Episode 3.転
Episode 3.天使と悪魔とルール違反
昼休み中の教室は普段よりも騒がしかった。
人の噂とは広まるのが早いもので、俵嵯峨泰尚はその後、喫煙しているところを警察に見つかり、逃げている最中に転倒して打ち所が悪かっただとか、車に轢き逃げされただとかで、とにかく亡くなってしまったらしい。
伸びに伸びた尾鰭背鰭は本来の姿がわからなくなるほど長くなり、真の原因は不明のままだった。
けれど、原因の原因ならわかるかもしれない。
時を同じくして三年生の円城寺栄瑠彦が脳卒中、根仕切音桐は強盗殺人に遭い、2年生の七五三秋夏は行方不明になっていた。
一見、無関係に思えるこれらの事故事件にも共通点がある。
全員、上河合華蓮を好きなのだ。
それは第二ボタン争奪戦の参加者である可能性を示す。
……いや、第二ボタン争奪戦の敗者である可能性を示している。
ライオンの言っていた、“儀式の敗者は好きな人との接点を永久に失う”、という呪いを、私は言葉通りの意味に受け取ってしまっていた。
ただ縁がなくなるだけだと。単純に。
もしかするとその呪いというのは実際のところ、死んでしまう、ということではないのだろうか。
だとしたらあのとき、儀式を早く終わらせてしまいたくて肇を負けにしてと願ったとき、ライオンが私の思いを汲んでしまっていたら、どうなっていただろう。
考えるだけでぞっとした。
私の浅はかな行為で肇の一生を棒に振ってしまうところだった。
まさかライオンが私のことをそこまで心配して止めてくれた……?
いやいやいやいや、そんなわけはない。
まあでもライオンにはとりあえず感謝を、そして悪気がなかったとはいえ危うく殺めてしまうところだった肇には謝罪をしなければいけない。
私は早く謝りたくて仕方ないのに、目の前の肇になかなか言い出せずにいた。
肇も呪いの正体に気付いてしまっただろうか。肇は優しいから、泰尚が死んだのは自分の所為だと罪悪感を抱えているかもしれない。
それとも逆に、肇のことだから呪いのことなど気付いてすらいないかもしれない。
そのどちらかといえば、肇は前者らしかった。
幼馴染み歴十六年の中で最も暗い顔をしているからだ。自殺してしまうんじゃないかと心配になるほどに。
ずっと前に不慮の事故で私の着替えを覗いてしまったときでも、ここまで落ち込みはしなかった。
思い返してみれば、どうして異性の産まれたままの姿を目にして気を落としてしまうのか?
私だったからか?
そこは喜ばなければ逆に失礼ではないか?
「なんで落ち込んでんだよ」
声に出ていた。
更には思わず振り下ろした手が太ももに当たり、意外にも大きく乾いた音が響いたため、余計に周囲の注目を集めてしまった。
しかしすぐにそれぞれの話へ戻っていく。
皆にとってはモブでしかない生徒の私なんかよりも、急逝した彼らの方が気になるのだ。
「……ごめん」
私が怒っていると勘違いした肇が謝ってしまった。
誤って謝ってしまった。
いやこれは違うんだ、違わないけど。
きっと肇は見られた側の気持ちを察して一緒に落ち込んでくれていたんだろう。肇は優しいから。
むしろ逆に、裸よりも下着姿の方が好きだった可能性だってある。そうに違いない。
ここはやはりド定番の白色か。可愛らしいピンク、は私には似合わないなあ、水色か。挑戦して黒とか。私の趣味よりも肇の趣味に合わせる方が正解か?
というか、今は肇を虜にできそうな下着の柄を脳内シミュレーションしている場合ではない。
震える肇を元気付けなければ。
少しでも気を紛らわせてあげたくて、私はライオンから聞いたことを話していた。
「うん、僕が適応力で知った情報とだいたい同じだから、その人(?)の言ってたことは間違いないと思う」
相槌を打った肇は悔しそうに続ける。
「知らなかったんだ、儀式の呪いが死ぬことだっただなんて。敗者は好きな人と永遠に結ばれなくなるというルールを、疑いもしないで、そのくらいなら構わないと、深く考えず俵嵯峨先輩にとどめを刺して、最終的に殺してしまったのは僕の責任だ」
幸福が全て抜けてしまいそうな量の溜め息を吐いて締めくくった。
その溜め息のあまりの大きさに、私はとんでもない話題を振ってしまったと気付かされた。藪をつついて蛇を出してしまっていた。
完全に話題選びを間違えた。
これなら下着の話をしたほうがまだよかったかもしれない。
「ね、ねえ、肇。肇は見えそうで見えないのと、見えちゃうの、どっちが好み?」
我ながらなんて大胆な発言だろう。
自分の口から発するだけなのに声がつかえるほど緊張した。
肇は私の質問にどう答えるべきか迷っているのか、探るようにちらちらと目線を移している。
「そう、見える情報だけが全てじゃない。この儀式はとても性質の悪いものだ」
伝わってない! ああ恥ずかしい!
