Episode 2.承(後)
Episode 2.血と涙と血と血と涙
血の気が引いていくのを感じた。
目眩が酷くて立っていられない。
そんな話、聞いてない。
[打上拳!]
肉眼では赤い血が飛び散ったことくらいしかわからなかった。
視覚から得られる情報が少ない分、肇の呻き声がより鼓膜に突き刺さる。
[打上拳!]
泰尚はボタンの奪取を目的としていない。
じわじわと痛めつけることで悦に入っている。
なんて性格が悪い。
しかも加減を知らない。
まさしく悪だ
「なにがシード枠だよ。こんなんなら金の方がやり甲斐があったなあ!!」
[打上拳!][打上拳!][打上拳!][打上拳!][打上拳!][打上拳!][打上拳!][打上拳!]
ライオンの着ぐるみの手からタブレット端末がすべり落ちる。
俯く私の視界の中に画面が勝手に入ってきた。
肇の左腕、右脚、腹、左脚、胸が凹んでいく。潰されていく。
「……もう、やめて。肇が死んじゃう。肇の負けでいいから。この儀式を中止して」
地に付く勢いで頭を下げた。
呪われるくらいで命が救われるのなら構わない。
今後肇に何があろうと私が隣でずっと寄り添うから。
「お願いだから……」
「大丈夫、まだ死なない。不安ならボクをモフっていなさい」
ライオンは鬣を広げてそこに顔をうずめるよう促してくる。
こちらはそれどころじゃない。
私は掴み掛かっていた。
「まだって何? 死ぬまで続けるってこと!? それとも助かる方法があるの? あなたはこの儀式のなんなの? マスコット的な存在とか? 私を悪と戦う魔法少女にでもしてくれるの? 肇を助けられるの!?」
「一気に沢山聞いてこないでよ。嫌いになっちゃう」
ライオンは私の手を解いた。
それでも私は残る最後の可能性に頼るしかない。
「ごめんなさい……。でも、肇を助けたいの。……だってよくあるでしょ? トラブルで戦いに巻き込まれちゃった子が実は凄い力を秘めていて、ピンチの仲間を助ける展開……」
最近読んだ本の内容が思い浮かぶ。
こんな非日常の中でなら、本の中の話のような非日常が起きたっていいだろう。
「ライオンさんも実はそんな戦う力をくれる、魔法少女のマスコットみたいな存在なんでしょ? 私がここにいるのはイレギュラーなんでしょ? トラブルみたいなものなんでしょ?」
「ねえっ!」
「力を、貸してよ……」
自分でも何を言っているのかわからない。
考えが纏まっていない。
ライオンを困らせていることはわかってる。
でも止められなかった。
「生憎キミの想いは叶えられない。ボクには女の子を変身させて戦わせるような力も義務もないからね」
「ボクが何者かと問われれば、そうだなあ。ボクは」
「ボクは、言うなればこの儀式の進行役。または審判。あるいはディーラー。あるいは中心。あるいはライオン。あるいはデンス。あるいはキミで、あるいはボクだ」
「だからキミの好きなようにボクを認識してくれて構わない。ただまあ、これだけ頑張って答えたんだから、その分仲良くしようね」
握手でもするつもりだろう、右手が差し出される。
仲良くってなんだよ。
不安で不安でどうしようもない私の気持ちを少しもわかってくれない。
私はその手を払い除けた。
何もできない何者でもないライオンに、もう用はない。
「もういい。能力がなくったって、私は肇を助ける。助けてみせる」
そうだ。肇の第二ボタンを私が取ってしまえばいい。
そうすれば肇は負けて儀式は終わる。
肇の恋は叶わないけど、傍には私がいる。
大丈夫。支えられる。
屋上から降りるための階段へ走りだそうと振り向いた私の腕がライオンに掴まれた。
着ぐるみのくせに異常に握力が強く振り解けない。
「ルール違反はいけないよ」
「ルール違反?!」
部外者は手を出すなってこと?
