第七話
高校生にとっての昼休みとは、サラリーマンにとっての休日のようなものだ。俺は働いたことがないけれど、なんとなくそんな気がする。
思い思いに過ごす生徒たち。家族の愛情たっぷりのお弁当は、余所者の俺にも十分おいしそうに見える。昼食の時間。お昼の匂い。俺はサンドイッチを口に放り込み、言った。
「なあ九條、ちょっと俺に付き合ってくれよ」
いつものごとく、姫川にどつかれている九條。この二人は机を合体させ、隣り合って座っている。綾瀬と俺は椅子を持ち寄って、九條と姫川の正面にいる状態。
「悪いな舘林、俺にはそういう趣味はない」と、何かを勘違いしている九條の頭を、やはり姫川は叩くのであった。
「祐樹ってなんでそんな馬鹿なわけ? 今の流れで、どう考えてもそういう話をしてるとは思えないでしょ」
冷たい視線を浴びせながら言う姫川を睨み、九條は言った。
「話の流れなんてなかっただろ」
「うちが言いたいのはそういうことじゃなくて、舘林の性格を考えろってことよ」
「じゃあ最初からそう言えよ」
申し訳ないけれど、こればかりは九條の言う通りだ。
「まあまあ落ち着いて二人とも、ね?」
綾瀬が仲裁に入り、ひとまず落ち着く二人。
ちょっと焦げた卵焼きを箸で掴み、九條は言った。
「で? 俺に何の用だ」
「まあ、その、お前だけじゃなくて、姫川にも用事があってさ」
「うち?」
「そう、お前」
九條と姫川は面白いぐらいに同じタイミングで首を傾げる。一方、綾瀬は目で「ねえ、あたしは? ねえねえあたしは誘ってくれないの?」と、訴えかけてくる。そんな綾瀬の視線には気づかないフリをして、俺は言う。
「あんまりこの町のこと、詳しくないからさ。買い物しようと思ったんだけど、一人じゃ心細いなって思って」
「いや……俺は別にかまわないけど、そんなことより、身体の方は大丈夫なのかよ? 入院してたんだろ?」
九條に同調する形で、姫川は言った。
「そうそう。希美から聞いたよ? 家の中で倒れて、それでそのまま即入院。昨日に続いて今日も学校休むべきだったんじゃないの?」
幸いなことに、この二人は俺が記憶を失っていることを知らない。そこら辺は綾瀬がうまくはぐらかしてくれたのだろう。
「平気だよ、もう。ちょっと貧血おこしただけだし。なあ、綾瀬?」
俺が同意を求めて綾瀬にそう言うと、綾瀬は少しだけ不安そうな顔をした。
「本当に……大丈夫なの……?」と、綾瀬は言う。
「どうしたんだよ、いきなり。もうお前のお母さんからも大丈夫って言われてる。だからそんなに心配すんなよ」
九條は卵焼きを咀嚼している。姫川は俺たちを交互に見てニヤニヤと笑う。そして綾瀬は、下を向いたまま言った。
「だって……あたしのせいで、舘林君は倒れちゃったんだよ……? それなのにあたしが、そんな簡単に大丈夫なんて、無責任なこと言えるわけないよ……」
やはり綾瀬は、そのことを気にしているのか。
入院から復活して早々、俺は綾瀬に「お前のせいじゃないからな」と、ちゃんと伝えておいたのだけれど。それでも綾瀬は、自分に責任があると思っているのだろう。
妙なところで頑固だよな、こいつ。
「よっしゃ」と、俺が立ち上がりながら言うと、綾瀬は「どうしたの?」と聞いてきた。
「俺についてこい、綾瀬」
「え? え、ちょっと舘林君?」
俺は綾瀬の腕を引っ張る。食べかけの弁当を慌てて仕舞い、綾瀬はされるがままに、俺についてくる。九條は言った。
「おいおい、突然どうしたんだよ」
「悪い。やっぱりさっきの話はなしにしてくれ」
「はあ?」
細い眉毛を顰めている九條。一方、姫川は得心したような顔で言った。
「何をするつもりか知らないけど、まあ、こっちで辻褄を合わせておく。ほら、さっさと行ってきなさいよ」