しかも話題を逸らせてすらいなかった。
「こんな不安に押し潰されそうな苦しい思いをするくらいなら、何も知らないままの方がよかった。わけがわからないまま戦わされていたほうがよかった」
なんでそう繋がっちゃうんだよう。
このまま目を離して一人にすれば、どこからか身を投げ出してしまいそうで心配になる。
「僕は誰かの命を奪ってまで、上河合さんと――」
その先は聞きたくなくて、私は無理矢理遮った。
「人ひとり死なせたくらいでうじうじうじうじっ、私なら殺人を犯していようがいまいがそんなの構わず肇をまるごと愛せる!」
間違えた。
告白する場合ではない。
「私が儀式の中心だったなら、たとえ人殺しだとしても、泰尚みたいな奴なんかより肇の方がずっといいよ! というか肇がいい」
狐につままれたような顔で肇は私を見上げた。
「もし負けちゃってたら、肇は死ぬ上にあの泰尚が華蓮先輩と付き合うことになってたかもしれないんだよ?」
「……それは、嫌だ。うん。ありがとう、果煉のおかげで少し楽になったよ」
肇の固くなっていた頬が緩んできた。
幼馴染みだからわかる。これは心から安心したときの顔だ。
ようやく私も安心できる。
「果煉が友達で、本当に良かった」
その言葉は余計だなあ、へこむなあ。
「まあそれと、肇は人殺しじゃないからね。悪いのはライオン、殺したのは儀式だから。肇は何も気にする必要なんてなかったんだよ」
この言葉も今なら聞いてくれるだろう。
さあ。負けたら死ぬとなれば、いよいよ絶対に負けられなくなった。
対戦相手の情報収集に励ねばならぬ。
やはり儀式の参加者である可能性が高いとすれば、華蓮ファンクラブメンバーの誰かだろうか。
相手に隙があれば儀式が始まるより先に倒してしまうのもありかもしれない。
というか私達と同じように登校中に突然ワープしてきた柚木崎結夢が圧倒的に怪しいんだけど、
突然教室が強く揺れた。
揺れていた時間は極僅かですぐに収まったものの、皆「なに?」「地震?」と騒ぎ、教室内はお祭り騒ぎに変わった。
地震にしては違和感がある。
プレートがずれたような揺れではなく、もっとずっと震源が浅く近い。
まるで空から何か降ってきたような。
「逃げて果煉!」
痛い。
ううん、痛きもちいい。
肇が私の手首を強く握って引いていた。
また学校が揺れた。
「みんなも!」
なんだか肇が物語の主人公みたいで頼もしく見える。
まあ私の人生において、肇は元からヒーローなんですけどね。
「すごく嫌な予感がする。さっきの儀式で力を使いすぎた所為か、まだちょっとだけ適応力に由縁する思考力が残ってたみたいだ」
肇が顔を寄せて耳打ちする。
優しい息が当たってぞくぞくした。
私達を先頭にして廊下へぞろぞろと生徒が出て行く。
少し時間を空けながら何度も揺れが起こる。
遂には天井が崩れて、上のクラスが降ってきた。
本当に運良く、丁度全員が脱出できた直後だった。
「あれ見て!」と誰かが窓の外を指で差し示す。
そこから見える体育館の屋根には、街路樹の幹のような太さの丸太がいくつも突き刺さっていた。屋根の一部はもう崩れ落ちている。
さっきから私達の上に降ってきていたのは、これだったのだ。
私達のクラスメイトもなかなかに勇敢で、こんな非常事態でも怯まず他の教室を回って避難誘導を始めていた。
ほっぺを抓っても痛い。夢じゃない。
そもそも夢の中ならほっぺを抓ろうなんて発想が浮かばないか。
こんな非日常はありえない。
ありえるとすれば、それは第二ボタン争奪戦の参加者が持つ能力以外にはない。
確かに、儀式が始まる前から相手に仕掛けた方が効率的だ。
不意打ちもできるし、見つからなければ一方的に攻撃できる。
でもどうして、
「儀式も始まってないのに能力が使えてるわけ?」
儀式中じゃないと能力も武器も使えないルールではなかったか。
肇のような惰性で働いてる能力とはわけが違う。
バリバリに発動させなきゃ、こんなことはできない。
「これは儀式中に得た知識なんだけど、第二ボタンは大きく分けて三種類あって」
なに。九つなのか三つなのかどっちなんだよ。
「儀式の力を破ってルールに違反できる、陰よりの第二ボタン。儀式から力を借りてルール違反に対してのみ対抗できる、陽よりの第二ボタン。何の特徴もなくどちらにも属さない、中立の第二ボタン」
「じゃあいま丸太の雨を降らしてるこいつは、陰よりの第二ボタンの持ち主ってこと?」
「そうなると思う。トーナメント表を見る限り、僕以外に残っているのは酷の第二ボタンと正の第二ボタン」
ちょっと。トーナメント表なんて私ライオンから見せてもらってないけど?!
あ。正式な参加者じゃないからか。
「その二つなら酷? が」
「うん。陰よりの第二ボタンだ」
丸太の狙いは反対側の校舎に移ったようで、ひとまず私達の方の振動は弱くなった。
けど攻撃が止まったわけじゃない。まだまだ安心はできない。
「じゃあ名前からして正の第二ボタンが陽よりじゃないの? ここまで被害が出てるのになんでまだ酷と戦って皆を助けてくれないの?」
「正が陽よりの第二ボタンだというのは合ってる。でも彼が戦うとは思えない」
なんで。まるで悪と戦ってくれる正義の味方のような名前の第二ボタンなのに。
ふと頭をよぎったけど、泰尚の悪は絶対に陰よりの第二ボタンだな。
「おそらく正は身を潜めて、酷が僕を倒すのを待つと思う。その方が安全だし、手の内を見せなくて済むから」
そんなの正でもなんでもない、両方とも酷じゃないか。
「ちなみに、もうほぼわかってるけど、飽くまで可能性が残ってるから聞くね。肇の愚はどっち?」
「どっちでもない。中立の第二ボタンだ」
肇は諦めたような苦笑いを浮かべた。
「あとは根仕切先輩の飢と円城寺先輩の金も、僕と同じ中立の第二ボタンだったよ」
中立、だなんて格好良く分けられているけど、そこに並べられるって完全に落ちこぼれではないか。二人共敗退してるし。
「他に七五三先輩の楽は陽よりの第二ボタンでね」
どうでもいい。肇が戦えないことに変わりはない。
……待ってよ、戦う必要はない?
