ズッコケおっさん、誤字脱字の呪縛について考える
「念には念を入れよ」
これは細かい注意を重ね、幾度も確認を行ない、手落ちなきようにと諭す言葉である。
それでは、以下の言葉は如何か。
「誤字脱字を発見するには他者の視線を入れよ」
この言葉は、どうしても発見できぬ自分の書いた文章の誤字脱字を発見して修正するには、他者に読ませて指摘されたほうが早い、という意味である。
因みにその言葉は先人たちが遺してくれた諺でも慣用句でもない。
よって、学校の国語の試験に出題されることはないから覚える必要もない。
他者に自分の書いた文章を読ませることに恥じらいを感じる人がいる。
その他者が例えズッ友の間柄であっても、だ。
私はこのエッセイやラブコメ系ローファンタジーラノベを『小説家になろう』を通じて世界の不特定多数の人たちに発信しているくらいなので、言わずもがな、自分の書いた文章を他者に読まれることに抵抗はない。
しかし、他者にこれを読まれたら恥じらいを感じる、というのはある。
それは銀行の預金通帳と己の心だ。
それはさておき、誤字脱字の呪縛から逃れるには他者の視線が必要だ。
この呪縛とは、自分で何度も読み返しても誤字脱字を発見できない事象を言う。
その呪縛から解き放たれるための方法を以下の通りに提案したい。
ズッ友に読ませて指摘を乞うてもよい。
肉親に読ませて指摘を乞うのも清々しい。
不特定多数の人たちに読ませて指摘を乞うのも捨てがたい。
誤字脱字を指摘されるのは恥ずかしい経験になるかもしれない。
それは私にとって銀行の預金通帳と己の心を読まれて指摘されると同じように。
しかし、その恥じらいを乗り越えて紡がれる物語の文章はいと美しい。
ただし、銀行の預金通帳と己の心を読まれて指摘されて赤面するだろう私はいと醜い。
誤字脱字の呪縛から解き放たれるための方法は恥じらいを伴うが、いと美しい文章で綴られる物語やエッセイは読者の心理には多大な影響を伴わせる。
恥じらいを恐れるか、それとも、読者の心を鷲掴みにするか、で選択である。
「念には念を入れよ」
これは自力本願でそれを成し遂げよ、というだけではなく、関係を持つ他者と共に成し遂げよ、といった含みもあると思う。
人は他者との関係を断絶して生きてはいけないからだ。
誤字脱字の呪縛から解き放たれるためには、他者に頼るというのは何ら不自然ではない。