そんなの知ったこっちゃない。
相手の暴行なんて法律違反のレベルでしょうが。
「これは……面白くなくなっちゃうから言いたくないんだけどね」
ライオンは口籠る。
私が遮るのを待っているかのようだった。
私はいつの間にかなっていた涙目で話を続けるよう訴える。
「……シード枠に選ばれるのは実力のある選手って決まっているんだ」
どういうこと?
現状とライオンの話がまるで結びつかなくて、言葉が少しも理解できない。
ライオンはタブレット端末を拾い上げて傷や割れがないか確認していた。
「長谷川肇を信じなさい」
グラウンドで赤黒い影が立ち上がった。
筋骨が砕け、激痛どころではないだろう脚で。
内出血とは形容し難いほど腫れた脚で。
皮膚がはち切れんばかりに腫れた身体で。
なんで立てるの、どうして立っちゃうの。まだ戦おうというの? 勝ち目があるの?
……ライオンを、信じていいの?
ううん、違う。
私が信じなくちゃいけないのは肇だ。
「好きな人を大切に思う心も素敵だけど信じる心も必要だよ?」
「うんわかってる。わかったよ」
「わかってきたよ」
私の声と肇の声が重なった。
違う話だと理解していても、同じタイミングで同じ言葉が被るとこんな状況でも胸が高鳴ってしまう――
「そうか、わかったぞ!」
――このライオンさえいなければ。
「…………」
「…………」
私が睨み付けても見つめ返してくるだけで何も喋らない。
どこか私の返答を期待して浮き立っているようにも見える。
ほんとにこのライオンは。
「……何がわかったの?」
私が反応しないと話せないのか。
「長谷川肇の能力さ!」
「――っ!?」
でかしたライオン!
それは私も気になっていた。
一撃必殺系か回復系の能力が使えればまだ勝てる可能性がある。
タブレットを覗くために、鬣を掻き分けてライオンの懐に入り込んだ。
「あっ、はあ……そんなところ、お兄様にも触られたことないのに……」
艷やかな吐息と共にライオンが身悶えする。
空気を読めない近親ライオンは黙ってて。そう思いを込めて下から頭突きを入れる。
「あんっ」
マゾライオンには効かないようだった。
「無駄な足掻きはよせ」
[打上拳!]
視界の端で泰尚の腕が飛ぶ。
[適応、した]
泰尚から射出された拳が地面を転がった。
肇が鞭を振って軌道を変えたのだ。
よく見れば鞭を持つ右腕だけ怪我が少ない。
今まで泰尚の攻撃を受け続けていたのは、避けられなかったんじゃなく、右腕を守っていたんだ。
ここで力を使うために。
……でも肇の力って何だ?
「わかってきたよ、この世界は現実じゃない。だから腕とか内臓とかが潰れても死なない。粉微塵にでもされない限りは、ね」
よろよろと、ふらつきながら距離を詰めていく肇。
「そうかよ。そんならバラバラになるまで殴り続けてやるぜ!」
[打上拳!]
飛んできた泰尚の拳を鞭で払い除けた。
「ここは仮想世界。パラレルワールド。異世界。なんでもありな世界だ。だから不思議な能力だって使えるし、理不尽も起きる。理不尽を理不尽で返せる」
「うるせえ!!」
泰尚が右手で自らの左腕を掴み、千切る。
[捻打上拳!]