「相手が力が使える理由はわかったけど、それでどうして肇が第二ボタンを持ってるだなんてわかるの」
肇が参加者だなんてわかるはずがない。
華蓮を好きな男子生徒なんてそこら中にいるだろう。肇より目立つ生徒も他にたくさん――
いや。わかるか。
自分で言ってて思い出した。
肇は四六時中華蓮を見つめていたから、儀式の参加者であろう予測は十二分に立てられる。
「肇のばかあ!」
「いきなりどうしたの?」
本心ではないものの私があまりにも唐突に罵ったから、肇は面食らった顔をした。
まさか酷が姿を現したのかと後ろを振り返ってみたけれど何もなかった。
純粋に私に向けた表情だった。
それにしても、さっきまでとは打って変わって肇を狙う気配がない。
実はまだ第二ボタンの持ち主がわかっていないのかもしれない。
無差別に攻撃を仕掛けているようにも見える。
やはり華蓮に片思いしていそうな人を虱潰しに探しているのか。
もしくは数打てば当たる作戦か。
どちらにしても酷く惨いことをしているのは確かだ。
儀式という建前を利用して自分の大量殺人を正当化しようとしている。
酷、か。
肇の意見を聞きたいなと思えばなにやら目を瞑ってぶつぶつと独り言を唱えていた。
せめて目を開けていてほしい。周囲を警戒してほしい。
適応力の名残でちょっとだけ先読みができる肇だけが便りなのに。
なにやら深く考え込んでいるようだから、代わりに私が目を見張る。
まさかこんなときに攻撃なんてこないよな、と窓の外を見上げれば、矢尻のように鋭い先端の丸太が私達を目掛けて突っ込んできていた。
「トーナメント表がおかしい……? これは――」
「はじめーっ!」
まだ考え事をしている肇を全力で突き飛ばす、その前に気付いた肇が私の腕を掴んで引っ張った。
そして投げるように手を放された。
全力で投げられたようで、ぎりぎり安全圏だろうところまで私だけが放り出される。
丸太が校舎に衝突した衝撃も加わって私はすっ転んだ。
ふざけるなとか、ありがとうとか、華蓮はどうするんだとか、どうして私なんかのためにとか、好きだとか、愛してるだとか、とにかく色々言いたくて立ち上がり振り返る。
目に入ったのは瓦礫の山だった。
すぐさま追撃が降ってきて廊下は完全に塞がれた。
「肇っ!?」
その行動に意味がないとわかっていても瓦礫の壁に駆け寄ってしまう。
これだけ破壊して満足したのか、次の丸太の矢はまた離れた所に落ちていく。
コンクリートの塊は重くて私の力じゃ動かせなかった。
私は泣かないように我慢しながら何度も肇の名前を呼んだ。
返事はない。
それでも呼び続ける。
この声が、音が、途切れてしまったら、肇との繋がりまで切れてしまう気がして。
科学的根拠がなくても、おまじないでもなんでもいいから縋るしかなかった。
「んん……」
だから呻き声が聞こえたときは思いが届いたんだと嬉しい気持ちと心配する気持ちを押し殺して耳を澄ませた。
「ふぁぁ。ごめん、寝てた。果煉は無事?」
それは気絶っていうんだよ、ばか。
「うわ、なんだこの壁」
気付くのが遅いよばか。
でも良かった。この瓦礫の山を壁だと認識できてるってことは、生き埋めにはなっていなさそうだ。
「大丈夫、なの?」
「ああうん、五体満足だよ。惰性で働いてた適応力を使い切って避けられたみたい」
それだと次狙われたらアウトじゃん。
「怪我してないことを証明したいから写真撮って送りたいんだけど、ケータイがないや」
心配はしているけれど、普通に会話できる程度に元気なら今は問題ないのに。ズレてるな。
私の方から肇の携帯電話に発信してみる。
後ろから着信音が聞こえた。
何かの拍子に落ちてしまっていたらしい。
「こっち側に肇のケータイ落ちてるみたいだけど」
少し迷った後、肇は答える
「酷を倒したら戻ってくるから。それまでは果煉が持ってて」
さらっとフラグを立てないでくれるかなっ!
「狙われてるのは僕だ。関係ない果煉は安全な場所に隠れていてほしい」
私がこれ以上危険な目に会わないよう、気を使ってくれているのはわかるが、適応力も使えず未だ自分が標的だと思い込んでいる肇一人で何ができるっていうんだ。
優しさの矢に胸をうたれて私が何も言えないでいる内に、肇の足音は遠ざかっていってしまった。
私はどうしよう。
肇の戦いなのに私は黙って隠れてるだけだなんてごめんだ。
肇を探して合流しようか?
合流したところで、共闘する話を聞き入れてくれないのは目に見えている。
私は肇に内緒で戦わなければいけない。
肇と会話しなくても私が協力できることといったら、肇の考えそうなことを読み取って連係プレーに持ち込み、酷を追い詰めるくらいだろうか。
幼馴染の私だからこそできる作戦、
だめだ。
思春期真っ只中にも関わらず、私という女の子がずっっっと側にいるのに全く興味も示さないで、ぽっと出てきた女なんかに欲情しやがる奴の頭の思考回路なんざ全然わかりもしない。
残る手段は、私が先に酷へダメージを与えておいて、後から来た肇が何も知らずにとどめを刺す。
今回はライオンの着ぐるみもいないし、部外者がちょっと参加したって問題ないだろう。
この戦法しかない。
あわよくば私がとどめを刺せればいいかな。
泣きそうな顔で酷の第二ボタンを奪う肇の顔が浮かんだ。
頭を振りそのイメージを払う。今度は愚の第二ボタンを酷に差し出す肇が現れた。
あわよくば、なんて言っていられない。
自己嫌悪に苦しむ肇なんて見たくないし、自決する肇はもっと見たくない。
だったら私が酷を倒さなくちゃいけない。
武器と能力を持つ相手に私は丸腰で戦うことになる。
大丈夫だ。肇が泰尚に勝ったように、私も縛るなり無力化してから酷の第二ボタンを奪えばいい。
そうと決まればまずは酷の居場所探しだ。
周りが悲鳴と誰かの名前を呼ぶ叫び声ばかりになっていることに、ようやく私は気が付いた。
その中を歩いて酷を探す。
ある意味、どこも酷だらけだった。
校舎の天井や壁、廊下があちこち崩れている。怪我人も多数出ているだろう。
グラウンドにも無数の丸太が刺さっているのは、外に逃げた生徒も狙われたからか。
とにかく酷い有り様だった。
数年前に聞いた悲惨な事件を思い出す。
私が通っていた小学校とは別の、少し上の学年で起きた、今と同じで現実味のない酷い話。
クラス内の半数以上の女生徒が学級担任から性的暴行を加えられ、内八人は命を落としてしまった連続強姦殺人事件。
人の命を比べるものではないけれど、死者の数で言えば今回の方がそれより遥かに多いだろう。
肇が死んじゃう前に、死なせないために、早くけりを付けなければ。
酷がどこにいるのか見当はもう付いている。
これだけ多くを見渡せる場所と言ったら屋上だ。二回戦で実際に見たからわかる。
いやまあ校舎も一棟だけ無傷だし、怪しさぷんぷんなんだけどさ。
敵の居場所がわかっているのに、私は踏み込めないでいた。
心がどこかで拒否している。
何を?
