屋上からの、終わらない転落
住本沙哉佳は門野茉矢へと手を伸ばした。
「ようこそ」後ろに倒れていきながら彼女はささやく。
長い黒髪がゆるやかに広がる。紺のプリーツスカートがはためく。規定通りの膝下丈。屋上の柵の向こう側の出来事。その背後には何もない。
恐ろしいほどの力で引っ張られる。その場に踏みとどまることはできなかった。腕をとられたまま同じく柵を飛び越えていく。
浮遊する。
思わず目を閉じる。衝撃に備える。そんなことしても何の意味もないのに。
どれくらいの時間そうしていだのだろうか? わからない。期待した衝撃はまだ襲ってこない。恐る恐る目を開いた。
すぐそばに茉矢の顔。鼻と鼻が触れる距離。どうして今まで気づかなかったのか不思議なぐらいの位置関係。
死の直前において時間が無限に引きのばされるという。今体験しているのはそれなのかもしれない。
けれども周りの風景は確かに流れていて、四角い校舎に並ぶ四角い窓が急速に通り過ぎる。1……2……3……。
気づく。同じ光景の繰り返しだ。2人の体はずっと同じ場所を落ちつづけている。始まりもなければ終わりもない。ただ繰り返す。
沙哉佳は尋ねた。「どうして地面に届かないの」
茉矢は答えた。「落ちている間はずっと落ちているのが当たり前だろう」
なるほど、それはそうだ。落ちているのだからその間は落ちつづけなくてはいけない。言われてみればその通りだ。
けれども新しい疑問が浮かんでくる。私たちはいったいどれだけの間、落ちつづけていればいいのだろうか?
口にするまでもなく答えを思いついた。地面に届くまでだ。地面に届くまで落ちつづけなければならない。そういうふうにできているから。
あくびをひとつする。なんだか眠くなってきた。どうやら時間はたっぷりあるらしい。
目を閉じた。ひと眠りすることにしよう。地面についたらさすがに気づくだろう。あるいは茉矢が起こしてくれるかもしれない。
「おやすみ」静かな声が闇の中で響いた。
目を開く。沙哉佳の体は冷たい地面の上に横になっている。
その場所が地下だということはわかった。地下でなければなんなんだろう。あれだけ落ちていったのだから行き着く先は地下に決まっている。
起き上がる。かすかな笑い声が聞こえる。そちらに目を移した。
簡素な白い丸テーブル。2つの人影が席に着く。1人は茉矢、もう1人はわからない。形のない黒い影が揺れている。
テーブルの上にはティーカップがきちんと2つ。楽しそうに言葉を交わしている。その音は沙哉佳の耳にも届く。その意味はよくわからない。
遠慮がちに席に着いた。黒い影は優雅な所作で沙哉佳にもお茶を出してくれる。暖かい。自分の体が凍えていたことを知る。
談笑はつづいている。私も会話に参加すべきだろうか? けれども何を話しているのだかまったく見当がつかない。
声をひそめて尋ねる。「何を話しているの?」
茉矢は強い口調ではっきりと答えた。「そんなこと僕にわかるわけないじゃないか!」
瞬間、カーテンをさっとあけるみたいに闇が消えてなくなる。風が吹き抜けていく。空間を区切っていた壁が音もなく崩れる。
セーラー服の少女は遠く草原を駆け抜けていく。沙哉佳は茉矢に追いつかなくてはいけないと理解する。
理由はわからない。多分理由はいらない。
いつまでたっても追いつかない。永遠に走りつづける。かわりに疲労も感じない。走りつづけるとは苦ではない。けれどもいずれ物理的限界は訪れる。自分の意志とは無関係に肉体は朽ち果てる。それが怖かった。
沙哉佳は走るのを止める。茉矢はくるりと振り返る。そうしてそのまま後ろに倒れていく。沙哉佳は手を伸ばして茉矢の腕をつかんだ。そのまま2人はもつれあって倒れ込む。
屋上のコンクリートの上に。
茉矢は長い髪を垂らしたまま言うった。「おはよう」
沙哉佳は曇り空に焦点を合わせて答えた。「おはよう」