エピローグ この瘴気に汚染された世界で
孤児院の裏庭の、ただ形の綺麗な石を置いただけの質素な墓。それがハンスの墓だった。あまり良い墓だと墓石を盗まれるのでこれくらいがちょうど良いのだという。
周りには、同じような石がいくつも並んでいる。ここを見掛けたことは何度もあったけど、墓だとは気づかなかった。
俺の目の前ではエルミーがハンスの墓へと花を供えていた。
「それじゃあテト、わたし下拵へ行ってくるね」
「わたしもついていく」
「うん、いっていらっしゃい」
エルミーもヨルも、そんな取り留めのないやりとりをしてあっさりと日常へと戻っていく。みんな、まるでハンスの死なんてなかったみたいにいつも通りに。あんなに優しかったはずの神父様ですら、早々と治療院へと出向いてしまってここにはいない。
墓の前に残ったのは俺とテトだけだった。
「なんなんだよ……」
どうしようもない怒りが口から漏れ出た。
「なんでどいつもこいつも、平気な顔してるんだよ。こんなの、こんなのおかしいだろ。だってハンスが、ハンスが死んだのに。なのにどうしてッ……」
喋るたびに感情が抑えられなくなっていき、声が震え、視界が歪む。テトに怒鳴ったというわけではなかった。ただ、やり場のない怒りをなんらかの形で吐き出さなきゃ、どうにかなってしまいそうだったのだ。
テトはちらりと俺を一瞥して、またハンスの墓へと目線を戻した。こんな時ですら、ニタニタとした笑いを貼り付けていることがバンダナ越しでも容易にわかった。
「……ぼくらはもう、泣けないんだよ。涙なんてもう枯れてしまったから」
テトは供えられた花を見つめて淡々とそう答えた。
「ぼくが小さい頃、この孤児院にはもっとたくさんの子供が居たよ。でも、その時にいた子供のなかでこうして生き残っているのは、ぼくとヨルだけだ」
テトの言葉に、俺は息を飲んだ。怒りと血の気がさぁっと引いて、立ちくらみすらした。
「最初のうちは、わんわん泣いたさ。でもね、次第に気づいてしまうんだ。ああ、死というのは極ありふれたもので、日常の一部なんだってね。特別なものでもなんてもないのだと、そうやって心が勝手に死に順応してしまうんだ。みんな自分が生きるのに日々精一杯な中で、悲しくても滞りなくやるべきことをこなせるように。そう変わってしまうんだよ」
この世界では死を悲しむ暇すらないのだとテトはそう言うのだ。
「そんなの、そんなのは……」
悲しすぎるじゃないか……。声にならなかった嘆きが、喉元で溶けていく。
テトはきっとまだ笑っている。ニタニタとしたと笑みを張り付けている。それはいつもと同じ笑顔のはずなのに、なぜだか胸がきゅっと苦しくなった。
「……おまえらの方がよっぽどハンスと過ごした日々は長いはずなのに、ぽっと出の俺がわかったようなこと言って、悪かった」
俺とは比べ物にならないほど、彼らがハンスと共有した時間も思い出も多いはずだ。必ずしも涙の量が悲しみに比例するわけではない。みんな、悲しくないわけがないのだ。
「いいんだ。むしろ感謝したいくらいだよ。君は、心が麻痺してしまった僕らの代わりにハンスのために泣いてくれたんだ。だから、ありがとう」
「……やめてくれ」
感謝なんて、しないでくれ。
「俺、約束したんだよ。寿司、食わせてやるって約束したんだよ……」
向こうの世界を案内してやるとか、そんなできやしない大言も吐きまくってた。それなのに、
「俺なんにも、なんにもしてやれなかった」
「……ハンスは、マサトが来てから毎日楽しそうだった。自分の知らない世界の話に、目をキラキラ輝かせてた」
いつも向こうの世界の話をせがんできては、無邪気に笑うハンスの顔を思い出す。
「クソックソッ」
ゴーグルの中に、涙が溜まっていく。でもここは外で、ゴーグルを外し涙を拭うことすらためらわれた。
「そろそろ中に入ろう」
そのことに気づいたのかはわからない。テトはそう言って立ち上がった。
孤児院の中に入ると、中はシーンと静かだった。みんなそれぞれの仕事をしているのだろう。俺もここに置いてもらっている以上、与えられた役目をこなさなくてはならない。たとえ心が悲鳴をあげていたとしても。
俺はゴーグルを外し、溜まっていた涙をゴシゴシと拭った。
「なあ、テト。俺、寿司が食いたいんだ」
「ことあるごとに君はそう言うね。生の魚を食べるなんて、この世界じゃあ無理だよ」
「ああ、わかってるよ」
瘴気というものがどれほど恐ろしいか。この世界に来てから嫌というほど思い知らされた。
「だから俺、瘴気を無くすよ。この世界から瘴気を無くす」
「……それ、本気で言ってるのかい?」
いつもニヤニヤと口角をあげているテトが、真顔で目を限界まで見開いて、俺を見ていた。
こいつでも、驚くことがあるらしい。
「ああ、本気だよ。テトにも手伝ってもらえたら心強いんだが」
「瘴気を無くすなんて、そんなことできっこない。その提案は泥舟だよ。そんな泥舟に乗るなんて、相当の報酬が約束されてなきゃごめんだね」
また、テトはいつものふざけた調子に戻って、やれやれと肩をすくめた。相当の報酬か……。金銀財宝に心当たりはないが、それに匹敵するほど価値のあるものを俺は知っていた。
「おまえ、さっき涙なんて枯れたって言ったよな」
「ああ、言ったね」
「おまえが手伝ってくれたら、枯れた涙がまた湧き出るくらい泣くほど美味い寿司を食わせてやる。それが報酬だ」
また、テトの表情から能面のように感情が抜け落ちる。そして、口角がぐいっと持ち上がる。
「……ははっ。ははははははっ」
テトは声をあげて笑った。それは、いつもニヤニヤとした薄ら笑いを浮かべているテトの、初めて見る満面の笑みだった。
「いいだろう。乗ってやろうじゃないか。その泥舟」
「助かるよ。さすがに一人じゃ無理そうだからさ」
「一人も二人もたいして変わる気はしないけどね。その目標じゃあ」
テトが差し出した手を握る。指が折れるんじゃないかってくらいの力で握り返される。まったく、やっぱりこっちの世界の住人はどいつもこいつも力加減ってものがまるでできてない。俺は離した手をプラプラと揺らした。
こうして俺は、俺たちはこのクソみたいな世界で寿司を食べるため、瘴気に立ち向かうことにした。
一先ずこれで一章終了となります。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。二章開始まで少々間が開いてしまうかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。