弁当が消えた日
世間の一般常識でもある歴史の講義は、毎回億劫で仕方がない。
声変わり前の子供のようなエイハブの声も、どこか投げ遣りだ。
それに比例するかの如く、ワイシャツに羽織っている緩々のテーラードジャケットは皺々。
おまけにボトルごとワインを飲んでいる。
このような不届き者が、何故この学園の教導師長に成れたのか甚だ疑問である……まぁそんなエイハブの事を、俺もラグナシアも慕ってしまっているのだが。
「……に拠点を構えている科学者連中が開発した核兵器による国家同士の戦争で世界が崩壊し、人類の99.97%は灰燼に帰した。残ったのは荒野と僅かな……」
エイハブは寂れた教卓に隠れてしまいそうな程の小さな背をこちらに向け、黒板に文字をさらりと書いているが、俺は今一つ気が乗らないのでこの講義を棄権させてもらうとしよう。
「……の軍人と科学者連中は、司教方により背徳者と認定され粛清が開始。だが彼等は応酬として……」
そもそもの話だが、文明崩壊前の未成年者も、このような環境で学んでいたとは未だに信じられない。
一々黒板にチョークで文字を書いて、それを俺たちはノートに写すというのも勝手が悪い。二度手間も良いとこだ。
それに学童机は小さいし、椅子は固いしで学習事情は最悪。
こんな劣悪な設備では、やる気が起きる訳がない。
念のために言っておくが、俺が不真面目だから身が入らないというわけじゃないぞ。全ては、つまらない座学が悪いのだ、うん。
「……そして12頭の大蛇が出現し、救いを求める人々の祈りに呼応して神々がグラウンドゼロに降臨。その場所を中心に、この教会都市は造られた。ここまではいいな?」
鈍色の髪を振り向きもさせず、この学園の全生徒に問いかけたらしいが、返事をするのは俺とラグナシアのみ。
デズモンドは気配を消して、机で何かをしている。
だだっ広い四階建の木造校舎で勉強しているのは、俺とラグナシアの二人だけなのだ。
そしてエイハブは、この『大豪邸』で悠々自適に暮らしている。
「……なので大蛇は核兵器の影響で変異した生物とも、研究所の科学者連中が生み出した化物だとも言われている」
講義があまりにも退屈なので頬杖をついていると、窓から見える景色に意識が向く。
……が特に面白いものはない。木も草もない大地に、年季の入った木造の民家が点々とあるだけの風景が地平線まで続いているだけだ。
ここからでは遠過ぎて教会都市を囲む城壁すら見えない。
壁上の警備兵でも見物できれば、良い暇潰しになるのに……と何度思ったことか。
そのままの体制で空を仰ぐと、嫌になる程の晴天に幾多の星が瞬いている。
なかでも豊穣の星座が、今日は一段と輝かしい。
「私が言えるのは、大蛇は無秩序に世界を破壊するだけの存在……ということだけだ」
さりげなく皆の様子を伺ってみると、デズモンドは教本を盾に早弁している。
あの弁当はどうしたのだろうか?
というより、こんなところで油を売っていて良いのか? 彼には仕事があるはずだが……
一方ラグナシアは黙々とノートをとっているようだ。さすが優等生、デズモンドに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
エイハブは変わらず黒板に文字を進めている。
その華奢な後ろ姿からは、デズモンドと同程度の戦闘技術を有しているとは誰も想像できないだろう。
「……であり、現在まで討伐されているのは4頭だ。内1頭は、そこで早弁しているデズモンドサマが、討伐隊に参加したことで世に知られているな。現在確認されている限りでは……」
デズモンドは、過去の栄光と、現在進行形で行われている不正行為を明るみにされたというのに、構わず食事を続けている。おいおい、ついに二つ目の弁当にまで手を出したぞ……どんだけ腹が減っているんだか。
「……となる。先程の作戦には神衛隊ベルセルクも参加していたのだが、確認はしているな? 彼らは知っての通り、オーディンサマの加護を受けた人類最強の大蛇討伐部隊だ」
『人類最強』
いくらゼウスの奇蹟の依代となったからと言って、末路があんな有り様だと、どれ程の民衆が知っているのだろうか……
「その身を投げ出し、献身してくれたおかげで、この都市への被害は皆無。そして名誉の戦死を遂げた者たちの名は、聖域を囲む慰霊碑に刻まれた後、晴れて神殿で従属……というわけだ」
書き終えるや否や、エイハブは振り向き様にチョークをデズモンドに向けて投擲する。が、なぜか俺に当たった。あんまりだ。
エイハブは、一瞬だけ『やらかしてしまった』という表情をしたのだが、俺から露骨に目を逸らし、何事も無かったかのように教材をまとめている。
「……こんなところか。デズモンドサマは次の講義までに『始末書』をまとめるように。ついでに黒板を綺麗にしておいてくれ。以上、解散」
お茶を壮大に吹き出したデズモンドを余所に、エイハブは脱兎の如く教室から居なくなる。
休憩時間に屋上で一服するためだろう。
エイハブは元気だな。さすが俺たちより早く教会都市に到着するだけのことはある。
そんなことを考えながら、先程のエイハブと合流した場面を思い出して、つい顔を綻ばせてしまうのであった。
ご覧いただき誠に感謝いたします。本当にありがとうございました。これほどまでに感謝したのはアレ以来です。心よりお礼を申し上げます。