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第六話

 呑気な空が見える。ここは夢か現か分からない。耳に届くのは誰かの優しい声。良い匂いがする。見上げていた俺はふと、振り返った。そこにいるのは知らない人。けれど、俺はこの女の子を知らないはずなのに、懐かしいという気持ちが心を満たしていく。

 まるで世界が終焉を迎えたような静けさ。俺と女の子は向かい合う。


「あの、どこかで会ったことありましたっけ」


 俺の問いかけに返答することなく、言葉を紡ぐ代わりに首を縦に振るだけ。どうして喋らないのかと聞けば、今度は首を横に振った。俺は意味が分からず困惑する。

 なんともなしに左右を確認すれば、不思議なことに何もなかった。死にたくなるほど青々とした空は、あんなにも果てしなく広がっているのに、右も左も何もない。そこにあるのは白い壁のようなもの。手で触れても感触がない。

 どうやら壁のように見えたこれらはそうじゃないらしい。一体何なのだろう。雲のように掴みどころがなく、けれど雲よりも遥かに近くに存在している。曖昧だ。俺は自分みたいだと思った。どうしてそう感じたのかは不明。けれど確かにそう思った。

 俺は視線を女の子に戻す。輪郭があるだけで、顔のパーツは判然としない。眉毛も目も鼻も口も、本当に何も分からなかった。だが、そんな奇妙な女の子ではあるが、そこにいることに違和感はなく、むしろ自然なように思えてしまう。不自然なまでに自然。

 道端に転がる石ころのようだ。庭に生えた雑草のようだ。しかしそんなどうでもいいものと圧倒的に違ったのは、女の子が意思を持って歩いていることだろうか。

 立ち止まっていた俺の元へと女の子は歩みを進める。その一歩はとても小さく、そしてどこか不安定でもあり、俺は心配してしまう。果たして俺のところまでたどり着けるのか。

 女の子は躓いた。何もないのに躓き、転んだのだ。俺は動く。大丈夫かと聞いて駆けよれば、女の子は笑った。顔もよく見えないのに、それでも笑った気がした。

 差し伸べた俺の手が握り返されることはなく、女の子はその場で尻もちをついたままである。女の子はやっと言葉を発した。「大丈夫。あたしは一人で立てるよ」と、女の子はそう言ったのだ。「そうか」とだけ俺が言う。

 女の子は「だから、あなたも一人で立ち上がらなきゃ」と、言ってきた。面白いことを言う女の子だ。いま立ち上がるべきなのは女の子で、既に俺は地に足をつけて立っている。

 しかしそれでも、「ほら、立とう」と、女の子は言ったのだ。


「俺はもう立ってるよ。君は何を言ってるんだ」

「ううん。あなたはまだ立ってないんだよ。まだ、転んだままなんだよ」

「よく分からないが、そんなところでいつまでも座ってないで、立ちなよ」


 すると女の子は、「手」とだけ言った。手がどうしたのかと聞けば、どうやら手を貸してほしいみたいであった。俺はもう一歩近づく。腰を屈めて手を貸す――女の子はやはり握り返そうとはしなかった。やり場を失った俺の右手。

 恐らく俺は顔を顰めていただろう。そんな俺の顔を見て女の子は笑った。


「やっぱりあなたは優しいよね」

「そうかな」

「そうだよ、いつもあたしを助けてくれる。だから今度はあたしが助ける番だね」


 ようやく俺の手を掴み、女の子は立ち上がる。一筋の風が吹いた。ふわりと風に靡いた髪の毛から、形容し難い良い匂いがした。シャンプーやらリンスやらとは違う。人工的な香りではなく、あくまでも自然な香りだ。


「ねえ、そろそろ行こう」

「そうだな、行こうか」


 俺と女の子は手を繋ぐ。緊張はしない。心が安らぐのだ。ずっと昔に感じた気持ち。そこにいるのが当たり前な感覚。逆に言えば、そこになくてはならない不可欠な存在。それがこの女の子だと思う。

 俺は知らないけれど、女の子は俺を知っている。それは気持ちが悪いと思う。けれど素敵だなとも思う。だいたい、人間という生き物は自分のことすらよく知らないのだから、他人のことを知らなくても不思議なことじゃない。

