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旋灯奇談

旋灯奇談  第九話  岩獅子の里

作者: 東陣正則


  第九話  岩獅子の里


 美里さんの家の玄関を入って左側、八畳の居間は、井戸端便りの編集室としてだけでなく、ミニコミ仲間の寄り合いや、いくつかのNPOの事務所としても使われている。

 誰かしらスタッフの詰めている週末には、出入りが外の縁側からという気安さもあって、ご近所の方から遠来の知人まで客の姿が絶えない。太市自身、そんな人たちが持ち込むおやつと茶飲み話のお相伴に預かることも多い。

 今回は、関西の中国地方から訪ねてくださった方から聞いた土産話である。

 三十路のやさぐれた男の登場する話だが、さて……。


 夕暮れ時、見通しの利かない山の杣道を、その男、鉄也は足を引きずり歩いていた。本格的な冬も間近な季節がら、木々の輪郭がつるべ落としのように闇に溶けていく。このままでは今夜も野宿、いやそれより、もう丸二日、何も食べていない。

 行く手を大きな岩が塞いでいる。落石だろうか。

 近寄ると、その岩が動いた。下に四本の棒、あれは獣だ。

 慎重に後ずさる鉄也の鼻孔に、不思議な匂いが触れた。郷愁を誘う香り……。

 と岩が体を反転、杣道を先へと歩き出した。釣られて鉄也も岩のような影に付き従う。

 やがて周囲の何もかもが闇に同化。

 懐かしい匂いに代わって、今度は錆臭い匂いが鼻に触れる。

 ポケットにライターがあったことを思い出して点灯。乏しい明りに、鉄の棒の並びが浮かび上がった。鉄筋を組み上げた四角い檻で、手前の鉄柵が持ち上がって、大きく口を開けている。覗くと、檻の底、板の上に木屑のようなものが盛ってある。その木屑から立ち昇る匂いが胃壁をくすぐる。

 空腹が背中を押した。背を屈めて檻の中に潜り込むと、鉄也は迷うことなく木屑を口に頬張った。発酵しかけた甘酸っぱい味が舌の上で踊る。甘露ともいえる甘美な味、久しぶりに喉を物が通過する快感に目を細める。

 その時、背後で背筋の反り返るような音が鳴った。振り向くと檻の口が塞がっている。

 慌てて鉄筋を掴んで持ち上げようとするが、鉄の扉は溶接したように動かない。

 閉じ込められた。何とかしなければ、とそう思って、必死の思いで鉄柵に取り付くが、悔しいかな空腹で腕に力が入らない。間の悪いことにライターの炎が細ってきた。

 急がなければと渾身の力を腕に込めたのが悪かったのだろう、瞬間、頭から血が下がり、

立ちくらみのような状態で意識が遠退く。

 体が傾いていくなか、鉄柵越しに長い髪を肩に垂らした女の姿が垣間見えた。

 幽霊……?

 しかし、その顔を確かめる前に、鉄也は足元の石に頭を打ち付け気を失っていた。


 中国山地を東西に縦断する高速道を降りて半刻、広島と岡山の県境に近い山間の小さな村、米咲よねさき村で、行き倒れの男が保護された。大貫鉄也、三十五歳。先日九十三歳で亡くなった村のおばあ、鰐口ヨネの孫で、姓が違うのは嫁いだ娘の子供だからだ。戦争孤児であったヨネの唯一の係累に当たる。現在、住所不定、寝起きは隅田川のほとりのブルーシートのテント小屋で、身分証はなし。当人はフリーターと言っているが、要は浮浪者。所持金は二十七円。山合いのJRの駅を下車後、バス代を節約するために歩いて米咲村を目指すが、峠を越えようとして道を外れ、丸二日間山中をさ迷うことに。なんとか米咲村の近くまで辿り着いたが、空腹に耐えられず、イノシシを捕獲するため罠のエサに手を出し、檻に閉じ込められた。十二月も中場のこの時期、一歩違えば凍死という状況で、幸いにも灯したライターの明りが人の目に留まり、無事保護された。なお駐在所への通報は役場前の公衆電話からで、通報者の声は若い女性であったという。

 以上、村の駐在所の聞き取りから。

 大貫鉄也は村の診療所に収容された。

 身長百八十五センチ、ラグビー選手のように肩幅の広いがっしりとした体格だが、浮浪者生活をしていたことに加え、山中を飲まず食わずで歩き回った後ということもあり、診療所に運び込まれた時は、まるでインドの行者のような顔付きになっていた。服装は年代物のひび割れた革ジャンに、作業用のズボンと穴空きのスニーカー。携行していたのは下着などの入ったデイパックだけで、貴重品に類するものは何も持ち合わせていなかった。

 鉄也が米咲村を目指した理由は、亡くなった祖母に手を合わせるためだ。

 東京には日本各地の新聞、いわゆる地方紙の閲覧のできる図書館がある。浮浪者として冬場の寒さしのぎに図書館に足を運んだ鉄也は、偶然にも中国地方で発行されている新聞の慶弔欄で、祖母の訃報を知った。すでに両親が他界している自分にとっては最後の身内である。子供時代に半月ほど滞在しただけの村だが、線香を手向けようと青春十八キップを手にJRに乗り込んだ。

 遭難者同様の転がりこみ方ではあったが、なんとか米咲村に到着。すでに訃報から一週間。祖母は村葬に付され、お骨は地区の寺に納められていた。祖母の墓参りを済ませれば東京に戻るつもりにしていたが、現在、鉄也の所持金は小銭のみ。祖母のヨネも晩年は生活保護を受けての施設暮らしで、遺産といえる物は朽ちかけた家と僅かな畑だけだ。東京に戻るにせよ、村に滞在するにせよ、当面の生活費を工面する必要があった。

「普通免もなし……、ですか」

 雇用促進課の看板の下で、主任の名札をつけた安西がパソコンのキーを打つ手を止めた。色白の丹頂鶴のような細面の顔に、横長の四角いメガネ。ピシリと七三に分けた髪は、寝癖の一つも見当たらない。人生紺のスーツしか着たことのない堅物で小生意気そうな男である。その安西が値踏みをするように鉄也の体を上から下へとスキャンする。

 丸三日診療所で静養、生気を取り戻した鉄也は、役場から支給されたリサイクルのセーターとジャージのズボンに着替え、髪も短く切り揃えて、保護された時の浮浪者然としたみすぼらしい姿とは見違える,こざっぱりとしたなりに変わっている。

 しかしマダマダと,安西は首を横に振った。

 役場の入口を入ってきた際、鉄也は足元をふらつかせていた。田舎で常時斡旋できる仕事は土木関係の力仕事に限られる。今の鉄也の体でそれは無理。さりとてこの時期、収穫などの軽作業の賃仕事もない。どうしたものかと、パソコンに打ち込んだばかりの鉄也の履歴書に目を走らせ、安西は腕組みをした。

 高校までの学歴以外は見事に空欄。免許、資格、技能、特技の類もきれいさっぱりナッシング。まったく、どういう人生を歩んできたのだと質したくなる。改めて安西は、人生の緊迫感とは無縁のノホホンとした鉄也の顔に眉をしかめた。

 その困惑気味の安西の右手前方、役場の自動ドアを開けて、垢抜けた長身の女性が、外の風を巻き込みながら入ってきた。すらりと伸びた足で、さっそうと商工課の前に立つ。今度村でジビエのレストランを開業予定の延原真奈美である。白いコートの下に覗くDBの深紅のセーターは、まるで冬枯れた野原に咲く極彩色の夏の花。Iターンで神戸から移り住んだ三十五歳は、過疎と高齢化にあえぐ寒村にとって希望の星である。

「まったく外から来る連中にも、色々あるもんだ」

 聞こえよがしにぼやく安西に、仕切り越し、隣の水道課の中年女史が声をかけた。

「ほらー、鉄柵の見回りやってる猫丸のジッチャンが、膝が痛いけー、代わりのもん探してくれーって、言うとったろー」

 平べったい大顔、おまけに色白。漆喰を塗りあげた白壁のような女である。

 その白壁女の提案に、「そうだった」と、安西が四角いメガネをクッと指先で持ち上げた。

 今や地方の村は、どこも野生のシカやイノシシによる農作物への被害に苦しめられている。作物への被害を防ぐために、農地の周りを鉄の柵やトタン板、あるいは電柵と呼ばれる電流を流すアルミ線で囲うのだが、この費用と手間がバカにならない。少しでも効果を上げるために、米咲村では役場の中に害獣対策課を新設、川沿いの田畑が集中する地区は、役場が一括して鉄柵を張り巡らして対応することにした。その防護柵に不備がないかを見回る仕事である。農道や畑道沿いの柵を毎日見て回り、不具合があれば補修する。特別な技能は必要ないし、毎日かなりの距離を歩くので、体力を戻す意味でも鉄也にうってつけだ。

「決まりじゃー」

 後ろで話を聞いていた背広姿の村長が、ゲジゲジの太い傘眉を上下させた。


 仕事が決定するや、猫丸のジイに呼び出しのコールが飛ぶ。と同時に、鉄也には害獣対策課の室長によって、村の有害獣事情、被害と対策のガイダンスが、役場の視聴覚室にて行われる。村内に敷設された防護柵の保守管理は、全てマニュアル化されているのだ。

 一時間ほどで室長の説明が終わり、見回りの際に必要となる各種備品、チェック項目を書き込むチャートや、現場を撮影するためのデジカメ、果ては長靴や作業着や腕章などの道具一式の入ったケースが鉄也に手渡される。鉄也が見回り用の作業着に着替えるのを待っていたように、猫丸のジイが愛用の軽トラを役場玄関に横付けした。

 流れ作業のように弁当と水筒を持たされ、さらには連絡用のケータイを胸のポケットに突っ込まれて、「さあ、実地研修!」と鉄也は外に送り出された。

 なおケータイは、裏面にデカデカと役場のシールを貼ったものである。

 猫丸のジイは、若い時分、杉の枝打ちの最中に木から落ちて背骨を傷め、それが原因で猫背になった。八十過ぎの猫好きのジイサンである。

 僻地の山村とは思えない手際いい仕事の差配ぶりに、助手席に座った鉄也が、「ずいぶん、てきぱきとした仕事ぶりですね」と感心していると、「手際が良すぎてのー」と、猫丸のジイが役場の建物に視線を流して嘆息した。

 その猫丸のジイ、村人を見つけると、車を止めて鉄也を紹介する。

 その際、村の連中が異口同音に「あー、クズメンの」と、鉄也を見てクスクスと笑う。

「クズメン?」と首を傾げる鉄也に、「あとで説明しちゃる」と、ジイがこれまた笑う。

 こちらが先とばかりに、猫丸のジイが村の施設の説明を始めた。ちなみに米咲村という名称は、山合いの地味の悪い土地に住み着いた先人が、米が咲き誇るように採れて欲しいと願って付けたとのこと。まっ伝説のようなものだろう。

 米咲村は人口千五百人。国道と県道が十字に交わる谷間に、点々と家が並んでいる。村の主な施設は、唯一の信号機のある交差点から前後三百メートル内の県道沿いにある。北から並べれば、小学校の分校、ガソリンスタンド、農協、その購買部、役場、郵便局、理髪店、特別養護老人ホームの天寿園、村内で一番大きいお社の岩獅子神社、元の中学の講堂を利用した公会堂、週に二回町から医者のくる診療所となる。

 その主要な施設に近々仲間入りするのが、岩獅子神社の社の森を借景に建てられた真新しい店舗である。ちょうど看板の取り付け作業をしている最中で、看板にジビエレストラン、ハッパーレとある。さきほど役場で遭遇したIターンの女性の始める店というのがこれ。ログハウス風の如何にもという建物である。この村の中心部を離れると、あとは谷沿いの狭い平地にポツンポツンと家の点在する風景が、どこまでも続く。

 畑や田はどれもネコの額で、その細々とした田畑の後ろに迫る杉林や雑木の間に、境界線でも引いたように鉄筋の柵が見え隠れしている。鉄棒を地面に打ち込み、そこに1メートル枠の鉄格子を固定、それを繋げて並べたもので、イノシシやシカの防護柵である。トタンの波板はサビが早いし広い面積を囲うには費用がかかる。電流を流す電柵は安価だが管理が面倒。費用対効果を考えれば、今のところ、この鉄柵が一番効率がいい。現在村の農地の六割が、役場の管理する鉄柵で囲われているということだ。

 この防護柵と共に、害獣対策のもう一本の柱が駆除。つまり銃で撃ったり、ワナで捕えるのだが、これで年間、鹿と猪が併せて五百頭前後捕獲される。

 ジイが車を止め、白菜畑の向こう側、杉林の縁に置かれた箱ワナを指した。

 車を降り畑の畦を抜けて足を運ぶ。身近で見ると、なかなか頑丈な造りの鉄の檻である。

「あんさん、ここに入っとったんじゃで」

 なんとそれが、鉄也の閉じ込められていた檻だった。扉が上に持ち上げられた状態で、檻の奥、入口から遠い位置にイノシシを誘い込むためのエサが置かれている。米咲村ではエサとして、ヌカにインスタントラーメンの乾麺を砕いたものを混ぜて使っている。ラーメンは町の食品会社から賞味期限切れのものが廻ってくるそうで、それを村の連中はクズメンと呼ぶ。

 箱ワナから助け出された時、鉄也の口元はその麺のクズにまみれていた。

「なるほど、それで僕を見てクズメンですか」

 笑って頭を掻くしかなかった。


 車を少し走らせては止め、マップ上に記された鉄柵の状態を確認。それを繰り返して三時に役場に帰還。その日のうちに報告書を作って提出する。手本を見せるように書類に必要事項を書き込みながら、猫丸のジイが小声で言った。長らく山仕事をやってきたので歳を取っても節々の痛む仕事は苦にならないが、字を書くのは大の苦手、できれば勘弁してほしい。事情があって引き受けた仕事だが、早くバトンタッチのできる人が現れないかと神棚に手を合わせていたのだと。

 ジイは自身で書く最後の書類を提出すると、清々した顔で役場の神棚に手を合わせた。

 害獣対策課で明日以降の打ち合わせを終えると、雇用促進課主任の安西が、一枚の書類を鉄也に差し出した。鉄柵の管理に関する業務委託の契約書である。何を大げさなと思うが、コレを提出しないと、委託料の支払いが認められない。面倒だが役所の仕事とはそういうものだ。名前を書いて印鑑の代わりに母印を押すと、主任だけでなく、横に見ていたジイまでがにっこりと笑って、会計の窓口を指さした。

 なんと本日から日当が支払われるという。

「期待はしないことです、今日は研修でしたから」という、安西の人工音声のような標準語に送られ、会計に回る。封筒の中身は三百四十円。明細を見ると、労災の保険料に、ケータイの借料、移動の車のガソリン代に弁当代に作業着のクリーニング代にと、事細かに経費が差し引かれていた。それでも基本給として五千円が計上。「明日から、手取りで三千円にはなるですけー」と、経理の白壁の姉ごが計算してくれた。

 この時、姉ごが書類の後ろの課に回すべく立ちあがったことで分かった。彼女、身長どころか肩幅も鉄也とほとんど同じという大女なのだ。まさに壁である。

 手続きを終えて外に出ると、午後の五時半。山間は日没が早く、すでに外は真っ暗。

 猫丸のジイが、移動の足のない鉄也を家まで送ろうと待っていた。礼を言うと、これも雇用促進課からの依頼で、送迎の手数料も貰っているとのこと。なんとも細かい。

「なんもかんもが金に換算されてのー、まったく脳みそ、どしゃげるでー」

 ぼやき半分で話しながら、猫丸のジイが街灯のない田舎道をすっ飛ばす。

 家に着くと「なごー続けてくんせー」と言って、ジイは帰っていった。


 三十年ぶりの祖母の家、いや実際は二日前に役場の福祉課のスタッフと、祖母の墓参りの後に足を運んでいる。母屋はガラクタやゴミで足の踏み場もない状態で、裏の台所など屋根が落ちかけている。離れの隠居小屋は、鍵が見当たらず中に入っていないが、窓越しに覗いた限りでは多少散らかる程度だった。水は裏の沢から。電気は昨日開通。ガスも今日の昼間に燃料屋がプロパンガスを繋いで、開栓の手続きをしてくれているはず。多少の不便は承知のこと、なにせ宿代のいらない祖母の家だ。