肇と華蓮がくっついてしまうのを?
いいや、そこは自分で納得したはずだ。
生きてさえいればいい、と。
いいのか。
いいんだ。
負ければ死んでしまうのだから、応援し、助けるしか道はない。
迷っているのはそこじゃない。
結局、私も怖いんだ。
人を殺すということが。
肇には“殺人くらい気にするな”だなんてアドバイスを送っておいて情けない。
誰かが死んでいく状況に直面して、ようやく理解できた。
私が今からする行為は酷と変わらない。
好きな人とのために、そうでない人の命を奪うのだから。
これなら何も知らないままの方が良かった。
時間が進まなければいいのに、なんて思いながら時間を掛けて進んでいく。
他の校舎へ移るには既に崩れてしまった壁から外へ出た方が早いのに、わざわざ私は廊下と階段を使っていた。
頭の上に悪魔が現れ、耳元で優しく囁かれる。
「躊躇わず、殺してしまえ」と。
「あれは死んでも問題ない人間だ」と。
反対側の耳元で天使が慌てて告げる。
「殺してはなりません」と。
その綺麗な声から、純白のドレスを身に纏い、頭には光る輪を浮かべ、白鳥のように優雅な翼を広げる姿を想像した。
まあ、私の声なんだけど。
「今は私が話してんだ。虫も殺せない臆病者は引っ込んでな」
対してこちらの声からは、肌の露出が多い黒色の下着姿に、裸同然の背中から生える蝙蝠のような翼でぱたぱたと羽ばたきながら空中浮遊する様子が目に浮かんだ。
おっとこれじゃあ悪魔じゃなくて小悪魔だよ。
まあこっちもわたしの声だったんだけど。
「今から私が果煉様とお話するのですから、虫けら様はどうかその身を引いて下さい」
白い天使だから白煉、とでも名付けようか。
「虫けらっつうのは私のことか? 天使の発言とは思えねえな」
こっちは黒い悪魔だから黒煉。
「虫未満の存在に対して充分に譲歩したつもりですが、お気に召されませんでしたか。もっと見窄らしい生物……いえ、生物に失礼です、砂利とでもお呼び致しましょう」
おおっと、白煉じゃなくてグレー煉だったか。
「おい果煉。こんな詐欺天使の言うことなんか聞くんじゃねえぞ。酷なんか殺しちまえ」
なんでだろう、天使の言動のせいで悪魔の言うことに少し説得力が生まれてしまった。
「いいえ、なんびとも殺してはなりません。小砂利は喋りませんから果煉様には何も聞こえていないはずです」
砂利からさらに小さくなった。
悪魔が二人いるように見える。
「はん、弱い犬ほどよく吠えるってか。口だけはよく回りやがる」
次の瞬間にはもう、白煉の顔に黒煉の握り拳がめり込んでいた。
白いドレスに鼻血が垂れる。
「少しは黙る気になったか?」
返答なく白煉が足を蹴り上げる。黒煉は翔んで避けた。
「……これで正当防衛が成立しますね。覚悟なさい」
「おやおやおやおや。喧嘩はよくないよ」
どこからかやって来たライオンの着ぐるみが二人の仲裁に入る。
「黙ってな」
「静かになさい」
黒煉と白煉に頭部を殴打され、ライオンは意識を失って倒れた。
むしろそれを合図にして、白と黒による灰色のような殴り合いが始まった。
「正当防衛がなんだって?」
黒煉の方が手数が多く、白煉は防戦一方になってしまっている。
喧嘩に向かないドレス姿で、対等に戦えるわけがない。
悪魔が優勢だった。
「今に、見てなさい」
白煉が喉を搾って声を出す。
「見るのはてめえの方だよ。力に優劣がある時点でまとまな話し合いなんてできっこねえの。わかった?」
黒煉の頭突きが白煉の額にぶち当たる。
後ろに倒れそうになったところを、白煉はなんとか踏み止まった。
「Angel Ring」
白煉の頭上で光る輪が拡大し、黒煉の胴体を両腕と両翼ごと巻き込みながら収縮する。
黒煉の動きが封じられた。
「力の差があると話し合いは成り立たない、でしたね。私にはわかりかねますので、あなた自身が証明して下さい」
白煉が両手を広げて天を仰ぐ。
「おい待て。私だけ身動きできない不公平な状況で何をする気だ」
黒煉が力を振り絞って藻掻いても天使の輪は外れない。
「改めよ、Honey White,Sin Shine Rain.」
あらゆる罪を洗い流してくれそうな光の雨が降り注ぐ。
熱で黒煉の皮膚を焦がし翼を焼いていく。
自由を奪った状態で攻撃するなんて……!