ナイフでの切り傷と違い、不揃いな断面から放たれた拳は錐揉み回転しながら速度を上げ直進する。
[適応している]
拳とは逆回転に鞭を回すことで威力を打ち消しながら鞭で腕を絡め取った。
「あのボタン」
タブレットを支えるライオンの手に力が入る。
言われて二人の学蘭を見てみると、泰尚の第二ボタンは変わりないのに、肇の第二ボタンは形状が変化していた。
甲羅の模様に掘られた多角形の窪みには藍色の光を反射する宝石がいくつも埋め込まれ、ボタンの縁は金で囲まれている。
「綺麗――」
変化した肇の第二ボタンは、戦いを忘れ魅入ってしまうほどの美しさを持っていた。
「あれは愚鈍の第二ボタンだね」
ライオンが説明してくれる。興奮しているのか、声に力強い震えが混じっている。
っていうか愚鈍? パワーアップしたような雰囲気だったのに、愚よりも余計に弱そうなんだけど。
「それって強いの?」
「おやおや、覚醒した第二ボタンは、九つの理の中で格が上だという証明になるだけさ」
結局またわけのわからないことを言ってくるし。
「うおおおおおおおお!!!!」
泰尚の悲痛な呻き声で視線を戻す。
肇が一撃を与えた、わけではなかった。
相変わらずの自滅。
右手で己の左腕を、左手で同じく右腕を指が食い込むほど強く掴んで、二本とも同時に引き千切った。
[双捻打上拳!!]
[適応済だよ]
先ほど鞭に絡めた泰尚の拳を、飛んでくる二つの拳にぶつけ全て潰す。
強い。
凄い。
気付いたらわくわくしていた。
だって彼は私の幼馴染なのだ。
私の好きな人なのだ。
「長谷川肇の能力はどうやら適応力のようだね。地味で得手も不得手もなく、周囲に流され周囲に合わせるだけのモブキャラクター中のモブキャラクターにはピッタリの能力だよ」
ひとがトキメいてるときになんだ、その引っ掛かる解説は。
「肇のこと馬鹿にしてない?」
確かにちょっと頼りなさ気なところはあるけどそこがまた可愛いのに。
「おやおやおや、愚に相応しい下級も下級、最下級の能力だけれど長谷川肇なら使いこなせるかもしれないと褒めているんだよ」
褒めてないよね。
「褒めてないよね!?」
「ほら。くるよ」
二人に注視するよう、ライオンに促される。
泰尚が自分の右腕を噛み千切っていた。
[高速再生]
[×溜め]
[×溜め]
[×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め×溜め!!]
[=超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超超再生!!!!]
[→大打上拳!!!!!!!!]
「それも――」
[適応済]
肇の背後の大地が抉れていく。
瞬く間に、巨人が足を引き摺ったような跡が地平線まで伸びていく。
何も見えなかった。
変わらず肇が立っているということは、あれをどうにかできたのだろう。
もし当たっていれば本当に粉微塵になるところだった。
まあ。肇なら平気だとわかっていましたけど。
ライオンにくっついてタブレットを見ているせいで背中越しに心臓の鼓動が伝わってくる。
心拍数が私とシンクロしているみたいでなんだか恥ずかしいことは悟られてはならない。
「さっきボクが適応力は最下級の能力だと言ったよね。じゃあ反対に、最上級の能力は何だかわかるかい?」
いや、わかるわけないだろ。私は今日この儀式を知ったばかりのど素人だぞ。なんだその質問。
それよりも今の状況を見るに、適応力って最下級の能力じゃないよね?