 離れの玄関を開けて壁のスイッチを押す。

 吊るした白熱電球が点灯。オレンジ色の明かりが肌に暖かい。

 ところが玄関に上がり、奥の部屋のガラス戸を開けて仰け反った。確かに外から見える廊下はそれなりに片付いている。しかし後ろの居間は悲惨。なんとちゃぶ台の上に、お膳が乗ったままだ。二年前に祖母は脳梗塞で倒れて病院に直行、退院後は後遺症の治療のためにリハビリのできる養護施設に移って、そのままそこで亡くなった。その倒れた時の状態で部屋が残っているのだ。

 布団も敷きっぱなし。触れるとジトッと冷たい。台所を覗いてさらに顔が引きつる。あらゆるものがネズミに引っかき回されていた。袋という袋は破れて中身が散乱、そこにネズミの黒い糞がこびりついている。冷蔵庫の中はと扉を開けかけ、慌てて閉めた。話すもおぞましい有様だ。気を落ちつけ今度は流しの蛇口を捻る。ところが水が出ない。変だなと蛇口に顔を寄せると、尺サイズのムカデが、水と一緒にゾロリと流れ出た。

 まったく心臓に悪い家だ。

 祖母が二年前まで暮らしていたのだから、乾物や乾麺くらいはあるだろうと踏んでいたが、その当てが完璧に空かされてしまった。甘く見たなと臍を噛む。農協の購買部は五時半に閉店、他にこの村に食品を売っている店はない。コンビニやスーパーは車で三十五分、山二つ越えた隣の町まで行かなければない。あとは週に二回、移動販売の車が来るのを待つだけというのが、この村の買い物事情なのだ。念のために米櫃の中を覗くが、精米済みの米は黴の塊に変身、インスタントコーヒーの粉は黒曜石のごとく固まっていた。

 辛うじてガスは付くが、これでは湯を沸かすくらいしかやることがない。

 今夜の晩飯をどうすると腕組みをして天井を睨みつける。もとより選択肢は限られる。

 真っ先に頭に浮かんだのが、近所の畑に植わっているダイコン。あれをこっそり頂戴するか。いや見つかったら、それこそ大変なことに。そうでなくともラーメンクズに手を出した男として知れ渡っているのだ。これ以上、マイナスの評価は避けたい。ここは潔く近所の人に食料を分けてもらいに行くしかないだろう。

 重い腰を引き上げ、懐中電灯を灯して外に出る。

 何かの時は地区の区長さんに相談しなさいと、福祉課の女性からアドバイスを受けていた。近所の挨拶回りのために渡された隣保班の見取り図を取り出す。その図に目を落として溜め息をつく。両隣はすぐそこなのに、区長さんの家は谷の向こう側。道を大きく迂回しての谷向こうだ。

 こんなのアリかよと顔を歪めながら、懐中電灯で辺りを照らす。

 と円形の明かりに、栗の木の根元に置かれたイノシシ用の鉄の檻、地元で言う箱ワナが浮かび上がった。誘われるように、その黒光りする箱ワナの元へ。覗くと今盛ったばかりのような真新しいエサが、オイデオイデをしている。おまけにヌカと砕いたラーメンの間には、サツマイモの切れ端も見え隠れ。思わず懐中電灯を消して気配を探り、辺りに人がいないことを確かめる。

 ズボンのポケットには、古着を渡された時のレジ袋が押し込んである。

 空きっ腹を抱えて谷向かいの区長宅まで恥を曝しに行くか、それともラーメンのクズとサツマイモのスープで、とりあえずの空腹を満たすか。ホームレス暮らしの経験で、温かい汁物さえ腹に流し込めば、それなりの満足感が得られることは承知している。

 結論は考える間でもない。

 鉄也は腹を括ると辺りを探った。上手い具合に頃合いの角材が檻の横に立てかけてある。箱ワナの扉が落ちないよう、角材をつっかい棒として下からあてがい、用心深く檻の中へ。ヌカからラーメンのクズとサツマイモの切れっぱしを選り取っては、レジ袋に放り込んでいく。なんとか鍋一食分を確保。

 そろそろと鉄の檻から這い出し、念のためと周囲にライトを振る。そして見つけた。

 別の箱ワナが山道を少し上がったところにある。一瞬迷ったが、毒を食らわば皿。行きがけの駄賃と、その箱ワナのエサも頂戴することにした。明日の朝食分だ。

 欲を出した時に人は失敗するものと気を引き締め、もう一つの箱ワナに忍び寄って中を覗く。こちらも真新しい餌だ。匂いで分かる。

 そして、しめしめと足を踏み出した瞬間、足首が何かで引っ張られた。

 昼間のレクチャーで聞いたイノシシの罠には二種類あるという話を思い出す。

 一つは鉄の檻で作った箱ワナ。もう一つが、イノシシが足を踏み入れると、その足をワイアーで縛り取る、括りワナである。通常、括りワナはイノシシの通り道、獣道に仕掛けるものだが、箱ワナの中のエサに釣られて寄ってきたイノシシを狙い、檻の側に仕掛けることもある。その括りワナのワイアーに足を突っ込んだのだ。運の悪いことに箱ワナが置かれていたのは大きく抉れた斜面の縁。体勢を崩した拍子に斜面側に倒れ、頭を下にしてぶら下がることになった。必死にもがくも、張り出した木の枝が邪魔をして体が起せない。じたばたするうちに頭に血が下がってきた。まずい……。

「たー、助けてくれーっ!」

 叫ぶこと数回、下方の家に明かりが灯った。


 翌朝、近所の挨拶回りを行う。行く先々でインスタントラーメンとサツマイモを差し出される。これはもう笑って受け取るしかない。挨拶に回って分かったのは、祖母のいた十三世帯の隣保班は、平均年齢七十五歳という超高齢化の地区で、七十以下の住人がいるのは、自分と両隣の三軒のみ。

 斜面に並んで建つ右隣の家、わら葺きの屋根をトタンで覆った古い家が熊野家で、山仕事のケガで片マヒの残る痴呆症の祖母と、三十前後らしき孫娘の二人暮らしだ。玄関で呼びかけると、孫娘の杏子が猟銃を手に出てきた。杏子はイノシシやシカを捕って生計を立てる女猟師で、顎の線の目立つ浅黒い顔に、猟犬のように鋭い切れ長の目が光る。髪を頭の後ろで団子に丸め、狩猟帽を被って網チョッキを着込んだ姿は、とても女性には見えない。

 杏子は顔を動かさず目だけで鉄也を睨みつけると、「今度箱ワナのエサに手を出したら、ただじゃおかないわよ」と、ピシャリと言い捨てた。どうやら昨夜の箱ワナは、彼女が仕掛けたものだったらしい。口調は厳しいが、それでもこちらの窮状を慮ってか鹿肉の燻製を差し出してきた。有り難く頂戴して、早々に退散。痴呆の入ったおばあちゃんが、「クズメン、クズメン」と呼びかけながら、愛犬のシロと一緒に家の前で手を振ってくれた。

 斜面の下方、我が家の左隣は新築の家だ。

 元の住人が隠居用に建ててすぐに亡くなったため、村が借り上げ、村外からの移住者に貸し出している。今住んでいるのが、村でジビエのレストランを開業する延原真奈美。呼び鈴を押すと、いかにも都会的な良く通る声と共に、役場で目にした派手なセーターと同じ、DBの真紅の前掛けを着用した真奈美が、ドアを開けて顔を見せた。目にまばゆい前掛けの色が、海辺のコテージにでもありそうな白い壁と、丈の高い窓を配した平屋に良く似合っている。都会的な細面の美人で、一見して、人の視線に曝されることに慣れた顔だと分かる。ただ客商売の経験はあっても客擦れした肌の崩れは感じない。

 新規開店の準備で忙しいのだろう、こちらの名前を聞くと、形だけよろしくと言って背を向けた。ラーメンクズと話をするのは時間の無駄とでも言わんばかりの素っ気ない態度である。浮浪者生活をしていた関係で人から見下されることには慣れている。それに、あえてお上品ぶった女と世間話をしたいとも思わない。そのまま引き下がろうかと思ったが、靴箱の上に並ぶワインの空き瓶に目が行き、気が変わった。

 奥の部屋に下がった彼女に届くよう、これみよがしの声を漏らす。

「へえーっ、フィンカ・アルタミラ、地球の裏側のワインか」

 真奈美がガラスの引き戸から顔を突き出し、意外そうな目で鉄也を見た。

「ワイン、分かるの?」

 

 シェフの真奈美とワインのことを立ち話して家に戻ると、玄関前に自転車が置いてあった。移動の足のない自分に役場で自転車を用意してくれるという話だったが、届けてくれたようだ。有害獣課の幟付きである。

 午後、その自転車で、イノシシ避けの鉄柵の見回りを行う。柵の山側にイノシシの足跡が散見されるが、幸い内側の畑には入られていない。おおむね柵の状態も良好だ。

 定刻の三時に役場に戻って記録を作成、請求書と引き換えに、その日の日当を貰う。今日は半日の仕事として二千四百円。これなら当座の食費を差し引いても、二週間ほど働けば、東京に戻る交通費が確保できる。さすれば、この村ともおさらば。その間にやっておきたいことといえば、檻に閉じ込められた自分を発見、通報してくれた女性を見つけて、お礼をすることくらいだ。

 五時十分、農協の購買部で買い物を済ませ、自転車を漕ぎ漕ぎ暗くなってきた田舎道を急ぐ。半日自転車で走り回った後だし、それに山間の村は坂の連続で、さすがに息が切れる。最後、青息吐息で祖母の家に辿りつく。

 と、軒下に自転車を止めた鉄也を、夜気を切り裂く罵声が迎えた。

 玄関の前に、怒り心頭の顔で立っているのは、隣家、熊野家の杏子だ。

 何事かと思っていると、耳を引っ張られ、裏の斜面に連れて行かれた。そこに二軒の家が共同で利用している上水用のタンクがある。沢沿いの湧き水をパイプで引いて、コンクリのタンクに溜め、そこから双方の家に分配する仕組みだが、蓋の隙間から中を覗くと水がほとんど残っていない。実は今朝、水の濁りが気になった鉄矢は、水を出しっぱなしにしたまま外出した。そのため三つあるタンクが全て空になってしまったのだ。湧き水の減る冬場、タンクを満タンにしようと思えば、たっぷり半日の時間が必要となる。それに風呂を満タンにするには、最低でもタンク半分の水が……。

「どうしてくれるのよ」

 反論すれば余計に怒りを買いそうな杏子の権幕に、鉄也はひたすら頭を低くして、ご機嫌を取ることにした。村にいるのが二週間なら、波風立てずに過ごしたい。

「風呂の水を沢から運ぼう」

 あっさり言って傍らのバケツを手にした鉄也に、怒りの矛先をかわされ、拍子抜けしたのか杏子のトーンが下がった。

「ちょっと、誰も水を運んでくれとは」

「溜まるのを待ってたら風呂に入るのが午前様になるぜ」

 有無を言わせず手押しの一輪車に漬物用のプラスチックの大樽を乗せ、そこにバケツを放り込んで家の横の沢に向かう。水運びを始めた鉄也を見て、杏子はそれ以上何も言わずに家に引っ込んだ。その杏子に代わって、痴呆のサキ婆と愛犬のシロが姿を見せた。かいまきを着込んだサキ婆は、薪割用の切り株に腰掛け、鉄也の水運びを眺める。

 都合七往復、熊野家の風呂に水を満たして家に戻ると、離れの玄関前にラップをかけた皿が置いてあった。振り向くと、片マヒで動かない左足を引きずりながらサキ婆が勝手口に入るのが見えた。差し入れ、お疲れ様ということか。

 孫娘の杏子は怒りっぽいが、ばあさんは優しいなと、そうごちつつラップ剥いで皿の中身を一瞥。サトイモやレンコン、それにダイコンなど根菜の煮物だ。摘んで一口。とそのとたん、舌の上に懐かしい味が広がった。味の記憶は視覚や聴覚よりも長続きするという。

 三十年前、この祖母の家で今は亡き母と一緒に夕飯を食べた光景が、目の奥に蘇る。

「故郷の味かあ……」

 玄関口に佇み思わず声を漏らす鉄也であった。


 翌朝七時きっかり。雇用促進課の安西からケータイに連絡が入った。

 郵便局裏のダイコン畑がイノシシに荒らされた。畑沿いの鉄柵が倒れているので、確認の上、補修をするようにとのお達しだ。急いで現場に向かう。鉄柵が一つ押し倒され、そこからイノシシが集団で畑に入り込んで、ダイコンを食べ散らかしていた。踏み倒されたダイコンも多く、畑一枚、三百本ほどの漬物用のダイコンが台無しになっていた。証拠として写真を撮り、役場に資材を取りに戻って柵を補強する。その日はもう一カ所、別の畑でもイノシシの侵入による被害が発生、鉄柵の補修に走りまわる。

 夕刻、役場に顔を出し記録をつけて一息つく。結構疲れる仕事だ。そして日当を受け取りに会計に出向いて目を疑う。渡されたのが七百四十円ぽっちなのだ。

 なぜ、何ゆえに? と問う鉄也に、安西が契約用紙のある条項を押さえた。

 見回りは委託業務。業務上の過失によって農家に損害が生じた場合は、それを業者側、つまり鉄柵の保守管理を請け負った者が補償するという取り決めになっている。全額ではなく役場と分担する形だが、被害額の算定方法や細かい取り決めのナンタラに従えば、今回はダイコンを農協に下ろした際の額が一万二千円。その半額の六千円が担当者の負担になる。役場が経済的に困窮した者に斡旋する仕事として、日当をゼロにすることはないが、補償を終えるまで、日当から一定の額が差し引くことになるとのこと。

 先任のジイがこの仕事を鉄也にバトンタッチした際、心底ホッとした表情を見せた理由がこれだった。契約書を精査して目を通さなかった鉄也にも落ち度はあるが、これでは弱者から金を毟り取るブラック企業と同じではないか。そう内心で罵る鉄也の腹の内を見透かすように、安西がシレッと契約書を振った。

「飢え死にするよりは益しでしょう」

 おのれブラック役場、今に見ておれと心の内で毒づきつつ、なけなしの七百四十円を握り締め、今夜のおかずを調達しに農協の購買部へ。

 体をレジからはみ出させた横太り三段腹のオバンが、何が起きたか先刻承知のように、「捕まっちゃったね」と、したり顔で話しかけてきた。

 いま地方の寒村はどこも廃村の瀬戸際に立たされている。そこで優遇されるのは、村を支える屋台骨になってくれそうな人や事業だ。Iターンの真奈美さんなんかがその筆頭で、彼女は村から無利子の融資も受けている。一方で何の技能もないお荷物になりそうな者は冷遇される。霞を食って生きろとは言わない、村で生活できる最低限の給与は保障するが、それはあくまで生かさず殺さずの金額だ。それが不満なら、一念発起、村の生き残りに寄与する能力なりアイデアを見せてくれというのが、今の村長の方針なのだそうな。

「まー、あんた、この村じゃヒヨッコの若さじゃけー、がんばりんさい、のー」

 笑いをこらえた顔で言って、横太りのオバンがレジ袋の中に賞味期限切れのアンパンを二個入れてくれた。おまけで付けてくれたパンには涙が零れるが、やはり怒りは治まらない。あの安西の野郎と罵りながら自転車を漕ぐ。読みが大外れ。一日の日当が七百円チョイでは、その日の食費を賄うので精一杯。いつまでたってもこの村を脱出できない。レジのオバンの「捕まったね」という一言が、頭の中を屋根裏のネズミのように煩く走り回る。