 眩しい。世界は光に包まれる。俺たちは目の前に広がる輝きを目指し、歩いて行った――


「………」


 ここは、どこだ。古ぼけた天井が真っ先に視界に入る。首を持ち上げぐるりと回りを見渡す。波の音がする。薄緑色のカーテンは閉め切っていて、一面真っ白な壁には見覚えがない。二つのベッドが俺を挟みこむ形で置いてある。スライド式の扉は開いていて、誰かが出て行ったような痕跡がある。俺は視線を下に落とした。少し黄ばんだ布団。どうやら俺は寝ていたらしい。暖房が利いているのか、この部屋は暖かい。冬であることを忘れてしまうほどに。


「………」


 重たい身体を起こし、俺は自分の身体を見た。カーテンと同じような色のパジャマ。ようやく俺は理解した。ここは病院であるということを。

 布団を剥いでベッドから立ち上がる――立ち上がる? そういえばさっきまで、俺は女の子と話をしていたはずだ。あの女の子はどこにいるのだろうか。


「いや……あれは夢だろ、きっと」


 独り言を零して、俺は立ったまま背伸びをする。カーテンを開いて窓の外を眺める。


「ここからじゃ、海は見えないか」


 不思議なことに、海が見えないと分かった途端に俺は顔を顰めた。なんだか落ち着かない。そわそわと部屋の中を歩き回ってみる。他に人はおらず、俺だけだ。


「起きたか」と、扉の向こうから声がしたので、そちらに振り向く。

「ああ、親父。俺ってどうなったんだ?」


 親父はペットボトルを一つだけ持っている。こちらに近寄り、親父は言った。


「どうなったもなにも、お前は家の中で倒れたんだ」

「やっぱり……?」


 徐々に思い出す。確か綾瀬と話をしていて、それでいきなり意識が朦朧として、気づいた時にはここにいた。親父はベッドの横にある小さな椅子に座ると、言った。


「そんなに私の作った鍋が不味かったのか。倒れるほどに」

「いや、そういう問題じゃないだろ……」


 冗談なのか本心から言っているのかよく分からない表情だ。


「まあ、ふざけるのはここまでにしておこう」と、親父は会話を中断させる。しばらくの沈黙があった後に、親父は口を開く。

「綾瀬さんのところの娘さんから、聞いたんだな?」

「そうだ、聞いたよ俺は。なんでもお袋の記憶以外、昔のことはすっかり忘れてるとかなんとかって、綾瀬――綾瀬は言ってたけど」


 俺は綾瀬と呼ぶことをわずかに躊躇った。


「その通りだ。黙っていてすまなかった」

「いいよ別に。いまさら謝らないでくれ。ていうか、親父って綾瀬と面識あったの?」

「娘さんとはなかったが、綾瀬さん、つまりはお母さんとは何度か話したことがある」

「ふうん」と、俺が相槌を打つ。

「しかし、私は知ってはいたよ、娘さんのことも」

「なんで?」


 そこで親父はペットボトルのキャップを開けて、一口飲む。


「弓弦、お前は覚えていないのだろう。あの娘さんはいつも母親と一緒に、お前のサッカーの試合があるときは応援に来ていた。その関係で私は綾瀬さんのお母さんとも仲良くなった。この不愛想な私がな」


 親父が俺の試合を観に来ていたことすらも、俺は覚えていなかった。と言うより、親父の存在すらも朧げな気がする。ずっとそばにいたから、違和感なんて感じなかった。

 けれどこうして、自分の記憶に欠陥があると分かったら、親父は俺の知らない人のような気がした。ああ、そうか。やっぱりそうなんだ。

 俺は無意識のうちに、自分が記憶喪失であることを忘れようとしていたのだろう。蘇るあの時の光景――対面には医者。隣には親父。医者は俺にこう言ったのだ。「君は少し、記憶を失っている」と。 どうして今になって思い出したのだろうか。


「じゃあ……やっぱり――俺は綾瀬のことを知っていたのか」

「そういうことに……なるな……」


 あれほど不愉快に思えたのに。俺の知らないことを、知りたいとは思えなかったのに。今ではすっかり、そんなことはどうでもよくなっていた。もはや清々しい気分だ。

 俺の記憶は不完全だと、そう確信することができてスッキリした。

 暇つぶしをする子供のように、親父はペットボトルの蓋を開けたり閉めたりしている。


「なあ親父、綾瀬から聞いたんだけどさ」

「何を聞いたんだ」

「親父がここに引っ越しをした理由って、単に仕事の関係じゃないんだろ?」

「………」


 俺をジッと見つめる親父。睨んでるようにも見えるし、驚いているようにも見える。


「俺の記憶を取り戻すために、だっけ? 昔、一番仲の良かった綾瀬と再開することで、もしかしたら何かを思い出すかもしれないって、そう思ったんだろ?」


 部屋に響き渡る長いため息。親父は言った。


「まあ、仕事のついでと言ってしまっても過言ではない」


 そう言った親父の顔は、急激に老けてしまったように思える。それはそうだ。ずっと一緒に生活していたから、気づけなかったのだろう。俺はもう十七歳。親父はもうすぐ人生の分岐点に差し掛かる年齢。老けないはずがないじゃないか。


