臆病者の精一杯
「ギイイぃィィィィ!」
身の毛のよだつ鳴き声が、空洞に反響した。ああ、蜘蛛って鳴くんだ。さっきのやつは鳴かなかったんだけどなあ。それが洞窟の奥から現れた俺よりもデカイ化け蜘蛛の親玉に対する感想だった。
恐怖で放心していると、体の側面に衝撃が走り、俺は地面に転がった。
気づけば俺が立っていた地面に、べっちゃりと広範囲に白い糸が広がっている。どうやら、テトが俺を押し飛ばしたらしい。
「なにぼっとしてるんだ!」
テトの怒鳴り声で、ハッと我に返る。いつも感情を出さないテトが声を張り上げるほどの状況なのだ。蜘蛛が怖いだなんてバカみたいなわがままを言っている場合じゃあない。
歯を食いしばってクロスボウに矢をつがえ、化け蜘蛛に向けて発射した。
しかし化け物蜘蛛は巨体に見合わぬ俊敏さでバネのように横に跳ねて矢を躱す。デカイ図体してるくせに、なんで子蜘蛛より素早いんだよ!
ああ、家に蜘蛛が出た時は、どうしてたっけ。大抵は、母が熱湯で殺していた気がする。熱湯を浴びせられて、くるりとまるでダンゴムシのように小さく丸まった蜘蛛を思い出す。
「おいテト、水魔法が使えるんだろ?熱湯とか出せないのか!」
「ふざけるな。魔法の改良っていうのはそう簡単なことじゃ、ないんだよッ!」
ちょろろと、そう言うテトの指先から水が出た。温度はわからないとはいえ、湯気を立てるそれは紛れもなくお湯だった。相当に熱そうではある。
「……できたね」
「できたな」
おそらく、そんなことできないと証明するために水を出そうとしたのだろう。湯を出したテト自身が一番驚いているようだった。
思わず、こんな緊迫した状況にも関わらず、一瞬足を止めてテトとお互い見合ってしまった。
「よし、その熱湯を勢い良くあいつにぶつけてやれ!」
俺の喉奥に噴射した時なんて目じゃないほどの勢いで、テトの手から大量の熱湯が噴射される。
す、すげぇ!蛇口をひねりきったホースくらいのものを期待していたけど、まるでハイドロポンプじゃないか。クロスボウのような点の攻撃は身のこなしで躱せても、これだけの広範囲の面を捉える攻撃は躱すに躱せなかったらしい。大量の熱湯が、ものすごい勢いで蜘蛛へと直撃した。これでどの口が魔法は得意じゃないとか言っていたのだろう。いける!これならこの化け物を倒せる!
「やればできるじゃないか!」
「君は何様のつもりなん、だっ!」
熱湯の量が少ないのか、温度が低いからか、はたまた化け物蜘蛛が強いのか。化け蜘蛛は苦しそうな呻き声をあげるものの、普通の蜘蛛のように即死するなんてことはなかった。
「よしそのままゆで蜘蛛にしちまえ!」
言いながら、俺は次の矢をつがえる。
「ぼくもそうしたいところだけど、残念なことにこの熱湯を射出する魔法、だいぶ燃費が悪いみたいでね。もうすぐ打ち止めだ」
言うが早いか、熱湯のビームがどんどんと細くなっていく。さきほどまで矢も躱すほどの機敏さを見せた化け蜘蛛は、しかしその細い熱湯を避けることはできないようだった。どうやら弱っていることは確実らしい。しかし、やがてビームの勢いが衰えていく。
今なら、当てられる気がする。というか当たれ当たれ当たれ!そう念じながら放った矢が、初めて化け物蜘蛛の気持ち悪い顔面へと突き刺さって、複数ある眼のうちの一つを潰した。
今までの中でも一際におぞましい鳴き声が耳をつんざく。
「テト!」
「わかってる!」
俺が言うよりも早くテトはもがく化物蜘蛛へと急接近し、そしてもう半歩で剣の間合いに入るというところで、急に前のめりにガクッとバランスを崩した。テトの足を絡め取ったのは、地面にへばりついていた、蜘蛛の糸だった。
千載一遇のチャンスに焦ったのだろうか?いつも飄々と状況を俯瞰しているテトらしくないドジだった。思えば、卵を見たときから冷静を欠き、すでに彼はらしくなかった。表面上は落ち着いたように見えていても、心の中はまだ揺れたままだったのかもしれない。
