#15・鮮血と雪と(後編)
~フィリップ隊
さすがに強い。
フィリップはハイランド軍先鋒の勢いを痛感していた。雪辱の意識を感じる猛攻である。
だが、これで崩れるフィリップ隊ではない。ここで崩れては、ソプニカ最強という煽り文句がうすら寒いものに終わってしまう。
「全軍、こらえろッ!! 大丈夫だ、我らが崩れぬ限り、この戦は負けぬッ!!」
フィリップの鼓舞は兵士に向けてだけではなく、自分に向けてもいる。押され始めているとはいえ、兵の士気は未だに高い。ミカの演説様々だ。
じりじりと押し込まれている。そろそろ頃合いか。これだけ押されたのなら、自然な後退に見えるだろう。これで敵が乗ってくれれば最上。敵が乗らずにラナとキーラが動いてくれれば良し。敵もラナもキーラも動かないのは最悪の結果だ。
だが、ラナとキーラならやってくれるはず。ユーティライネンの血を引く者というからではなく、彼女達は有能な将だから。
「……全軍後退ッ!! 釣り出すぞッ!!」
フィリップ隊が少しずつ後退を始める。敵前後退というものは非常に難しい。ましてや敵を勢いづかせての行動だ。一歩間違えれば兵士に劣勢になったがための退却と受け止められ、統制が取れずに恐慌状態に陥ることも十分考えられる。それを起こさせないためには、何よりも指揮官への信頼が必要である。
そして、フィリップの部下達にはそれがあった。統率を保ったまま、ハイランド軍に少しずつ土地を譲っていく。
第一段階は成功。第二段階は果たして。
高揚感は感じるものの、不思議と恐怖は感じなかった。
~カチューシャ隊
「カチューシャ様、敵軍は後退を始めました!!」
副官からの報告は朗報であった。カレワラ軍先鋒は強かった。それだけに撤退するのが早い気がする。ひょっとしたら籠城に向けての戦力温存か。
そんな都合のいい展開が真っ先に浮かぶだなんて。そんな自分が少し面白くなったカチューシャであった。
カレワラ軍が後退した先には森林が見える。ラガド街道よりは広く見えるが、それでも左右を囲まれる形に変化はあるまい。狭そうなうえに、足場もいいとは思えない。あまりにも危険だ。
「……敵軍は三千もなかね。規模が知れただけで十分やんね。ここでコリアノフ様ば待つばい!」
慎重に動いて損はない。ここでコリアノフと合流し、斥候を放ち、伏兵の有無を確認してから追撃をかけても遅くはないだろう。
「その必要はない」
督戦官の声。カチューシャが振り返った先には、騎乗した督戦官がいた。胸当てをつけていても、戦を知らないであろう体の細い線は隠せない。その後ろにはコリアノフ率いる本隊の姿も見えた。追いつくのがやけに早い。結構な強行軍をしてきたのか。
「敵は怖じ気付いている。ここで追撃をかけずして、いつ追撃をかけるのだ」
「……お言葉ですが、この地形は待ち伏せに適しちょります。敵の戦術も鑑みれば、慎重に行って損はないかと……」
督戦官の表情が変わった。怒りと焦りの混ざった、余裕のない表情。
「ええい、何を怖じ気付いておる! それでもそなたはハイランド軍の先鋒か!? さては先の負け戦で怖じ気付いたか。情けない奴め!!」
情けないのは保身のために口出しをしてくるお前じゃないのか。
カチューシャはその言葉をかろうじてこらえる。言葉だけじゃない。今にも手が出そうだ。
「……カチューシャ。連中を取り逃がす訳にはいかん。それに、督戦官殿の命令だ。すまないが……」
督戦官の後ろにはコリアノフがいた。確かに先程戦った相手はソプニカの精鋭であり、ここで殲滅しておけば後々楽になる。
コリアノフにまで言われたら仕方ない。追撃をかけねばならないか。