 そして、いらつく気持ちで家に戻った鉄也の前に、今夜も杏子が立ちはだかった。

 マキを勝手に使っただろうと拳を振り上げている。

 ハッとした。家の裏、納屋の前にマキが積んであるが、納屋がこちらの家寄りに建っていたので、当然祖母が集めたマキと考え、風呂を沸かすのに使った。

 どうやらそのマキが、彼女の家のものだったらしい。確認してからにすべきだったと思うが、時すでに遅し。

「分かった分かった、使った分は、今日中に補充しておく」

「当たり前よ、それとあんたが使ったマキは売り物のマキだからね、乾いたいいマキを補充してよ」

 昨日の今日、抗弁するよりもさっさと謝る作戦を取る。

 が、いかんせん心中大荒れの状態で、いらつくままに思い切り斧を振り上げたのが更なる災いを生む。斧の柄がスポッと指の間から抜けたのだ。まずいと思った時には、背後の熊野家でガラスの割れる音が鳴り響いていた。寒空が冷たく凍りつく。

 確かめるのが怖いが無視もできない。意を決して振り向く鉄也の目の前に、右手に猟銃、左手に鉈を握りしめた杏子が、般若の形相で飛び出してきた。

 思わず腰が引けて逃げ出したくなるが、これはもう平身低頭ひたすら詫びるしかない。

 大地にひれ伏すように両手を付いて謝る鉄也の頭上を、罵声の嵐が吹き荒れる。

「今度やったら、その腐った心臓に鉛の玉をぶち込んでやるから」

 最後通牒を叩きつけると、杏子は鉈をマキ割りの台にガンと打ちつけ引き上げていった。

 もはやこれは厄日と言うべきか。

 こういう最低最悪の日は、さっさと寝てしまうしかない。

 マキを補充し、杏子の家の割れた窓に応急措置でダンボールを貼り付けると、鉄也は心底疲れた顔で離れに戻った。すると玄関に昨日と同じようにラップに包んだおかずが置いてある。サキ婆だ。鉄也は拝むようにそれを捧げ持つと、玄関の引き戸を開けた。

 インスタントのラーメンを啜り、差し入れの煮物で栄養補給。デザートに餡の酸っぱくなったアンパンを食べて、布団に潜りこむ。貧乏人にとって安住の地は夢の中にしかない。そう思って駆け足で夢の楽園に走り込もうとする鉄也の襟首を、ケータイの呼び出し音が掴んで引き起こす。無慈悲なやつ、いったい誰だ。もし安西だったら、鉈で頭を二つに勝ち割ってやる。そう心の中で叫びつつ、枕を蹴飛ばしケータイを手にした鉄也に、真奈美の声が飛び込んできた。

 ジビエ料理の試作品を食べて感想を聞かせてくれないか、食材はシカと雉だという。

 もう夕食は済ませたし、それに夜の九時を回っている。

 断ろうとすると「ワインもある、料理は一口ずつでいいから」と、挨拶に出向いた時の高飛車な態度とは打って変わった、控えめな調子で誘いかけてくる。

 料理の味見はどうでもいいが、ワインと聞いて喉仏がグッと顎の付け根まで引き上がる。アルコールから、ひと月以上も遠去かっている。それに今夜に限っては、荒んだ心がアルコールを熱望していた。日照りに慈雨、狙い澄ました絶妙のタイミングだ。

「三十分ほどなら」と、渋々誘いを受ける振りをしながら、心はすでに食卓に並んだワインの前に三つ指を付いて正座。十分後、祖父のものだろう年代物の半纏をジャージの上から羽織ると、鉄也は真奈美の家の呼び鈴を押していた。

 リビングのソファーに座った鉄也の前に、創作料理とワインが並ぶ。

 すでに自分は夕食を終えている。が、そんなことは問題ない。金持ちは知らないだろうが、貧乏人は食い溜めが利くのだ。大いに食べかつ呑む。さすがにプロ、どれも美味い。もちろんワインもだ。予定の三十分など、どこ吹く風。

 食事の相伴に預かる際は、いかに感想を述べるかが重要になる。特に相手がプロの場合はそう。単なるおべんちゃらは必要ない。率直かつ相手の参考になる意見を口にするのが基本で、それが次のお誘いに繋がる。これ、世渡りのTPOなり。

 昔、ホテルで皿洗いをしていた時に耳タコで聞いていた料理人たちの評を記憶の底からサルベージ、残り物を舐めて鍛えた舌をフル回転させて、飾りつけの生クリームのように感想をひねり出す。

 味付けが繊細すぎて、都会のグルメバカには受けても地方ではどうか、といった全般的なコメントから、シカ肉の香味野菜のソテーは、ソースの味に肉本来の味が埋もれているように感じると、細かい話に分け入る。すると彼女がさもありなんと、ワイングラスを細い爪でチンと鳴らした。

「まさにそう、シカ肉は味が淡白で、そこが難しいの」

 真奈美さんが煮詰ったフォンドボーのような吐息をついた。

 村の人は遠慮があってなかなか本音を聞かせてくれない。レストランの狙いは村外からの客を呼び込むことだが、山間の奥深い立地では、地元の人たちの利用がなければ店は立ち行かない。町と田舎、双方の舌を満足させることが必要で、その落としどころの味が難しく頭を悩ませているのだと。

 悩める美女は絵になる。その美女を引き立てていた陰鬱な陰が、話を交わすうちに解れてきた。思うに料理に限らず新しい事業を始めようとすれば、問題はつきもの。

 知り合いもいない辺鄙な山村で、料理やワインに関して相談できる相手もなく、悩みや不安を抱えて一人で悶々としているところに、素性は怪しいが、それなりに話を受け止めてくれる人物が現れた。それも隣家に。

 杏子にとって自分は招かれざる隣人のようだが、真奈美の場合は逆。まあ親愛の情を感じて貰えるほどではないだろうが、悪い気はしない。

 喋るほどにワインが進む。

 イタリアガヤのバルバレスコに、日本山梨のシャトー・メルシャン。時計を見れば、あっという間に夜の十一時、思わず長居になってしまう。しかしこの村に来て、初めての心弾む夜だった。これが続くなら米咲村での暮らしも悪くない。終わり良ければ全てヨシ。この夜は天井裏で運動会を繰り広げるネズミの音も全く気にならない。

 ぐっすりと眠りに落ちた。

 

 翌朝七時、例によって安西から電話が入る。男としたはやや高い早口の声で叩き起こされると、寝覚めが悪い。用件はもちろん仕事だ。

 本日ご推薦の日雇いメニューは、秋の長雨で崩れた県道の土砂の撤去。日当は一万四千。これで補償金の半額が返済できますよと、安西が商人の揉み手のような声で勧誘する。柵の見回りに慣れてきたら合間に他の仕事もやってもらいましょうと、事前に説明を受けていた。もちろん斡旋の仕事を受ける受けないは、こちらの自由。策略に嵌められた想いの当方としては、まだ内心むかつく状態だが、日当の額からして断る手はない。ここは素直に受けることにした。

 そして終日、村内のジジババに混じってスコップを動かす。崖の上から転がり落ちてきた石で肝を冷やすことが二度あったほかは、体力的にも問題なし。

 四時、汗かき仕事も無事に終了。

 日当を受け取りに役場に出向くと、安西が「困りますね、あのようなことをされては」と苦言を呈した。何のことかキョトンとしていると、「事情を知らないので仕方のないことですが」と、辺りを憚るように顔を寄せてきた。

 問題は、昨日の夜、鉄也が真奈美の家を訪問したことだ。

 延原真奈美が神戸から米咲村に移り住んで、すでに一年と二カ月。ちまた過疎の山村とは、三十代から、上は老境に足を突っ込んだ六十男も含めて、家を継ぐために郷里に残った独身男がゴロゴロと転がる世界で、そこに三十半ばとはいえ都会的な独り身の美人シェフが足を踏み入れたのだ。当然のごとく波一つない穏やかな水面に、波紋が湧き立つ。最後のチャンスとばかりに、男たちが、あの手この手のアプローチ合戦を繰り広げるが、それがやがて腹の探りあいを生み、ついには刃傷沙汰の騒ぎまでが起きてしまう。

 このままでは彼女が村に居づらくなる。村にとって彼女は貴重な人材で、レストランの開設には村も相応の資金を出資している。すわ一大事と村長が乗り出し、揉める男たちに協約を結ばせた。いわく、忙しい彼女の邪魔をしないようアプローチは週末のみに限定。さらにその枠はクジを使って公平に決める。そして日中夜間を問わず、彼女の家に直接出向くことは禁じ手にすると。

 その協定を、あろうことか余所者の鉄也が反古にしたのだ。

 今回は知らなかったことだからで済むが、次は弁明の余地なし。そのことを肝に銘じてもらいたい。おそらく今日の現場での落石は、鉄也の素行に腹を立てた者の仕業でしょう。狭い村社会では、よそ者の行動は注目の的で、二十四時間誰かに監視されていると考えるべきで、心して行動してください、などなど。

 そういうことか……。

 安西の生活指導のような説教話にしおらしく耳を傾け、日当を手にした時には、もう六時を回っていた。農協の売店の自販機でビールを買って家へ。コタツに潜り込み、ぬるいビールをちびちび飲んでいると、真奈美が弾んだ声で電話をかけてきた。昨日と同様、試食とワインのお誘いである。しかし残念だが今日は疲れているからと断る。

 ワインに未練はあるが、ここは巡り合わせの不運を嘆くしかない。自粛あるのみ。


 日付が代わり二日後、また鉄柵が破られた。被害を受けたのは白菜畑で、鉄也の負担額は九千円。先日の土方仕事の儲けがフイになる。それは仕方ないとして、現場に出向き倒された柵を元に戻しながら気づいた。辺りに残されたイノシシの足跡に特別大きなものが混じっている。思い起こせば前回もそうだった。一組だけ大きな足跡があり、その足跡だけが倒れた柵から内側の畑に入りこんでいなかった。

 車で通りかかった猫丸のジイを呼び止めて聞くと、その足跡は、この界隈で出没する岩獅子と呼ばれるオオイノシシのものだという。

 普通のイノシシに鉄柵を倒すほどの力はない。それが、小型の牛ほどもある岩獅子は、二股に分かれた太い牙を使って鉄柵を持ち上げ、力任せに押し倒すのだそうな。このオオイノシシをなんとかしなければ、いくら鉄柵を張り巡らしたところで被害は止まない。有害獣対策課では、これを喫緊の課題として、いま町の鉄工所に岩獅子専用の特大の箱ワナの製造を依頼しているところだった。

 柵の補修を終えると鉄也は顔を上げた。谷沿いの集落を押し包むように山が迫っている。村の人口千五百人に対して、イノシシやシカだけでもその三倍は生息しているという。加えて特大のオオイノシシ、岩獅子が現れた年は農作物の被害も倍増する。

 鉄也は山中で道に迷った時に遭遇した岩のような獣の姿を思い出した。あいつが村人たちの言う岩獅子だったのだろうか。

 夕刻、自転車を押して家の前の坂を上がる自分に、熊野家のシロが走り寄ってきた。典型的な柴犬で、自転車の後ろを千切れんばかりに尻尾を振りながら付いてくる。なんとも愛くるしい。と全然愛くるしくないヤツが、家の前で腕組みをしていた。杏子だ。

 こちらが自転車を止めるのを待ち切れないとばかりに、詰め寄ってきた。

 うちのシロにインスタントラーメンを食べさせただろうと、目を吊り上げて喚く。

 かわいい犬だからこそ好きなラーメンの残りを分け与えた。それのどこに問題があるのかと言い返すと、杏子の声が一段アップ、金切り声に怒りのビブラートがかかる。ラーメンの味を覚えると、それ目当てにシロが箱ワナに入ってしまう。犬の匂いの残ったワナはイノシシが警戒して入らない、それにインスタントラーメンは添加物がどうのこうのと、アレヤコレヤと機関銃のように文句を並べ始めた。

 耳を傾ける振りをして耐えるが、しかし全くもって癇に障る喋り方だ。

 体を摺り寄せてきたシロの首元を撫でながら、「お前は飼い主のようになるなよ」と、心の中で囁く。嵐が通り過ぎるのを待つ忍耐の時間が過ぎていく。

 昨日断ったからだろう、その夜、真奈美さんから電話は掛かってこなかった。


 翌日はそぼ降る小雨の中での側溝の清掃作業。日当が思ったよりも多く二千三百円。たまにはプチ贅沢をするかと外食を試みる。村の特別養護老人ホームの食堂が部外者でも食事可能と小耳に挟んだのだ。年寄りの施設は圧倒的にジジイよりもババアが多い。そのババアの園で、唯一のメニュー、定食を頼む。もちろんビールも。

 すると、おかずの中の煮物が、サキ婆が届けてくれる根菜の煮物の味と同じだった。レジのお姉さんに聞くと、昔、サキさんが村の仕出し屋で働いていた頃、彼女の作る煮物は一等評判が良かった。その味を覚えている人が多く、メニューに加えてほしいとリクエストが出る。そこで週に三回パートでここに働きに来ている孫の杏子さんが、その際にサキさんのお惣菜を届けてくれるのだそうな。

 この料理のことを皆は、ヨネサキ煮と呼んでいた。

 外食したおかげで手持ちの金は四百円に目減りする。この綱渡り感がたまらない、というのはもちろんウソで、んー、どうなることか……。

 次の日は、終日柵の見回り。

 更に次の日、またもやイノシシが出た。柵を破られハウス内に貯蔵してあるサツマイモの種芋が食い荒らされた。今回も柵を突破するきっかけを作ったのはオオイノシシの野郎だ。早くヤツを退治しないと、日当が全て補償金に消えてしまう。ただこの日は、イノシシの被害など吹き飛んでしまう大事件が別に起きた。村長の息子と森林組合の若専務が、前代未聞の大喧嘩をやらかしたのだ。原因はもちろん真奈美。協定を破り互いに陰で彼女にアプローチしようとして搗ち合い、取っ組み合いの末に車をぶつけ合った。それで終わればまだ若気の至りで済んだものが、最後、村の創設者の銅像に車を衝突させて押し倒すという大失態を演じてしまう。

 いやもう村中どこもこの話題で持ちきりだ。

 

 その翌日。役場にサイかカバでも入りそうな、でかい鉄の檻が届いた。都合四つ。森林組合のスタッフと一緒に、村の要所にその箱ワナを設置していく。真新しい檻は鉄の匂いがきつく、イノシシが警戒して近寄らないのだが、それでも好物の芋をたっぷりと並べて吉報を待つ。無事に岩獅子が捕れて被害も減れば、こちらも村を脱出する算段がつく。そのささやかな希望を胸に役場に戻ると、明日は仕事を休みにして下さいと、安西から突然のお告げ、いやお達し。そして一週間の勤労に対するボーナスとして千円が支給された。千円札が大金に思える自分が悲しいが、有難く休みとする。

 そう一週間も働いたのだ。これまでの自分の暮らしぶりからすれば、ひと月は休みたい気分だが、まっ欲は言うまい。

 

 その休日。早朝から掃除洗濯と勤勉に動きまわる。

 そしてゴミ置き場にゴミを出しに行って目を疑う。ワインの空き瓶を押し込んだ不燃ごみの大袋が、集積所に置かれていたのだ。真奈美の出したゴミだろうが、それはいいとして、抑えていても喉が鳴る。以前、新橋銀座をテリトリーに浮浪者生活をしていたとき、ゴミで出される酒瓶の残り酒、とくにワインのそれを飲むのを楽しみにしていた。銘柄や味を覚えたのもその頃で、残りもののワインをかき集めたチャンポンワインを、ねぐらのブルーシートの小屋に持ち帰り、仲間と茶碗で回し呑みをしたものだ。

 当時を思い出し、思わずワインの入ったゴミ袋に手を伸ばしかけて手を止める。視線を感じたのだ。見ると少し離れた地区の集会所の陰から、購買部の横太りのオバンがこちらを見ている。まずい。まずすぎる。ここで残り物のワインに手を出した日には、明日から瓶底ワインのアニさんと呼ばれること必至だ。

 後ろ髪を引かれる思いで、その場を離れた。

 小春日和で冬の日差しが暖かい。

 余分な金もなければ、スマホもパソコンも持ち合わせていない。役場が公営ギャンブルで一円パチンコの店でもやれば、年寄りの息抜きになるのにと思う。

 遊ぶ場所も観光する場所もない寒村である、気晴らしに裏山に上ってみることにした。せっかくだからと母屋のガラクタの中から発掘した望遠鏡を肩に担ぐ。

 尾根筋手前の岩場を目標に、えっさもっさと足を動かす。

 前方に突き出た見晴らしのよい岩に腰掛け、レンズを眼下にセット。覗きをしようというのではない。人家の周辺では警戒して夜間に出没するイノシシだが、本来は日中に活動する動物だと、林業課の職員から教えられたのだ。

