第二話 国境の風、初陣
南境――アストラ議会国とサイザールとの国境地帯。
乾いた草原が続き、浅い谷を挟んで二つの軍旗が向かい合っていた。弓弦の鳴き、槍の軋み、遠くで軍鼓が土を震わせる。
アストラ側の前線指揮所に、茶色の風塵が走った。
その中心に、白銀色の外套の少年と、黒衣の護衛が現れる。
「到着しました。前線は、あと三百。サイザール、先鋒を押し上げています」
カムイの声は静かで、よく通った。
「ありがとう、カムイ。風が、熱い」
レオンは目を細める。南から吹き上がる風に、鉄と汗と恐れの匂いが混じっていた。
前線の将が駆け寄る。
「お前らは、ど、どなたか――」
カムイが一歩進み、短く告げる。
「風の魂心器の適合者、レオン様だ。議会の命により鎮静に来られた。初陣である」
将は言葉を失い、少年の仮面を凝視した。
「では、この少年が、最高戦力だと…」
次の瞬間、谷の向こうで軍鼓が強く打ち鳴らされ、サイザールの盾列がじりじりと前へ出る。
前線の将は、慌てて声を荒げる。
「矢が降ってくるぞ、全員構えろ!」
次の瞬間、敵の矢雨が空を黒くした。
レオンは背負ってきた《白銀の大槍》を素早く手に取り、天へ掲げた。
「――風壁」
レオンの所作の刹那、透明な壁が砂を巻き上げ、音を吸い込みながら前に生まれる。矢の群れは、はじかれ、逸れ、無害な雨粒のように土へ落ちた。
アストラ兵たちの列にざわめきが走る。恐れの吐息が驚愕へ、そして低い歓声へと変わる。
「前線にいる敵兵の数は五百というところかな。行ってくる」
「ご無理はなさらずに」
「わかってる。彼らに“退く理由”を渡してくる」
レオンは草原へ踏み出した。砂礫が少年の足を拒むより早く、風が地をならし、彼の歩幅に合わせて道を敷く。
サイザール兵は、先ほどの矢が無力化された出来事に驚嘆し、混乱している。
その様子を見ながら、レオンは、大槍を構えた。
「風槍――薙ぎ払い」
大槍の穂先が、見えない弧を描いた瞬間、猛烈な風がサイザール兵を襲い、前衛の列が崩れ、盾や弓矢が天を舞う。
「レオン様」
背から届いたカムイの声は、いつも通り落ち着いていた。
「流石です。敵兵は戦意を失っています。最後の一手を」
レオンは頷いた。
「退路は南西に空ける。彼らに選ばせる」
大槍の矢じりを前方方向に、両手で脇を締めて、水平に構える。レオンは一歩、踏み締め、激しく槍で眼前の空気を貫いた。
「風槍――風穴」
地表を滑る風が敵兵の後衛まで貫き、盾列ごと兵を後ろへ撫で流す。砂塵が爆ぜ、旗が折れ、槍の林が音を揃えて倒れる。
だが南西――退路にあたる一角だけは、風が柔く抜けた。そこに、静かな“道”が開く。
レオンは空気を吸い込み、大声を出す。
「聞け、サイザールの兵よ。俺は、アストラ議会国の風の魂心器の適合者だ。退かないなら全員この場で命を頂く」
レオンの声は風に乗って、まっすぐ敵の耳へ届いた。怒号より静かで、命令より確かだった。
最前列の一人が、たまらず後ずさりする。二人、三人。やがて、列は波のように揺れ、崩れ、後退し始めた。
軍鼓の替わりに、人の足音と鎧の擦れる音が、撤退のリズムを刻む。
「追う必要はない」
レオンはアストラ側へ振り向きながら、短く命じた。
一拍の沈黙ののち、前線全体が沸騰した。
驚きが歓喜へ跳ね上がる。
誰かが槍を掲げ、誰かが帽子を空へ投げ、誰かが泣いた。
「退いた! サイザールが退いたぞ!」
怒涛の歓声が風に攫われ、空に解けた。
レオンは大槍を下ろし、息を整える。
カムイが傍らに立ち、片膝をつく。
「お見事でした、レオン様。負傷者、ほぼ無し。前線は保たれました」
「初陣はここで完遂ってことでいいか?」
「はい。サイザールは、南西へ秩序を保って退いています。追撃を望む声もありますが――」
「決して追撃をさせるな」
カムイは恭しく頷き、将に伝令を飛ばす。やがて将が駆け戻り、深く頭を下げた。
「ご命令の通り、追撃は行いません。……レオン様、先ほどは、失礼を。あなたが“噂”ではなく“現実”であることを、この目で焼き付けました」
レオンは首を振る。
「俺は風を整えただけだ。兵の皆が、ここを守ってくれた」
風が変わる。さっきまで熱を帯びていた空気が、谷間を撫でる夕方の冷たさに変わっていく。
遠く、サイザールの退く旗が小さく揺れ、丘の向こうへ消えた。
「カムイ」
「はい」
「帰ろう。報告を」
「仰せのままに。レオン様」
二人は踵を返した。歓声の間を、風は柔らかく道に変え続ける。
少年の背に、千の視線が集まり、同じ思いを抱いた。
――この日、アストラ軍は“風の子”の名が伝説ではないと知った。
驚きは誇りに、誇りは士気へ。
サイザールは撤退し、国境は鎮まった。
アストラ議会国の、《零敗の疾風》の再臨の情報が、世界に轟くのに時間はかからなかった。