「督戦官殿。我々は追撃に反対しました。そのことは覚えておいて頂きたい」
「構わん。文書にもしてやる」
督戦官の言質を取ったところで、コリアノフが少しだけ笑みを浮かべたのが見えた。
何か意味があるのだろうか。腑に落ちないが、今はそんなことを考えている場合ではあるまい。カチューシャは隊に戻り、追撃に出ることにした。
~ラナ隊
フィリップは後退した。だが、予定地点に敵軍の姿は見えない。
「……ラナ様、敵軍の動きが鈍いですが、どうします?」
どうやらフィリップの釣り出しは失敗したらしい。無理もない。敵は前の戦で奇襲によって手痛い損害を被っていたのだ。慎重にならざるを得ないのだろう。同じ失敗を繰り返すとは都合のいい考えだろう。
事前の打ち合わせでは、敵の釣り出しに失敗した場合は側面に迂回して強襲をかけることとなっていた。それに転じるのが正解か。
だが、敵はそのうち動き出すかもしれない。ここで自分だけ動けば、キーラと連携を取ることができずに各個撃破されるかもしれない。それは最悪のシナリオだ。
しかし、キーラが動いていればその逆。こちらが動かなければ、キーラは援護を受けることができずに撃破されてしまうだろう。これも最悪。
どうする。どう動く。
自分の決断で戦況の全てが変わる。そんな状況は初めてだった。そう、今までは側にアドルフがいたから。自分の決断と彼の意見をすり合わせて、取るべき行動を弾き出す。それが、ラナが今まで経験してきた戦闘だった。
前回はアドルフがいなかった。だが、やらなければならないことははっきりしていた。今回は違う。どのタイミングでどう動くかは自分で決めなければならない。
アドルフならどうする。フィリップならどうする。キーラならどうする。深雪なら。そして、父なら――。
……違う。
自分なら。ラナ・ユーティライネンならどうする。何をする。
「……キーラの合図はまだ出ていませんね?」
「はい。火矢は未だ上がっておりません」
キーラはまだ動いていない。だが、あまり時間をかけすぎると、敵軍はフィリップから与えられた損害―人的、そして精神的―を回復してしまうだろう。これでは戦死した者に申し訳が立たない。
ラナ・ユーティライネンなら――。
「……では、火矢の準備を。迂回し、敵軍の側面に攻撃をかけます!」
ラナの指示に、部隊が沸く。雌伏の時は終わり、攻撃の時が始まるのだ。
「これ以上機を逃す訳には参りません! 責任は私が取ります!! 攻撃開始ッ!!」
ラナ・ユーティライネンならこうする。
ラナ隊は合図の火矢を上げると共に、ハイランド軍の脇腹に向けて動き始めた。
~キーラ隊
「これ以上待ってても仕方ないよ! そろそろ動こう!!」
キーラは苛立っていた。敵は追撃をしない、ラナはなかなか動かない。このままじっとしていても何かが動くとは思えない。誰かが動かなければ変わらないのなら、自分が動かなければ。
「そうですな。我々が動けば、姫将軍も……いや。少々お待ちください」
アドルフは言葉を止めると、空を見上げる。ラナが潜んでいた方角から、数本の火矢が上がっているのが見えた。
「キーラ殿、合図の火矢です! 姫将軍が動かれました!」
「よーし、さっすがラナ姉、以心伝心のナイスタイミング! 僕達も遅れを取るわけにはいけないよッ!! アドルフ、すぐに合図して!! ラナ姉に遅れないように動くよっ!!」
「承知しました!! すぐに合図を行い、柔らかい脇腹を突つくと参りましょう!」
キーラ隊も合図の火矢を上げると、敵軍の側面めがけて動き出した。
ラナは尊敬する姉だが、これ以上手柄を譲るわけにはいかない。ソプニカにキーラあり。そう思い知らせてみせる。
