#7・戦士の日常
~ブリュス
和平交渉が始まって五日が経つ。現場の人間としては、交渉の進み具合が気になる。進捗状況はコリアノフのほうには入ってきているようだが、カチューシャのところまでは届いていない。コリアノフの不機嫌そうな表情から察するに、交渉は難航しているのだろう。
カチューシャとしても、これから冬が始まるため、ソプニカ諸侯連合には妥協してもらいたい。ソプニカの冬は厳しいと聞く。カチューシャは北国出身のため、寒さには慣れているが、兵士の中には温暖な地方出身の者も多い。すでに士気が下がっている者もいる始末だ。昨日は雪がちらほらと降っていたし、これ以上長引くと、積雪の中での行軍になる。そうなれば、進軍速度は鈍るだろうし、物資の補給も滞るだろう。敵がそれを見過ごすとは思えない。
嫌なことばかりだが、案じていてもどうにもならない。憂鬱な気分を吹き飛ばすべく、カチューシャは剣の素振りを始めることにした。解放奴隷となったあと、コリアノフの下で戦功を挙げたときに、彼が下賜してくれた剣である。それから幾度となく戦場で振るってきたので、美しかった装飾は少しずつ剥げてきており、刃こぼれも目立つ。そのため、今では別の剣を使っているが、この剣も験担ぎとして持ち歩いている。
「よぉ、精が出るじゃねーか」
男の声と共に、尻を触られた感触。誰の仕業かは、一瞬で想像がついた。素振りを止めて、振り向き様に裏拳。
「オッケー! 見えた! でも回避不能!!」
裏拳は見事に命中。尻を触っていた男は予想通りの男だった。
「おい、触っただけじゃねーか!! 揉んでないから、別に殴ることないだろ!!」
「しゃあしか!! 触るんも揉むとも同じこったいッ!!」
ボリス・ミレーニン。自分と同時期にコリアノフの部下となった男である。武将としての才能は確かなものだが、その好色な性格が災いし、なかなか出世できていない。外見だけ見れば、茶色い短髪と、そこそこ整った顔、がっちりとした肉体を持つ好漢なのだが。
「オッケー、わかった。右乳を五揉みするから許してくれ!」
「それが許してもらう態度ね!? 余計悪くなっとうよ!!」
「うっせぇ!! 両乳を十揉みさせろ!!」
「最悪やね! 謝る気がいっちょんなかろう!?」
カチューシャとミレーニンは長い付き合いであり、カチューシャは出会った当初からセクハラを受け続けていた。最初は本気で怒っていたが、一向に改善される気配が見えないので、今ではもう諦めている。
なお、カチューシャのプロポーションだが、出るところはしっかり出ていて、なかなか良い。顔つきも頬に傷が残っているものの、美人の類に入る。それが「コリアノフの愛人」というあらぬ噂の源になっていたりするのだが。
「あんたみたいな変態は、この聖なる剣、ブサイクスレイヤーを食らっときい!!」
カチューシャは素振りしていた剣に鞘をはめると、それでミレーニンをの尻を結構な勢いで殴る。間違いなく痛い。
「い、痛くない! 痛くないッ! 俺はブサイクじゃないから痛くないッ!」
「謝らんと止めんけんねッ!!」
「カチューシャ、そろそろ止めてやったらどうだい?」
すると、横に上官が来ていた。
コリアノフの懐刀であり、コリアノフからは盾と評される、クリメント・ロフスキーである。代々武官として働いてきた由緒正しい家に生まれており、彼も防御を得意とする有能な武官だ。少々太めな体格から連想させるように、物腰柔らかで温厚な人柄である。彼の登場で、カチューシャはミレーニンの尻を叩く手を止めた。
「あ、ロフスキー様……」
「……尻、痛い……。なんか、いい……」
「ほら、止めるのが遅くなったから、ミレーニンの新しい性癖を芽生えさせちゃったじゃないか」
「いんにゃ、これは元からっち思うとです……」
セクハラの後には鉄拳制裁が来るとわかりきっていながら、セクハラを止めようとしないミレーニンはマゾヒストだと思う。
「エロいのは男の罪、それを許さないのは女の罪なんだぞ!!」
「名言っぽく言ってん無駄ばい!!」
「男はなぜおっぱいを求めると思う? そこにおっぱいがあるからだ!! 男は常におっぱいという柔らかいものを包んで守ってあげたいと思ってるんだ!! ねぇロフスキーの旦那!!」
「一理あるね。僕はどちらかというとお尻のほうが好きだけど」
