第一話
鬱蒼と生い茂った木々に囲まれ、小高い丘の上にその大樹は佇んでいた。大樹を前にすれば少しの距離を置いて囲む木の海は傅いた臣下のようにも思える。
正しく大樹は樹木の王と呼ぶべきモノであり、世界へと恵みをもたらす世界樹の一本であった。
畏れ多くも王の体に寄り掛かるようにして座り込んでいる青年が一人。年齢は二十代ほどだろう。柔和な笑みを浮かべており、細目が柔らかい雰囲気を増長させていると同時に頼りなさを感じさせていた。
彼は、この世界では存在しない白と黒のストライプスーツを着こなしており、頭には同じ柄のソフト帽を乗せ、左手には老紳士が持つような杖が握られていた。
この服装は知り合いにはセンスが悪いなどど罵倒されているのだが彼は、かえって個性があると好んでいる。
森の中にいるにしてはあまりにも場違いな格好に気にした様子もなく
「困りましたねぇ…」
笑みを変えず、少しも困っていなさそうな声で青年は呟いた。
独り言は癖の様なものだ。気の遠くなるほど長い間独りで過ごしてきた弊害でしょうか、と益体のない思考を追い払いつつ、背を預けている大樹に聞かせるように独り言を続ける。
「そろそろ新しい旅に出ようかと思ってはいましたが……まさか異世界に行くハメになるとは思いませんでしたよ」
突然異世界に送り込まれるという未知の事態に襲われても冷静だった。
ただ、そんな事もあるのだろうと、それを行える可能性を持つ人物が元の世界にいたのも理由かもしれない。
だが今回青年を異世界に送り込んだのは知り合いではなく、『女神』である。
「彼女なら自分の事は嬉々として魔女と名乗りますし、教会に居候してるくせに神様大嫌いですからね」
会うたびにやれセンスが悪いだのもっと会いに来いだのうるさい女性の姿を思い浮かべ、魔女の思考なんて解るはずもないと思考をあっさり切り捨てた。
とりあえずの現状把握に努めようと見回してみるものの、見渡す限り木、樹、キ。地平線まで緑に染まっている。
「この森を抜けるのに何日掛かるんでしょうね? といいますかそもそも抜けられるんですか、これ」
単調な光景が続く森はちゃんとした装備が無ければそれだけで方向感覚が狂わせられ、迷宮と化す。
特にこの森はグレース大森林と呼ばれ、SS・S・A・B・C・D・E・Fの八段階の冒険者ランクの中でもSランク以上の混合パーティでもなければ最奥の世界樹までたどり着く事はできないと言われるほどのSS最高難度を誇るフィールドである。
同時に、森の外縁部にあたる森としても若い領域はBランクでも問題はなく、実際にこの森特有の薬草採取の依頼ランクはBである。だが、難易度の差、その境界を図ることが出来ず命を落とす冒険者も少なくは無い。
ちなみに冒険者はCランクで一人前、Aランクで一流と言われ、それより上のランクは超一流。化け物と呼ばれても仕方のない人外たちである。
対して魔物が生息するフィールドの難易度はSSが最大でEランクが最低難易度となっている。
このグレース大森林は世界樹の加護なのか魔物はあまり森の外へと出て来ず、出て来てもBランクの魔物なため、世界樹があることを除けば、ただの広大な森という認識であった。
だが、その広大さ、魔物の多さから勅命でもなければ十人にも満たないSランク以上の冒険者でさえも世界樹のある最奥への依頼は躊躇う場所であることは青年は知る由もない。
「本当にどうしましょうかね?」
そこで初めて背後の大樹に視線を合わせる。知り合いの神父ならば、すごく……大きいです……などとでも言いそうな立派な樹で、王の威厳なのか畏怖さえも感じる。
「……ふむ?」
立ち上がった彼の目線と同じ高さ、百七十センチほどの高さに比較的新しい傷を見つけた。堅い表皮にこれでもかと刻まれた引っ掻き傷のようなモノ。
そう、まるで猫が爪を研いだような。
「異世界ですからねぇ、猛獣でもいるんでしょう」
労わるように、慈しむように優しく傷跡をなぞると風も無いのに大樹の葉が揺れた。
「おっと、すみません。痛かったですか?」
どこかズレている青年としても流石に大樹が痛がった、などとは思っていない。
いや、ここは異世界なのだからそんなこともあるのかもしれないが、警告してくれているのだと正しく理解している。
それは獲物を狙う獣の眼差し。じっとりとした殺気が青年の背に向けられていた。
「やれやれ。こんな立派な樹に傷をつけたのはアナタですか」
気負った様子もなく振り向くとゆっくりとした動きで向かっている巨大な虎。ただし、元の世界の虎よりも数倍大きく、爪と牙は恐ろしいほど長い、鋭い刃のようであった。
自らの寝所を侵した無礼者へと罰を与えんとするその姿。大樹が木々の王ならばこの虎はこの森に存在するすべてのケモノたちの王。雷の化身、神獣たる天虎だった。
鈍重ではない、警戒を織り交ぜた動き。
雷を纏うそのケモノは、青年を警戒に値する相手ではないと判断したのか常人では視界に捉えることすら不可能なほどの速さで駆け出した。
