冷たさの理由
あれから何ヶ月かが過ぎ、紆余曲折あってようやくガスマスクが完成し、ギースも十分に乗れるようになった頃。満を持して……まあガスマスクが不完全で洞窟への道中で死ぬ可能性は多分にあるが、とりあえずは現時点の最善をつくして、俺はエルミーと再度交渉を試みることにした。
「はあ?」
それが、ガスマスクについてと、これから標石を入手するためにガスマスクの性能テストも兼ねて瘴気に飲まれた洞窟に行く予定であると告げた際のエルミーの反応だった。彼女は立ちくらみでもしたようにぐらりと後ろに半歩下がって、額に手を当てる。
「ちょっと、待って。意味、分かんない。なんで、なんでそういうことになるわけ?」
「そこらへんはほら、俺も正直よくわかってないから」
実は本当にそうなのだ。ガスマスクを作ろうと考えたった当初の俺は、まさか洞窟に鉱石を探しに行くことになるとはまるで思っていなかった。
「ふざけんな。そんなの死にに行くようなもんじゃない。なに自殺しようとしてんの!」
「でも、成果をあげろって言ってただろ?このガスマスクが俺の成果だ。あとは、性能をテストするだけ。じゃないとエルミーもこれが瘴気への対抗手段になる、なんて素直に認めてくれないだろ?」
「じゃ、じゃあ、協力するかから。だから洞窟に行くのはやめなさいよ」
今まで俺のことを詐欺師呼ばわりし、誘いに頑なに頷かなかったエルミーは、あっさりとそう言ったのだった。
「なんだ。もしかして心配してくれてんのか?」
「はあ!?せっかくちょっとは仕事で役にたつようになってきたのにまた抜けられたら迷惑だって言ってんの!」
エルミーは声を張り上げた。
「でも、ごめん。洞窟に行くのはやめられない」
断られることは予想外だったのだろう。エルミーは目をまんまるにして、金魚みたいにパクパクと口を開閉している。確かに、俺の当初の目的は神父様以外の光魔法の使い手であるエルミーの協力を得ることだった。しかし、その後に魔核の性質に気づき、ガスマスクの開発を思いつき、標石の存在を知ってしまった。今では俺自身が標石も、ガスマスクの性能テストも必要だと思ってしまっている。だから、例え当初の目的だったエルミーの協力が手に入るのだとしても、洞窟に行かないという選択肢はなかった。
「行くな」「いやだ」「行くな」「いやだ」
俺が答えるたび、エルミーは俺の体の各所へと殴る、蹴るの暴行を加えてきた。
「……行かないでよ」
やがて、エルミーは俺の服を掴み、すがるように見上げる。別人になったんじゃないかというくらいの様子の変化に、殴られすぎて頭がどうかしてしまったのかもしれないと俺は思わず耳を疑い目をこする。しかし、悲痛な表情で俺を見上げる少女は間違いなくエルミーだった。
「別にいいじゃない。無理なんてする必要なんてない。今のままで、今のままでいいじゃない。孤児院のみんなで毎日暮らして、それだけで十分じゃない。それだけで満足しなきゃダメなの。これ以上なにかを求めようだなんて、高望みなんてしちゃダメなの!」
エルミーは叫んだ。
「わたし、今が幸せなの。昔より、ずっと幸せ。人助け中毒のバカな神父様がいて。冷めた振りしてホントは一番面倒見がいいテトがいて。何考えてんのかわかんなくてたまに奇行に走るヨルがいて。きょどきょどしてるくせに、わたしが何回突き放しても何事もなかったみたいにちょっかいかけてくる図太いあんたがいて。そんな今の孤児院がわたしは好きなの。わたしの幸せを、わたしの居場所を壊さないでよ……」
最初は鈍く重くぼくを叩きつけていた拳が今はパスパスと、力なく押し付けられる。
「エルミー……」
彼女は怖いのだ。彼女はさんざん期待されたあげく、親に捨てられた。彼女はようやく手に入れた、幸せとも言えるかもしれない今の環境が変わってしまうかもしれないのが怖いのだ。
なあエルミー。おまえが俺や、他の人に冷たくて、度が過ぎるほどに生意気な理由、なんとなくわかるんだよ。ハンスが死んでしまってから、わかるようになったんだよ。怖いんだろ?自分の親しい人間がある日突然いなくなってしまうのが。
仲良くなんてなりたくないよな。だってせっかく仲良くなっても、いつ死んでしまうかもわからない。ここはそんな世界だから。瘴気のせいで、生きたまま心が壊れてしまう人もいる。傷つくのは誰だって嫌だ。どうせ後で苦しむくらいなら、最初から突き放して嫌われてるほうがずっと楽だよな。最初から一人なら、別れの辛さなど味合わずに済むのだから。