 今日の目的は、つまりイノシシウォッチング。

 二百倍のレンズでイノシシの姿を捜しながら、この間の事に思いを馳せる。

 祖母の墓に手を合わせる目的で米咲村に足を運んだが、財布を失くし、日銭を稼ぐためにあくせくするはめに。保護された時、役場の職員には住所不定と答えたが、それはその方が面倒がないと判断したからで、東京では荷物置き場に安アパートを借りている。ただ生活のほとんどが某河川敷のブルーシートの小屋なのは本当で、月に数日、日雇いに出るだけのフーテン暮らしだ。早く元の気ままな暮らしに戻りたい。

 村の様子を見ていく。

 中心部の右手、岩獅子神社の鎮守の森に重なるようにして、真新しいスレート葺きの屋根が覗いている。真奈美のレストラン、ハッパーレ。米咲き村は、漢方やトクホの健康食品に使える薬用植物を、村の特産品に育てようとしている。いわゆる葉っぱ物を使った村起こしなのだが、そのハッパという言葉と、イタリア語でたらふく食べるパッパーレという言葉を掛けたのだ。

 真奈美としてはもっとオシャレな名前にしたかったらしいが、田舎らしい親しみやすさと景気の良さそうな響きを気にいって、ワンマン村長の鶴の一声で、この名に決まったという。そのパッパラパーの店の前に停まっているのは、宅配便の車だ。食材を届けに来たのだろう。おそらく店の中では、今開店のための最後の準備が行われているはず。明後日の村の文化大会の日に、開店お披露目のパーティーが催されるのだ。

 レンズを左にずらしていく。女性陣が並んでほうれん草らしき野菜を収穫している。その女性たちが一斉に後ろの国道を振り向く。すぐに理由が分かる。鉄也の耳にもその音が届いた。救急車だ。サイレンの音が山の斜面に反射して大仰に聞こえる。年寄りが多い村では救急車の到来も頻繁で、日に一度はサイレンの音を耳にする。救急車の赤いネオンが、役場とレストランの中間、特養の前で止まる。急病人でも出たのだろう。

 レンズをぐっと移動、右手の山肌を舐めるように見ていく。

 枯れ沢の途中、少し開けた雑木林の縁に、撮影の機材を入れるような金属製のケースが置いてある。その手前、スコップを動かし一心に土を掘り起こしているのは杏子だ。噂好きの購買部のオバンから聞いた話では、杏子は大学で生態学を専攻、卒業後は助手として大学に残り、学業と研究を続けていた。それが祖母の世話でやむなく郷里に戻ったのが三年前。しかしここでは仕事がない。仕方なく猟師と施設の仕事を掛け持ちして、家計をやりくりしている。イノシシとシカは一頭仕留めると、村から七千円の報奨金が出るとのこと。彼女にとって猟は研究と実益を兼ねた仕事ということらしい。

 レンズに付いたゴミを取ろうとして望遠鏡がずれる。

 と、そのレンズの中で、人とは違う動くものが目に留まった。イノシシだ。

 彼女がいる斜面の反対側。木立に囲まれた藪の縁で、数頭のイノシシが土を掘り返している。初めて見る野生のイノシシだ。

 通常は大きな群れを作ることのないイノシシだが、数頭で連れ立って行動することはある。ミミズや甲虫の幼虫が好物と聞くが、脇の雑木に蔓が絡まっていることからすれば、ヤマイモの根を掘っているのかもしれない。

 しばしその様子を観察していた鉄也が、オッとレンズに目を押し付けた。イノシシの前に犬が出てきた。なんとシロだ。ところが尻尾を振り振りシロがじゃれついても、イノシシたちは我関せず。鼻面を地面に押し当てエサ探しを続けている。

 相手にしてくれないイノシシたちにシロが方向転換、今度は背後の茂みに駆け寄った。

 そこにもイノシシが……と、思わず望遠鏡を握る指に力が入った。

 生い茂った枝葉が邪魔をして、見えるのは肩から足にかけての一部、しかし、それだけでもレンズの中のイノシシが尋常の大きさではないことが分かる。何とか本体が見えないかと目を凝らす鉄也の気持ちが通じたようで、風が木立を揺らし、葉群らが割れて、その特大のイノシシが姿を見せた。

 大きい。周りのイノシシの倍どころではない、北海道のヒグマを彷彿とさせる巨体で、体重も三百キロを超えているのではないか。それにゴツゴツとした肩に背、岩のような体だ。もし岩獅子が実在するなら、あれこそがそうだ。

 心臓がドキンと高鳴った。

 岩獅子の目がこちらに向いていることに気付いたのだ。レンズの中で拡大された岩獅子の黒い瞳、双眸が、明らかにこちらを睨みつけていた。視線を逸らせたいが、金縛りにあったように動けない。冬だというのに冷や汗が首筋に浮いてくる。

 じりじりとした睨みあいが続く、と唐突に岩獅子が顔をそむけた。

 何がと思ってレンズの視野を広げると、シロが岩獅子の腹の下に潜り込もうとしていた。

 岩獅子は体を摺り寄せてきた子犬をあやすように鼻先で押しやると、そのままゆっくりと体を反転、木立の奥に歩み去った。

 慌てて辺りを探るが、穴を掘っていたイノシシたちも、すでに姿を消していた。

 しばし放心状態で周囲の山々に視線を泳がせるが、思いついて先ほど杏子のいた場所にレンズを戻すと、こちらも姿を消していた。

 風が冷えて小雪が舞い始めたので山を降りることにする。

 その帰りがけ、彼女のいた場所に足を運んでみると、落とし穴でも掘ったように大きな穴が地面に空いていた。

 家に戻ると、午後は休みの日らしくゴロ寝と決め込む。うつらうつらとまどろむ夢見心地が、何とも怠惰で心地よい。ところがその至福のひと時が、玄関のガラス戸を荒々しく引き開ける音で打ち破られる。

 寝ぼけ眼で玄関に顔を出すと、例によって杏子が怒りの形相で立っていた。

「仕掛けていた自動撮影の機械、踏み倒したの、あなたでしょ、どうしてくれるのよ」

 まなじりを決した顔で、喚きながら拳を振る。

 まったく身に覚えのないことで、「どこに証拠が」と聞くと、役場で渡された日給の明細書が鉄也の鼻先に突きつけられた。明細書が落ちていたのは、彼女の掘った穴の横で、撮影の機材は脇の藪に仕掛けられていた。それで納得、合点がいく。あの時だ。

 しかし、なるほどと頷いてみても、自分には壊れた機材を直す技術もなければ、代用の品を調達する財力もない。これはもう煮て食おうが焼いて食おうが好きにしてもらうしかない。そう思っているのが表情に出ていたらしい。開き直りは相手の反発を生む。

 小一時間ほど耳元で罵声のシャワーを浴びることになった。休みの日に、なんともはや。きっと彼女と自分は、前世で良からぬ因縁を結んでいたのだ。

 

 その夜、久しぶりに、といっても四日ぶりだが、真奈美から電話があった。

 少しだけお邪魔してもいいかと聞いてくる。時計を見ると、夜の十時。

 こちらが口ごもっていると、真奈美は「私が足を運ぶなら迷惑はかからないでしょ、ワインを持参するから一緒に飲もうよ」と、一方的に同意を取り付け電話を切った。五分もすると玄関に彼女が現れた。すでに一人で飲んでいたらしく肌が華やいでいる。

 いくら何でもこの時間にと、注文を付けてやろうと思っていたのだが、彼女の手にしたカゴの中には、ワインだけでなくブランデーのボトルも覗いている。それにチーズのパッケージまでが。ブリーチーズに、ヤギの乳で作ったサント・モール。それを目にしたとたん、両腕がウエルカムと開いてしまった。なんせチーズも大の好物なのだ。

 酒盛りが始まる。呑むほどに彼女のルージュを引いた唇から、グチとも諦めともつかない言葉が漏れる。前回も感じたことだが、神戸から来た彼女には、狭い村のなかに本当の意味での話し相手がいない。こちらが聞き役に徹していると、グチが不満鬱憤に変わってきた。

 今日の昼間、開店時に出す料理の試食会が村の関係者を集めて行われたのだが、みな料理のこと、特にフレンチやイタリアンのことなど知らないに等しい。イタリアンはナポリタンのスパゲッッティで、ワインの違いは白と赤止まり。だから感想もお世辞か的外れなことばかりで、料理の話題もそこそこに、村の男では誰が好みかというようなことを聞いてくる。うんざりだった。

 ひとしきり村の連中を罵倒すると、それで気が済んだのか、真奈美が話題を料理そのものに移した。彼女の本当の悩みはやはりそこにある。

 前回の町と村の人の双方を満足させる味の話から進んで、今回は、もっと本質的なこと、料理のオリジナリティーについてだ。今度催される開店祝いのイベントには、大阪から料理評論家と呼ばれる人物が来る。その専門家を唸らせるような料理、できればご当地ならではの料理を準備したいが、それが一向に形にならない。今時ジビエと言うだけでは人を呼べない。料理はやはり味。どこかで新機軸を演出する必要がある。何か目新しい素材や、味付けのアクセントとなる調味料でもあればいいが、手に入る食材など中国地方の山村ならどこも似たようなもの。村起こしで栽培されている葉っぱものも、冬場のこの時期はフレッシュで使えるものがなくて没。さりとてトリュフやキャビアのような高価な輸入食材に頼るのでは、山村に店を開いた意味がないし、採算が合わない。

 どこをどう工夫すれば血路が開けるのか、未だ暗中模索の手探り状態。

 話しながら意気沈鐘してしまった真奈美を見て、鉄也が素人意見を承知で、洋食の縛りを外して、いっそトルコ料理やメキシコ風の味付けを試すのはどうかと提案する。案の定、真奈美がシラッとした目を鉄也に向けた。この期に及んで、そんな付け焼刃をやっても失笑を買うだけと、にべもなし。

 あれもダメ、これもムリで、首を振るだけの盛り下がる話が続く。

 仕方なく鉄也は気分を変えようと、台所に置いてあったサキ婆の差し入れを真奈美の前に置いた。煮詰まった脳みそを解すのは、突飛なものか、灯台下暗しで、身近に転がっているものと相場は決まっている。そう思って、しゃれたフレンチやイタリアンの対極にある黒々とした野菜のごった煮を持ち出したのだ。見た目はまさに田舎のお万菜である。

 真奈美は渋々口に運んだが、意外や口に合ったようで、目の前の皿をほとんど一人で平らげてしまった。もちろん参考になるかどうかは別問題だろうが。

 話すほどに夜も更ける。彼女のグチに負けじと、鉄也も杏子とのいざこざを酒の肴に披露する。結局、真奈美持参のワインとブランデーを空けたのが午前四時。鉄也がコタツの上はそのままでいいからと言うのを、真奈美は几帳面に持参したものをカゴに押し込むと、眠たげな顔にほんの少し晴れ晴れとした笑みを浮かべて、引き揚げていった。

 

 朝の七時、安西のいつものモーニングコールが、アルコールの抜け切らない頭に痛い。

 今日の現場は、古い製材所の解体現場だ。

 農協前でピックアップしてもらい現場へ。作業を請け負っているのは、役場裏にある土建屋で、もちろんスタッフは全員村の男。真奈美と昨夜呑んだことがバレていないかと、男たちの顔色を窺うが、皆いたって友好的。というよりも鉄也に関心がない。村の文化大会で催されるワインの銘柄当ての勝ち抜きトーナメントの話で盛り上がっている。聞き耳を立ててナルホドと頷く。あの真奈美が、ワイン当てに優勝した男性となら正式にお付き合いをしてもいいと、村長に公言したというのだ。優勝の本命は今のところ林業組合の若専務と村長の息子の二人だが、アルコールは質より量が意味を持つ村社会、利き酒の舌は村の男みな横一線と見ていい。そのどんぐりの背比べ故に、優勝者を当てるトトカルチョが行われるという。胴元は、せこく村長。いずれにせよ和気合い合いとした男所帯の現場である。

 ところが、そのワインレースの話題に口角泡を飛ばす男たちの視線が、昼食時にかかってきたケータイで一変した。冷ややかな視線が鉄也に集中、いや突き刺さる。

 間違いない。昨夜のことがバレたのだ。

 実は前回同様、今回も新聞配達のオヤジが現場を目撃、それを皆に吹聴したのだった。

 そして午後の作業。鉄也に面倒で危ない作業が回ってくるようになった。梁の上にいる鉄也に野次が飛ぶ。労災で死亡保険の受け取りを役場にしていることを知っているようで、

「ワリャー、村の財政に貢献したっちゃれー」と、ヤジが飛ぶ。

 阿呆、だれが協力するか。

 針の筵を転がされ、扱き使われて、夕方の四時に解放、いや犯罪者のように釈放された。心底疲れた顔で役場に戻った鉄也に「自業自得!」と、安西がバッサリ。

 追い討ちをかけるように、イノシシの侵入を受けた畑の報告が突きつけられた。被害額がどうたらこうたら、なんとこの日の日給は、今までで最低の五百十円。

 声も出ない。会計の白壁の姉ごも無言だ。

 そして心身共にヘトヘトの状態で家に帰った鉄也を、今宵も銃を構えた杏子が待ち受ける。「お前の仕業だな」と、銃口を向けて睨みつける。昨日のように撮影装置のことかと思い「今日は山には入っていない、勘違いだ」と迷惑そうに言い返すと、「じゃあうちの家の中を見てよ」と、猟銃の柄で背中を突かれた。よろけながら杏子の家の勝手口に入り台所を覗くと、床に食器やビンが散乱して、足の踏み場もない。

 慌てて鉄也が左右に手を振った。

「違う、何で俺が人様の家の台所を荒らさなきゃ駄目なんだ」

「なら、これは何!」

 彼女が汚れた軍手を鉄也の顔面に投げつけた。

 鉄也愛用の滑り止めのイボイボの付いた、ヨモギ色の軍手だ。

 昨夜、杏子は所用で町に出かけ、今朝の九時に帰宅した。すると台所がこの有様で、散らかったものに囲まれて、祖母が虚脱状態で座り込んでいた。最初は痴呆の入った祖母が訳も分からずにやってしまったのかと思ったが、落ちていた見慣れない軍手と、祖母のではない手の跡がシンクに残っていたことで、他人の仕業だと気付いた。近所でこの軍手を使っているのは鉄也だけだ。はらわたが煮えくり返るのは、祖母が大事にしていた特製の醤油が、瓶が割れて台無しになってしまったことだ。痴呆ながら祖母は、それがショックだったのだろう、割れた瓶を抱えたまま呆然と座り込んでいる。

「しかしオレは……」

 必死に首を振る鉄也に、杏子が犯人を追い詰める刑事のように、「あなた、明け方まで下の彼女と飲んでいたそうね」と、畳みかける。

 嘘をつけば引き金を引かれそうな剣幕だ。ここは正直に頷くしかない。

 それはそうだが……、

 確かに昨夜、自分はしこたま酒をかっくらって、倒れるように眠ってしまった。途中でトイレに起きた可能性はあるが、安西の電話で目を覚ますまでの記憶はゼロ。

 杏子の話では、サキ婆の起床は年寄りとしては案外遅く、早くても七時半。裏の勝手口に鍵はなく、開け閉めは自由にできる。つまり自分が寝ぼけて隣の台所に上がりこみ、愚行に及んだ可能性は否定できない。

「いや、しかし、あの、だな……」

 あくまで非を認めない鉄也に、杏子が声を絞るように叫んだ。

「あなたの亡くなったおばあちゃんは本当にいい人だった。あの楽しい思い出が、孫のあなたのおかげで台無しよ。あなた、この村に住む気なんてないんでしょ。ならさっさと東京でも大阪でも出てってよ。お金がないのなら、交通費くらいくれてやるから」

