夢物語
ピンチ―の思惑通り、人質に取られた俺を前に、剣の柄に手を添えたままテトは動けない。
「確かに成功する可能性は低いかもしれない。でも手術を受けるかどうか、それは君が決めることじゃないだろう」
体を動かせない以上、テトは口を動かす。
「可能性が低い? 生きた人間の体をかっさばくなんて、上手くいくわけないでしょ。それも魔核は心臓の中にあるんだから絶対に無理。心臓は急所。テトもそう教わったはずでしょ」
やはり、地球の医療を知らない人たちからすると、手術という行為はそう受け取られてしまうのか。
「ちょっと待ってくれ。ギースと牛じゃ成功してる」
「へー。それはすごいね。それで次はボルドルさんで試す? ふざけないで。ボルドルさんは家畜じゃない」
俺が慌てて情報を補足するも、ピンチーの心は1ミリも揺れない。ピンチーの中で手術はボルドルさんを殺す行為。一度固まってしまった認識は、そう簡単には変わらない。
それにボルドルさんが死んでしまう可能性は、少なからずどころか、大いにありえるのは事実だった。
「テトはいいよね。両親が死んだのが物心付く前で。私は覚えてる。優しかった父さんと母さんのこと。そして、幸せな時間がいきなり奪われた日のことも、全部昨日のことみたいに思い出せる」
幼い頃の両親との死別。この世界でのよくある話。ピンチーもテトと同じだったのか。
「私はお父さんとお母さんと、一秒でも長く一緒に居たかった。もしこれで最後なんだってわかってたら言いたいことがいっぱいあった。テトとマサトには感謝してるよ。標石のおかげで、その願いがある程度現できるようになったんだから。これからわたしみたいな後悔するやつは少なくなる。でも」
ピンチーは、俺を羽交い締めている腕に力を込めた。女性とは思えないその剛力に、俺の全身の骨はポッキーみたいに折れてしまいそうだ。
「手術ってのはダメ。あれはただの夢物語だよ」
それまでより低い声で、彼女は呟いた。顔が見えないのに、彼女の顔から笑みが消えたのが手に取るようにわかった。
「確かにボルドルさんはテトのお願いならそんな現実味のない夢物語でも了承しちゃうかもね。リーゼもボルドルさんが助かる可能性があるならって納得するかもしれない。
まあ身内に対して冷静に判断できないのは仕方ないこと。でもね。今は良いって思ってても、その手術ってのが失敗してボルドルさんを亡くした後で、みんな絶対に後悔することになる。わたしはね、ただボルドルさんにとって残り少ない家族の時間を邪魔してほしくないだけなの
「なのにどうしてわかってもらえないのかな?」と、ピンチーは諭すように問いかけた。
「君こそ、親を助けたいと思う気持ちがどうしてわからないんだ」
テトが言い返すと、ピンチーはため息を吐く。
「今のテトはハンター失格だよ。殺す覚悟ができずに現実から眼を背けて、夢物語に逃げてるだけのただの臆病者」
「臆病者はどっちだよ」
好き放題言ってくるピンチーに、俺はたまらず口をはさむ。
「マサト、なにか言った?」
背後の威圧感が増す。首筋に添えられた刃がほんの少し押し込められ、鋭い痛みが走った。
だが今更吐いたツバは飲み込めないし、飲み込む気もない。
それに切れたとしても薄皮一枚。手術についての話を聞いていたなら彼女もわかっているはずだ。手術に俺は必要ない。俺を殺せばただ人質を失うだけだと。
だから殺されることはない、はずだ。
「何が殺す覚悟だよ。覚悟ってカッコよく言ってるだけで、ただボルドルさんを救うことを諦めただけだろ。本当の覚悟っていうのは、なにがあっても最後までボルドルさんを救うことを諦めないことなんじゃないのかよ。ピンチーはまた期待を裏切られるのを怖がって、希望に手をのばすのが怖くなっただけじゃないか。臆病者はそっちの方なんじゃないのか」
ピンチーから向けられる殺気は増すばかりだが、予想通りそれ以上刃が押し込まれることはなかった。
「ちょっとなにが、あんたなにやってんの!」
どたばたと騒ぎを聞きつけてきたエルが叫ぶ。続くように神父様とヨルも姿を見せた。
ヨルがいち早く臨戦態勢を取るが、刃を首筋に添えられた俺を見て動きを止める。
増援が来ても状況は好転しなかった。
「ねえマサト。標石はどう? ボルドルさんを寿命から救えた? むしろ気づきたくもなかった真実をわたし達に見せつけただけじゃない。
今回だってどうせ同じ。私達がいままで何度期待して、何度裏切られてきたと思ってるの。この壁外じゃどれだけ期待したって報われることなんてない。口先だけでなんにもできないやつが吠えないで」
清々しいほどにピンチーの言うことは正しかった。そうだよ。口先だけで自分じゃなにもできなくて。いつも他人頼りで。でも、そんな俺にだってできることがあるんだよ。
「手を伸ばすだけなら、俺にだってできるんだよ」
数少ない俺にもできることなんだ。助けられるかもしれないんだ。何度裏切られても何度だって手を伸ばす。俺にできることはそれくらいしかないから。