「わからないなあー」
と、てきとうに答えておいた。
さあ、これで話す気をなくして話題を変えて。
他の能力なんかよりも、肇の能力についてもっと教えて。
「創造力と予知能力さ」
ああ、私が興味なくても問答無用で続けるのね。
それどころか最も上の能力なのに二つもあるのね。
「はあ。それで」
ライオンは話し相手さえいれば良いようで、私のリアクションも全く気にしない。
今更ながらに自分勝手な奴だ。
「長谷川肇が扱う適応力は今この瞬間のみにおいて予知能力に匹敵すると言ってもいい」
それを先に言ってよ! 冷たくしちゃってごめんね。
当の肇は何度もめげずに飛んでくる拳を全て防ぎながら確実に泰尚との距離を縮めている。
なるほど、確かに身内の目から見ても異常なこの強さは、予知能力くらいないと説明が付かない。
「適応力は普通、対戦相手を対象にして発動するものなんだけどね」
「うんうん」
普通、というより言葉通りの能力だとしたら、それしか使い方が思い浮かばない。
「それを長谷川肇は自分自身に向けて適応力を使用した。こんなの前代未聞だよ」
「前代未聞はさすがに褒め過ぎじゃないの?」
幾ら肇の勘が冴えているといっても、そのくらいの使い方なら誰かしら思い付きそうだけど。
「適応力は最下級だと言ったでしょ。相手に合わせて動く、つまり防ぐ避ける生き残るだけで精一杯だから他の使い方を試す余裕なんてないんだ」
「じゃあ、肇が攻撃を受け続けてたのは逆に良かったってこと?」
「己に適応したことで適応力の能力を五〇〇パーセント以上も引き出せるようになった長谷川肇が、俵嵯峨泰尚に適応すればどうなると思う?」
おい、私の疑問にも答えてくれよ。
なにか肇が凄いことをしているようなことしかわからない。
「あ、蝶々だ」
いるわけないけど、そう返してみた。
「対象の動きに合わせる能力から、対象そのものを超える能力になる。しかも長谷川肇の口振りを見るに、長谷川肇はこの世界に対しても適応力を使ったようだね」
あれでもライオンには応えとして処理されるのか。構わず話を続けられる。
「長谷川肇は適応力を複数重ね掛けることで現在の状況だけでなく、数手先まで適応できるようなった。今はまだ後手に回ってしまっているけれど、更に適応力を応用していけば先手も取れる。思考のトレースができればその先だってわかる」
「二人しかいない狭い世界において、それは未来予知に匹敵するのではないのかな」
やっぱりライオンの話はよくわからないけど、肇がめちゃくちゃに強いことは伝わったきた。
これなら、最強だという創造力が相手でも互角に戦えてしまうのではないか、と一人で勝手に期待してしまう。
「名付けるならば――」
[適応系読心術]
いよいよ肇の鞭の長さと、肇と泰尚の距離が等しくなる。
「俵嵯峨先輩。最初に自殺行為をしてみせたのは、目くらましからの不意打ちを成功させるためではなく、自分が無敵であるということを相手の深層心理に埋め込み戦意を削ぐことが本当の目的ですよね」
一歩踏み込む。完全に肇の間合いに入った。
「けれどこの儀式の本質を理解している相手にその戦法は通用しません。先輩の能力自体は攻撃向きじゃありませんから。攻撃に転用したところで、本来の攻撃向きの能力に比べれば威力も低いし、隙も大きい。僕が戦意を失くすことは、ない!」
鞭が横に振られる。
「“一歩も動かずに勝つ”んでしたよね」
更に追い討ちを掛ける。
それは確かに泰尚が放った言葉だが――
「ふんっ」
本人はいとも容易く後ろに跳んだ。
プライドないのか。
「長谷川肇は自分の武器にも適応力を使ったのかな」
ライオンが呟く。
私も同じことを思っていた。
鞭の使い方が上手すぎる。
今まで触れるどころか実物を見たこともないはずなのに、その長い尾はまるで肇の意のままに波打ちうねるように見える。
だからきっと、後ろに下がった、下がってしまった泰尚の今の位置こそが、ベストポジションなのだろう。
肇が鞭から手を離す。
自由になった鞭はそのまま進行方向へ素直に飛んでいき、空振りするはずだった先端はその数十センチメートルメートル先で泰尚の体を捉えた。
柄が重りとなって対象の体にぐるぐると巻き付く。
ほんの一瞬で腕も脚もぴったりと固定され身動きできなくなった泰尚が倒れて転がった。
「こんな……っ! こんな……、ふざけるなあ!」
口だけが一丁前に動く。
脳が活動している。
まだ意識がある。
泰尚の、悪の第二ボタンが光った。
鱗の紋様に黒色の宝石が輝く。
「あれは、憎悪の第二ボタン!」
そんな、ピンチで覚醒って主人公の専売特許じゃないの!?
「てか憎悪って何? 肇の愚鈍よりも断然強そうな響きなんだけど?」
驚いているライオンに私は解説を求めた。
[極! 再! 生!!!!]