 顔面蒼白で財布から金を取り出そうとする杏子の手を、とっさに鉄也は押し留めた。

「分かった、要望どおり出て行くから、この手は引っ込めてくれ。数日あれば自前で金は工面できる。それから断じて言うが、記憶の限りにおいて、おれはこの部屋に足を踏み入れていない。それは断言する」

 そう言い切ると、鉄也は杏子の荒い息に身を縮めながら、その場を辞した。

 全くなんて日だ……。

 こんな日にこそ酒をかっ食らいたい。そう思って母屋の台所をかき回すと、床下の収納庫から料理用の酒が二本出てきた。封を切ると呑めないことはない。

 それをどんぶりで浴びるように呑む。浮世の憂さを晴らすにはこれしかない。

 一本空けて少し気分が落ち着く。そこにケータイが鳴った。ちなみに呼び出しのコール音は、童謡『村祭り』のメロディーである。自分が設定したのではない、安西だ。呼び出しのメロディーまでが自分をバカにしているように思えて腹立たしい。

 

 ケータイを鷲づかみにして番号に目を落とすと、安西ではなく真奈美からだった。

 恨みつらみをぶつけてやろうと通話のキーを押す。と弱弱しい声が耳に届いた。

「食あたりなのか腹痛が治まらないの、正露丸を持っていたら分けてくれない」

 文句を言い出す出鼻を挫かれてしまった。

 あるのなら取りに行くというが、病人にわざわざ来させる訳にもいかない。我ながら女に甘いと思ったが、持ってってやると答えた。そうするしかないだろう、男なら。

 ジャンバーを羽織って七十メートルほど離れた、下の家へ。

 玄関は開いていた。呼んでも出てこないのでそのまま上がり込む。

 隠居用にリフォームした家は、床暖房が効いて暖かい。

 料理の撮影をしていたのか、キッチンには照明用のライトや、三脚に取り付けたカメラがそのままの状態で置かれていた。隣の和室で、真奈美はベッドに潜り込み、頭から布団を被って寝ていた。そんなに調子が悪いのだろうか。心配して鉄也が枕元に顔を近づけると、それを待っていたように、真奈美がベッドの下から両腕を絡ませてきた。一瞬、訳が分からず体が固まってしまう。

「な、なにを……」

 どもる鉄也に「だってこうでもしないと来てくれないでしょう」と、真奈美が甘えた声を耳元で囁く。

「昨日の夜、私が押しかけたことで、あなたが村の人に虐められたって聞いたわ。そのことを謝りたかったの。それと昨日、どうしても言えなかったことがあるの。それを聞いて欲しかったから……」

 しおらしく話しながら、真奈美は体を起すと、ベッド脇に置いた紙袋からワインを引き抜いた。シャトー・マルゴーだ。また今夜もワインで釣ろうというのだろう。バカな女だと思い、浮わつきかけた心が逆に冷静に立ち戻る。

「明日の日中に聞きますよ」

 抑えた声で答える。

 誘いを断られ反駁するかと思いきや、案外真奈美は素直に頷いた。

「そうね、でもコレは受け取って、昨日のお詫びよ」

 言って手にしたシャトー・マルゴーをそのまま鉄也に差し出してきた。

 思わず腕の筋肉がピクンと反応しかかるが、そこは理性を働かせて必死に踏み留まる。受け取れば相手に付け込むスキを与える。ここが我慢のしどころと自分に言い聞かせ、背を向け立ち去ろうと腰を上げる。とその瞬間、彼女の細い指の間を、貴婦人と例えられるシャトー・マルゴーの細長い瓶がツルリ……。

 とっさにワインを掴んだ鉄也の手に、彼女の手が重ねられた。

 くそう汚い手を使いやがって。

 睨みつける鉄也の視線など、どこ吹く風。真奈美は思いのほか強い力で、ワインごと鉄也の手を自分の方に引き寄せた。

 そして「お願い、五分だけ」と、熱い声でにじり寄ってきた。

 ここは絶対に拒否しかない。拒否、拒否、拒否と頭にインプットするが、口からアウトプットされたのは、「本当に五分だけですよ」という腰砕けの言葉、つまりは敗北宣言。理性のバリケードは、いとも簡単にスキップされてしまった。

 主導権は完全に真奈美の手に。それに五分が五分で終わるはずがない。

 後はもうなし崩しで、テーブルの上にワインの空き瓶が並んでいく。

 そしてこちらの理性がアルコールに溶けてドロドロになった頃を見定めて、彼女が話を切り出した。村に波風を立てないために誰か付き合う人を決めて欲しいと、村長から真顔で請われた。独身でいることが問題なのだと。今時、時代錯誤の理不尽な要請だが、村長には借金を肩代わりしてもらっていることもあって、断りきれない。仕方なく、ワインレースの優勝者なら正式にお付き合いしてもいいと返事をしてしまった。しかし後から気づいた。村長は私を息子の嫁にと考えている。息子と結婚させれば、もうこの村から離れることがないと信じているのだ。本当に身勝手なワンマン村長だが、やり手で実行力はある。きっと裏工作をしてでも、息子をワインレースで優勝させるだろう。

「そこまで見込んでもらえれば、悪い気もしないだろう」

 茶化す鉄也を、真央が唇を噛み締め睨みつけた。

「私、村長の息子だけは絶対にダメ。ストーカーの元カレにそっくりなの。それに」

 彼女が心持ち身ずまいを正した。

「でもね、あなたなら別よ」

 真奈美が真剣かつ潤んだ瞳を鉄也に向けた。そして熱い吐息とともに身を擦り寄せ、

「ワインレースに出場して欲しいの。あなたなら間違いなく優勝できる。あなたが優勝者なら、わたしはお付き合いどころか、本当に結婚しても……」

 ウソに決まっている。村の男と付き合うのが嫌で、こちらを利用しようとしているだけだ。借金の手前、村長には言い返せなかった。しかしホームレス上がりの男なら話に食いついてくるだろうし、手玉に取れると踏んでいるのだ。

 それは分かりすぎるほど分かっている。しかしセーターの下の柔らかな胸をこちらの肘に押し付けられた状態で、この申し出を断るのは難しい。

 おまけに彼女の熱い唇が……、

 

 翌日。二日酔いで頭の芯が痛む。

 この日、安西が用意していたのは林業組合の仕事。林道斜面の倒木の始末である。

 集合場所を指定した後、安西は鉄也を一瞥して呟いた。

「懲りない方だ、今日は身の安全を第一に……」

 は? 身の安全?

 安西の哀れむような目に見送られて役場を後にする。

 送迎のワゴン車に乗り込み、先に乗車していた作業員たちに挨拶。みなにこやかにタバコを吹かしながら挨拶を返してくれる。これなら心配するほどのことはないと高をくくっていたが、山の中の現場に到着、車を降りて作業着に目を落として思い直す。あちこちにタバコを押しつけられて出来た焼け焦げの跡が付いていた。

 みな昨夜のことを知っているのだ。明け方、人に見られていないことを確認、用心深く真奈美の家を出たつもりだったが……。

 チェーンソーを手渡す現場監督の笑顔が、不気味にしか感じられない。

「そんなぁ、あなた方の想像しているようなことは、何も、微塵も、これっぽちも、更々なかったのだ」と、そう叫びたい。しかし叫べば叫ぶほど、「オドリャー、ウソぬかすな」と、首根っこを掴まれ、脳天を拳でゴリゴリと捻くり回されそうな気配である。

 まあ気持ちは分かる。明け方の四時に女の家から辺りを憚るように出てきた男がいれば、誰だって疑って当たり前。てめえ、よそ者のくせして、いい思いをしやがって、そんな声が空から鉄鎚のように落ちてくる。

 山の静寂を切り裂くようにチェーンソーのエンジンの音が唸り始めた。重機のオペレーターが休みのため、今日は全員、チェーンソーを使って、急斜面に折り重なった倒木の処理にあたる。しかし、自分を取り巻くように作業を始めた男たちが、みな十三日の金曜日のジェイソンに見えて落ち着かない。おれを切り刻むつもりじゃないか……。

 なるべく男たちから離れるように外側へ、外側へ。

 作業監督から罵声が飛ぶ。

「おらー、そこん新入り、中央でヤレーッ」

「んなこと言ってもねえ……」

「さっさと移動せんかい!」

 チェーンソーの音で聞こえないだろうから、声を大にしてぼやく。

「分かった、もう刻むなり埋めるなり好きにしてくれ。こうなりゃヤケだ」

 開き直ってど真ん中に移動。ただこのチェーンソーのような危険な道具の良いところは、使っている間は緊張して余分なことを考える暇がないことで、作業に没頭するしかない。

 危ないのは疲れが溜まってくる午後も後ろ目。連中が何か仕掛けてくるとしたら、その時間帯だと、被害妄想、疑心暗鬼に陥っていると、意外や全く予想外の展開が待っていた。

 昼飯前にその瞬間がやってきた。

 倒した木に絡まっていたツルが別の木を引き倒し、それがきっかけとなって、朽ちて倒れかけていたカシの大木が、真下の林道に向けて轟音と共にすべり落ちたのだ。

 二抱えほどもあるカシの大木が、林道に止めてあった車数台を谷底に突き落とし、軽の乗用車一台を下敷きにする形で停止した。林道はその大木を含め、なだれ落ちた木や石で完全に塞がれてしまった。

 問題は林道が通れなくなったことではない。大木の幹で押しつぶされた乗用車の運転席に人が乗っていたのだ。駆け付けると、へしゃげた車の中に猫丸のジイの顔がある。ショックで意識を失っているのか、呼びかけても反応がない。

 車の下を覗くと下に血が垂れている。どうやら足を潰したようだ。ところが車から助け出そうにも、捻じ曲がったドアは切断でもしない限り開きそうにない。止血だけでもしたいが、これも手を差し込む隙間が見当たらない。いの一番に119番には通報したが、救急隊が管轄の市から到着するのに三十分はかかる。それより何より、皆を慌てさせたのは、カシの大木を始め覆いかぶさった倒木の重みで、車の天井がじわじわと下に撓み始めたことだ。このままではジイが押しつぶされてしまう。

「ヤッチン、おまえ、採石場でユンボ使ーてたろ、何とかせい」

 監督が同輩の仲間に、現場後方の車回しに寄せてある重機を指して怒鳴る。アームの先にUFOキャッチャーの掴み手のようなグラップルを取り付けた、油圧ショベルである。チェーンソーで刻んだ材を移動させるのに使っていたもので、この重機を使って車の上の材をどかせないかというのだ。しかし上手くやらなければ、車ごとジイを押し潰すことにもなりかねない。

「んなー、それ十年も前の話じゃ、それにグラップルはいじったことがないけー」

 ドアにバールをこじ入れていた髭面の同僚が、監督に喚いた。

「去年事故ルまで、監督も使うてたろーが」

「あほういじれるなら、さっさとワシが動かしとるわい」

 監督が苛つくように拳を振った。横転事故で膝を痛めた監督は、重機のペダルの踏み込みができない。だから乗用車も、今では障害者用の手動を使っている。

 山仕事はケガと隣合わせ。多かれ少なかれ現場にいる連中は、勲章のように体に傷痕を抱えている。監督が声をかけたヤッチンは、チェーンソーで左手の指を二本飛ばしているし、髭面は骨折の常習者、手足にボルトが三本埋まっている。

「あかん、猫丸のジイ、息しよらん」

「急げー、とにかく少しでも車の上の材をどかすんじゃ」

 その混乱した現場に、突然エンジン音が鳴り響いた。同時に排気ガスのむせる臭いが噴き上がる。一歩下がった位置で現場を見守っていた鉄也が、重機にキーが差し込まれているのを見て、ままよとエンジンを始動させたのだ。息が止まっているとなると一刻の猶予もならない。そう判断したのだ。

 エンジンをふかしながら一気に重機を乗用車の手前に寄せる。できれば車のドアを引き剥がしたいが、カニの爪のようなニッパー型のアタッチメントなら可能でも、材を大掴みにするグラップルでは、そこまでの細かい作業は無理。ならとにかく車の屋根がこれ以上潰されないように下から支え上げ……。

 皆が唖然とするなか、グラップルの閉じた状態で、アームを車の屋根と材の間の隙間に突っ込み、斜め上に押し上げる。エンジンを吹かしジリジリと重機を前に進める。と幸いにも、車を上から押さえつけていたカシの大木が、向こう側に半回転、ズリッとずれ動く。その瞬間、反動で車のへしゃげた天井が、めくれるように上に撥ね上がった。

「オー、上の隙間から、ジイを引っ張り出せるで」

 歓声のなかジイの体が車から引き出される。

 しかし雨避けのシートの上に寝かせたジイは、変わらず仲間の呼びかけに応じない。

「ダメや、目ェ死んどるでー」

 先のヤッチンと呼ばれた同僚が、猫丸のジイのまぶたを無理やり持ち上げ叫ぶ。

そのヤッチン初め、取り囲む仲間を押しのけ、鉄也が猫丸のジイの脇にしゃがみこんだ。

すぐさま気道を確保するために、顎を上向きに固定。半開きの口元に頬を寄せる。

 呼気は感じられない。呼吸が停止している。

「AEDは!」

 振り返りざまの鉄也の呼びかけに、監督が我に返ったように手を打った。

 救急キットの積みこんであるワゴン車へ監督が走る。そのアタフタとした足音を背に、鉄也はジイの口に自分の口を押し当てると、気合いを入れて息を吹き込んだ。二度それを繰り返すと、今度はジイの胸に両手を重ね、力を込めて押す。胸骨圧迫である。

 鉄也がリズムよく胸部への圧迫を繰り返すなか、監督がオレンジ色のケースを抱えて戻ってきた。「使ったことは?」という鉄也の詰問に、監督が小さく首を振る。

「オレに代わって胸の圧迫を続けてくれ」と指示を飛ばすや、鉄也は渡されたケースを地面に置いて蓋を開けた。恐る恐るジイの胸を押し始めた監督に、「真上から、それにもっと強く」とアドバイスを与えると、ケースから取り出した備品のハサミで、素早くジイの衣類を切り取る。そして露出させた胸に電極のパッドを貼りつけ……。

 電気ショックと、体内に血液を送り続けるための胸部への圧迫、口からの呼気の吹きこみをひたすら続ける。しかし、なかなか鼓動が戻らない。

 あとは山の神に祈るしかないのだろうか。悲壮な顔で猫丸のジイを取り囲む面々に、ようやく救急車のサイレンの音が谷間を割るように聞こえてきた。


 役場に戻った鉄也を、冷めた目で安西が迎えた。手にした紙を机の上に置く。

「この履歴書には記載漏れがあるようですね」

「なんのことだ」

 とぼける鉄也に、安西がペンでコンコンと書類を叩いた。

「なぜ重機の操作ができるのを伏せてたんです。どうせ普通免も持ってるんでしょう」

「いま時分、免許がなくても、車くらい誰でも走らせるだろう」

「心肺機能の蘇生術を習得する機会がそうそうあるとも思えませんが。まったく、教えてもらえば、もっと割のいい仕事を回せたのに」

「いいじゃないか、おれは単純労働が好きなんだ。それにおまえさんも、履歴書に何もかも正直に書いてあるなんて思っちゃいないだろう」

 安西が肩を竦めると、手にした封筒を鉄也の前に滑らせた。

「今日は減額なし、村規定の特別報奨金も加味されます」

 封筒を覗くと、なんと一万円札のお姿がチラリ。

 人助けをして悪い気はしない。それに予想外の三万という金も手に入った。夕食に大盤振舞いをしてもバチは当たらないだろう。そう考え特養の食堂へ。

 豪勢に定食を二つ並べてぱくついていると、今日に限って施設のババたちが、「凄かー、スーパーマンじゃったとねー」と褒めてくれる。ご利益があるとでも思っているのか、やたらと掌の平で肩を摩ってくる。これではまるでトゲ抜き地蔵だ。

 落ち着いてメシが食えないので、茶で流し込んで、さっさと食事を終わらせることにしよう。そう思って後ろのテーブルのヤカン手を伸ばすと、そこに地味なスーツ姿の二人組が座っていた。男が二人、この村で初めて見る顔だ。中背の中年男にバスケでもやっていそうな長身の若い男、どちらも首が太い。それにスーツに隠れているが胸幅がある。スポーツ経験のある顔と体だ。最初は冠婚葬祭がらみの村の親族連中かと思ったが、直ぐに訂正。中年男の目つきの悪さと日に焼けた首筋でピンと来た。刑事だ。

