Episode 1.起
Episode 1.私の好きな人と好きな人の好きな人
私、芦谷果煉は成り立てほやほやの女子高生だ。
真面目さだけが取り柄だった小中学生時代のせいで、大好きな幼馴染の男の子――長谷川肇からは異性として認識されず、ずっと「果煉ちゃん」だなんてわざと間違えた読み方で呼ばれ続けていた。
そんな彼。昔からちんちくりんで、こんなものを好きになるのは私だけだろうと油断していたのが災いし、いつの間にか私の目線の先に彼の唇があることが当たり前になっていることに、春休みが開けるまで気付けなかった。
顔も凛々しくなっていて、それでもまだ幼さ故の可愛らしさが残っていて、体も筋肉が付いて硬くしっかりしてきたのに、猫背のせいで頼りなさが残り、優しい性格であるにもかかわらず、天然ボケで気が回らないところもあるのがちょっといらいらもやもやもするけれど、逆に気が抜けて癒されるポイントでもあって、こんなの気付く人が気付けば恋心に気付いてしまうことだろう。
私も慌ててスカートを折って短くしてみたり、制服のシャツのボタンを一つ多く外してみたり、髪を高めで結んでうなじを出してみたり、短い靴下で肌の露出を増やしてみたり、ボディタッチを増やしてみたり、いたずらな風が吹いたとき余計にドキドキさせられるよう可愛い縞々のパンツを穿いてみたり、と誘惑を試みだしたけれど既に遅かったのだった。
「果煉、聞いてる?」
朝っぱらから一人悶々としている私に構わず、肇は他のことの話を聞かせてくる。
二人の間を阻むスクールバッグの壁のせいで私はこれ以上距離を詰められない。空いている反対側の肩で鞄を提げてくれれば手を無理矢理繋いで歩けるというのに。
肩がぶつかっても構わないくらいの距離感で歩く二人の女子中学生を見てちょっと羨ましくなったりしながら、
「んー、まあぼちぼち」
肇の話を九割寄りの八割方聞き流していたのにそう答えた。
丈の短いスカートにまだ慣れていないから、ちょっとした風でも過敏に反応してしまい、気が落ち着かない。
肇がゼロ距離で隣に立ってくれれば、こんな思いはしなくて済むというのに。
朝の風がまだ冷たく感じる。
「それでね。木の枝に引っかかっちゃったバドミントンの羽根を上河合さんが取ってあげてて。本当優しいよね」
どんな状況だよ。と心の中でツッコミを入れた。
確かに話を聞く限りでは優しい。優しくかっこいいけれども。女の子、それも私と同じ年頃の人が木登りをしている姿なんて想像もつかなかった。
その素敵な行動力は紛れもなくヒーローのものだし、そこでトキメキを感じちゃうのはヒロインの役目でしょうが。
おっと、ちょっと待ってほしい。
肇ならヒロインでもイケるかもしれない。
可愛らしいところもあるし。
私がヒーローになれればあるいは。
なんて、下らないことを考えている内に学校の校門前に到着していた。
早速目に入るのは同性の取り巻き数人に囲まれて歩く一つ上の先輩、上河合華蓮だった。
そう。この女のせいで。本物が現れたお陰で(彼女の人生における時系列的には私の方が後から現れたわけだけど)。私は肇から本名で呼ばれるようになってしまったのだ。
「見て見て、上河合さんだ。こんなところで偶然だね」
肇が嬉しそうに指を差す。
偶然、なんてのは嘘だ。
ここ数日何度も同じ偶然が起こっている。
登校前に呼びに行ってもなかなか部屋から出てこなかったり、歩調が急に遅くなったり、わざと赤信号に引っかかったり、立ち止まって雀を見つめたり。華蓮を一目でも多く見ようと、華蓮の視界に少しでも長く入っていようと、時間を調整していることは私にバレていた。
とにかく不自然な行動が目立ち、横から見ているだけで不快だから早くやめて欲しかった。
でもまあ、もしも、それらの行為の相手が私だったならば嬉しく感じてしまっているのだろう。