説明を聞く暇もなく、泰尚がこれまでロケットパンチと称して幾つも飛ばした腕が、あちこちで震えだす。
腕一つ一つの傷口から泰尚の体が生え、肇を目掛けて行進を始める。
屋上から見るそれは、まるで外敵に群がる蜂が蠢くようで気色悪くおぞましかった。
「はあ。流石に長谷川肇もここまでは適応できなかったのかな。俵嵯峨泰尚を縛るほどの余裕があったなら、頭を狙って気絶でもさせた方が良かったね」
「ううん。そうでもないよ」
私はライオンに反論する。
あれだけボロボロにされてしまっても肇の性格が変わらなくて良かった。
私の好きな肇のままで良かった。
きっと肇はできる限り危害を加えずに勝とうとしているんだ。
命を狙われる状況においてそれは甘さでもあるけれど、その信念こそ肇の優しさであり、信念を貫き通すことこそが肇の強さだった。
「適応、するまでもない」
四面楚歌どころか、百面、千面楚歌の状況でも肇は動じることなく冷静に本物の泰尚へ歩み寄っていく。
泰尚の複製が雄叫びをあげながら、近くにいた泰尚の複製を殴った。
殴られた方も当然殴り返す。
分身達が分身同士で殴り合う。
まあ、そうか。あの泰尚の性格ならこうなってもおかしくないのかもしれない。
同じ顔の人間がいれば殴る。殴られれば殴り返す。
連携プレーなんて無理だ。
殴られても蹴られても鼻血を噴いても気絶しても、すぐに再生してまた殴り合いを始めてしまう。
もっと合理的な考えができる人に再生力の能力が渡っていたら、肇には本当に勝ち目がなかったかもしれない。
「今回の悪の第二ボタンの持ち主は頭も悪かったみたいたね」
ライオンが腑に落ちたといった風に、うんうんと頷いた。
「言ってあげるな」
でも本当に、泰尚が猪突猛進の勢いで気のままに手を出すタイプで良かった。
「力ずくだけじゃ好きな人は振り向かせられない、ってことだね」
あ、一応そういうとこも見てるのね。
「もしこの儀式の勝敗が命の有無で決まるのなら、僕に勝ち目はありませんでした。しかし、ボタンを奪い合うだけの勝負なら、喧嘩慣れしている先輩も弱い僕も対等です」
肇は泰尚に跨り、縛られた鞭の隙間から第二ボタンを引き千切った。
「あなたみたいな人に、上河合さんは渡せない」
一人を残して他の泰尚が全て消え去る。
「決まったね」
「お前が喋らなければな」
余韻に浸らせてくれやしない。
ライオンはダブレットを鬣の中へ仕舞い、マイクを取り出した。
「第二ボタン争奪戦第二回戦、勝者! 長谷川肇!」
マイクに向けて発せられた声が空から降ってくる。
私は堪らなくなり、助走を付けて屋上から飛び降りた。
「おやおやおやおやおやおや!」
ライオンの慌てふためく声が既に遥か上から聞こえる。
顔に当たる風が爽快で気持ちいい。
「ここは現実じゃないから怪我しても問題ないんでしょー!?」
言った傍から着地に失敗して足が変な方向に曲がった。
痛い、けど歩けなくはない。
勝っちゃった。
本当に勝っちゃった。
なんて大逆転なのだろう。
肇の手を取って踊り出せるほど、私は気持ちが舞い上がってしまっている。
それでも足の痛みには抗えずゆっくり進んでいる内に、私が駆け付けた頃には肇も泰尚も消えてしまっていた。
肇が立っていた足元で何かが煌めく。まるで私に気付いて欲しいように何度も光を反射する。
拾い上げるとそれは鱗模様の――憎悪の第二ボタンだった。
近くで見るとまた一段と綺麗で、これで憎悪と呼ばれるなんて信じられない。
結婚式で嬉し涙を流す花嫁のような美しさを彷彿とさせ、心が揺さぶられるほどの不思議な魅力がある。