 警察のいる場所でメシを食うのは落ちつかない。鉄也は食堂の売店で焼酎とつまみのピーナッツを買うと、後は家で飲むことにした。

 風は冷たいがチャリンコを踏む足も軽い。

 東京に戻る金ができた。なら後は、明日催される村の文化大会を楽しむだけだ。目玉のワインレースに出場、上等のワインをたらふく呑んでハイおさらば。真奈美のような自己中女を喜ばせるつもりは毛頭ない。ワインと色香に惑わされて、つい優勝を請け負ってしまったが、準優勝あたりで手を打とう。それよりも村を離れる前に確かめておかなければならないことがある。それは……。


 杏子の家の前を通ると、廊下のガラス戸越しに、こたつに潜り込んだサキ婆の姿が見えた。割れた瓶を前に背を丸めている。婆に寄り添うように座布団の上で丸まっているのは柴犬のシロだ。明かりのついた部屋はそこだけで、杏子の気配はない。鉄也は挨拶でもするようにサキ婆に手を振ると、杏子の家を離れた。

 離れの戸口に封筒が差しこまれていた。

 差し出し人が書かれていない。何だろうと封を切ると、中に一枚の写真。その瞬間、冗談抜きで目が点になった。なんとベッドの上で鉄也が真奈美に覆い被さっている写真である。『明日のワインレースは絶対優勝してね』と、付箋のメモが貼ってあった。

 写真を持つ手が震える、それを逆の手で押さえながら、もう一度じっくりと写真を眺めて気づく。手前に撮影用の料理が映りこんでいる。それで状況が掴めた。おそらく昨夜自分が真奈美の部屋に入った際、カメラが動画モードで撮りっぱなしにしてあったのだ。そこからスチールの画像を起こしたのだろう。

 昨日の夜、腹痛で自分を呼び寄せた本当の目的は、これが撮りたかったからだ。

 真奈美としては世話になっている村長から迫られ、やむなくワインレースの優勝者とお付き合いすると公言した。しかし本音では、村の男と結婚する気などサラサラない。特に村長の息子とはだ。その断る切り札がこれ。実はこの男といい関係になってしまったので申し訳ないと、断るつもりに違いない。

 見た目は溌溂として人当たりのよい女に見えるが、一皮剥けば身勝手な我がまま女。

 そんな真奈美と比べれば、隣の杏子の方がよほど益しだ。

 とっつきが悪く、人を寄せ付けない頑固なところの目立つ杏子だが、内実、周囲に気配りのできる細やかな神経を持ち合わせている。そう思い直したのは、サキ婆の届けてくれる料理が杏子の作ったものだと気づいたからだ。片麻痺で右腕の不自由なサキ婆に、あの野菜の下処理はできない。残飯あさりでもやりそうなこちらの食料事情を見かねて、おかずの差し入れをと考えたが、自分で渡すのは気恥ずかしい。そこで運ぶのを祖母に頼んだのだろう。人というものは見かけだけでは分からない。

 そんなことを焼酎を飲みながら考え、はたと気づく。そういえば、今日は珍しく杏子に怒鳴られなかった。焼酎を飲んでいるのに、何か物足りなさを感じる。

 首を傾げつつ杯を重ねる鉄也であった。

 

 イベントディは村の創立記念日。よって役場の仕事は午前中のみ。

 不思議と特別な日には特別なことが起きる。

 この日の早朝、特大のイノシシの親子が箱ワナに入った。雌とその子供のウリ坊が五頭。ウリ坊は小型犬ほどの大きさだが、雌は推定百四十キロの、とんでもない大物。有害獣対策課では、狙っていたオオイノシシ、岩獅子に違いないと歓声が沸いた。とにかく誰も見たことがないクマのような大物で、一見の価値あり。ここは捕殺するのではなく、イベントの会場に持ち込んで、客寄せパンダになってもらおうと、以前ツキノワグマを飼っていた時の檻に移して、会場横の駐車場に運び込んだ。

 祭とは平穏な日々にアクセントをつける事件のようなもの。

 大地のバイオリズムが呼応したのか、この日、オオイノシシの捕獲に続いて、さらなる事件、否、本当の事件が起きた。

 昼前、鉄也が柵の見回りを終えて早目に役場に戻ってくると、役場内に不穏な空気が漂っている。何事と様子を窺う鉄也に、会計の白壁の姉ごが耳打ち。安西が村からいなくなった。つまりは失踪。ケータイは解約され、車も消えているという。昨日食堂で目撃した二人組は、やはり刑事だった。今朝、その刑事が役場を訪れ、安西が定刻に姿を見せないことで事態が明るみに出た。この村で安西と名乗っていた男は、大阪で詐欺窃盗と傷害事件を起こして指名手配されている人物だった。

 刑事から知らされ、もしやと役場の金庫を調べると、何と入れてあった現金がごっそり抜き取られている。役場の出入金等のチェックはこれからだが、使い込みの可能性も大いに考えられた。

 青ざめたのは金庫の管理をしている出納係ではない。村長である。めでたい日の不祥事発覚、なにより真奈美同様、安西をリクルートし村に連れてきたのは、村長当人だ。

 すぐさま緘口令が敷かれた。救いはイベントを取材予定の地元の放送局と新聞社が、まだ姿を見せていないことだろう。

 仕事が手に付かない役場の職員に混じって鉄也がどうしたものかと突っ立っていると、鉄也の袖を白壁の姉ごが引いた。日当を受け取ってくれという。なんと安西が、昨日のうちに、今日の仕事の支払い書を会計に回してくれていた。

 案外律儀な男。きっと安西が悪事に手を染めたのも、止むに止まれぬ事情があったのだ。そう思うことにする。

 最後のささやかな日給を受け取った鉄也に、白壁の姉ごが拝むようにヒソヒソ声で話しかけてきた。刑事の聞き取りに対する口裏合わせでも頼まれるのかと思えば、全くの予想外。彼女は今日のイベントで、ユルキャラのキャストを担当することになっていた。ところが事件の発生で、聴取などもあり、席を外すことができなくなった。ついては、自分の代わりにキャストをやってくれないかというのだ。担当するユルキャラ、つまり着ぐるみは、大柄な自分の体型に合わせて作ったもので、誰にでも役が頼めるというものではない。ついては鉄也が身長体型ともに似ているので是非ともお願いしたいと、両の手を合わせて拝み倒された。別に断る理由もないのでOKする。

 自分に対する取り調べがないのを確認すると、鉄也は緊張感に包まれた役場を後にした。

 

 村の創立記念日恒例の文化大会に合わせて、ジビエレストラン、ハッパーレのお披露目パーティーも行われる。二つのイベントを抱き合わせにしたのは、文化大会の会場である公会堂とレストランが隣接しているからだ。

 文化大会といえば大げさな呼称だが、村のソレは、子供の学芸会に大人のカラオケ大会がミックスしたようなもので、要は役場主催の呑めや歌えの宴会である。今回はこれに少し上品なジビエレストランのお披露目がプラスされたというだけだ。

 公会堂は廃校になった旧中学の講堂を改装したもので、その公会堂と棟続きの校舎に、イベントの実行本部が設置されている。足を運んで鉄也が事情を話すと、さっそく元の家庭科室に案内され、ユルキャラの着ぐるみを手渡された。

 今回のイベントに合わせて五体のユルキャラ人形が用意された。全てイノシシのキャラで、主役は可愛い三頭身のウリ坊人形。そのウリ坊三体に加えて、六頭身のイノ吉と、四頭身のイノ姫がそれぞれ一体。もちろん鉄也が被るのはオスイノシシのイノ吉で、こちらは悪役タイプの鬼のようなイノシシである。やることはディズニーランドのキャストと同じで、会場を適当にぶらつき、来訪者に愛想を振りまくのだ。

 実は、会計の姉ごからユルキャラの件を頼まれた時、これ幸いと鉄也はほくそ笑んだ。昨日の人命救助で自分に注目が集まっている。会場に出向けば、てきめん村の連中の質問攻めに合う。それが着ぐるみ姿なら、誰にも顔を見せずに済む。都合の良いことに、イノ吉は大口で、バカッと口を開けて飲み食いのできる構造になっている。これよりない条件だった。ただ実際に着ぐるみを着込んで分かったのは、飲み物を飲むには問題ないが、食べるのはダメということ。これは当たり前、着ぐるみのグローブのような手で、手づかみは元より箸やスプーンが使えるはずがない。

 それでも鉄也は、この怪物のような造形のイノシシが、いたく気に入った。この姿、形なら、せっせと愛嬌を振りまく必要はない。ガキを見つけてナマハゲのように怖がらせればいいのだ。それで役目を果たしたことになるなら、楽勝である。

 鬼のごときイノシシに変身した鉄也は、意気揚々と外の人ごみに乗り出した。

 子供がいれば近寄って脅し、バザーのテーブルに置いているワインを見つけては、引っさらってラッパ飲み。これで酔っ払えば、イノシシの姿を借りた大トラだ。

 ひとしきり会場を回ると、今朝箱ワナに入っていたというオオイノシシの親子を覗きに駐車場へ。張り出した赤松の太い枝に『オオイノシシの親子、ついに捕らわる』と、手書きのデカイ看板が吊り下げてあった。檻はその看板の下に置かれている。

午後一の時間、腹ごなしのビンゴ大会に客が吸い寄せられてか、人の姿はない。

 いや檻の前に一人、ユルキャラのイノ姫がいた。檻に張り付き熱心に中を覗きこんでいる。邪魔をしないよう、檻の手前に置いてある椅子代わりの丸太に腰掛け、中のオオイノシシに目を向ける。

 瓜坊は並の大きさだが、雌は話し通りのデカブツで、ヒグマに迫ろうかというビッグサイズだ。しかし、と思う。自分が望遠鏡のレンズを通して見たヤツは、さらにこの倍はあった。イボイノシシのようにゴツゴツとした顔に、盛り上がった肩と太い足、あれこそ岩獅子という名に相応しい代物だった。比べて目の前の雌イノシシは、肩の線もなだらかで、どこか見た目が優しい。岩獅子の女房だろうか。

 その雌イノシシ、目を閉じ四つ足を踏ん張った状態で、微動だにしない。陥った運命にどう対処すべきか考えているのだろうか。それとも……、

 隣のイノ姫を見ると、こちらも檻の鉄柵に頭を寄せ、石のようにじっとしている。

 講堂から漏れ聞こえるビンゴ大会の歓声に乗せて、鉄也が独り言のように話しかけた。

「こいつが鉄柵を倒してた犯人か。しかし思ってたよりも小さいな」

「メスだからよ、オスはこの倍はあるは」

 生真面目な返答が帰ってきた。

 そして気づいた。イノ姫の中にいるのは杏子だ。幸いこちらの正体には勘付いていない。着ぐるみで声がくぐもって聞こえるからだろう。

「しかし対策課の連中は、こいつがオオイノシシの岩獅子だと断定してたぜ」

「イベントの話題にするから岩獅子にしてくれって、村長に要請されたのよ。誰だって分かるわ、足跡がオオイノシシのそれより小さいんだから」

「それは残念、これで畑の大根も大丈夫と思ったんだが」

 イノ姫がフンと馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「岩獅子は賢いやつだから、あんなピカピカの箱ワナに入るわけない。岩獅子のことは、イノシシの着ぐるみを着た人間くらいに思わなきゃ」

「それってオレたちみたいにってことか」

 イノ姫が横を向いて、被り物の大きな目玉をイノ吉に向けた。

 本当に真面目なやつだ。鉄也はイノ吉の肩をおどけるように上下させた。

「ネコがマタタビで腑抜けになるように、岩獅子のやつが我を忘れて頬張るエサでもあれば、檻に誘い込めるんじゃないか」

 無言で答えない杏子を誘うように、鉄也が続けた。

「そうそう、熊野のお孫さんが、岩獅子の好物を調べてるって聞いたが」

 檻を掴んだ手を離して、イノ姫の杏子が鉄也を睨んだ。

「あなたは、誰!」

「誰って、ボクはイノ吉だぜ」

 ようやく着ぐるみの中にいるのが誰か分かったのだろう、杏子の声が裏返った。

「やっぱり家の台所を荒らしたのはあなたね、でなければ今の質問はできないはずよ」

 藪蛇だった。慌てて鉄也が言い繕う。

「ちがう、誤解だ誤解、オレは……」

 大げさに両手を振り鉄也が言い訳をしようとしたところに、小学生の一団が駐車場に駆け込んできた。そして檻の前に着ぐるみのイノシシが並んでいるのを見て騒ぎ始めた。

 中の一人が二人に注文をつける。

「ねえ、イノ吉、イノ姫を、お姫様だっこできない?」

 仲間たちがどっと沸く。

「そうだ、やってよ。イノ吉なら、イノ姫を抱えられるだろう。きっとディスニーの美女と野獣みたいに見えるよ」

「だっこ、だっこ、だっこ!」

 おねだりの手拍子が始まる。

「お、おれが、イノ姫を抱っこかよ」

 返答を誤魔化すように横のイノ姫に視線を投げる。杏子も困惑しているようだ。後ずさりをしている。そのイノ姫を逃がさないように手拍子が高まる。イベントを盛り上げるキャストの使命からすれば、ここは観念、ガキどもにサービスすべきか。

「仕方ネェな、一度だけだぞ、なんせこのイノ姫は体重が重いので有名なんだ」

 イノ姫が抑えた声でイノ吉の脇を突いた。

「今度絶対に撃ち殺してやるから」

「いいじゃねえか、そうでも言っとかないと、何度もリクエストされるぜ」

 見ると子供たちの手拍子を聞きつけ、更なる悪がきの一団が駆け寄ってくる。

「祭だ、諦めて付き合え、オレに抱えられるのは嫌だろうけどな」

「ふん、やるならさっさとやって、抱き上げて落とさないでよ」

「信用ないな」

「信用してと言える立場なの!」

 子供たちに聞こえないように小声でやりあいつつ、イノ吉が振袖姿のイノ姫を両腕で抱え、足を踏ん張り持ち上げる。ウリ坊やイノ姫と比べて、イノ吉が六頭身の細身の着ぐるみだからできる芸当だ。

 だっこ状態で持ち上げて、ハイポーズ。

 マセタ一人が「ネェ、キスをしてみて」と、デジカメを構えて更なるリクエスト。

「ばかやろう、この着ぐるみのデカイ頭で、キスができるか」

「じゃあ、被りものを取った状態で」

「バカ!」

 怒鳴りつけた拍子に手が滑り、抱えていたイノ姫が足元にズデン。大笑いのなか、イノ姫の強烈な張り手がイノ吉の頬に炸裂したのであった。


 本日二度目の花火が村の上空で炸裂。

 午後の三時、今年のイベントの目玉の一つ、ワインの呑み較べ競争が始まる。都会ならテイステイングと呼ぶだろうが、この山合いでは、やはり呑み比べ。トーナメントの形式で行われるワインの銘柄当ての勝ち残り戦である。しかしてその本質は、賞金たる十万円分のビール券よりも、優勝者が新しいレストランのオーナーシェフである真奈美との交際の切符を手に入れるということだ。ワインの銘柄など、とんと知らない村の大多数の住人にとって、関心はそこにしかない。

 ただ会場にはイベントの開催時から延々酒やビールを呑み続けて出来上がった人もたむろしている。とても文化とは程遠いというか、これが村の文化と思うしかない有様だ。さらには禁煙マークなど何するものぞ。講堂内は冬場で窓を閉め切っていることもあって、タバコの煙で壇上がもやって見える始末だ。

 一方、講堂と垣根を挟んで隣接するジビエレストラン、ハッパーレでは、料理の仕込みも終わり、真っ白なクロスの掛けられたテーブルが、お披露目の夜の招待客を待っていた。人気のない店内を、ボリュームを絞った室内楽の調べが流れる。よほど講堂から聞こえてくるカラオケの演歌のほうが煩い。真奈美が町と村の双方の客を満足させるメニューで悩むのも解るというもの。文化や趣味教養の違いは、いかんともしがたい。

