囮の九日目-3
奇襲攻撃に失敗した針生は兎に角ストーカーから距離を取る。あれ以上ストーカーの近くに居たら何をされるか分からないという判断だろう。
予定にない針生の攻撃だったが、結果的に僕たちには都合の良いように事態が動いてくれた。ストーカーは僕たちの居る方に全く見向きをせず、針生に対してシャドーボクシングのような事をしている。
「ど、ど、どうだ。ぼ、僕に、僕にそんな攻撃は効かないぞ!」
針生の攻撃が効かないのが分かり、強気になっているだろうストーカーは鼻息を荒くしており、正直近づきたくないのだが、鷹木に後ろから押され、ストーカーに近づいていく。
包丁の一本は鷹木に渡し、僕は逆手で包丁を握り大きく振り上げる。このまま包丁を振り下ろせばストーカーの背中に突き刺さり、絶命するだろう。
だが、僕はなかなか包丁が振り下ろせない。針生はストーカーを挟んで僕の正面に立っているので僕の動きが見えており、僕が動かないためどうした? という感じで僕の方を見ている。
ハァ…。
ストーカーに気付かれないように息を吐く。
僕は今まで人を殺した事がない。ほとんどの人がそうだと思うが、いざ人を殺そうとする段階になると尻込みしてしまったのだ。
怒りの勢いに任せてと言う事なら何も考えずに包丁を振り下ろせるのだろうが、生憎僕はストーカーに対して怒りを覚えるほどの恨みはない。
シェーラの時のようにアルテアを傷つけられた事で我を忘れて殴りかかったのと同じように出来るのならどれだけ楽だろうと思う。だが、あの時シェーラを思いっきり殴りつけたのだが、あれで当たり所が悪くシェーラを殺してしまっていたら僕はどうなっていたのだろう。
シェーラはこちらの世界の人間では無いし殺してしまえば消えてしまうので僕が殺したという証拠は何も残らないかもしれない。でも、僕の心には人を殺したという事実はしっかりと刻まれただろう。
それを考えると余計に包丁を振り下ろすのが怖くなってしまう。本来、恐怖を感じるのはストーカーの方なのに僕の方が怖いだなんておかしなこともあったものだ。
ハァ…、ハァ…。
息がだんだん荒くなってくる。緊張で体の中の酸素が足りなくなってきているんだ。
ここでストーカーを殺すというのは僕だけの問題ではないはずだ。僕がここでストーカーを殺してしまえば僕は殺人者になってしまう。警察に捕まり、裁判にかけられ、何年も刑務所か少年院に入る事になるだろう。
そうなった時、母さんは何を思うだろう。怒るだろうか、悲しむだろうか。見放すだろうか、守ろうとするだろうか。僕としては怒って見放してくれた方が気分が楽だが、母さんは殺人犯になった僕でも守ろうとするんだろうな。
母さんとは生まれてからずっと一緒に暮らしてきたんだ。それぐらいは分かる。母さんは絶対に見放したりはしない。それがストーカーを殺す事のブレーキになってしまっている。
僕が包丁を振り下ろせばストーカと僕、二人の人生が終わってしまうのだ。いくらアルテアを助けるためと言え、本当に人を殺してしまって良いのかと考えると体は中々動いてくれない。
体育館の中ではヴァルハラたちが戦闘をしているがその音が僕に聞こえる事はほとんどない。実際は聞こえているのだが、そんな音さえ気にならないほど僕はストーカーを殺して良いのか葛藤している。
ハァ…、ハァ…、ハァ…。
シェーラがこちらを向いた所で僕が後ろにいる事に気付いたようだ。上手くヴァルハラの攻撃を躱して僕の方に向かって来ている。
もう悩んでいられる時間はあまりない。早く包丁を振り下ろさなければシェーラが来てしまう。シェーラが来てしまえば僕はストーカーを殺す事ができなくなるだろう。気持ちだけが焦ってしまうが、体は一向に動こうとしない。やはり人を殺す事に抵抗があるのだ。
針生は僕が何時行動を起こしても良いようにこちらをしっかり見つめている。針生からしてみれば僕が何時包丁を振り下ろすのか気が気じゃないだろうと思うがもう少し待って欲しい。時間がないのは分かるがもう少しだけ時間が欲しい。
鷹木は僕の背中に手を添えつつもこちらを見ないようにしている。少し手が震えているように感じるのは気のせいだろうか。僕がストーカーを殺してしまえばこの二人とも会話する事ができなくなってしまうと思うと寂寥感に襲われる。