姫川は俺にウインクをした。綾瀬はいまだにこの状況に混乱していて、さきほどから俺の顔を見てばかりいる。俺は姫川に言った。
「ああ、サンキュー。ちょっと行って来る」
綾瀬の手を掴み、俺は教室を小走りで出ていく。走ってもいいけれど、鈍い綾瀬のことを考えるとそれは危ない気がする。半ば強引な形で俺に引っ張られている綾瀬は、言った。
「ね、ねえ舘林君? どこ行くの?」
「内緒だよ。お前はとにかく、転ばないようにちゃんと俺の手を握ってろ」
俺は前を向いているから綾瀬の表情は分からない。心なしか、綾瀬が俺の手を掴む力が強まった気がする。果たして綾瀬はどんな顔をしているのだろうか。
ただ戸惑っているだけか、それとも喜んでいるのか。まあどちらにしても、俺が今やるべきことはあの場所へと向かうことだけだ。
「ちょっと舘林君!? 上履き! 上履きのままだよ!?」
「そんな細かいことは気にするな! 今はとにかく走れ走れ!」
「ええ!?」と、後ろから驚く声がする。結局、気づいた時には俺は走りだしていた。上履きで固い地面をけり上げる。衝撃が足の裏全体に広がり、ちょっと痛い。それに寒さも相まって痺れてきた。 けれどまだ、止まらない。
吐く息は白い。今日は生憎の曇り空なのが悔やまれる。地獄のように黒い雲。しかし天国にいるような心地。坂道を全力で駆け抜ける俺と綾瀬。
「わ、わわわわっ!」
「おいおい大丈夫かよ? 転ぶなよ!」
「も、もうちょっとペース落として!」
「だめだ! これ以上は落とせない! 俺はな、取り返さなきゃダメなんだよ!」
「はぁ……はぁ……取り返すって、何を?」
いよいよ綾瀬は疲れてきたのだろう。呼吸が不規則になっている。
「俺はさ! 記憶なくしちまって、長いこと立ち止まった! 俺は走っていたつもりでも、傍から見たらきっと、その場に立ち尽くしていたんだよ!」
綾瀬は何も言わずに、ただ乱れた呼吸運動を繰り返している。
それでも俺は止まらずに、言った。
「でも、それはお前も一緒だろ綾瀬! お前の中で時計の針は、俺と同じように止まっちまったんだろ? だったら今度は、二人でまた走り出そうぜ!」
綾瀬は俺の手を、精一杯の力で握りしめる。こんな小さな身体のどこに、隠し持っていたのかと思うほどに、綾瀬の握力は強まっていた。俺は続けて言う。
「俺たちは随分と、後ろまで来ちまったな! 九條とか姫川とかよりも、ずっとずっと、後ろにいるんだぜ、きっと!」
潮風の匂い。視界に突然、海が広がっていく。長い坂道はやはり、長かった。けれど上るのではなく下っていく分には、けっこう楽だったりする。まあ、当たり前だな。
俺は後悔という名の登り坂を自ら選び、そしてそこを突き進んだ。
綾瀬も絶望という名の登り坂を自ら選び、そしてそこを、突き進んだ。
どんなに上を目指して歩いても、走っても、てっぺんは見えてこない。それもそのはず、どんなに後悔しても、どんなに絶望しても、それに終わりなどはないのだから。
そして俺たちはようやく気づけたんだ。
寄り道。脇道。道はいくらでもある。前だけじゃない。後ろにも左にも右にも、もしかしたら上にだってあるのかもしれない。
俺たちはそれに気づかないフリをしていた。いくらだって逃げ道はあったはずなのに、それでも決して逃げようとしなかった。
逃げれば何かを失ってしまうと思った。逃げれば何もかも終わってしまうと思った。
俺は過去のお袋を失うことを恐れ――綾瀬は過去の俺を失うことを恐れた。
けれどそれも、今日で終わり。
俺が記憶を取り戻せるのは、いつになるかは分からない。でも俺はこう思ったんだ。記憶がなくても、綾瀬のことを思い出せなくても、俺の近くに綾瀬はいてくれる。
それなら俺も、綾瀬のそばにいてあげようと、決めた。
