花音の答え
木戸は花音が自分のことを好いていると気付いていたが、そのまっすぐに向けられた好意から逃げる、つまり花音のことをやんわりと避けていたのだった。
水族館のエントランスに人はまばらで開放的な空間がまるで俺達二人きりであるかのような錯覚を覚える。入り口付近の窓ガラスから差し込んでくる西日が眩しくて妙にムードが出来上がっているなとやけに冷静な思考を携えつつも俺は覚悟を決めた
花音に背後から抱き着かれる。その間は永劫とも感じられるような緊張感だとか、単純に可愛い女の子に抱き着かれて得られる幸福感だとか、はたまたこれから言う俺の言葉に花音はどう思ってしまうかという憂鬱感であるとか。今の俺の心情の複雑さはもはや大学の受験問題にもできるのではないかと思うほどだった
花音との思い出が走馬灯でも見ているかのような感覚で蘇ってくる。それらの一つ一つが花音を苦しめたと思うと自己嫌悪に陥りそうだ。それでも視線を送ることなく背中の間隔で花音の嗚咽が収まったのを確認して俺は花音に向き直る
顔を埋められていたのでわかっちゃいたが、花音は泣いていた。ようやっと涙が溢れるのは止まったようだが、赤く腫れた目がそれをはっきりと示している。理由はどうあれ花音をこんな風にさせたのは間違いなく俺が原因であると思うと、その罪という重しを心臓に引っ掛けられたかのように苦痛ともいえるほどの負荷がかかる
それでも俺はここで断ち切らなければならない。他ならぬ花音のためにも
「花音、ごめん。その気持ちに応えることはできない」
震えそうになる声を決して悟られないように俺は言葉を紡ぐ
「ずっと知ってたんだ。でもそれを確かめるのがすごく怖くて。はっきりとではないけれど正直花音のことを避けていたことも少なくなかったと思う。でも決して花音が嫌になった訳じゃない。可愛くて、快活で、いつも裏表なくまっすぐに物事へ向き合う魅力的な女性だと思っている」
「じゃあどうして私じゃダメなの…」
「それは…」
俺は一度深呼吸を挟んで、頬を叩いて気持ちを引き締める。そして告げた
「他に好きな女がいるんだ」
終始花音の目から決して視線を逸らす事なく言い切った。建前など一切介在の余地のない本音の本音を
あとは罪を償うだけだ。花音からのどんな罵詈雑言だろうと、無理難題だろうと受けてやる。それをぶつける権利が花音にはある。そんな気概で身構えていた
だが花音の反応は完全に予想外だった
「私も知ってた」
「へ?」
「だから知ってたんだって。私のお兄ちゃんへの気持ちが知られてるってわかってた。お兄ちゃんが私のことを気遣ってはっきりとした態度に示せないことも知ってた。お兄ちゃんが他に好きな人がいることも、その上で私のことを大切に思ってることも…お兄ちゃんについてなら何もかも知ってるよ」
「じゃあなんで今日こんなことを?」
「まぁちょうどあのばか兄が消えたってのもあるけどさ。例えそれが私の望んだ関係じゃなくても、確約された別れがあるとしても、それでも私はその限られた時間の中でお兄ちゃんの隣にいたい。それでたまに頭を撫でるぐらいのことをしてくれればそれでいい。一番嫌なのはこのままどんどんお兄ちゃんと疎遠になっていくこと。だから私のことを扱い損ねて不完全な思い出にすることだけはしないと約束して欲しい」
花音は一片の迷いなく言い切った。普段の食事と言い、今こうして感じる度量の大きさと言い、花音は小柄な体に対してあまりにも似つかわしくない器をもった女性だった。初めて会ってから今日まで花音を悲しませまいと思っていたが、花音はそれが過保護だと言っているかのようで。その認識を改める必要があるのだと思い知らされた
「花音…お前ってやつは…今まで体も心も成長しないガキだと思ってたのに…」
「ちょっと!!いくらお兄ちゃんからでもそれは怒るよ…ってなんでお兄ちゃんが泣いてるの!!」
「だって…そんな風に考えてるというか、考えられるなんて…立派すぎるなってぇ」
俺の考えすぎだったって訳だ。出会った頃から何一つ変わらない女の子だと侮っていた花音は俺の知らぬ内に、誰に影響されたのか随分と達観したレディへと成長していた