 着ぐるみを脱いだ鉄也は、その人気のない厨房のドアを開けた。

 調理場にいるのは真奈美だけだった。ステンレスの調理台の上には、すでにオードブルで出される料理に、下ごしらえの終わった食材が所狭しと並べられている。

 鉄也が提げた紙袋が厨房の備品に当たって鈍い音をたてる。

 真奈美が顔を上げ、鉄也の姿を認めて意外そうな顔をした。今はワインレースの真っ最中、本来なら鉄也は会場にいるはずで、ここに足を運べるはずがない。

 ということは……。

 表情を固くした真奈美に、鉄也が指先を振り子のように振った。

「そんな吊り上った目で睨むな、棄権した訳じゃない、負けたんだよ一回戦で」

 鉄也は優勝するつもりで参加した。真奈美との約束だからではない、明日にも自分は村を離れる。なら競技に出て有終の美を飾るのも悪くないと考えたのだ。なにせ勝ち上がるほどに珍しいワインにありつける。ところがトーナメント初戦の相手は村長の息子。鉄也は絶対の自信を持って回答を選んだが、審判の旗は村長の息子に上がった。審判が買収されていたのだろう。おそらくは勝ち残って鉄也との決戦になれば、八百長が疑われる。そのため対決を初戦に組んで、草々に鉄也をレースから脱落させる段取りにしたのだ。うまいやり方である。

 鉄也がサバサバした顔で真奈美に言った。

「こうなることも織り込み済みで、あの写真を利用するつもりだったんだろう」

 鉄也が胸元から例の写真を取り出し、真奈美の前に放り投げた。

「それを言いにわざわざ足を運んだの」

「別に、写真は使いたければ使うがいいさ。じき俺はここの住人ではなくなる。痛くも痒くもない。それよりオレは律儀なんだ。いいワインを飲ませてくれたお礼をしておこうと思ってな」

 にこやかに言って、鉄也がカゴからジャムを入れるような小瓶を取り出した。

「あんた、田舎と都会の料理を融合させる素材を探していると言ってたろう。面白い調味料が手に入ったので、味見をしてもらおうと思って持ってきたんだ」

 瓶の蓋を開け、持参の小匙で軽くすくう。

 差し出されたサジを受け取った段階で、真奈美はそれが何か分かったらしく、一瞬肩を震わせたが、そのまま口に入れて鉄也にサジを返した。

「ありがとう見かけは溜まり醤油のようだけど、面白い風味ね。でももう結論は出たの。素材も調味料も特殊なものは使わないことにした。ありふれたものを私の腕で万人が驚くような一皿に仕立て上げて味わってもらう、それが料理人冥利ってものでしょ」

 突っ張ったものの言い方、いかにも真奈美らしい。

「そうか、それは残念。でもせっかくだから置いていくよ。気が向いたら使ってくれ。ああ、それから、気をつけてほしいんだが、このドロッとした調味料、分けてくれた人の話では、熱を通して半日すると苦味が増してくるそうだ、上手に使ってくれ」

 そう言い置くと、鉄也は調理場を後にした。

 鉄也の姿が消えるのを待ちかねたように、真奈美がステンレスの容器にかけたラップを払い、中のテリーヌを味見する。続いて横のソースも……。

 その様子を鉄也は入り口脇の柱に寄りかかって見ていた。

 固い表情で思案気な真奈美に、鉄也がドアの外から声をかける。

「苦味を消す方法もあるそうだ、知りたければ熊野の孫娘に尋ねることだな」

 真奈美が電流を当てられたように動きを止めた。


 午後も半ばを過ぎると、谷間の村は山波の陰に入り、風が身を切るように冷えてくる。


 鉄也は考えていた。果たして真奈美は、知らぬ振りをして、そのまま料理を客に提供するだろうか。それとも杏子に話を請いに行くだろうか。どちらにせよ料理を口にした客の反応を目にするまでは、心中穏やかでいられないはず。とくに評論家の肩書を持つ専門家の感想を聞くまでは。

 もちろん味が変わるというのはウソ、作り話だ。しかしこの程度のリベンジは許されるだろう。物を盗んでおいて、その犯人役を自分に押し付けたのだから。

 まったく真奈美も間の抜けたことをしたものだ。軍手を残すなどという小賢しいことをするから、墓穴を掘ることになる。鉄也自身が寝ぼけて隣の家に行ったはずはない。あの時玄関には靴がなかった。靴は洗ってコタツの中に入れて乾かしていた。では靴下のまま行ったか。しかしその場合は靴下が汚れる。朝、自分の靴下は綺麗なままだった。誰かが自分の軍手を隣に持参した。犯人が鉄也であることを装うために。

 そしてそれができたのは、あの夜、鉄也の部屋にいて、洗面所の前に乾してあった軍手を失敬することのできた者、つまり真奈美しかいない。

 おそらく真奈美は、サキ婆の煮物を口にして、味付けに使っている調味料が、自身の創作料理のグレードを上げるのに使えると判断した。ことは急ぐ。なにしろ開店のパーティーは二日後に迫っている。杏子に訳を話して調味料を借りることは考えなかった。真奈美のなかに巣食うプロの見栄が、ソレを許さなかった。

 こっそり使わせてもらう。そのために早朝、サキ婆の起きる前に熊野家の台所に忍び込んだ。目的のものを見つけること自体は、普段使っているものだから難しくはない。そして秘伝の調味料の入った甕を見つけると、真奈美は中身を半分ほど持参の容器に移し、残りを甕ごと割って床にぶちまけた。後は台所をかき回して、隣人の仕業に見せかければ万事オーケー。浅はか、短慮というしかない行動だ。

 ただ結果として、真奈美が盗みなどという馬鹿げたことを仕出かしてくれたおかげで、自分はあることを発見した。サキ婆が大事そうに抱えていた割れた甕、あの甕を見て昔の記憶が脳裏に蘇ったのだ。あの甕は子供時代に見たことがある。

 そこで慌てて祖母の家、離れの台所をかき回すと、床下の収納庫に同じものを見つけた。

 蓋を取り、中のドロッとした液の味見をして確信する。これはサキ婆が料理の味付けに使っていた調味料と同じものだ。

 今朝、そのことを近所のお年寄りに尋ねた。すると鉄也の祖母ヨネと熊野のサキ婆は、村の誰もが認める料理上手で、二人だけの秘伝の味があったという。

 今回サキ婆の届けてくれたお惣菜を食べて懐かしい気がしたのは、それが祖母の味付けと同じだったからだ。

 発見したことはまだある。祖母ヨネの残した調味料の甕には張り紙がしてあった。そこには小学校中退とは思えない達筆で、自分に不測の事が起きた場合には、この甕を隣のサキさんに譲って欲しいと書かれていた。

 その祖母の要望を叶えるべく、今朝、自分は祖母の甕を熊野家の台所に置いてきた。祖母の残したもう一つの小さなビンと共にだ。自分の推測が間違っていなければ、その小ビンの中身は、杏子が岩獅子と共に捜していた物のはず。


 夕刻、雲が出てきたのか空が陰り、一気に夜の気配になってきた。村を離れるのは明朝の予定だが雨になると面倒、今夜のうちに村を離れることにする。なら後は呑み放題の安ワインを浴びるほど飲んで、いざ出発だ。

 そう考え、鉄也が腰を上げた時、地面を揺るがす震動が辺りを包んだ。

 爆発音は連続して鳴り響いている。役場の方向からだ。

 いったい何が……。

「大変ジャーッ、スタンドから火、火が噴き上がっとるぞー」

 叫び声が聞こえてきた。頭上に盛り上がっていく黒煙を、明滅する炎が毒々しい色で照らし出す。と同時に熱気が頬に伝わってきた。

 交錯する悲鳴が爆発音にかき消される。

 講堂や隣の校舎から我がちに人が飛び出してきた。

 スタンドの見える表通りに向けて走り出す人、煙と逆方向に後ずさる人、金縛りにあったように立ち尽くす人、人それぞれだが、誰もがあっけに取られた顔をしている。何が起きたかを測りかねている。

 そうするうちにも、ケータイやスマホを通して情報が伝わってきた。巨大なイノシシが国道に現れ、ガソリンスタンドで給油していた車に体当たり。その際零れたガソリンに静電気から引火した。悪いことに、スタンドのスタッフが荒ぶるイノシシへの対応に気を取られたすきに、車が炎上、その炎がタンクに回って、更なる大爆発を引き起こしたのだ。

 あおりで隣接する農協の建物にも火が移ったらしい。

 レストランの上手から「イノシシじゃ、逃げろーっ!」という声が聞こえてきた。

 と同時に、「火が入ったーっ!」とも。

 見るとレストランの窓の中、カーテンを赤い炎が這い上がっていく。

 状況を把握しようと一旦国道筋に出た鉄也だが、スタンドのある十字路方向は、乗り捨てられた車で行く手を塞がれ、現場に近づこうとする野次馬と、それを押し返す消防団、さらには右往左往する人で混乱のきわみだ。それに停電のために、燃え盛る炎の周辺以外は、ほとんど真っ暗。逃げようにも足元がおぼつかない。

 その闇の中を頭上から火の粉が降り注ぐ。

 鉄也は明かりの残る講堂手前の駐車場に戻った。そこなら携帯用の発電機が稼働、五機あるライトアップ用の照明が、貴重な明かりを周囲に振りまいている。

 と、エンジンの小うるさい音に、闇を切り裂くような悲鳴が重なった。

 何ごとと首を振る鉄也に、屋外用のテーブルと椅子を蹴散らし、駐車場に踊り込んできた黒い陰が目に入った。黒いゴツゴツとした岩のような塊、ライトアップの照明と、レストランの火災に照らされたその姿は、巨大なイノシシ。いや炎に染まった赤い姿は、磐獅子神社の扁額に描かれた、鬼神のような獅子そのもの。背丈は低いが、胴体だけでいえば牛と同等、頭などは牛以上。口元から太い牙が天を突くようにそそり立っている。興奮しているのか鼻息が蒸気のように荒い。

 駐車場にいた人たちが、その巨大なイノシシを見て、我先にと逃げ出す。

 講堂へ駆け戻る人、車に逃げ込む人。

 しかし岩獅子は、人には目もくれず、駐車場の脇に置かれた檻に突進。檻の中に囚われた仲間を認めるや、頭を下げ、低い姿勢のまま鉄の檻に体を押し当てた。しかし村で購入する前はサーカスでライオンを入れていたという頑丈な檻だ。鈍い音がするものの、びくともしない。それを見て岩獅子は、少し離れた位置に下がると、今度は猛然と突進、盛りあがった肩を勢いのままにぶつけた。二度、三度。

 しかしながら、檻はずり動いただけで傾きもしない。

 岩獅子がイラつくように首を回した。

 そして怒りをぶつけるように、手近かの車に突進。

 岩獅子の突撃をもろに受けた乗用車のドアが、バコンと大きく凹み、ライトが割れて弾け飛ぶ。岩獅子が次々と並んだ乗用車に突っかける。

 四台目の車で悲鳴が上がった。中に逃げ込んだ人がいたのだ。女性と子供だ。

 甲高い悲鳴が注意を引いたらしく、岩獅子は足を止めると、その軽のワゴン車に狙いを定めたように突進を繰り返し始めた。

 駐車場の反対側、介護施設の送迎バスに逃げ込んだ人たちが、その様子を固唾を呑んで見守っていた。村長と助役に、二人の刑事、それに中年のオバンの三人組、ジジババたち合わせて都合十三名で、鉄也もその一人。

 三回目の突進の後、岩獅子は牙をワゴン車の下にあてがい力任せに首を捻る。すると車がゴロンと横転。フロントガラスにクモの巣のようにヒビが走った。

「駄目だ、あれじゃ車が潰される」

 若手の刑事がバスの窓に顔を貼り付け叫ぶ。二人の刑事は安西の使い込みを調べるために村に残っていた。村長が年配の刑事の襟首を掴んで喚いた。

「何とかせんかい、警察は国民の安全を守るのが仕事じゃろう」

 毛の薄くなりかけた年嵩の刑事が、困惑の表情を顔に浮かべた。その薄らハゲの刑事を、ジジババたちが声を合わせて、せっつく。

「なにしよん、刑事なら銃あんのやろ、そいであいつをやっつけんとー」

 脇の下に手を当て、年嵩の刑事がブルブルと首を振った。

「ばかな、拳銃で、あんなデカいやつが倒せるか」

「倒せて言うてへん、追い払ってって言うとるのよ!」

 喰ってかかりながらオバンの一人が刑事の左胸を指先で押す。先に刑事が銃を確かめるように、そこに手を当てたのを見ていたのだ。

「ばか、触るな」

「バカとはなによ、あるじゃない、銃が」

 体を仰け反らせながら中年のデカが顔を引きつらせた。

「お、おれには病気の親と娘が……」

 ババたちに負けじと、ジジもおらぶ。

「デカなんか口先ばーじゃのお、国民の税金で生活しとるくせによー」

「そうや、税金泥棒じゃ!」

 怒号の集中砲火。レストラン同様、まさに炎上。

「先輩、オレが行きます」

 若手の刑事が先輩デカとオバンの間に割って入った。その手には、いつホルダーから抜き取ったのか標準装備のリボルバー、M60。

「いかん、職務執行法で定められた要件から逸脱した使用は、おれが責任を問われる」

「しかし、警察がバカにされてるんすよ」

「言わせとけばいい、民間人には、警察の苦労が分からんのだ」

「なに身内でゴチャゴチャ言うとんの」

「せや、はよ行かんけー」

「行きます、先輩!」

 悲壮な顔で若手の刑事がバスの出口へ。が気持ちの先走った若い刑事は、座席に足を引っ掛け前につんのめる。そのよたついた拍子に、銃が手から離れてバスの外へ。

 転がる銃を追いかけるように、鉄也がヒョイとバスのステップを飛び降りた。

 銃を拾い上げた鉄也が、若いデカを一喝。

「お前じゃ、イノシシの返り討ちに遭う、オレに任せろ」

 言うなり鉄也は銃を手に、身を屈めた状態で赤い薄暮の闇の中を走り出した。

「おーっ、クズメンのやつが行くぜよ」

 窓から様子を眺める村のジジババたちに、あっけに取られた表情の若いデカが聞く。

「何ですか、クズメンって?」

「この村じゃ、スーパーマンをクズメンって言うの、覚えときー」

 バスの車中全員の視線を背に、鉄也は右方向、岩獅子の死角を横走りに駆け抜ける。

「どうする気だあいつ」

「近寄って、急所を狙うつもりじゃないすか」

「仕留められなければ、逆に危険だろうが」

 足を止めた鉄也が銃を構えた。そして引き金を引く。弾は岩獅子の眉間を掠め、その向こう側、投光照明の球を粉々に弾き飛ばした。

「あー、外れた、言わんこっちゃない」

 皆の心配をよそに、鉄也はさらに小走りに疾走、また岩獅子に狙いを定めて引き金を引く。今度も弾は岩獅子ではなく、後ろの照明に命中。

 さらにもう一発、背後で電球が弾け跳んだ。さすがに岩獅子も異変を感じたのか、突っかけた軽のワゴン車から頭を起し、消えた照明の方向に首を向ける。それを横目に、鉄也はイノシシの死角を右回りに移動。四発目を発射した。また照明が一つ消える。

「分かった、あいつイノシシを狙ってんじゃない、イノシシの注意を照明に向けてるんだ」

「それより、先輩、あいつ左手で撃ってますよ」

「なに、左手だと!」

 照明は残り一つ。猪がその最後の灯りに鼻先を向けた。

 その隙を突くように鉄也は猛然とダッシュ、イノシシの親子を押し込めた鉄製の檻に取り付いた。一気に飛び乗り、反対側にある檻の柵を掴む。

「あー、分かった。あいつ、檻の中のイノシシを逃がすつもりなんだ」

 なるほどとバスの面々が手を打った時、鉄也は檻の上で口を歪めていた。檻の入り口を塞ぐ鉄柵に、でかい南京錠が取り付けてある。力を込めても全く動かない。

 ままよと顎を引くと、鉄也はその錠前に向けて引き金を引いた。五連発の最後の一発だ。しかし南京錠はほんの少し捻じ曲がっただけで、外れるそぶりもない。次の手をどうすると、鉄也が舌打ちした時、突進してきた岩獅子が檻に激突、衝撃で銃が鉄也の手から弾き飛ばされた。揺さぶられる檻にしがみついた鉄也が、足元の岩獅子にがなる。