ボルドルさんがどう思ってるかなんて俺にはわからない
でも俺もボルドルさんと同じように、きっとそう遠くない未来に死ぬ。だからといってそれを仕方のないことだと受け入れるなんて俺には死んでも御免だった。
瘴気を無くして、そんでうまい寿司を食って、長生きして、幸せに暮らしてみせる。その為にはいくら可能性が低かろうが、生き残るすべを探してみせる。
願いは違うかもしれない。でも生きたいと、たとえ分の悪い賭けだったとしてもそれでも生きたいと思っているのはボルドルさんだって同じだと思うんだ。
「おまえらが何度も期待に裏切られてきたってのはわかったよ。それでもうなにかに期待するのが怖いっていうなら、ただ見てるだけでいいんだ。手なら俺たちが代わりに伸ばすから」
ピンチーは黙り込む。いや、考え込んでいる。一度固まった認識を変えるのは確かに難しいことだ。けどピンチ―は思考を放棄しているわけじゃない。だって俺は気付いている。密着した彼女の体が小刻みに震えていることに。
俺たちの言葉は、ちゃんと彼女に届いている。ならば、説得できる余地はあるはずだ。彼女の心を動かせさえすれば。
「ダメ。分の悪いふざけた方法に賭けるなんてバカはせず、ボルドルさんには残された時間を最後の最後まで大切に使ってもらう。リーゼと少しでも一緒に、せめて最後の一瞬まで悔いが残らないように」
しかし俺の言葉は、心を動かすことはできなかったらしい。ピンチーの主張は変わらなかった。
もう俺に打てる手はなかった。彼女の言う通り、俺には口先だけしかないのだから。
今俺にできることなんて、この押し付けられた刃に自分から更に首を押し付けて、人質としての価値を無くすことくらいしか思い浮かばない。
「……ふざけるな」
そんなバカな考えが頭をよぎると同時に、低い、明らかに憤怒を含んだ声が響く。声の出どころは、テトだった。
「悔いが残らないように? ああ、ぼくも以前はこうだったんだろうね。変えようのない現実に立ち向かうこともせず、ただ仕方ないことだと受け入れて、自分は十分幸せなんだと騙して」
苛立ちの表情をあらわに、テトは自嘲するように「はっ」と笑った。
「どれだけ最後に最高の一時を過ごしたとしても、悔いが残らないなんてわけがあるか。娘をハンターにさせたくないくせに、結局自分の元から手放せなかったあの親バカが、娘の成長を見れないまま死んでいって悔いが残らないなんてことがあるかっ!」
テトがそう吠えると、ほんの一瞬俺を拘束しているピンチ―の力が緩まる。といっても、到底俺のような非力が抜け出せるレベルではないが。
「……テトは変わっちゃったね。前はもっと現実が見えてる奴だと思ってたのに。マサトになにを吹き込まれたのか、叶わない夢なんて見ちゃってさ」
テトの熱が入った物言いに、ピンチーどこか悲しそうにそう呟いた。
「バッカじゃないの!」
それまで苦々しい表情で状況を見守っていたエルから罵倒が飛んだ。
「さっきから聞いてればあんた、叶わない夢だとか夢物語とか。夢でなにが悪いの? こんなクソみたいな世界で生きている私達にだって、ううん。こんなクソみたいな世界で生きてるからこそ、夢を見る権利くらいある! 下向いてるやつが、前向いてるやつの足ひっぱらないでよ」
かつて今のピンチーと同じように夢見ることをやめていた少女は、自分よりずっと強いピンチーの眼を真っ直ぐに射抜いてそう叫んだ。
幼い少女の眼力に、ずるりとピンチ―は後ずさる。
「わたしは……ただ!」
震える声と同じように、明らかに彼女の心は大きく揺れ動いていた。
キィ、と音を立て、背後の扉が開く。
はっと我に返ったピンチーが、俺を羽交い締めたまま振り向く。
「あー。外で話は聞いてたんだが、どうにも入りづらくてな。悪いなマサト」
そこに居たのはハンターを数人引き連れたボルドルさんとリーゼだった。
「どうして……ボルドルさんがここに」
唖然としたように、ピンチーが呟く。全身から力が抜け、たやすく抜け出せるくらいに。
ボルドルさんとピンチーが揃って気まずそうに、その赤毛を人指し指で掻いた。
「しゅじゅちゅのこと、父ちゃんに話したらテトに会いに行くって聞かなくて。仕方なく」
「リーゼ。ボルドルさんに話したらこうなるってわかってたでしょ。なのになんでっ」
耳元で発せられた大声にキーンと耳鳴りがする。
「そりゃあ私もピンチ―が言ってたみたいに、父ちゃんと一秒でも長く一緒にいたいけどさ。でもやっぱり、わたしは父ちゃんに生きててほしいよ。ずっと。ずーっと。一緒に居てほしいんだよ。たとえそれが、分の悪い賭けだったとしてもさ」
そう言って、リーゼは悩みなんて全部吹っ切れたような清々しい顔で笑った。
「ピンチ―。とりあえず剣を下げろ。なにを言い合うにしてもまずそっからだ」
テトやエルに散々揺さぶられた心。そこにトドメを刺すようなボルドルさんの柔らかな声に、ピンチ―の腕がだらんと力なく垂れ下がる。剣がその手からこぼれ落ちて、床にごとりと重たい音を立てて転がった。