もう後悔するのはやめよう。もう絶望するのはやめよう。代わりに、あの海の向こう側を目指してみようじゃないか。俺には見える。あの地平線の先に、幸せが待っているのが。
綾瀬は必死に両足を動かして、俺の隣へと躍り出る。
「あたしのバカ! バカ、バカ、バカ!」
波の音に負けないぐらいの大声で綾瀬は言う。
「いつまでも弓弦君のことが忘れられなくて! 引き摺って! あたしはずっと過去に生きてきた! けどそれはもう終わりにする!」
懐かしい排気ガスの匂い。ちょっと前にこの道路を、車が通ったのだろうか。
顔を真っ赤にして走る綾瀬。そして俺も、息をするのが苦しくなるほどに、疲れた。
石段には目もくれず、俺と綾瀬は砂浜に向かってジャンプする。
「どわっ!」
「きゃっ!」
お互いに短い悲鳴をあげて、思った以上に柔らかい砂浜に身体を埋める。
制服は砂だらけ。おまけに顔にも砂がこびりつく。
「はあ……はあ……はあ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
俺と綾瀬は手を繋いだまま、その場に大の字で横になる。視線を綾瀬に向けると、ほぼ同じタイミングで綾瀬も俺を見た。
「ごめんな綾瀬……やっぱりまだ、何も思い出せない」
「いいよ、もう」
「それで、ありがとな綾瀬」
「ううん……あたしの方こそ、ありがとう」
「お前がいなかったら俺は、今頃、酷いことになってた……きっとな」
「あたしも……舘林君がここにいなかったら、いつまでたっても変われなかったよ」
「「でも」」と、俺たちは声を重ねて、言う。
「「今日から生まれ変わろう」」
二人で勢いよく立ち上がり、俺は言った。
「もうお袋はいない。けど綾瀬、お前がいる」
「もう弓弦君はいない。けど、舘林君はいる」
鳥が鳴く。まるで俺たちを祝福しているかのように、鳥は鳴いた。
俺は目を閉じて、そして開く。夏だけでなく冬でもしっかり潮の香りは漂っている。
不意に視線を下に落とすと、恋人のように身体を寄せ合う大小の石が並んでいた。
「ねえねえ、舘林君」と、綾瀬が言うので、俺は綾瀬を見る。
すると、俺があげたらしい、あの青いヘアピンを前髪から取り外した。
「どうしたんだよ」
「これはもう、捨てる」
捨てる。本当にそれでいいのかと、思わず聞いてしまいそうになった。
「そうか……」
「そんな悲しい顔しないで? もうこれは、必要ないんだからさ……」
綺麗に整えられていた前髪は垂れ下がり、綾瀬の目に少しかかっている。もう俺が俺でないように、綾瀬もまた、綾瀬ではなくなってしまう。そんな気がした。
いや――俺たちは生まれ変わるんだ。過去の俺も、過去の綾瀬も確かに存在する。けれどひとまずこいつらは、胸の奥の方に仕舞っておこう。
「じゃあね、弓弦君――」
そう言って綾瀬は、海へとヘアピンを放り投げた。刹那、雲間から太陽が顔を出す。わずかな日差しが射し込んで、青いヘアピンを輝かせる。
ポチャンという音。そのまま波に揉まれて、消えた。
「………」
「………」
「なくなっちまったな」
「そうだね。もう、なくなっちゃったね」
「なあ、綾瀬」
「どうしたの、舘林君」
「海って、綺麗だよな」
「そうだね。綺麗だね」
「なあ、綾瀬」
「どうしたの、舘林君」
「俺はお前のことが――いや、なんでもない」
まだ早い、かな。
俺が綾瀬に告白をするのは、もう少し先になりそうだ。
暗かった空は徐々に明るくなる。
そうだな――冬は海。空は青く、俺たちは生きる。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。何時の日かまた皆さんと会える日を楽しみにしています。それでは失礼しました。