針生も鷹木もここ数日で話すようになったのだが、話してみると本当に面白い女性で今まで会話をしてこなかったのが嘘のように話が弾んだのを覚えている。
このままシェーラが来る前に腕が疲れてしまって自然に振り下ろせればどれだけ気分が楽だろうと思う。だが、僕の腕は意外と体力があり、包丁程度の重さならあと一時間ぐらいはこのままの体勢でも平気なぐらいだ。
シェーラがもうあと数歩と言う所まで迫って来てしまった。僕はまだストーカーを殺す決心はついていないのだが、流石にそうも言ってられない。もう包丁を振り下ろすしかない。人生に諦めを付けるしかない。僕は殺人者としてこれからの人生を生きて行くんだ。僕は殺人者として贖罪の日々を過ごしていくんだ。
震える腕と大量の汗でちゃんと包丁を振り下ろせるか自信はない。流石にストーカーもリディアがこちらに向かってきた事で何か異変を感じたようで周りを気にし始めた。真後ろを見られてしまえば僕たちの存在に気付かれてしまう。
シェーラの接近とストーカーの警戒。自分の意思ではなく時間的制約による強制的な殺人。分かるのはこれ以上は時間がないと言う事だけ。殺ってやる。殺ってやる。殺ってやる。黒い想いで心を塗りつぶす。
「うぉぉぉぉぉぉぉ!!」
自分の人生に諦めをつけ、これからあったであろう幸せに諦めをつけ、声を上げて僕は包丁を振り下ろす。ストーカーは目の前だ。外すはずはない。
包丁の先端が皮膚を突き破る感覚がする。風船を針で突いて破裂させたときのような手ごたえの後、弾力のある筋肉を切裂いていく。手に伝わる不愉快な感覚はそれだけで吐き気がしそうになる。
目を瞑って包丁を振り下ろしたためどこに包丁が刺さったのか分からないので怖いけど確認をするために目を開ける。僕の振り降ろした包丁は見事背中に突き刺さっており、根元まで突き刺さった所を見ると決して無事では済まないのはすぐに分かった。
だが、それはストーカーの背中と言う訳ではなかった。僕が包丁を突き刺した相手はシェーラだった。僕が包丁を振り下ろすのを躊躇ってしまったためシェーラの救援が間に合ってしまったのだ。
それではストーカーはどこに行ったのかと辺りを見渡すと体育館の端まで飛ばされており、気を失っていた。どうやらシェーラが助けるために蹴り飛ばしたようだ。
「やってくれたわね。これはお返しよ」
シェーラの怒りの籠った蹴りが僕の腹部に突き刺さる。後ろにいた鷹木ともども僕は吹き飛ばされ、体育館の床に転がった。
追撃が来るかと思い、上体を起こすがシェーラからの追撃は来なかった。シェーラの姿を見ると胸からは刃が突き出ており、口からは血を流していた。もしかして僕が突き刺した包丁が致命傷を与えたのかと思ったがそうではなかった。
「やってくれたのは貴方の方です。ツムグに手を出した事を後悔してください」
シェーラから見えていた長細い刃は包丁の刃ではなくアルテアの日本刀の刃だった。シェーラが僕に気を取られていた所に隙を突いてアルテアが日本刀を突き刺したようだ。今までのシェーラの動きからすれば避ける事は可能だったはずだが、図らずも僕がシェーラの隙を作り、その隙を最大限に利用したアルテアが止めを刺したようだ。
アルテアが日本刀を引き抜くとシェーラは血を吹き出しながらその場にうつ伏せに倒れた。背中には僕が突き立てた包丁がまだ刺さったままになっているがシェーラは抜くだけの力は残ってないようだ。シェーラは恨めしそうにアルテアの方を見るが体から光が溢れ、徐々に体が崩れて行く。それはシルヴェーヌが消えて行った時と同じだった。
光が治まり、床を見るとシェーラの体は完全に消えてしまっており、後に残ったのは僕が突き刺した包丁一本だった。
「ツムグ、愛花音大丈夫ですか?」
アルテアが僕たちの方に駆けよって声を掛けてくれる。その手には青色の宝石が握られており、ラピスラズリに似た光を放っていたがアルテアは全く気にする様子はない。
シェーラに蹴られはしたが体は平気だ。だが、精神的に凄く疲れた。結局僕は何もできなかったからだ。針生も鷹木も僕のために動いてくれたのに何もできなかった。その事が僕に重くのしかかる。