こんなものを渡されてしまったら、その相手のことを好きになってしまうかもしれない。
肇が最後まで勝ち残り、華蓮に第二ボタンを渡すシーンをイメージしてしまい不意に胸が締め付けられた。
「おーい」
律儀に階段で降りてきたライオンが息を切らしながらも手を振っている。
咄嗟に私は拾った第二ボタンをスカートのポケットに仕舞ってしまった。
「ほら。キミも帰るよ」
ライオンに手を引かれる。
行き先はわからない。
「まったく、いきなり飛び降りるからびっくりしたよ」
疲れているのか、それとも足を痛めた私を気遣っているのか、ライオンはゆっくり進む。
こんなライオンでも驚くことがあるのか、と逆に驚かされた。
「びっくりと言えばさ。肇が勝ったこともそうなんだけど、あの華蓮を好きな人が九人しかいなかったこともびっくりだよね」
たった九人だなんて、ファンクラブだけで埋まってしまいそうだ。
「あー……それなんだけどね」
いつになく、というか初めて真面目なトーンで話し始めようとする。
「なに?」
私も真剣になってしまう。
「いつもなら第二ボタン争奪戦は始まるんだよね。でも今回の第二ボタン争奪戦は始めさせられたんだ」
いや、わからない。
真面目になった私が馬鹿だった。このライオンから話を聞くときは、やはり期待しないに限る。
「えっと、どういうこと?」
「うーん。普段は条件が揃った時点で自動的に儀式が始まるから、上河合華蓮は彼女を好きな人が多すぎるが故に条件から逸脱していて、本来なら上河合華蓮を中心とした第二ボタン争奪戦は開始されないはずなんだけど、今すぐにでも上河合華蓮と結ばれたい誰かの強い意思によって今回は強制的に儀式が始めさせられたんだ。きっとその子はとてつもなく強いよ、長谷川肇でも勝てるかわからない」
長い長い。
「いやあ、ボクもビックリだよ」
「待って、それこそがイレギュラーの多発してる原因じゃないの。中止とかできないの?」
「ねえ」
応えが返ってこない、と思ったらライオンがいなくなっていた。
代わりに普通の人が大勢いる。
少し先には華蓮の集団も見える。
ああ、賑やかで騒がしい。
私は戻ってきたんだ。
時間もそれほど経っていないらしく、まだみんな登校の途中だ。
もちろん、私の隣には肇がいる。
見なくてもなんとなく雰囲気でわかる。
なんだか眩しくて直視できないなあ、なあんて嬉しく思う気持ちを超えて不安が覆い被さってきた。
救急車!
儀式の最中は平気だったけど、儀式が終わった今現実の世界であんな怪我をしていたら死んでしまう。
慌てて容態を確認するため振り向くと、至って健康な肇がきょとんとして立っていた。
そういえば私の足も痛みが消えている。
儀式での怪我は全てリセットされるようだ。
溢れ出しそうな涙は耐えられても、感情は抑え切れず私は抱き着いていた。
「はーじーめ~、よかったよお~」
私が何も考えず全体重を掛けてタックルをしたというのに、肇は倒れず受け止めてみせた。
いつの間にか逞しくなりやがって。本当に。
「えっ、あっ、もしかして見てたの?」
「見てた。全部見てたよ」
肇の顔が熱を帯びてくるのを感じる。
意識したら私も照れくさくなってきて、肇の体を押して自分から距離を取った。
そのとき触れた胸板が思いのほか硬く、私の知らない肇の部分にまたドキドキしてしまう。
ああ、もっとくっついておけば良かったと今更後悔する。
「そっか、なんだか恥ずかしいな。……心配かけてごめん」
もじもじしたと思ったら急にしおらしくなる。
まったく。可愛らしいなあ!
