絶望しながらその場に倒れた。

 だが私の予想に反して、怪物は二度と現れる事無く十年の時が過ぎた。旧図書室での一件は私の奇行として片付けられ、ありのままを話しても誰も信じてはくれなかった。今でも時折、友人の携帯電話に当てて発信をする事がある。それは怪物が近くにいない事を確認する行為だったが、もしかしたら友人が出てくれるのではないか、という淡い希望も込められていた。

 私は友人を失ったその時から、孤独に苛まれているのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 読んでいて光景が浮かんでくる文章! アクションシーンがあっていい! [気になる点] ちょっと読みにくい文章構成 ホラー要素があまり感じられない [一言] まず読んだときに文才があるように…
2013/01/18 13:40 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