もちろんそんなことを肇以外からされたら超絶的に気持ち悪いのは言うまでもない。
私なら肇の全てを受け入れてあげられる。
こんなチョロい女が近くにいるのに、どうして肇は気付かないかなあ。鈍感系主人公かよ。
肇をじっと睨み付けても一向に目が合う気配はなく、じっと一点から目を逸らさない。華蓮の方向だ。
私も同じ方向に目線を移す。
上河合華蓮。
優しい(らしい)性格だけでなく、取り巻き達よりも頭一つ分も長い脚に、制服の上からでもわかる細いウエスト、一歩進むたびにふわりと波打つ黒髪は絹が輝くように朝日を照り返してきらめき、指先一本々々の細やかな動きにさえ上品さが伺える。
その姿はまさに可憐という言葉そのものだろう。
私の名前では到底太刀打ちできない。
華蓮の整った顔立ちをじっと見つめていれば、オーダーメイドして作られた自分のための人形なのかと錯覚してしまう。
そして同じ感情を万人が抱いてしまうのだ。
自分と彼女は結ばれる運命なのだと。
私も肇を好きでなかったら華蓮に嵌っていたかもしれない。
これほど魅惑的な美しさを秘めているにも関わらず、そこそこ普通の学園生活を送れているのは、取り巻きの影響が大きいらしい。
校内で華蓮に次ぐ有名人の、可愛い華蓮ファンクラブ・会員ナンバー〇〇一番を名乗る七五三秋夏、同じく会員ナンバー〇〇二番を誇る柚木咲結夢、二人の手でまとめ上げられている集団が、華蓮を守る盾になっているようだった。
自分達が注目を浴び周囲の目を集めることで、華蓮に向かう好奇の目を逸らそうとしているのかもしれない。
でも今日は珍しくナンバーワンナンバーツーの二人が揃って華蓮の傍にいなかった。
いつもは必ずどちらか一人が付き添っていた気がするのに。
こうなると勢力バランスが崩れてしまわないか不安になってくる。
勢力、と言ってももう片方は一人だけで、悪魔よりも強烈かつ鋭く突き刺すような眼光で結果的に華蓮を守っている、三年生の俵嵯峨泰尚。
留年を重ね続けていると噂される不良生徒だ。
迂闊にも華蓮に愛の告白をしようものなら、本人に容赦なく振られた後に泰尚の鉄拳が飛んできて、心も体もボロボロにされてしまう。
実際、去年の夏休みに入るまで怪我人が続出していたらしく、今年も噂を耳にする前の何も知らない新入生の何人かが犠牲になってしまった。
問題なのは、直接好意を伝える度胸を持ち合わせておらず常に距離を取って監視をしている泰尚が、ただの会話でも告白だと誤審してしまうことだ。
そのせいでファンクラブのメンバー以外は気軽に華蓮の傍に近付けないでいる。
ところがその問題児も今は奇跡的に見当たらない。
なんと平和な時間だろうか。
これはもしかして最高のチャンスなのではないのか。
華蓮と話すタイミングは一生の中できっと今しかないだろう。
告白、できちゃうんじゃないのか。
ちらりと肇の顔を窺う。
告白、なんて行為は微塵も思い付いていない顔で、まだ華蓮に見惚れていた。
少し呆れながら私も華蓮に視線を戻した。
確かに今日は華蓮の顔がいつもよりも見やすい。
というか、秋夏と結夢がいないどころか、取り巻き自体の人数がいつもより少なかった。三人しかいない。
普段なら少なくとも五、六人で囲っていた記憶から、今日も同じくらいの人数だろうと先入観だけで見てしまっていた。
ううん、ちょっと待って。一人増えた。
どこからともなく、結夢が姿を現した。
歩いてきたでも走ってきたでも降ってきたでもない。
最初からそこに居たように、ごく自然に現れた。
華蓮も取り巻き達も気にしていない。
私の錯覚か何かか?
それとも忍者なのか? 華蓮を守るためにファンクラブ内で忍術の修行でもやっているのか?
今の光景、肇にはどう見えたんだろう。
「ねえ肇、いま結夢先輩どこから――」
問い掛けた先に肇がいない。
校門前にいたはずの私は校舎の屋上に立っていた。