「そうかよ……でもまあ、俺のためにわざわざ有難う、親父」


 本当は、ごめんなさいと言うべきなのかもしれない。昔の親父のことを何一つ思い出せなくて、申し訳ない、と。親父は少しだけ頬の筋肉をゆるめる。


「やめろバカ息子。お前に感謝されるようなことはしていない」


 そうかよアホ親父――とは言えなかった。代わりに俺はこう言ってやった。「悪かったなバカ息子で」と。俺は続けざまに言う。


「でも結局、俺は綾瀬と会っても何も思い出せなかった。けど、不思議な感覚になる。あいつと話してると。たぶん、身体は覚えてるんだろう。あいつと過ごした昔の日々を」

「そうだといいな」と言って、親父はいきなり立ち上がる。

「どこ行くんだ?」

「仕事だよ。私はお前とお喋りしていられるほど、暇ではない」


 やや丸まった親父の背中を見つめる。すると、親父がちょうど部屋から出る時に、「どうも」という声がした。親父の声だ。そのあとすぐに「あら、帰るんですか」という女性の声もした。看護師だろうと予測し、俺は慌ててベッドに入る。もしかしたら、ベッドに横たわっていなければ怒られるかもしれないと思ったのだ。

 親父の立ち去る足音。続いてサンダルのペタペタとした音が聞こえる。


「もう具合は大丈夫? それにしても、目が覚めたなら私たちのこと呼んでくれればよかったのに」


 案の定、看護師の女性が来た。胸のあたりにつけられた名札を確認する。


「綾瀬――もしかして、綾瀬希美さんのお母さんですか?」


 綾瀬希美の顔に少し皺が出来たような顔だ。そっくりである。

 身長は綾瀬よりも高いけれど、それを除けばほぼ同じ。綾瀬のお母さんは言った。


「よく気づいたわね。そんなにあたしたち似てるかしら?」

「ええ、まあ」

「ふふ……なんだか複雑な気分ね」

「どうして、ですか?」

「だって、あの子ってすごく童顔じゃない? だから、私もそう見られているのかなって」

「あ、いやいや! そんなことはないです」

「そう。良かったわ」と綾瀬のお母さんは言った。

「あの……こんなことを聞くのは妙だと思うんですけど、俺はあなたと、会ったことがあるんですよね……?」

「別に妙じゃないわ。だってあなたは記憶を失っているのだから。それで、私とあなたは面識があるのかと聞かれたら、そうね……」と、そこで言葉を区切り、言う。

「希美があなたを、よく私の家に呼んでいたから、それなりにあなたとは話したことがある」

「そうですか」


 やはり、辛いものだ。俺のことを覚えていてくれる人はいる。それなのに、俺は何も覚えていないのだから。下を向いた俺に、綾瀬のお母さんは言った。


「希美にはちゃんと注意したんだけどね……無理に記憶を呼び覚まそうとするなって。それなのに、こんな事態に陥ってしまってごめんなさいね」


 両手を膝に添えて、綾瀬のお母さんはそう謝罪した。


「いえ、むしろ俺は感謝をしてるぐらいです」

「え?」

「綾瀬のやつに言われました。自分が失った記憶を取り戻したとは思わないのかって。まあそもそも、俺は自分が記憶喪失だって忘れてたぐらいですけどね」


 俺がそう言って軽く笑うと、綾瀬のお母さんは姿勢を元に戻し、微笑む。


「そう。あの子がそんなことを言ったのね」

「はい。綾瀬にその話をされた時は、頭が混乱しちゃって、よく分かりませんでした。でも今なら、落ち着いた今なら、分かるんです」


 俺も綾瀬のお母さんも真顔に戻る。俺は言った。


「何が何でも記憶を取り戻さなきゃって、俺はそう思いました」

「どうしてそう思ったのかしら?」

「だって……綾瀬が泣いてくれたんですよ……。それだけじゃない。綾瀬は俺のことを心配してくれました。綾瀬は馬鹿な俺を叱ってくれました。綾瀬は――俺のことを抱き締めてくれました。こんなに俺のことを想ってくれるやつは、他にいません」

