七話
ネロは返す言葉がなく、ただ呆然と立ち尽くした。ソフィアはしばらくネロを見つめていたが、やがてつまらなさそうに鼻を鳴らして、背中を向けた。室内に開け放たれたベランダから心地良い風が吹いた。
ネロは顔を曇らせて、胸に手を当てた。
「知らないのも…当然だろ…悪魔なんだからきっと…一緒にいたらいけないんだ」
「そう」
「…俺…帰るよ」
「ご自由に。別に引き止めもしませんわ」
ネロはおどおどとソフィアを見つめて、部屋を出た。
純白のワンピースのフリルがふんわりと揺れた。ソフィアはネロに振り返ることなく、人間からカラスに変わるとベランダから飛び立った。
「ネロ!帰るんだって?」
一人、廊下を歩いていたネロは、エドワードが向こう側から走ってくるのを見つけて、胸がちくりと痛むのを感じた。なんの罪悪感とも知れぬ胸の痛みに動揺したネロは、薄い反応で返した。
「あ、ああ…うん…みつからなかった…から」
「そうか…少し待って!今お土産のクッキーを…」
「…なあ」
ネロは明るいエドワードの笑顔を、眩しそうに見上げた。真紅のリボンでまとめられたエドワードの髪が流れるように動き、彼は振り向いた。ネロは次の言葉に詰まって少し間を置き、
やがて目を逸らして尋ねた。
「どうして俺にそんなに優しくするんだ…?」
「ネロ?」
「俺は…俺はそんな無条件に優しくされたことなんてないんだ…だから、お前が何を考えているのか分からなくて…怖い」
ぽろっ、と涙がこぼれた。その一雫を皮切りに涙は一度に流れた。ぼろぼろと頬を流れてゆく涙をどうすることも出来ないエドワードはただ、おろおろと狼狽する。
ネロは両手をぎゅっと握って服の裾で涙を拭った。
「だけど、お前の優しさが本当なんじゃないかって思って、それも辛い。お願いだから…返してくれよ…大事なものなんだ…」
ネロはそのままわんわんと声をあげて泣いた。エドワードは少し困った顔をしていたが、やがて決心がついたように、胸元からペンダントを取り出して、そっとネロに差し出した。
「…すまなかった。私はずっと人間と仲良くしたくて…つい、君をここに呼ぶためにこうしてペンダントを隠していた…それは本当だよ…ありがとう、少しでも君がこうして来てくれて嬉しかった」
ネロはペンダントを受け取り、涙でぐしゃぐしゃな顔を上げてエドワードを見つめた。
「帰りは暗くなるから…気をつけて…さよなら、ネロ」
ぶわっ、と風が巻き起こった。その目を開けていられないほどの突風に目を閉じたネロは、再びその両目を開いたとき、いつの間にか森に居るのに気がついた。
右手には受け取ったペンダント、左手にはこれもまたいつの間にかクッキーが握られていて、その森から村まではすぐ側だった。
ネロは城の方角へと振り返った。かろうじて城の屋根が見える森の木々の間へ視線を遣り、ネロは大きくため息をついた。そしてその心にはぽっかりと、言いようのない穴がうがっているのが、
ネロには分かった。
帰宅し、墓の前で立ち尽くしたネロは、その墓前へとしゃがみこみ、クッキーが入った袋の紐をといた。まだ焼き立てで温かいそのクッキーを一枚墓前へと供えたネロは、小さな声で母に問うた。
「母さん…俺が…間違ってたのかな」
そして、腰にさしていた木の棒を側に置いて、家を目指した。
まるで今までのことが全て夢だったような奇妙な感覚に陥ったネロは、それが夢でなかった証であるクッキーを口に運んで、部屋のドアを閉めるのだった。
「そんな顔をするなら、返さなければよかったじゃない」
ソフィアは、ダイニングの窓から飽きもせず村を見下ろすエドワードに呆れて声を掛けた。
一人暗い室内で落ち込んでいたエドワードは、ソフィアの存在に気づいて、振り返った。
「ソフィア…」
「まあ、あたくしが冷たくしたからああなったのですけど…ごめんなさい」
「いいんだよ、これで。無理やり嫌がる客人をもてなしたって…可哀想なだけだよ…ネロは優しいから来てくれていたけど、もし僕が悪魔だって知ってたらこんな城…来ないもの」
「あの子、きっと村民にこのこと話すわよ?」
「いいよ…ありのままのことだからさ…」
エドワードは再び外を見遣った。ガラス越しに悲しげな表情の自分の顔が写る。
孤独感から人のぬくもりを求めていたエドワードは、ソフィアの細い腰を引き寄せて強く抱きしめた。
「君は…それでも僕を愛してくれる…それで、十分さソフィア…」
「………。」
ソフィアはその大きな背中を抱き返して、小さくため息を吐いた。
まるで大きな子供のように動かなくなったエドワードの背中を撫でながら、ソフィアは帰っていったネロを想った。