それが自分達を助けてくれたフィリップと、遠い国から来た深雪のためになる。そう信じて。
~フィリップ隊
左右両翼から火矢が上がった。敵軍の追撃はしばらくないと思った矢先のことだ。流石はユーティライネン姉妹。よく戦況を捉えている。
ハイランド軍先鋒によって被った被害は少なくない。だが、この状況に持ち込めれば、間違いなく勝てる。
「……気炎と神速を併せ持つ我が精鋭達よッ!! 演技は終わりだ!! ハイランド軍に我々の本当の力を見せつける時が来たぞッ!!」
後退したにも関わらず、フィリップ隊の士気は極めて高い。それはフィリップへの信頼の裏返しであった。
フィリップの言う通りに動けば負けることはない。赤い虎の戦に、敗北という結果はない。
それは、フィリップ隊が共有する最大の価値観であった。
フィリップ隊は再び前進を始めた。元の場所に戻り、持っていた土地を奪い返すために。
そして、この戦いにケリをつけるために。
~ハイランド軍
恐慌が始まった。
決して広くないこの空間で、左右、そして正面から攻撃を加えられたのだ。ソプニカ兵の勢いは凄まじく、彼らの意志は攻撃で統一されていた。前進と待機、それらの意志が織り混じるハイランド兵との差は歴然で、ハイランド兵は次々と倒れ、そして逃亡していく。
兵が逃げる姿は恐怖を呼び、それを伝染させる。健全であり、戦意の高かった部隊ですら、それは例外ではなかった。次々と部隊が崩れていく。
「だけん言ったとに! こんなん、前んとといっちょん変わらんやんね!!」
戦況は完全に乱戦となっていた。三方向から怒濤の攻撃を加えられては、いくら大軍を擁しているとはいえ、そう長くは持つまい。
ならば、一刻も早くコリアノフを救出し、後詰めのロフスキーと合流、ブリュスに撤退する他にあるまい。ここで死んでは、ミレーニンに会わせる顔がない。
カチューシャは周囲を見渡す。なんとしてでもコリアノフだけは救出しなければならない。恩を抜きにしても、彼はハイランドのために死んではならない人間だ。それは政治に疎いカチューシャでも理解できる。
コリアノフがいるであろう方向に馬を走らせる。視界の端に移るのは、督戦官の胸当てか。彼は果たして生きているのやら。だが、今はそんなことを気に留めている場合ではない。
ミレーニンほどではないにしろ、カチューシャの武芸は優れたものである。立ちはだかる敵兵を次々と斬り捨てながら前に進んでいく。
「コリアノフ様ッ!!」
不幸中の幸いか、コリアノフは健在であった。彼の周りには旗本が円陣を組んでいる。
「……カチューシャか。済まぬ、儂の不覚であった。……儂も老いたな。敵の力を見誤っておった」
「過ぎたことば悔やんでもしょんなかです! 早ようロフスキー様と合流して、ブリュスまで戻りましょうッ!!」
カチューシャの提案を聞いたコリアノフは少し微笑んだ後、激しく咳き込んだ。彼の口からは赤いものが見える。
「……見ての通り、儂はそう長くない。儂というリスクを背負って逃げずとも良い」
「何ば……何ば仰るとですか!! あたしはそんな不義理は出来ません! コリアノフ様はハイランドに必要なお方です!!」
カチューシャの必死の訴えに、コリアノフは少し微笑んだように見えた。彼の表情からは満足感が感じられる。
「……良き将に育った。じゃが、この策は儂が死んで初めて成功するのじゃ。それに、ここでけじめをつけねば、ミレーニン達に示しがつかぬ」
コリアノフが懐剣を抜く。まさか――。
「コリアノフ様ッ!!」
カチューシャが押さえるよりも早く、コリアノフの懐剣は彼の首筋を斬り裂いた。満足そうな表情を浮かべたコリアノフが崩れ落ちる。