「くッ」
足に絡む糸を松明で炙り逃れようとするテトに、蜘蛛の前足が振り下ろされた。
「テト!」
吹き飛ばされたテトの安否を確認しようと試みるも、化物蜘蛛が今度はこちらへと向かってくるのを確認した俺は、念の為と渡されていた剣を引き抜く。へっぴり腰になっているのが自分でもわかった。しかし腰を抜かさなかっただけマシではないか。もうわけも分からぬ中でそう自己弁護した次の瞬間、飛びかかってきた巨体の迫力に気押された俺は「ひっ」と情けない声をあげながら尻もちをついた。恐怖に目をつむりながらも、半ば反射的に剣を胸の前でまっすぐに構えた。
ギィイイイイイッという身の毛のよだつような鳴き声に、体中に鳥肌が立つ。しかし、いつまで経っても覚悟した痛みが襲ってこない。代わりに生暖かい、ドロッとしたものが手袋に伝ってくるのが感触でわかった。感覚があるということは、俺はまだ生きているということでいいのだろう。俺は恐る恐るゆっくりと薄目を開いて状況を確認する。
「うわあっ」
まるでテントのように俺にのしかかろうする化け蜘蛛の胴体を、苦し紛れに構えた剣が貫いていた。剣を伝って手袋を汚す紫色のどろっとした液体に、見上げた化け蜘蛛の腹部に思わず「うっ」とえずく。喉元までくり上がってきた胃酸をすんでのところで食い止める。もし空腹でなかったらガスマスクの中が地獄になっていたかもしれない。喉を焼く酸っぱさに涙が出そうになりながらも、俺はなんとか胃酸を胃へと押し戻した。
倒した……のか?そんな心の中で呟いた疑問に答えるように、化け蜘蛛の体が端々から黒い塵となっていく。
やがて化け蜘蛛は完全に消滅し、魔核と、刺さっていた剣がからんと地面に落ちた。
「そ、そうだ、テトっ!」
俺はばっと立ち上がり、はじき飛ばされたテトの安否を確認しに行く。
「こっちは無事だよ。なんとか、ね」
テトはごつごつした壁によりかかり、脇腹を抑えていた。
「よかった。てっきり死んでしまったかと思ったぞ……」
化け蜘蛛の前足が振り下ろされた時、すげえ音がしてたし、壁にぶつかった時の勢いもすごかった。でも、どうやら自分で立てるくらいには元気らしい。俺は膝に手をつき、はぁ~~っと安堵の息を地面に向けて漏らした。
「とっさに剣を間に挟んでガードしたんだ。といってもあばらの二三本折れてそうな気はするが、肺や臓器に刺さってる感じじゃない。これくらいなら問題ないよ。なによりガスマスクが壊れなくてよかった」
テトが差し出すひしゃげた剣が、化け蜘蛛の攻撃のすさまじさを物語っていた。
それに、ガスマスク。確かにちょっとした怪我よりも、そっちの可能性を懸念するべきだった。慌ててテトの周りをぐるりと回り、ガスマスクの状態を確認するがどこか壊れている様子はない。大丈夫そうだ。
一先ず安心して余裕が出てきたのだろうか。俺は自らの服や手袋を汚すドロッとした紫色の体液が気になってきた。汗で濡れた髪が首筋に当たるなんて比じゃないくらいの不快感だ。魔物が死んで本体が消えても、垂れた体液は消えないらしい。そういえば発射された糸も残っていたし、一体どういう基準で魔物は塵になるのだろうか。
「うん。まだ死んでないってことは毒でも酸でもないらしい。ドロドロになったのが服だけでよかったじゃないか。運が良かったね」
「良いわけあるかよ。気持ち悪いったらないぞ」
テトの水魔法も熱湯のせいで打ち止め。今は洗い流すこともできないようだ。着替えなんて持ってきちゃいない。しばらくはこのままだろう。
「それにしても、剣を構えたところに勝手にあの化け蜘蛛が飛び込んできてくれるなんて君は運がいいね」
「運の良さで片付けないでくれよ。勇気を振り絞って剣を構えたからこその結果なんだからさ」
あばらが折れても平然としているテトの前でそんなしょうもないことで誇っている自分が情けなく思えてきた。