第一話
目を覚ますと、暗くそれでいて濃い灰色の天井が見える。
蒸したような暑さに、俺は額の汗を拭う。
「……ん?」
天井を見て違和感を覚える。こんな天井を俺は見たことがない。
もしかしたら、酒を飲み過ぎて何処か訳の分からない場所に来てしまったのだろうか。
ゆっくりと起き上がると、床に寝ていたせいか、体の節々が痛む。
酒断ちも考えないとな、などと気楽に考えていると、視界の中に一人の男性が目に入る。
本来ならば喜ぶべきことなのだが、その男性の見た目があまりにも異様で尻込みしてしまう。
俺の頭と同じぐらい太い腕、そして異様に発達した筋肉。
ボディビルダーの選手権に出れば一発で優勝できそうな見た目だ。
そんな彼が読書をしている。
邪魔をしないほうがいいか、とは一瞬感じる。
それでも、現状を把握するためには多少の勇気を振り絞らないといけない。
若干腰が引けながらも、ゆっくりと男性の方へと近づく。
「申し訳ありません、ここって一体……」
「静かにしていろ。後、此処から何処かに行くんじゃないぞ」
「…………はい」
男の一言だけで俺は一蹴された。
スゴスゴと、元いた場所へと戻る。
いや、うん、あの目で凄まれたら何も言えません。
改めて辺りを見渡す。
壁にかけられた松明だけが辺りを照らし、それゆえ余計に不気味な空間。
今すぐこの場から離れたい気分だが、今の一件で恥ずかしながら腰が抜けてしまった。
そもそも目の前の男から逃げきれる気なんてこれっぽっちも無い。
怪しい場所、怪しい人、記憶が無い、etc…...と、数え役満ぐらいなら簡単に行きそうである。
俺は、このまま死んでしまうのだろうか。
そういえば奨学金返してないな……。
「ふむ、なるほどな」
俺が現実逃避をしていると、筋肉質の男はパタリと本を閉じた。
そして一歩ずつ俺の方へと近付いて来る。
俺はそれを黙って見つめているだけ。
蛇に睨まれた蛙とはこんな気分なのだろう。
「貴様、中々面白い魔力の形をしている」
「……魔力?」
マヌケな声を出してしまう。
魔力とは、何かの隠語だろうか。
まさかそのままの意味でもないであろうし。
はて、一体どういうことだろうか?
「グーベルク地方の魔力に多少似ているが、やはり違いは明らかだな。文献を漁っていたが、前例は恐らく無い」
「は、はあ……」
何を言っているかは分からないが、取り敢えず頷いておく。
どうやら、先程まで読んでいたのは、何かの調べ物だったらしいことは分かった。
筋肉質の男は愉快そうに笑う。
「資料が間違っている、もしくは希少種という可能性も有るが……」
「ええと、少し話が見えないのですが」
率直に質問をするが、男は笑みを浮かべるだけで答えない。
もう一度質問しようとした所で、男は扉の方へと歩き出す。
「付いて来い、面白いものを見せてやる」
有無を言わさぬ口調。
どうやら付いていくしか無いらしい。
というか目の前の男、髪が銀色だし本当に日本人なのか?
一応日本語を話しているみたいだが……。
とは言っても、先程から一方通行感が否めない。
俺は男に連れられるがままに扉の外へ出る。
だが、そこはまだ薄暗い廊下のような場所で、先にもう一つ扉が存在した。
「開けてみるといい」
男の言葉に頷き、ゆっくりと扉を開いた。
「……は?」
一気に視野が開けた。
それと同時に、眼前の風景が目に飛び込んでくる。
……いや、眼前の黒が視界全てを覆い尽くした。
思いもしない光景に、つい言葉が漏れる。
目の前には、黒い海が何処までも広がっているだけであった。
「なんだ、これは?」
「次元の狭間、通称、黒海。仮説上だけのものかと思っていたが、まさか本当にあるとはな。見るのは俺もこれが初めてだ」
男はそう言うと、廊下にあったレンガを一つ拾う。
そして次の瞬間、海の方へと向かって投げつけた。
いや、本当に投げつけたという表現が正しいのかは分からない。
なにせ、見たのは男のモーションと、レンガが衝撃波を纏い海の水を巻き上げながら何処までも進んでいく姿。
何だかよく分からない現象を見せつけられている気分になる。
「次元の狭間、そこに端は存在しなく、終わりは無い。例え本気で何かを投げたとしても、何処かに辿り着くことは決して起こり得ない」
混乱する俺を尻目に、男は話し続ける。
次元の狭間? 黒海?