「本当だよ、もう。……初勝利、おめでとう」
少し、いや、大分はらはらさせられたけど、生きていてくれただけでそんなのはもうどうでもいい。なによりあの不良生徒に勝ったことを讃えるべきだろう。
「うん、ありがとう」
まっすぐに、互いの瞳が向かい合う。
私の気持ちを言葉にするなら、今しかないのでは。
「ねえ。肇――」
「……果煉の思いには気付いてる、でも応えられない。僕は上河合さんが好きだから」
ははは。遮られ、先回りされてしまったな。
「知ってる」
わかっていたけど、はっきりと面と向かって言われるのは矢張りきつい。
私の声は震えたりしていなかっただろうか。
「だから……」
肇のその言葉の先が予測できた。
だから距離を置こう、とでも言う気だ。
私もいっそのこと肇を忘れて華蓮に恋してみようか。
いいや、それはあり得ない。
だって私は、
私は肇が好きなんだ。
それにもう無理だろう。
どれだけ華蓮が素晴らしかろうと、肇には敵いっこないのだから。
ぼろぼろに傷付いても好きな人とのために戦い続ける一途な一面を見せつけられては、べた惚れするほかない。
もう私の好きは恋も愛も超えてしまっている。
肇以外を好きになるなんてありえない。
ずっと片思いのままでもいい。
「肇が誰を好きになろうと構わない。肇が好きな人のために頑張るなら私もそれを応援する。だから、この儀式が終わるまではせめて、一緒にいさせて欲しい」
それが私の、肇と一緒にいるための答え。
「ああ……うん! 果煉が見ててくれるなら心強いよ。よろしく」
よかった拒まれなくて。
まあ肇なら? 認めてくれるってわかってましたけど。
「てめえ! よくも!」
怒鳴り声が水を差す。
荒れ狂う泰尚が襲い掛かってきていた。
でも私は慌てない。
なんてったって肇はほぼ最強の能力、適応力を持っているんだからね。
格好良いところを見せてね、と私は肇に目配せをする。
「儀式中じゃないと能力も武器も使えないんだ……」
肇は首を横に振り、弱々しく告げた。
は、可愛い。
っじゃなくて。
ええっ。
「ええっ!?」
ピンチじゃん!
肇が一歩前に出て私を庇おうとする。
ああもう好き、とトキメキと心配を同時にしているところで、教師が泰尚を投げた。体育兼生徒指導担当の鬼先生だ。
「ようやく校舎内で本性を出しおったな」
泰尚が起き上がるたび投げて転ばす。
「お前はこの学校にはいらん。俺の首と引き換えにでも他の生徒と先生を救う」
あの泰尚が引き摺られていく。
周囲からは「あの人どうなるんだろう?」「停学?」「退学じゃない?」「平和になるねー」なんて声が聞こえてきた。
泰尚はこの学校には通えない。
華蓮との大きな接点はなくなった。
これが儀式の呪いか。
きっと学校外で会おうとしても、不思議な力によって阻まれてしまうのだろう。
「さっきは応援するって宣言しちゃったけど、もし負けても私がいるからね。安心して全力でぶつかってきて」
「?」
肇にはきょとんとした顔で見つめ返された。
本当に華蓮一筋で華蓮のことしか考えていないのだ。
自分を中心にとんでもない儀式が始まっていることなぞ露知らず、柚木咲結夢筆頭の己のファンクラブのメンバーと談笑しながら歩いている上河合華蓮。
そこへ朝練中のソフトボール部から飛んできた見事なファウルボールが頭に直撃して倒れた。
すぐに自力で起き上がったため大したことはなさそうなものの、心配するファンクラブ達によって抱えられ保健室へと連れて行かれる。
肇が心配そうに狼狽える横で、私は口元が緩んでいた。
自分でも知らない内に華蓮に嫉妬していたようで、ちょっとだけいい気味だった。
センジャクツヅラオ
優しい心を持つ死なない肉体は人間に弄られ続けた。
結果、人間に対する憎しみ以外の感情は消え、無敵の体で人間を殺めて回るようになった。
ウサギダメグルの名も顔も声も知らないが本能でウサギダメグルを憎んでいる。