「いやあ……。ここまで汚い手を使われちゃうんなら、私も本気を出さないと、な」
黒煉が息を大きく吸い込んだ。
「燃えちまいな、Dear Black,Many Large Make Love Fire!」
火炎放射器のような勢いで口から吐き出した黒炎が白煉を包み、白く綺麗だった翼は焼け落ち灰になる。
我に返って気が付けば、階段を下りて私が歩いているのは保健室がある一階の廊下だった。
保健室の扉の前からは怪我人の大行列が続いている。
予想上の被害者の数と状況が、実際の被害者に置き換わる。
吹っ切れた。
あいつは止めなければならない。
この惨状の責任を、その命で償わせてやる。
校舎が大きく揺れる。
次の標的はここか。
まさか、怪我人で溢れる保健室を狙ってくるなんて、本当に血も涙もないのか。
常識的に考えて保健室なら非戦闘地帯だろう。
取っ組み合いの喧嘩をするような二人でも、傷の手当てをしている間は一時休戦するような憩いの場所だろう。
「華蓮様っ、お怪我はありませんか!?」
聞いたことのある声がどこからか聞こえた。
結夢だ。
見れば華蓮のファンクラブの集団もここへ仲間の傷を手当てしに来ていたようだった。
ファンクラブの集団が華蓮を中心にして囲い、守りの陣形を取ろうとしている。
ファンクラブで固まっちゃ駄目だ。
恰好の的だ。狙われる。
華蓮と結ばれたい者にとって一番の障害は、華蓮のすぐ側にいるファンクラブのメンバーだろう。
消したいに違いない。
しかも中心に華蓮を置いてしまったら外から華蓮が確認できなくなってしまう。相手のブレーキが利かなくなる。
案の定、ピンポイントでファンクラブのすぐ側の壁に丸太が打ち込まれ、罅の入った一部分がゆっくりと倒れてくる。
助けたいとは思うけれど、私には倒れてくる壁をどうすることもできない。だから足が動かない。
結夢が逃げろと叫んで指示を出してはいるけれど、恐怖に身が竦んで動けない人の方が多い。
また校舎が揺れる。
天井まで下がってくる。
結夢は悔しそうに唇を噛み、握り拳には遠目でもわかるくらい力が籠もっている。
[GS-グラウンド ストップ-]
何か聞こえた気がしたけど周囲の悲鳴やコンクリート同士の擦れる音で聞き取れなかった。
下がってきた天井と倒れてくる壁とがタイミングよくぶつかり、互いが互いを支え合うような形になることで、両方とも倒壊が中断される。
ぱらぱらと小砂利が降るだけで収まった。
酷よ、危うく大好きな人を巻き込んでしまうところだったぞ。
「華蓮様っ、ご無事ですかっ!?」
結夢が華蓮を心配してファンクラブの中心を振り向く。
その目線の先に華蓮はいなかった。
「あら、アナタ達こそ大丈夫?」
華蓮は壁際でファンクラブの皆を守るように手を広げて立っていた。
倒壊してくる壁の前に立ち塞がったってなんにもなりゃしないのに、それでも踏み込んでいける無謀な優しさと強さを持つ、
「さあ、今のうちに皆逃げて」
そう、上河合華蓮とはこういう女性だ。
誰から見ても恵まれているのにそれを鼻に掛けたりせず、誰かのためを思って自分が損をしてでも行動する。
こんな素敵な素晴らしい女性と人生を共にするなんて、肇なんかでは儀式にでも頼らなければ無理だ。
その恋路を邪魔するなんて野暮なことはできない。
ファンクラブやその他の生徒が比較的安全な場所に移ってから、華蓮もその場を離れた。
危機一髪。華蓮が移動を終えてすぐに天井と壁は限界を超えて両方とも崩れてきた。
外の景色が見える。
清々しいくらいに青い空。
何か手掛かりになるものが見えないかと屋上に目を凝らす。
丸太が立ち上がっていた。
「私の雨はまだ降りやんでやいませんよ」
頭の中で声が聞こえる。
炎の中から黒焦げになった白煉が抜け出し、雨に打たれ続けた黒煉は灰になって霧散した。
丸太が屋上から放たれる。
そのとき、一瞬だけ馬鹿でかい洋弓が見えた気がした。とても普通の人間が扱えるとは思えないサイズの。
酷に与えられた武器は弓矢、能力は怪力か馬鹿力か、とにかくパワーアップ系
「さあ果煉様。殺さない方向で作戦を進めましょう」
白煉が最後にそう耳打ちを残して消えていった。
天使が勝ったところでその説得力はもう皆無なんだけど、相手の武器が弓ならいけるかもしれない。
弦を切ってしまえば無力化できる。
話し合いをするチャンスが生まれる。
相手にはリタイアしてもらって、その後は死ぬことがないよう見張っていればいい。
死とは違う形で罪を償わさせればいい。
これがこれ以上犠牲者を増やさないで済み、私が手を汚す必要のない方法だ。
私は急いで酷が屋上にいる校舎へ向かった。
無傷な校舎の中は、ここが特別教室しかない棟というのもあってか人が少なかった。
保健室よりもよっぽど安全だったかもしれない。
ただそれは私と肇、第二ボタン争奪戦に関わる者にしか導き出せない情報だろう。
何も知らない人から見れば天災にも等しい理不尽な状況で、安全地帯など予測できまい。
いや、この状況は私達にとっても理不尽か。
特別教室の中から家庭科室に寄り道する。
引き出しを順に開けて武器に使えそうなものを探す。
技術室でもよかったけど電動のこぎりとかでは大きすぎて警戒されてしまいそうだった。
包丁を見つける。切断力は申し分ないものの、これでもまだまだ殺傷力が高すぎて警戒されそうだ。
オークションで高額で売れそうな鍋の蓋。これは盾の代わりになるかもしれない。そんなに警戒もされないだろう。腕に紐で括り付けた。
あとは後ろ手に隠し持てるサイズの裁ちばさみ。
はさみ一丁だけじゃ不安だからもう一丁、小さな糸切りばさみをポケットに忍ばせる。
これで準備は万端だ。
技術棟だからか他の校舎と比べて最上階までの階段が多い。
このくらい、ウォーミングアップに丁度良かった。
最後の階段の前で足音を響かせないように上靴を脱ぎ、靴下で薄暗い階段を上る。
屋上へ繋がる扉を開ける前に鍋の蓋と裁ちばさみを構え直す。