「ロフスキー様までなんば仰ると!?」
「あはは、冗談冗談。ところでミレーニン、兵士の様子はどうだい?」
ロフスキーの真面目な質問で、こちらにじゃれつこうとしていたミレーニンが動きを止める。助かった。
「あー。ちょっとだらけてますねぇ。楽勝ムードが漂ってますわ」
「やっぱりねぇ。まぁ、和平交渉が始まってるって情報は兵士も知ってるだろうし、もうすぐ帰れると思ってるんだろうね」
ハイランド軍の兵士は、おおかた三つに分類される。
一つは貴族出身の職業軍人。全体の割合は二割ほどで、騎兵や部隊長を勤めている。
もう一つは傭兵。割合では三割ほど。主に重装歩兵を勤めており、戦列のバックボーンを形成している、ハイランド軍の中核と呼べる存在である。
最後の一つが徴用してきた奴隷で、残りの五割を占める。奴隷が解放奴隷となるには、誰かが買い戻すか、本人が戦功を挙げるしかない。カチューシャは後者である。それ故に、勝ち戦のときは手柄欲しさに勇猛であるが、一度崩れると歯止めが効かないという欠点もある。兵種は軽装歩兵や重装歩兵だが、戦力として信用がならないため、ここぞというときには投入されない。
国への忠誠心というものを持っているのは、職業軍人ぐらいのものだ。傭兵は契約のため、奴隷は自分のために戦っている。そんな彼らをまとめる指揮官には高い力量が要される。そのため、ハイランド軍の士官教育は非常にレベルが高い。
「ロフスキー様はどげん思っちょります?」
「うーん。まぁ、ソプニカも一枚岩じゃないってことじゃないかな。前線で戦ってる人達は、早く終わりが来て欲しいと思ってるだろうけど、後ろの人達にとっては対岸の火事だよね。いろいろ揉めてるんじゃないかな。あんまり交渉が長引くようだと、兵士の士気が心配だよ」
「俺は乳を揉めてないぞ」
「全然違う話やん! 揉めんでよか!」
「カチューシャが脱いだら士気も少しは上がるんじゃないかな?」
「おおお、さすがロフスキーの旦那。脱ーげ、脱ーげっ」
「ブサイクバスター!!!」
カチューシャは煽ってくるミレーニンをバックドロップで投げ飛ばすと、ロフスキーを睨む。
「いや、冗談だよ、冗談……」
「……俺はブサイクじゃないから痛くないけど、マジで動けないんすけど……」
引きつった笑みを浮かべるロフスキーと、地面にうずくまっているミレーニン。いつもの日常である。
なんだかんだで、彼らと過ごす時間は楽しい。できることならば、この日常が続いて欲しいと願うカチューシャであった。
~カレワラ
ミカを寝かせて、何事もなく一日を終えた深雪は、部屋で晩酌と洒落込んでいた。ミカには寝物語として童話を話している。彼からはなかなかに好評だ。
カレワラには蒸留酒と発酵酒がある。発酵酒の類は苦手なので、深雪が飲んでいるのは蒸留酒だ。かなりきつい酒だが、割るものがないため、ストレートでちびちびと飲んでいる。香りの良い酒で、不味くはないのだが、焼酎派である深雪は日頃飲んでいた麦焼酎が恋しくなってきた。
カレワラに来て、もう三週間になるだろうか。こちらの食べ物にはだいぶ慣れてきた―それでも旨いとは思えないが―。今では醤油味が恋しい。今頃、日本はどうなっているだろうか。連絡が取れないとのことで、大学やバイト先で大騒ぎになっていないだろうか。セシリアに聞きたいが、彼女はなかなか現れないうえ、たまに出てきても一方的に喋られて終わりだ。最初に「困ったときはいつでも呼んでね」なんて言っていた気がするのだが。
そういえば、セシリアは「元いた場所に、元いた時間に戻す」と言っていたが、本当なのだろうか。彼女のいい加減な性格を考えると、だんだん疑わしくなってきた。
少しホームシックに駆られていると、ノック音がした。
「はーい、どなたですかー?」
「あ、ラナです。今、大丈夫でしょうか?」
「ラナさんですか。どうぞどうぞ、今開けますよー」
なんだか人恋しくなっていたので、話し相手なら大歓迎だ。ドアを開けると、そこには寝間着姿のラナがいた。ゆったりしたワンピースがよく似合っていて、非常に可愛らしい。
「どうしたんですか、こんな遅くに」
「いえ、少しお喋りでもしようかな、と思いまして……。……どうでしょうか?」