「だからあなたは、記憶を取り戻したいと、そう思ったわけね?」

「はい」


 誰かとちゃんと目を合わせて話したのは久しぶりだ。綾瀬のお母さんは俺の話を真剣に聞いてくれて、だから俺も真面目に話をする。これは簡単に見えるけれど、実はけっこう難しかったりするものだ。しばしの間を置いて、綾瀬のお母さんは言った。


「それだけじゃ、無理ね」

「無理……? どういうことですか?」


 俺が思わず立ち上がりそうになったのを制止し、綾瀬のお母さんは、そのままの状態で聞くよう促した。


「あなたが記憶をなくした原因は、お母さんの死。そのショックが大き過ぎたのよね。その最たる証拠は、あなたがサッカーに固執していたこと」

「サッカーに……固執? どういうことですか?」

「確かにあなたは、昔はきっとサッカーが大好きだったんでしょう。けれどそれも、お母さんが死んだことでガラリと変わる。あなたはお母さんが死んでもサッカーをやめなかった。ちなみに聞くけれど、それはどうして?」


 いきなりの質問にまごつきながらも、俺は言った。


「それは……サッカーが好きだったから、だと思います」

「違うわね」と、綾瀬のお母さんは即座に否定する。

「違う……?」

「あなたにとってのサッカーは、今となっては唯一の頼みなのよ。サッカーをしていればお母さんと会えるような気がする。サッカーをしていればお母さんと話せるような気がする。そう妄執して、固執して、囚われて――あなたはサッカーに縛れている」

「それは違います! 確かにそう思う時もありますけど、それだけでサッカーをしていたわけじゃないです!」


 ベッドから立ち上がる俺を今度は止めなかった。


「質問を変えましょうか」

「……どうぞ」

「この町に来て、あなたはサッカーをやめざるを得なくなった。でもね、試合が出来なくてもあなたはサッカーをすることができると思うの。部活がなくてもボールを蹴るだけなら、やろうと思えば出来たと思うの――けれどあなたは、一度もサッカーをしていない」

「………」


 言われてみれば、サッカーボールにここ最近は触れていない。いや、この町に引っ越してきてから一度たりともやろうと思わなかった。ランニングをしようとしたことはあったけれど、サッカーをしようと思ったことは――ない。


「心のどこかで、あなたは安心しているんじゃない? サッカーとは無縁な生活を送れることに、安堵している。違うかしら?」

「そんなことは……」

「本当にサッカーが好きで好きで仕方がないのであれば、やったはずよね、一人でも」

「それは……そうですけど……」

「あなたは、サッカーが好きだから続けていたんじゃない――」


 結論を出されるのが悔しかった。静かな病室。ベッドの隣で立ち尽くす俺。なんだか余命宣告を受けた気分になる。いや、まだ綾瀬のお母さんは続きを言っていない。結論付けてしまう前に、俺にチャンスをくれたのかもしれない。自分で気づき、理解し、納得させるために、わざわざ時間をくれたのだろうか。それなら――俺は目を閉じる。