一瞬で距離を詰め、串刺しにせんと飛び掛かるように右腕が突き出される。
それを青年は前に出ることで回避した。だが、回避しただけでは終わらない。
一閃。
仕込み杖から居合の要領で放たれた白刃が人の胴ほどもあるケモノの腕を苦も無く斜めに断ち切った。
慣性に従い流れるケモノの体。先ほどの斬撃で上段に振り上げられた刃を返すとがら空きの胴へと叩き込んだ。
刃は胴を半ばまで断つ。
勢いはそのままに、普通自動車ほどの質量のある天虎を大樹は衝撃と共に受け止めて見せた。
もし刃がもっと長ければ完全に真っ二つに出来たのだろう。
右腕と、半ばほどまで断たれた胴。五秒にも満たない攻防で天虎が奪われたものは大きかった。
強者の誇りがある。人間などには負けない自負があった。何をされたのかさえ分からないなんて、ありえないはずだった。
混乱するケモノの王。雷帝とも呼ばれ、雷に姿を変えられる神獣である彼が何故傷を受けたのか。それはひとえに強者の驕りに他ならない。
だがそれも仕方のないことであろう。彼をここまで傷つけることのできる人間などこの世界に存在するはずがないのだから。
彼が今まで戦ってきた人間は雷獣化するまでに至らず、その余波で絶命するほど脆弱な存在だった。雷獣化する必要がある戦いとは神獣同士でしか有り得なかったのだ。今までは。
故に、肉体はそのままで、多少の雷を纏っていただけで人間相手には圧倒して余り有る――
その結果として天の名を持つケモノは地に落ち、人間はそんなケモノを見下ろしている。
高度な知能を持つ故に、経験という枷を自らに嵌めてしまった。それが、王の敗因である。
もちろん、神獣の攻撃を完全に回避して見せ、神獣でさえも捉えられない斬撃を放った青年も異常な存在なのだが。
「致命傷かと思ったのですが、この程度、問題にもならなかったみたいですね」
既に塞がろうとしている胴の傷、血が止まっている右腕を見て呟く。
この世界の生物は皆生命力高いんですかね、と神獣固有の再生能力に勘違いしながら刃を振り上げ、
「首を落とせば、死にますかね」
言葉通りの事を、実行した。
神獣とは災害の化身とも呼ばれる。今回の天虎は雷の化身だったのだが、神獣と相対した際、それを倒す方法は二通りある。
一つは、本気になられる前に完全に殺すこと。
もう一つは、圧倒的な火力で圧殺すること。
天虎で言うならば前者は青年が実行したことであり、後者は方法としては上げられているものの実際には不可能とされている。
実質的には前者の方法でしか神獣を殺すことはできない。
しかし神獣は本気にならずとも多少手こずってもSランク冒険者くらい殺すことは容易い。
故に、神獣は災害の化身であり、殺すことが出来ないモノの象徴だった。
天虎を殺せた要因の一つとして唯一手傷を与える可能性のある化物クラスのSSランクの冒険者と天虎が戦ったことがないことも上げられるかもしれない。
「……汚してしまいましたか」
大樹の周りは血で汚れていた。散らばっている肉片と、天虎の首と四肢。その中で青年だけが傷も無く、返り血すらも付いていない。
まさか首を落としても動くなんて思いもしなかった。いや、それくらいなら元の世界でも有り得ないことも無い。
「この死体、どうしましょうかねぇ」
困った困った、と顎に手を当てて考えていると、肉片が、血が、四肢が、首が光の粒子へと変化しているのに気付いた。
驚きつつも見守っていると、光は大樹へと吸収されていき、死体のあった場所には黄金に輝く宝石と天虎の爪と牙が残っていた。
辺りはすっかり元通りになり、青年は感動して声を上げた。流石は異世界である。
「まさか後処理をしていただけるとは。ありがとうございます」
残された爪と牙は虎が持っていたものだろう。
宝石はどこにあったのかは解らないが、ちょうど胴体が置いてあったところにあるのだから体内にあったのだろう。
もしかしたらそこを斬ればもっと楽に倒せたかもしれない、と考えつつも、何の傷も無くなった大樹に向けて礼を言うと、ざわ、と大樹が揺れる。
疑問に思っていると林檎に似た赤い果物が一つ落ちてきた。危なげなくそれをキャッチして見上げると楽しげに葉が揺れている。
「お礼、ということでしょうか?」
肯定するように揺れる大樹に笑みを深めると青年はもう一度礼を言った。
「ありがとうございます。ちょうどお腹が空いてきたので」
日はとっくに落ち、蒼い月が空に昇っている。月明かりに合わせるように光の粒子が舞い、大樹が淡く発光しているため、明かりに困ることはなかった。
青年は先ほどと同じように大樹に背を預け座り、林檎を齧る。
今まで味わったことのない芳醇な味わいに驚きつつも完食すると、それだけで空腹が満たされているのを感じた。
それどころか気力も満ちてきて、何でも出来るような全能感さえ芽生えてくる。
これが異世界の食べ物ですか、と勘違いしつつも大樹に体重を預ける。
何故異世界に来ることになったのか。それを思い出しつつも大樹の与えてくる安心感、そして眠気に誘われて青年は目を閉じた。