「あ、ちょうど晩酌してたから、全然大丈夫だよ。ラナさんはお酒ダメだっけ?」
ラナを部屋に通す。彼女は少し会釈をして、椅子に腰掛けた。
「……あ、は、はい。ほんの少しだけでも真っ赤になっちゃって……」
ラナが恥ずかしそうにはにかんだ。このいかにもお嬢様という容姿で下戸とは、なんだかずるい気がしてくる。
「あーもう、ラナさんは可愛いなぁ。あたしの友達にも綺麗な子がいるけど、その子はほんとうにお酒強くて。ザルっていうか沼っていうか……」
深雪が言っているのは千歳のことである。彼女は本当に酒豪であり、どれだけ飲んでも顔色が変わらず、少し笑い上戸になるぐらいだ。普段のおしとやかな感じからは想像もつかなかった。
というか、つい酔った勢いでラナにタメ口を使ってしまった。ラナは同年代とはいえ、居候である自分よりも明らかに格上の存在だ。ラナが怒るとは思えないが、それでも失礼にあたるんじゃないだろうか。おそるおそるラナの様子を伺ってみると、なんだかぼんやりしているものの、その表情は嬉しそうだ。
「……ラナさーん?」
「……あ、すみません。私、キーラ以外の同年代の方から親しく話しかけられるのは初めてでして……」
「なるほどー。あたしが初体験って、なんだか申し訳ないなぁ……」
ラナが嬉しそうにしているので、この口調は継続。
「いえ、そんなことありません! 本当に嬉しいというか、なんというか……」
ラナはきっと、今までろくに遊ばず、血のにじむような努力をしてきたのだろう。そのせいか、一目置かれることはあっても、友人はできなかったのかもしれない。だとすれば、教育係だというアドルフと仲がいいのも納得がいく。
「よしよし。せっかく来てくれたんだもんね。寝る前に色々お喋りしよっか」
ラナの頭を少し撫でると、彼女は縮こまり、恥ずかしそうな上目遣い。慣れないことに小さくなっている彼女は本当に可愛らしい。
「……ラナっち、それはちょっと反則……」
「反則?」
どうやらラナは自分の容姿が素晴らしいという自覚がないようだ。この様子だと、やはりアドルフは必要である。彼が目を光らせていないと、悪い男にコロリと騙されてしまいそうで仕方ない。
「ラナっちは可愛いんだから、そういう反応しちゃダメだよ。変な男から勘違いされちゃうよ?」
「か、可愛いなんて、そんなことないですよ」
「謙遜しないでよ、なんだかみじめになっちゃうから……。うんとね、ラナっちがさっきやってたのは、こんな感じだよ?」
深雪は小さくなって上目遣い。こんな仕草をしたことはないので、なんだか恥ずかしい。
「……た、確かに可愛いですね」
「でしょー。あたしがやっても、ラナっちみたいな破壊力はないけどさ」
「そんなことないですよ! ……その、凄く可愛かったです」
同性の「可愛い」はあまり当てにならないことが多い。だが、ラナが恥ずかしそうに言ってきたので、なんだか変に気恥ずかしい。彼女はお世辞を軽々と言えるようなタイプではなさそうだ。嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といったところか。
「とにかく、ラナっちはもう少し『自分が可愛い』って自覚を持つように!」
「え、あ、は、はいっ」
「あ、ラナ姉、ここにいたんだー」
話し声を聞きつけてか、キーラが部屋の中に入ってきた。
「キー坊、ノックぐらいしてよ。取り込み中だったらどうするの?」
「取り込み中って? ミカ君とちちくりあってるとか?」
「どーしてそこでミカ君が出てくるのよ」
「だって、ミユキがミカ君以外の男の人とちちくりあってるトコとか想像できないもん」
「余計なお世話よッ!!」
「そうですよ。キーラ、ミユキさんは可愛いんですから!!」
「その話を蒸し返さないッ!!」
三人寄れば姦しい。
その言葉を表すかのごとく、深雪の部屋の話し声は夜が更けるまでしばらく続いた。
そして、明くる日の明け方、ソプニカ諸侯連合首都のソフィアから、各地に早馬が飛んだ。
和平交渉決裂、との報せを持って。
ミカ・キンクネンだよ。
……なーんか最近、出番が少ない気がするんだけど。
ラナとキーラばっかずるいよね。
―――
次回からまた話が動くと思います。
ただ、エースコンバットが出たので、執筆ペースが落ちるかもしれません……w