自由と愛の理想郷(イデア.ポリス)
『自由と愛の理想郷と聞いていたのだが...なんと惨憺たる有り様だ。 』
街の港に入る大型ガレー船上から一人の白髪を蓄えた老人が呟いた。
彼の名は❰ポセイドン❱。
ギリシャ神話に出てくる海の神の名である。
三股の矛を待つ筋肉質の凛々(りり)しい姿は正にその名に相応しい。
その彼の視線の先には船乗りを聖都へ導く道標の象徴、自由と愛の女神像フレイヤが無惨な姿を晒していた。
綱を掛けられ引き倒された形跡があり頭部と胴体、手と足も形跡を残さない程にに破壊され辺りに散乱していた。
その近くでフードの着いた白い外套を被った婦人が毛布で包まれた幼女を労る様に暫らく見詰めていた。
その後、破壊されずに残された女神像の足元へ幼女を立たせて白い外套を被った婦人は足早に立ち去って行く。
その光景を海神の傍らで見ていた金髪で青い瞳の少年が思わず叫んだ。
『ご婦人! 』
『その子を置き去りにしてはいけない!』
この少年の名は❰アレス❱。
彼も、またギリシャ神話に出てくる軍神の名である。
アレスの声に一瞬立ち止まり振り返る婦人の横顔に彼は確かに見覚えがあった。
しかし、それは遠い微かな記憶の奥底にしまわれた幻のようで思い返すことができなかった。
婦人はしばらく、アレスを見ていたがガレー船が港に横付けされる前に黒煙の立ちこめる市街地へと姿を消して行った。
アレスの汚れを知らぬ純粋な青い瞳に映る酷い聖都の惨状、そして彼の鼻腔へ、そこらかしこから燻り漂う焼け跡の臭いが煙と共に流れて来た。
それは、まごうことのない戦禍に見舞われた都の悲鳴ともいえる無言の証となっていた。
少年アレスは叔父であるポセイドンに訊ねた。
『叔父上...母上はなぜ俺を、この廃墟の都へ連れて行かせたのですか?』
優しい微笑みを浮かべたポセイドンはアレスの頭に手を乗せて答えた。
『それが...お前の使命だからだ。』
『この船が都の岬に入った時にお前の運命は定まった。』
『この街で最初に目にしたもの...それがお前を運命付ける鍵なのだ。』
船は岬の港に横付けされロープが船止に掛けられた。
ポセイドンはアレスの両肩に手を置き彼の目を真っ直ぐに見て話した。
『魔物たちにより廃墟となった都イデアポリスをお前の手で取り戻すのだ。』
『そして苦しみに喘ぐ人々に再び自由と愛を取り戻させよ!!』
『勇者アレスよ!!』
少年アレスはポセイドンの手から1本の戦工具う受け取った。
『これは...スパナー』
『お前が船から降り立った時、新たな命が与えられる。』
『しかし、その代償として、この船もアレスの名もお前の記憶の中から消え去るであろう』
『このスパナーだけがワシとお前を結ぶ証となる。』
『スパナーに刻印されたアレスの文字が再び現れ出る時、この岬へ戻って来る。』
『さぁ、行け!』
『旅立ちの時だ!』
少年アレスが船から降り立つと時を同じくして船は霧の中へと消えて行った。
彼は手に持ったスパナーを握りしめて崩れた女神像フレイヤの足元へ進み出た。
目映い光に包まれて毛布の中で震える幼女に手を伸ばす彼に幼女は小声でポツリと呟いた。
『お兄ちゃん...お腹空いたよ。』
笑顔で彼は幼女に訊ねた。
『君の名前は...?』
はにかみながら彼女も笑顔で答えた。
『あたし...ルチア。』
『お兄ちゃんの名前は?』
彼はルチアの問いに手に持つていた戦工具を見せて答えた。
『俺の名前は、スパナーさ。』
『ルチア、よろしくな!』