言っていることの意図すら理解出来ない。
「現状が理解できないか? ならば話を戻そう。貴様の魔力の話だ」
ああ、結局魔力が何かも聞いていなかった。
しかし現状の理解にそんなものが必要なのか?
もうわけが分からなくて頭がオーバーヒートしそうである。
「魔力は基本、生まれつきで決まる。その後の修行次第で量は変われど質は変化しない。そして、魔力の形質は必ず遺伝によって決定する。どんな形質を持っていても確実に前例は存在するはずだが、貴様の魔力はこの世界の記録に例を見ない」
つまり、と男は言葉を続ける。
……つまり?
「ようこそ我々の世界へ。歓迎するぞ、異世界人!」
「…………は?」
あんぐりと口を開ける俺とは対称的に男は笑い続ける。
その笑い声はしばらく途切れなかった。
そして同じぐらい俺の思考はショートし続けていた。
再び俺達は最初居た部屋へと戻ってきていた。
「どうだ? 現状への理解は済んだか?」
「え、ええ。なんとか……。まだ完璧に理解は出来ていませんが」
あの後、目の前の男の説明を受けて、ようやく此処が異世界であるということを受け入れた。
というより、受け入れらないことには納得出来ないことが多すぎるのだ。
魔法、というモノも男が幾つか実践してくれた。
流石にここまでされて非科学的だ、全てトリックだ、と言う事は出来ない。
「ですが、どうして俺は異世界なんかに?」
「十中八九、何処かの王族共が勇者召喚でも行ったんだろう。生憎と、俺は召喚術に関しては門外漢で詳しいことは知らん」
「勇者召喚?」
また、何やらファンタジーらしい単語が飛び出てきた。
ショートした頭を押さえながら俺は首を捻る。
いや、もし言葉通りの意味だとするならば、俺を(何かの間違いで)勇者として召喚した迷惑な人間は何処に居るんだ?
「ああ。そして貴様は、不運な事に俺の方の事故に巻き込まれて此処に飛ばされた、と考えるのが自然だろうな」
「……? という事は此処は一体……?」
「此処は黒海に囲まれた何処か得体の知れない場所。どの世界からも切り離された完璧に孤立した空間。喜べ、この場所に辿り着いた人間は貴様を含めて二桁は居ないだろう」
よく理解は出来ないが、何だか凄く喜べないことなのは分かる。
というか、完璧に孤立した空間って凄くまずくないか。
だが全てを理解している筈の男が、こうやって気楽にしているのだから問題がないような気もしてくる。
後、事故についても軽く流してしまったが、その内説明してもらおう。
「それで、どうやって元の場所に戻るんですか?」
「ん? それは知らんぞ」
「……へ?」
「言っただろう。此処は今まで仮説上で存在しただけの空間だ。もし此処から帰ってきた存在が居たならばそれはもう仮説じゃない」
……それはつまり戻れないということではなかろうか?
という事は、つまり目の前の男性と死ぬまで二人きり……?
嫌な考えが頭をよぎった時、男は俺の考えを見透かしたかのように笑う。
「どうした、男と二人きりは嫌か? ならこういうのはどうだ」
次の瞬間、目の前に居たはずの男性が消える。
否、目の前に居た男性が女性に姿を変えていた。
勿論一瞬で女装したとかでは無く、骨格から全てが変わっているのだ。
驚いている俺を見て彼女(彼?)は笑う。
「なに、見た目なんてものは表層だけのものだ。本質とは何の関係もない」
ただし、声だけは先程と同じ重低音のまま。
そんな常識外のことをされて、俺は口を開けて呆けてしまう。
これも魔法なのか?
「ああ、これは魔法ではないぞ。これは俺が化物だから出来る事だ」
「……へ?」
「改めて挨拶しておこう。俺の名はフォイル・ルーグ。
かつて、その危険さ故に300百年もの間封印されていた化物だ」