鍵が付いていただろうドアノブは壊されていて、扉は凭れかかるだけで開いた。
差し込む太陽の強い光に目を細めるよりも先に、どすん、ごろごろ、と何が倒れ転がる大きな音に動きを止めて目を見開いた。
扉の前に丸太が立て掛けてあったのだ。
これだけの音を立てて気付かれないわけがない。
こちらへ弓を向けて構えている姿が容易に想像できる。
一度引き返して時間を置こうか。
いいや、その間にこの階段を崩されたら何もできなくなってしまう。
行くしかない。
私は扉を蹴り開けて屋上へ飛び込む。
既に弓が引かれた後だった。
私は急いで走って避けようとするも靴下が滑って転んで尻もちを搗いてしまう。ああ、これで死んだら末代まで靴下を恨みそうだった。
顔のすぐ上を丸太が通り過ぎていった。
ぎりぎり助かった。いや、靴下に助けられたのかもしれない。これから一生必ず毎日、靴下を履くことにしよう。
背後の扉は丸太が突き刺さり、奥の階段ごと瓦礫に変わっていた。
これで退路は断たれてしまった。
酷の、退路がね。
私は先手必勝とばかりに(まあ後手なんだけど)鍋の蓋の角度を調節して、太陽の光を酷の目元に反射させる。
鏡面を利用した太陽光の全反射だ。少しの間、目をくらませるくらいはできるだろう。
既に次の矢を装填して狙いを定めるため私に注視していた相手は、丸太をあらぬ方向に暴発させ、眩しさから逃れようと咄嗟に腕で目を塞いだ。
その隙に私は全力で走って距離を詰めに行く。
目指すは武器の無力化。
あの弓、下から見上げたときも異常な大きさに見えたけど、近くで見ると余計にでかい。
弦は私の指くらい太いし、その全長は大型トラックくらいある。
邪魔になりそうな転落防止用のフェンスも全て破壊されていた。
酷の姿もついでに確認しておく。
巨大な弓矢を扱うにしては低い背に細い体。青い学蘭を身に着けている。第二ボタンの柄までは私の視力では小さすぎて双眼鏡でもないと見えない。
顔は腕に隠れていて見えないけれど、このシルエットは見たことがある気がした。
思い出せない。いや、思い出そうとしていない。
今は余所事に頭を使っている余裕はない。
靴下に今は滑ってくれるなよと懇願しながら駆け続ける。
と、言っても狭い屋上だ。十秒と掛かることなく、おかげで音も立てず酷の前まで辿り着くことができた。
流石にこの距離まで近付けば気付かれてしまう。
私がはさみを持っていたからか、酷は第二ボタンを取られまいと胸元を片手で覆う。
その反応は私にとって好都合だった。
先に第二ボタンを奪ってしまっては対等な話し合いができなくなってしまう。運命を掛けた戦いに負けた後では他人の話を聞く気になんてならないだろう。
対して武器を持たれたままでは私が弱すぎてまともに話を聞いてもらえない。
だから私は迷わず弓の弦に裁ちばさみの刃を噛ませ、思いっ切り握り締めた。
屋上だからか何にも遮られない強い風が吹き抜ける。
弦を切断することは敵わなかった。
刃が少し食い込んだだけで、それ以上はどれだけ力を入れてもはさみを閉じられない。
植物繊維でも動物繊維でもなければ化学繊維でもない。かといって金属でもない。
硬さと弾性を併せ持っている。
この世のものとは思えない儀式で扱われる弓が、この世の素材でできているわけがなかった。
武器が壊されそうになっていると勘付いた相手が私を振り払おうする。
私は諦めない。
はさみを握る手も弦に噛み付くはさみも最後まで離さない。
手が振り上げられる。
トラックサイズの弓を引けるような奴の筋力だ。殴られれば一溜まりもないだろう。
無意識に歯を食いしばり、目をぎゅっと瞑る。
暫く浮遊感に包まれた後、私は屋上の床面を転がっていた。
全身がひりひりズキズキする。
床の堅さを感じられるということは、殴り飛ばされた先は屋上の内側だ。外側じゃなかっただけよしとしよう。
痛みに悶えている暇はない。今にも追撃が来るかもしれない。
ジャンプするような勢いで立ち上がり、その場から距離を取った。
体中すり傷と打ち身だらけで痛いけど、それ以上の外傷はなさそうだった。
盾代わりに着けていた鍋の蓋はとんでもない潰れ方をしていた。
こいつが緩衝材になってくれたから私はダメージが少なかったのかもしれない。
あとは私のおしりとか腕とかに付いてるおにくがぽよぽよ――じゃなくて、私の体が細く軽いから受けた力に逆らわず素直に飛ばされたのも軽傷で済んだ一因かな。
とりあえず鍋の蓋はもう目くらましにも盾にもならない。
裁ちばさみも刃はかけ、支点ねじが緩み、使い物にならない。
しかし、最後まではさみを握り締めていたおかげで、弓の弦は断線寸前だった。
あと一度でも矢を放てば弦が千切れるだろうことは素人の目でもわかる。
はさみを入れるだけでもいい。
裁ちばさみは壊れてしまったけれど、もう一丁、糸切りばさみがポケットの中に入っている。
相手は弦を指でなぞり強度を確認していた。
「……どうして、どうしてぼくの邪魔をっ。おまえは儀式の参加者じゃないだろう!」
向こうから話しかけてきた。
考えてみれば相手の武器はもう使えないに等しいのだから、無理して深追いする必要はないんだ。
「ええ、よくご存知で」
じっくりと相手の顔を見返すことでようやく思い出した。いや、結局名前は知らなくて、顔、というか存在だけなんだけど、
普段、華蓮を見つめる肇の顔に並んで奥の方でたまに視界に入る人物がいた。
とある三年生のひょろそうな先輩。
その人だ。
てっきり肇のことが好きなのかと思っていたけれど、なんてことはない。第二ボタン争奪戦の参加者ということは、上河合華蓮を好きなただのストーカーだ。
「おまえが好きなのはいつも隣にいるあの男のはずだ。第二ボタン争奪戦に参加する理由がない。権利もない。それなのに部外者のおまえの所為でぼくの武器はもう駄目だ。あと一回でも弓を引けば弦が切れて使えなくなる。どうして華蓮ちゃんとも、ぼくとも無関係のおまえがこんな邪魔をする!? ぼくの前に立ちはだかるんだ!?」