恩人であるコリアノフが倒れた姿で、カチューシャはしばし茫然自失となる。なぜコリアノフが死ななければならないのか。策とはなんなのか。これから先、自分は生き延びていいのだろうか。
勝てる戦争だったはずだ。何を誤ったというのか。なぜ、こんな事態に陥っているのか。
コリアノフから受けた恩は返せていない。なのに、彼は一方的に死を選んだ。けじめとは何なのか。戦に勝敗は付き物だし、督戦官の進軍強行が最大の敗因なのではないか。
ミレーニンに会わせる顔がない。弔い合戦なんて言っておきながら、無様なことだ。きっと、向こうで笑っているに違いない。
「……カチューシャ様、カチューシャ様!」
旗本の声で、頭の中をぐるぐると回っていた思考は吹き飛んだ。
そうだ、ここは戦場なのだ。迷っている時間も余裕もない。
「……迷惑ばかけたね。もう大丈夫ばい」
ひとまずはなんとしてでも生き残る。ロフスキーはまだ戦場に合流できていないはずだ。彼の軍と合流し、なんとか生き残らねば。
「この戦はもう終わりばい。やけん、命ば粗末にすることはなか」
ひどい負け戦だ。せめて、コリアノフの首を取らせる訳にはいかない。カチューシャはコリアノフの遺体を馬上に引きずりあげる。
「全軍、転進するばい。よかね、壊滅はしてなかよ。あたしとあんたらが生きとるっちゃけん」
この状況でも言葉を選んでいる。コリアノフの教えの賜物だ。
「よかね、絶対に生き残りぃよ! それ以外は許可せんばい!!」
カチューシャの号令で生き残った兵士達は小さくまとまり、後方へと急いだ。生き残る術はそれしかないのだから。
~フィリップ隊
戦闘は終わった。ソプニカ軍は集結し、損害と戦果の確認を行っていた。
ラナ隊の損害は百人に満たない。これほどまでにうまくいくとは思ってもみなかった。さすがはフィリップ。それに、見事なタイミングで動いてくれたキーラ。それがアドルフのおかげかどうかはわからない。だが、彼女も成長していることは確かだ。
「ラナ、見事だった。予定とは少々狂いが出たが、それを上手く修正してくれたな。あの機を逃していれば、我々はどうなったかわからん」
フィリップが肩を叩いてきた。
「人は流石はカール殿の娘……と言うだろうが、違うな。俺はこう言う。流石はラナ・ユーティライネン、と。この戦で、お前は一人立ちしたようなものだな」
フィリップが何気なく口にした一言。それは、ラナの涙腺を揺さぶるのに十分だった。目頭が熱くなるのを必死でこらえる。
父があっての自分ではなく、一人の将として評価された。それは、勝利と併さってとても嬉しくて。あぁ、変な顔になっていないかな。
「あ、ラナ姉!! 無事だったんだね!」
キーラが駆け寄ってくる。その後ろにはアドルフ。彼も無事だったのか。ラナのことを確認したのか、彼は笑顔を浮かべた。その笑顔を見た瞬間、自分の気持ちが抑えられなくなって。
「ひ、姫将軍!?」
アドルフに抱きついていた。嬉しさと、安心感と、もう一つ。
好き、という気持ちが押し寄せてきて。
戦場で何をしているのやら。だけど、この気持ちは抑えきれない。
ひょっとしたらこれが、一番の成長なのかも。
だなんて、変なことも考えてしまうのだった。
キーラ・ユーティライネンだよ。
ホントにもう、見せつけてくれちゃって!
っていうかこういうのはアドルフからやるべきなんじゃないのー?
でっかい体してるくせにさ、肝心なトコでダメなんだから。
え? あたしは?
そりゃもう押せ押せよ!
―――
なお相手がいない模様。
あと少しで終わりです。
もう少しだけお付き合いください。