「バーロー、お前の仲間を助けるためにやってんだ、勘違いするな」

「だめだ、あのままでは檻から振り落とされる」

 言って拳を握りしめた新米デカを押し退け、年配のデカが送迎バスから外に走り出た。

 そして自身の銃を、檻の上の鉄也に向かって振り投げた。

「受け取れーっ!」という声が、拳銃を追い抜き、鉄也の耳に届く。

 ハッと顔を上げ、飛んでくる拳銃が視界に入るや、鉄也は伸び上がってそれをキャッチ。直ぐさま弾丸を檻の鍵に向けて撃ち込んだ。続けざまに四発。

 錠前が弾け跳ぶや、鉄也は最後の一発を、駐車場の隅に残る最後の照明に向けて放った。

 一転、周囲が闇に落ちる。照明の明るさに慣れていた分、闇は深い。


 窓から噴き出す災が、ハッパーレの屋根を包みこむようにして空に立ちあがる。その燃え盛る炎の明りで、駐車場の周辺が赤々と照らし出された。

 バスから降りて、恐る恐る様子を窺う人たちの前方、檻の中に、イノシシの姿はない。

「岩獅子は?」と闇を見透かす人たちの目に、社の森の作る濃い闇を背に悠然と走り去る巨大なイノシシの背らしきものが見えた。

 村を囲む山波の斜面に反響しながら、消防車のサイレンが近づいてきた。

「やりましたね。先輩」

「ああ、ミシガンのおかげだな」

「ミシガン、なんすかソレ?」

「後で話してやるよ」

 話しながら二人の刑事が、岩獅子の突進を受けて横転した軽のワゴン車に向かう。

 その刑事を追い越し、中年の男性が車に駆け寄る。つぶれた砕け散った窓越しに子供たちの小さな手を握りしめている。父親のようだ。

「お前、手伝ってやれ」

 若い刑事に顎で命じると、年嵩の刑事は割れた照明器具の横に座る男に歩み寄った。そして声をかけようとして足を止めた。男と見えた物が、ジャンバーを掛けた折畳み椅子であることに気づいたのだ。二丁の銃は、その椅子の座面に置かれていた。

「また雲隠れか……」

 年嵩の刑事が大きくため息をついた。 

 

 今からちょうど十年前、その年配の刑事に血気逸る新米がついた。ミシガン大留学の経験をもつ熱血漢で、銃の腕前はピカイチ。それも珍しい左撃ちである。最も当人は、自分の一番の特技は鼻が利くことですと、いつも鼻先をピクピクと動かしていた。犯人当ての鼻が利くという意味かと思えば、本当に嗅覚が優れているとのことだった。

 その新米と組んで間もなく、強盗事件が発生した。コンビは現場に急行。

 犯人はナイフを手に子供を抱え込んでいた。薬をやっているのか目も虚ろで、説得も効を為さない。判断を誤れば子供の命が危うい。難しい判断を強いられた。

 応援の部隊が来るまで何とか事態を小康状態で維持したいが、若いデカは、もう一刻の猶予もない、銃には絶対の自信があるので自分に任せてくださいと、許可を請う。こちらが指示を逡巡している間に、部下は待てないとばかり引き金を引いた。銃弾は見事ナイフを持つ犯人の手を打ち抜く。しかし不幸なことに、銃弾は背後の鉄管に当たって兆弾、人質だった少年の頭に命中した。

 一命を取り留めたものの、少年は麻痺の後遺症に悩み、そして一年後に自死した。

 銃の使用は正当な判断と認められ、部下も上司である自分も、罪に問われることはなかった。しかし自身の出過ぎた行為が結果として若い命を奪ったのだ。正義感溢れる新米の刑事にとって、それは受け入れることのできない結末だった。

 彼は警察を辞め、行方をくらませた。

 十年の歳月が、新米デカの顔を中年の男に変えていたために気づかなかったが、思い起こせば、あの男が行方を晦ませた新米のデカであることは間違いない。

 

 翌朝、最寄りのJRの駅で、米咲村役場という貼り紙を付けた自転車が発見された。

 その同じ頃、熊野家の台所では、杏子が封をしたままの甕を手にしていた。

 鰐口ヨネの甕である。痴呆のサキ婆は、その甕を手にした瞬間、目に輝きを取り戻した。泣きながら甕を抱きしめ、ヨネちゃんヨネちゃんと連呼する。ただそれもほんの一時で、直ぐにいつものぼんやりとした表情に戻った。自分の名前もあやふやになったサキ婆だが、それでも、杏子が「ヨネさんは?」と問いかけると、その甕を抱えてニコッと頷く。その部分だけは記憶が戻っているようだ。

 甕の横には、もう一つあるものが残されていた。よくあるジャム用の小ビンである。

 その小ビンを手に取り、中に詰められた黒っぽい小石のようなものを見て、杏子が息を詰めた。それは杏子がこの間ずっと捜し求めていたもの、トリュフだった。ただ西洋のものとは形も匂いも少し違う。

 隣同士の仲良しであり、かつライバルでもあったサキとヨネは、秋になると一緒にヤマイモ掘りのために山に入るのを習わしにしていた。そしてある時、土の中に見慣れないキノコを見つけた。石コロのようなキノコだが独特の芳香がある。当時生きていたサキの旦那が毒見の役を買ってくれて、味見を敢行。結果は問題なし、二人は利用方法を試すことにした。なにせ芳醇という形容がぴったりの、素晴らしい香りがするのだ。毒がないのなら使わない手はない。そして醤油に漬け込むと、香りが更に引き立つことを発見、料理の味付けに使うようになった。二人の名を冠したヨネサキ煮の誕生である。

 ただめったに採れないキノコである。二人はヨネサキ煮の味付けの元となる香味醤油の存在を、生涯二人だけの秘密にして口外しなかった。

 後年、杏子は祖母のサキから、香味醤油のカギが特殊なキノコ、フランス料理で使われるトリュフと似たキノコであることを知らされた。しかし採れる場所までは教えてもらえなかった。マツタケの生えるシロは親子でも秘密にする。それと同じことだ。

 親友のサキとヨネも、互いに採れるポイントは秘密にしていた。二人が一緒に発見した場所を除けば、サキが一カ所、ヨネが三カ所である。何十年も捜して、たった五カ所。その場所でもキノコは四年か五年に一度しか生えない。まるでオリンピックのようなキノコで、「こりゃあ、五輪トリュフじゃ」と、ヨネはよく冗談を口にしていた。

 そしてヨネは場所を誰にも明かさないまま旅立ち、サキも杏子が尋ねた時には痴呆が進んで、大切な場所を思い出せなくなっていた。

 サキの作った香味醤油はまだ一甕分残っているが、それを使い切ってしまえば、もう村の人に親しまれたヨネサキ煮の味は途絶えてしまう。

 なんとか、その五輪トリュフの生える場所を見つけ出したい。

 フランス料理で使われるセイヨウショウロと同等の和製トリュフ、そのキノコがあれば、真奈美さんではないが、村おこしの起爆剤にも使えるだろう。

 そう思い、祖母の世話と猟のかたわら、山に入ってあちこち掘り返すが、トリュフらしいキノコの片鱗さえ発見できない日々が続く。西洋のトリュフは針葉樹のイチイの根元に生えることが多いが、残念ながら村の近辺にイチイの木はない。いったい、いつ頃どんな場所に生えるだろう。

 途方に暮れていたとき、ある発見をした。

 有害獣の生態調査でイノシシの糞を調べていた時だ。村の周辺に出没するオオイノシシと呼ばれる巨大なイノシシの糞らしきものが手に入った。その糞から普通のイノシシの糞とは違う匂いがしていることに気づいた。もしかしたらオオイノシシはトリュフを食べているのではないか。今は犬を使うそうだが、かつて西洋では豚にトリュフの匂いを覚えさえて、キノコを捜させたという。なら豚の祖先のイノシシだって……。

 杏子がオオイノシシの探索に熱を入れ始めたのは、この発見があったからだ。

 杏子はオオイノシシの足跡を追跡、土を掘り返した場所を見つけると、その周辺を丹念に探り返した。鉄也が岩山の上からみた光景がそれである。

 粘り強く続けるが、いまだトリュフの発見には至っていない。その幻のトリュフが、ガラスビンのなかに三個。添えるように茶色に変色したメモが押し込んである。引き出すとそれは、秘中の場所を伝える地図だった。

 杏子は色あせた地図を手に、気もそぞろに山を駆け上がった。

 ところが地図に示された場所は、数年前に集中豪雨に伴うがけ崩れで消失していた。期待が膨らんでいた分、落胆も大きい。がっくりと全身の力が抜ける。あとトリュフ探しで頼みの綱となるのは岩獅子だが、あの騒動以来、足跡さえ見かけなくなった。危険を感じて山奥に引っ込んでしまったのだろう。

 望みを絶たれ、唇をかみ締める。

 その気落ちした杏子のもとに、数日後、大阪から一通の封筒が届いた。封を開けると一枚の紙。その紙から微かにトリュフの匂いが香る。

 二つ折りの紙を広げると、そこに大きく一言「シロに聞け」と、書かれていた。

 シロ……?

 まさかと顔を上げた杏子の目の前、縁側で、サキ婆がシロをあやしている。

 後ろからそっと近寄り、サキ婆の体の両側から握り締めた拳を突き出す。シロが右の拳に向かってクッと首を捻り、元気に吠え立てる。そう右の拳の中には、あのトリュフの香りを移した紙が握られている。

 杏子は満面の笑みを浮かべて、サキ婆とシロを抱きしめた。


 東京の西蔵町。

 杏子の話を聞き終え、千里と太市が飲み忘れていたコーヒーを口に運ぶ。

 あの米咲村の大騒動から一年と二カ月、その後村で岩獅子は目撃されていない。綿貫鉄也も行方しれずのままだ。

 ひと月ほど前、事件の時の刑事さんから杏子にメールが届いた。

 鉄也の足取りを探った顛末の報告である。

 確実に足取りを辿れたのは、十年前に鉄也が刑事を辞め、東京に移り住んだ当初の大田区のアパートまで。そこにいたのは半年ほどで、鉄也は安アパートに住民票を残したまま、浮浪者生活に入ったらしい。今その場所には七階建てのマンションが建っている。

 浮浪者生活を送るなかでの足取りははっきりしないが、顔写真を使って都心のホームレスの人たちを当たったところ、鉄也が生活の拠点としていたのは、多摩川の河川敷、廃材で作ったバラック小屋だった。しかし米咲村から東京に戻って、彼は直ぐにそのバラックを人に譲って姿を消している。彼は現金収入を得るために定期的に日雇いの仕事に就いているが、手配師のところにも、あの事件以降顔を見せていない。浮浪者仲間の話では、彼は完全なホームレスではなく、どこかにアパートを借りているらしいというのだが、そのアパートについては残念ながらまだ手掛かりを掴めていない。

「また連絡します。猟銃の扱いにはくれぐれも気を付けて」と、メールは締めくくられていた。

 鉄也は元警察官、つまり捜査のプロだ。ということは捜査の目から逃れて暮らすことでもプロということ。余程の幸運な出会いでもなければ、もう彼と顔を合わせる機会はないだろう。刑事さんからのメールを見て、杏子はそう思った。きっと借りていたアパートも引き払ったに違いない。

 杏子は学生時代を東京で暮らした。

 学部と院を卒業した後も、研究生として大学に籍を置き、二年前に祖母の世話で郷里に戻った後も、半期に一度は上京、研究室に顔を出している。しかしようやく、その二重生活にピリオドを打つ決心がついた。動物の調査は大学に所属していなくてもできる。幸い管理栄養士の資格を生かし、村の特養で正規の職員として雇ってもらえることになった。合わせて認知症の進んだ祖母も、その施設で受け入れてもらえることに。

 今回の上京は、大学を含め東京の生活を清算するためで、学生時代に顔を出していた美里さんの事務所に寄ったのは、もう当分、東京に出てくることがないからである。

 別れ際、名残惜しげに立ち上がった杏子が、先に渡したお土産の菓子とは別に、イノシシの牙で作ったホルダー飾りを二人に渡した。表面に細かい花柄の模様が刻印されたもので、象牙の細工物と同じやり方で作ったものだ。

「うわ、これでグサッと突き上げられたら痛いだろうな」

 太市の大げさな反応に、杏子が自身のズボンの裾を捲って、ふくらはぎに残る傷跡を見せた。イノシシの牙でつっかけられた跡だという。

「このおかげで、村のジイたちからも、一人前の猟師に見てもらえるようになったの。その仇敵の牙で作ったのが、このホルダー」

 言って杏子が、スマホのストラップに付けた牙の飾りものを自慢げに揺すった。

 鹿の角もイノシシの牙も、猟の副産物としていくらでもある。なんとか有効利用ができないかと、村の面々で考えて作ったお土産品である。先月から県の物産を東京で広めるためのアンテナショップに置いてもらい、お客の反応を見ている。いい値段だが、目新しさもあって、まあまあの売れ行きだそうな。

 それはそれ、杏子さんは、すでにアパートの片付けを終え、あとは電源を落として鍵を大家さんに返すだけだという。太市は、杏子さんがイノシシの傷とは別に膝を痛めているのを見て取ると、自転車で送ることを申し出た。

 杏子さんが肩で切りそろえた髪を軽く後ろに跳ね上げた。

「イノシシにグサッとやられても平気だったし、山の中を走り回ってもケガなんかしたことなかったのに、東京に出てきたとたん、地下鉄の人ごみで転んじゃってね」

 茶目っ気たっぷりに肩を上下させて、杏子さんが朗らかに笑う。

 その杏子さんを自転車の後ろに乗せてアパートへ。杏子さんが東京で暮らしたアパートは長窪団地の直ぐ近くにある。春の香りの混じる風に、杏子さんの髪が気持ちよく後ろになびく。杏子さんが団地裏の古い二階建てのアパートを指した。

「へー、奇遇だね、あそこの一階に風呂屋仲間のトラックの運ちゃんがいるんだ。四畳半一間、トイレ共同で、家賃二万四千円。古いけど超お得な物件だよね」

「さすがはミニコミの記者ね、でも一つ訂正、北側はさらに安くて、ぞろ目よ」

 笑って杏子が自室の鍵を取り出す。

「二階の七号室か、鍵を閉めてきてあげるよ」

 杏子の足の具合を見て、太市が気を利かせた。

「お願いしようかな。私は郵便受けの名札を剥がしておくから」

 鍵を受け取り太市が急な鉄の階段を駆け上がる。

 そして七号室の電気のブレーカーを落とす。念のためにガスの元栓もチェック。そして部屋の外に出てドアの鍵を閉めたところで、向かいの部屋の扉が開いた。のそりと肩幅の広い男がゴミ袋を手に出てきた。その彼が鍵を閉めようとして慌てて部屋に戻る。忘れ物でもしたのだろう。

 男の粗忽ぶりにクスリと笑った太市だが、目が向かいの部屋のドアノブに釘付けになった。鍵穴に差し込まれたままの鍵の下で揺れる、あるものを認めたのだ。

 階段を駆け下りた太市は、「うまく閉まらないので」と、杏子さんに鍵を返した。

「あらそう」と杏子さんは気軽に鍵を受け取ると、痛めた膝を気遣いながら階段を一段一段、慎重に上がっていく。それを太市はアパート入り口の門柱に寄りかかって見ていた。

 カツン、カツンという鉄の階段を上がる音が二階のドアの内側へ。

 一呼吸置いて、廊下で交わされる男女の会話がドア越しに零れる。それを太市は手にしたイノシシの牙のストラップを眺めながら聞いていた。そう、向かいの部屋のドアノブの下で揺れていた鍵のホルダー飾り、それが今自分の手にしたものと、そっくりだったのだ。

 二階の入り口に足音が揃う。

 期待を持って太市は階段を見上げた。


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