ああ、良かった。本当に弓があともう一度しか使えないなら私は一安心かな。
「理由はいくつかあるんですけど、まあ一番は肇――好きな人に好きな人と結ばれて幸せになってもらうためのお手伝い、ですかね」
一応先輩だし、ストーカーでも敬語を使っておこう。
「他は、まあ、まとめちゃえば、この惨劇をできるだけ早く終わらせるため。そして先輩に死ぬこと以外でその罪を償ってもらうため。です」
思い返せばストーカーどころか既に殺人犯だったわ。
「そうか。華蓮ちゃんに熱い視線を送っていたあいつも矢張り参加者だったか」
ちょ、私の話から聞き取れたのそれだけ? 読解力も反省する気もゼロですか。
「ぼくは他人と比べて優れたものを何も持っていない平凡なううん平凡以下な人間で好かれる要素なんてどこにもないから一ミリメートルだって一ミリグラムだって嫌われるわけにはいかない嫌われたくないぼくは告白なんてできない話しかけることすらできない、なにが、どこで、なんで嫌われるのかわからないから何もできない、ただの一度だって失望されたくない、それでも諦められなくて離れたところから彼女に認識されない距離から眺めることしかできないぼくには好きな人と永遠に結ばれるこの儀式に縋るしかなかったんだ。永遠に結ばれるのなら嫌われることも絶対にありえないから」
なに急に語り始めちゃってるんだこいつは。矢張りストーカーはキモいな。
でもこの流れはよろしくない空気を感じる。
さっきまで晴れ渡っていた空にも雲が差しはじめていた。
「言ってることがぐちゃぐちゃごにゃごにゃよくわかんないんですけど、それって要は努力しないで好かれたいってことですか? 不思議な力で相手の好みを、気持ちを、無理矢理変えてまで付き合ってそれは幸せなんですか。好きな人の嗜好が180度変わっても気にしないんですか」
なんだ、これは。相手を責めるほどに内臓が握り締められ絞られるように苦しくなる。胃がひっくり返りそうになる。気分が悪い。
「ありのままの彼女に好かれるために。彼女にありのままでいてもらうために。自分が変わろう、成長しよう、とは思わないんですか?」
私は誰に何を言っているんだ。
まるで自分の好きな人を責めているようで、自分自身を責めているようで、胸の内側を虫が這いずるような吐き気が込み上げてくる。
肇は、何か少しでも華蓮に振り向いてもらえるような努力をしていたか……?
私は……?
「努力する必要なんかどこにある? 恋とは赤い糸に運命に導かれるものだろ」
ストーカーが何の迷いもなく言い切った。
そうだけど、確かに運命には逆らえないかもだけど、
「努力すれば、たとえ離れた運命の糸でも手繰り寄せられる希望が生まれる」
ちょっと違うかもしれないけど、だから私も肇のためにここまで来たんじゃないか。
「それならこれが、ぼくの努力だ」
ストーカーが崩れた校舎に向けて手を広げた。
「ああ頑張って、頑張って頑張って恋敵を減らしたさ。ぼくみたいな皆と住む世界が違う人間にはこれしか道がないんだ!」
「おまえが好きだというあの男もどうせ僕と同じ側の人間だろう? ははっ悔しいなあ、どこで道がわかれたんだか」
違う……。そうだ、違う。肇はストーカーなんかと一緒じゃない。
肇は誰よりも優しい。
肇は肇のままで充分魅力的だから、きっと華蓮と釣り合う。釣り合わない世界なんておかしい。
「肇は自分のためだけに関係ない誰かを傷付けることなんて絶対にしない! お前と同じ道なんか最初っから歩いてすらいない!」
私は昂ぶる気持ちを微塵も抑えず声高々に言い放った。
「本当にあの男のことが好きなんだね。充分過ぎるくらい伝わってきたよ」
ストーカーが羨ましそうに私を見る。
違う。その視線は私を捉えていない。
私よりもずっと先。
「おまえのもう一つの目的はぼくを止めて罪を償わせることだっけね」
私の話をちゃんと聞いてくれていたのか。良かった。
「でも……好きな人を殺されてもまだ罪を償えなんて言えるのかなあ!」
ストーカーが丸太の矢を構えた。
引っ張られる弓の弦はみしみしと音を鳴らすことで負荷を分散させ最後の仕事をやり遂げる気でいる。
「ラスト一本はおまえのために、おまえの素敵な彼に使ってあげるとしよう! ぼくの武器を奪ってくれたお礼にねえ!」
全然良くなかった。
「さあて、王子様はどこかなあ」
この男は……!
肇とは全然違う、泰尚の悪よりもずっと酷い、酷だ!!
「やめて」
やめてよ、そんなものピンポイントで喰らったら為す術なく即死だ。
「ねえ、やめてよ」
ストーカーが私の静止なんて聞くわけがない。
やめてよ、やめて、
「やめろおおおっ!」
鍋の蓋はひしゃげて、もう思った方向に光は反射できない。そもそもこちらを見てくれていないと目くらましにもならない。
私は使い物にならなくなった鍋の蓋を相手の顔面目掛けて投げ付けた。
ストーカーはそれがわかっていたように矢を一旦捨て、空いた手で鍋の蓋を受け止めた。
自らの腕で視界を塞いでしまった。
もう一度できた隙で、私は走り寄りながら糸切りばさみを取り出す。
あとはさっきと同じ場所をこれで切るだけだ。
もし、また殴られてしまったら今度こそ生きていられるかわからないけれど、肇が死ぬよりかはずっといい。
ううん、大丈夫だ。さっきは弦が切れず硬直してしまっていたから殴られる隙を与えただけ。
次は必ず切れる。切る。切ったら自分から転がってすぐに距離を取ればいい。
はさみを振りかぶる
これで勝利は目前だ。そう目前。目前――
相手にゼロ距離まで近付いたところで弓を真上に放り投げられた。
私の糸切りばさみは行き場を失う。
「一点を凝視しすぎだろ、おまえのやりたいことはとっくにバレバレ。これで何もできないね」
何もできなくなったのはストーカーの方だった。
唯一の武器がない。
巨大な武器を力いっぱい投げた反動で今この瞬間、手を上げたまま体が止まっている。
弱そうな細い首が、がら空きだった。
これは悪魔が囁いたとき最初に望まされた展開だ。