 現実逃避ではない。過去のトラウマに、決着をつけるために。

 なんだよ、もっと早く分かっていたなら、誰かを傷つけなくても済んだのに。自分を責めることなく済んだのに。いつもいつも、俺は遅すぎる。

 そういえば、サッカーを俺に勧めたのはお袋だったっけ。野球をやりたいと思っていたけれど、お袋に言われて何となくサッカーをやってみたんだよな。

 案外それが面白くてさ。

 勉強ができなくて悩んでた俺は、初めて脚光を浴びたような気がした。指導者からは期待をされて、大会に出れば活躍して――そんな俺のことをお袋はいつも、褒めてくれた。

 サッカーをしている俺が好きだと、そう言ってくれた。

 でもお袋……あんたはもういないじゃないか……。

 いくら頑張っても、都大会で優勝しても、お袋は褒めてくれないじゃないか……。

 なあ、お袋……俺はたくさん頑張ったぞ……? それなのにどうして褒めてくれない。

 なあ、お袋……どうして――死んじゃったんだよ。いや分かってる。死にたくて死んだじゃないってことぐらいは、馬鹿な俺でも分かるさ。

 お袋、ごめん。

 もうそろそろ、辛くなってきた。自分のためじゃなくて、お袋のためにサッカーをしていたけれど、それはどうやら重過ぎたみたいだ。

 重くて、苦しくて、きつくて――だからそろそろ、やめにしよう。

 もうサッカーはしないけれど、それでもお袋は俺のことを、また褒めてくれるかな。そうだよな、褒めてくれるに決まってるじゃないか。

 俺はお袋の最期の言葉を思い出す。


『悔いのないように、生きなさい』


 命が尽きる前に遺してくれた言葉。だからきっと、サッカーをしていなくても――悔いのないように生きることができれば、それでいいのだろう。

 じゃあなお袋。ありがとうお袋。それから……ごめんな、お袋。


「待ってください、綾瀬のお母さん」


 俺が目を開いた時には、何かが変わったような気がした。記憶が戻ったわけじゃない。けれど、目の前に道が出来たような気がした。

 俺が歩き続けてきた道は、誰かにとっての脇道だったのかもしれない。もしかしたら道ですらなかったのかもしれない。それでも俺は歩いたのだ。

 だけれど、そろそろ立ち止まってみよう。前しか見てこなかったなら、今度は後ろを振り向いてみようじゃないか。

何が見えるのだろうか。そこにあるのはただの道か、それとも――


「この町って、けっこう綺麗ですよね」

「……そうね?」

「冬の海。凍てつく潮風。能天気な青空。きっと昔の俺だったら、綺麗だなんて思えなかった。でも今は、俺には見えるんです」

「何が見えるのかしら?」

「あの海の向こうに道が、見えるんです」


 波音が懐かしく聞こえる。もしかしたら俺は、昔のことをほとんど覚えていないけれど、お袋のお腹の中にいたことは覚えているのかもしれない。


「何も道は、道である必要はないんですよね。そこに道があるんだと信じれば、勝手に道は開けていくものなんでしょう。俺はそう思います」


 愉快だ。思わず笑顔になってしまう。脇道――いや、寄り道することがこんなにも面白いものだとは知らなかった。冬と言えば海。冬と言えば潮風。そして冬と言えば寒空だ。


「なんだかよく分からないけれど、でも、そんなに素敵な笑顔ができるなら、もう大丈夫ね」


 綾瀬のお母さんは、おばさん臭く、おほほと笑った。和やかな雰囲気を保ったまま、綾瀬のお母さんは言う。


「これでようやく、希美の時間も進み始めるわけね」

「時間? どういうことですか?」

「希美ってちょっと、年齢の割には考えが幼いでしょう? きっとね、あの子の中では、あなたが記憶を失ったのと同時に時計の針は進まなくなってしまったのよ」


 でも、と、綾瀬のお母さんは続ける。


「あなたが一歩を踏み出すことで、希美も同じように一歩を踏み出すことができる。それが私は嬉しいの。前になんて進まなくてもかまわない。とにかく足を、動かしなさい」


 そうか――あいつも、綾瀬も、俺と同じように過去に囚われていたのか。俺という大切な存在が消えてしまったことで、綾瀬は立ち止まってしまった。綾瀬がどこか純粋過ぎるのもそのせいなのかもしれない。子供のまま成長してしまった、ということか。あの時、あの瞬間に戻ることはできないけれど、いま、現在をどうにかすることはできる。

 そうだな――できるよ。生きながらにして生まれ変わることだって出来る。


「綾瀬のお母さん、あんまり俺を見くびらないでくださいよ?」

「あら、どういうことかしら」


 もしかしたら昔の俺は、こういう人間だったのかもしれない。

 親指をグッと突き出して、俺は言った。


「一歩なんかじゃ満足しません。俺は、俺と綾瀬は――ジャンプしてやりますから。俺たちよりもずっと前を歩いてるやつらを、飛び越えてやります」


 ハッとしたように口を開き、綾瀬のお母さんは黙る。


「そうね……そうよね。あなたなら、弓弦君ならきっと、そういうことを言うのかもしれないわね。任せたわよ、弓弦君」

「まあでも、綾瀬のやつは鈍いから、ジャンプしようとしても、何かに躓いて転んじゃいそうですけどね」

「かもしれないわね、ふふ……」


 俺は今日から変わってやる。今に見ていろ、昔の俺。嫌なことばかりだった過去は清算し、俺はこの瞬間を生きよう。前も見ない。後ろも見ない。

 俺は横だけを――綾瀬だけを見て歩こう。

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