ストーカーを殺さなかった事で僕は犯罪者になる事はなかったが、もしかしたらこの作戦は失敗していたのかもしれない。アルテアがシェーラを倒してくれた事で事なきを得たがそれは結果論だ。
「ごめん」
思わず漏れた一言は誰の耳にも届いてなかったようで、僕の言葉に反応する人はいなかった。
「それで? あいつはどうするの?」
僕の近くに来た針生がストーカーを見ながら僕に問いかける。どうやら機嫌の方はすっかり直ったようだ。シェーラに飛ばされたストーカーは気を失っているようでピクリとも動かない。
シェーラがいなくなった今、僕としてはストーカーには何の用事もない。劔のように生かしておいたらアンに従僕化されてしまうかもしれないが、アンには劔が居るのでその可能性も低いだろう。
僕としてはこのまま放置で良いと思うのだが、鷹木はどう思うのだろう。
「私も殺しちゃうことはないと思うわ。ストーカーに対して思う所はあるけど、もう関係なくなった人間を殺すのは違うと思うから」
もう――という言葉に引っかかった。鷹木もさっきまでは殺してしまっても良いと思っていたって事だ。だとしたらストーカーを殺せなかった僕には失望しているだろう。
「そうね。それならここから逃げましょうか。体育館がこんな風になっちゃったから早く逃げないと私たちが捕まっちゃうもんね」
針生の言葉にアルテアたちが戦っていた場所を見ると体育館の床はボロボロに崩れており、復旧するのにはかなりの時間が掛かるのが見て取れた。
針生たちはシェーラを倒せた事で軽い足取りで体育館を出て行くのとは裏腹に僕の足は泥の中を歩いているように重かった。
疲れた。これが今の正直な感想だ。人を殺そうとするのがこんなにも疲れるものだとは初めて知った。今までも蛯谷に「殺すぞ」的な感じで言った事はあるがそれは当然冗談で、本当に殺そうとするとこんな感じになるのならこれからは冗談でも言えないな。
「私たちはこっちだからこのまま家に帰るわ」
家に帰る道すがら針生は自分の家に帰ると言ってきた。当然と言えば当然なのだが、てっきり今日も僕の家に来るというのではないかと思っていたので意外だった。
「じゃあ行きましょうか。鷹木さん」
どう見ても事前には何も打ち合わせをしていなかったようで、鷹木は驚いた顔をしている。
「えっ!? 私は今日も釆原君の家に泊ま……」
「らないわよね。昨日、私の家にも一度行ってみたいって言ってたものね。それじゃあ行きましょ」
強引に鷹木の腕を掴んで連行していく。鷹木が僕に助けを求めるように手を伸ばすがお構いなしだ。
「あっ。明日はお昼ごろに家に行くから出かけちゃ駄目よ」
それだけ言い残して針生は鷹木を連れて夕闇の中家に帰って行った。
多分、僕の状態を見て針生の心遣いだろうが非常にありがたい。針生はこういう時の僕には何も声を掛けず見守るタイプのようで、鷹木は僕の傍に居て明るく振舞ったりして元気付けようとするタイプみたいだ。
どちらも僕を気遣っての行動なのだが今の状態なら針生の行動の方が僕には合っている。鷹木の行為が迷惑と言う訳ではなく今のタイミングならという感じだ。
家に着くと家の電気は消えており、誰も居なかった。母さんは今日から社員旅行で二泊三日の旅に出かけている。なので今日、明日と僕はアルテアと二人きりで過ごす事になるのだが今はそんな事を気にしているような状態ではない。
アルテアは食事より先にお風呂に入りたいと言う事でお風呂場に行ってしまったので僕は二階に上がり、自分の部屋に戻ると父さんから貰ったハーモニカを探した。
こういう気分の落ち込んでいる時は庭を見ながらハーモニカを吹くと落ち着くのだ。机の上に置いてあったハーモニカを持ち一階に降りて行くと庭の見える場所に腰を下ろした。
和室の隣にある廊下に座布団を敷いて眺める庭は月明かりを浴びて薄っすらと浮かび上がる景色が心を落ち着かせてくれる。
僕は昔父さんが吹いてくれたハーモニカを思い出しながら吹いてみた。何度やっても父さんのように上手く吹けないハーモニカだが、上手いとか下手とかは関係なかった。
ハーモニカを吹くのに集中していた僕だったが、物音がしたのに気が付いて後ろを振り向くとお風呂上がりのアルテアが立っていた。