首が細いから大事な血管がくっきりとわかる。
そこに刃を突き刺して握り込みながら引き抜けば、いつかの噴水のように血潮が吹き出すことだろう。
弦を切ろうと振りかぶったままだから、このまま勢いを乗せれば、こんなしょぼいはさみでも簡単に深くまで突き刺せそうだった。
そんなことをすれば死んでしまうだろうか。
死んでしまうだろうな。
ここは儀式中の世界ではないから傷は治らない。
木端微塵にならなくても血を流しただけで死んでしまう。
仕方がないんだ。
肇が殺されないためには、私がこいつを殺すしかない。
手を汚すしかない。
まだ綺麗な手ではさみをぎゅっと握る。
覚悟を決めろ芦谷果煉。
ストーカーの首を見据える。
私の行為を急かすような突風が衣服をはためかせた。
ポケットに入れままになっていた悪の第二ボタンが、はさみを持っていない方の手に触れる。
そう、これは第二ボタン争奪戦。
愛する人のために人生を捧げる戦い。
肇と華蓮の結婚に、一度でも血で汚れた手なんかで拍手なんて贈られない。祝福できない、したくない。
純白のドレスの前になんて立てない。同じ空間に居られない。自分に対する嫌悪感に押し潰されてしまう。
私はどうすればいい。
永遠にも思える一瞬の中で心臓がどくんと大きく脈打ち、火傷してしまいそうな灼熱の血液を全身に送った。
汗が噴き出していた。
しまった。見過ぎた。
瞬きするほどの時間も見ていないつもりだったけれど、命をやり取りする上において一瞬は永遠にも等しい。
ストーカーは武器を投げて空いた手で首を守る。
私はせっかくのチャンスを棒に振ってしまった。
いや違う。
私の目的は命じゃなかった。
勝てればそれでいい。
肇が選んだ道を私も選ぶ。
誰も傷付けない。
私は更にその先を進む。
肇が道に迷ったとき、手を引いて上げられるように。
肇は私の中で、好きな人であり、大切な人だから。
私の目の前で誰も傷付けさせない。
糸切りばさみで波紋模様の第二ボタンを切り取った。
直後にストーカーのパンチを食らってしまう。
ああ……。私の、私達の勝利が確定した。
それは普通の人間が振るう拳の威力だったから。むしろ普通の人間よりもちょっと弱かったかもしれない。
ストーカーが咄嗟に守った先が首じゃなくてボタンだったら、私は迷いを吹っ切れないまま無様にやられていた。
どうして悪も酷も、陰よりのボタンは生死に重点を置いちゃうかなあ。まあそれで私も肇も助かったわけだけどさ。
肇、ありがとう。同じやり方で、勝ったよ。
私は校舎を見渡した。
「先輩は友達いなさそうだから頭になかったでしょ。わたし達が二人で戦ってたってこと」
悔しそうに両手を突くストーカーを見てみれば、溶けるように糸がほつれる学蘭が散っていくところだった。花びらが舞うような何気に綺麗な光景に感慨深くなる。
本当に勝ったんだなあ。
肇を助けられた安心感からついつい顔が綻んでしまう。
「ああえと、勘違いしないでほしいのは先輩を許したわけじゃありませんから。私が人を殺したくないから殺さなかっただけですので」
あとはこのストーカーの命を、第二ボタン争奪戦の呪いからどうやって守っていこうか。
今の私にはなんでもできそうな万能感が溢れていたから、大変な問題も楽観的に考えていた。
さて、私達は屋上からどうやって降りようかな。
「おやおや、階段を壊しちゃったら通れないじゃないか」
どこからか、くぐもった声が聞こえた。
何かが砕けるような音がだんだん近付いてくる。
ぽこり、と階段だった場所を塞いでいるコンクリ片が浮き上がった。
その下からライオンの着ぐるみが顔を覗かせる。ライオンがコンクリ片を片手で持ち上げているのだった。
「おやおやおやおや、こんなに散らかしちゃって」
校舎を見渡したライオンは両手でコンクリ片を挟むと粉々に押し潰した。
お前もこうしてやるというメッセージだろうか。
そもそも素手で(着ぐるみ越しだけど)コンクリートを砕くってなんだよ。百獣の王でもそんな力はないぞ。
これは中身は人間じゃないな。
ライオンが今度は己の頭を掴んだ。
何をしだすのかと思えば、ただ着ぐるみの頭を取っただけだった。
中身が人間であることを否定したばかりだというのに、鬣の影からは人間の頭が出てくる。
髪が長い、女の子だ。
横顔を覗くと睫毛ばっさり目元ぱっちりでお人形さんみたいに可愛い。
その姿はまさに可憐――
というか上河合華蓮だった。
なんでライオンの中身が華蓮?
「どうしてこんなところに華連ちゃんが」
さっきの破砕音に顔を上げたストーカーも、私と同じ疑問を浮かべていた。
「学校を滅茶苦茶に壊して、沢山の人を殺して、六ツ森陸奥樹は最低ね。二度とワタシの前に姿を見せないで、きもちわるい」
彼女は疑問には答えなかった。
それどころかストーカーが発狂してここから飛び降りてしまう。
私が追いかける間もなかった。
追い打ちをかけるように放り投げていた巨大な弓が落下してくる。
落ちた先は怖くて確認できない。
代わりに華蓮に侮蔑の目を向けた。
「負けて落ち込んでいるときに好きな人から責められれば自暴自棄になるのは、想像できますよね。どうしてあんなことを言ったんですか」
歯向かえば私もその両腕ですり潰されてしまうかもしれない。
それでも華蓮の言動が不自然すぎて、訊かずにはいられなかった。
もしこれが本性ならば、肇は譲れないから。
華蓮は自分の頬を抓り、どこまでも引っ張っていく。
やがて、ぱちん、と皮膚が千切れる。それを何度か繰り返していると、ぽよん、とライオンの着ぐるみの頭が現れた。
口が開いてしまう。
結局中身はライオンだったってこと?
華蓮は関係なかったのか。良かった。
ライオンは頭を左右に振り、被り具合を調整する。
上手い具合に嵌まったのか一人で頷いて、私を見た。
「おやおやおや、ルール違反には罰を与えないとね」
クジラキ
最も力があるのに自分を慕うノノを助けず見殺しにした。
常に人間を下に見ている。