エルミーは昔、自らの両親から捨てられた。信じていたはずの、好きだったはずの肉親に手のひらを返されて、捨てられた。エルミーがその時裏切られたと感じたか、別れに悲しんだか、どんな感情を抱いたかはわからない。けど、彼女は自身を取り巻く環境がいとも容易く変化してしまうことを知っているのだ。幸せというのがどんなに簡単に壊れてしまうかを知っているのだ。もうあんな思いをしたくないと心に防壁を作ってしまう理由としては、それだけでも十分だろう。
そして、そんな外界すべてにバリアを貼ってきた彼女にとっての例外が孤児院の連中なのだと思う。神父様に、テトに、ヨルに。そして今の口ぶりからみるに、意外なことにぽっと出の俺も……そこに含まれているようだった。それはとても光栄なことだと思う。ただ、それでも。いやだからこそ、俺は行かなければならないのだ。
「ほんとは、私を捨てた両親に復讐するとかどうでもいい。わたしにとっての家族は、もう孤児院のみんなだけだから。分不相な夢なんて見るやつに限って、この街じゃすぐ死んじゃうんだよ。だから身の丈にあった幸せをみんなで仲良く送ればいい。そうでしょ?」
「わたしは、わたしは今のままでいいの。それで満足しなきゃダメなの。夢なんて見るやつは、すぐ死んじゃうんだから。だから、身の丈にあった幸せを、みんなで仲良く送ればいいじゃない。そうでしょ?」
取り乱し、我を忘れたように孤児院のみんなや両親についての思いのたけを吐き出した後、エルミーの目がじっと俺をつき刺した。
「……だから。お願いだから、行かないでよ」
その言葉はどんな力強いパンチよりも強烈な暴力として俺の心を殴った。
「ごめんな。エルミー。俺も、今が幸福だとは思うよ」
こんな世界に放り出されたことは、不幸以外のなにものでもないだろう。でも今こうして孤児院でみんなと過ごす日々は、俺にとってもうかけがえのない日常になっていた。けれど、けれどもだ。
「俺、寿司が食いたいんだよ。だから今の幸せで満足することなんてできない」
「そんな、そんなバカみたいな理由でッ!」
確かに口に出すと自分でも笑ってしまうほど馬鹿っぽい理由だった。
「そのついでにさ、瘴気も無くそうと思ってるんだ。瘴気のことなんてなんにも気にせず、誰とでも躊躇なく仲良くできる世界にするからさ」
この世界から瘴気が無くなっても突然の別れは訪れるだろう。それでも、出会った瞬間別れのことを考えなければいけないなんてクソみたいな世界は、もうなくなる。誰かの死に悲しんで、悲しんで。たっぷり時間をかけて前を向ける。そんな世界になればいいなと俺は思うのだ。死を慈しむ暇もなく、首根っこを捕まれ無理やり前を向かされるこんな世界を、俺はとてもじゃないが許容できない。
「そんな世界いらない。このままでいい。今のままでいいから、行かないでよ……」
エルミーは、ぎゅっと俺の服を握り込む。まるで、心が握り込まれているような、そんな錯覚さえした。エルミーはどこまでも変わるということに、未来に消極的だった。現状の維持。今日が続くこと。ただそれだけが彼女の望みだった。
大抵の願いが叶わないことを知っているからこそ、せめて代わり映えのない日常を失いたくないというささやかな願望。それは少女に似つかわしくない、達観していて、枯れているとすら思える願いだった。
「……そうだな。わかった。洞窟に行くのは、やめることにするよ」
俺がそう告げた瞬間、エルミーはあからさまにホッとした表情になった。しかしすぐにキュッと眉をつりあげて、頬を引き締める。
「……最初から、そう答えればいいのよ」
そして不機嫌そうにそう呟いた。
エルミーがプンスカしながら寝室の方へ消えていく。まだ寝るには早いと思うが、ふて寝というやつだろうか。エルミーと入れ替わるようにして、いつも鍛錬を行っている部屋からテトがひょいっと顔を出す。
「で、いつ行くのさ?」
どうやら、また盗み聞きしていたらしい。というか、テトには俺の考えが筒抜けのようだ。じゃないと、さっきまでの俺たちの会話を聴いていて、「いつ行くか」なんて質問は出てこない。
「明日の朝発とう」
俺はそう答えた。そう。洞窟に行くのをやめるというのはエルミーを納得させるための嘘だった。あんなに心配してくれたエルミーを騙すことに罪悪感はある。それでも俺は止まるわけにはいかなかった。
「戻ってきたら、エルミーに嘘つき野郎って怒られるんだろうなあ」
「行く前から帰ってこられた時の心配とは余裕があるね」
言われてみればそのとおりだ。今から向かうのは、生きて帰れるかもわからない魔境だ。俺は少々楽観視がすぎるだろうか。いや、うまくいくのだと、そう思わなくてはやってられないのだ。希望がなければ人は前に進めないから