第三話
冬の海。空は青く、俺は生きる。
もう昔の俺ではないけれど、今の俺は確かにいる。
「………」
この田舎に越してきてから三日ほど経った。初日と比べれば、だいぶ慣れてきてはいる。けれどやはり、環境に適応はできても、人間関係はそう簡単に変わらない。
いまだって放課後を迎えているというのに、俺はただ一人で、席にポツンと座っている。
クラスメイトが楽しそうにしいているのを、後ろから眺めているだけ。
いや、別にいいけどさ。
自業自得だ。
初対面の綾瀬に啖呵を切ったことにより、俺への扱いは決まってしまった。都会人が偉そうにしている。都会人が喧嘩を売った。都会人が――ああうるせえ。
口を開けばすぐに都会、都会、都会。
僻んでいるとしか思えない。
俺は大きなあくびをして、ぐっと背中を伸ばす。早くホームルームが終わることを願い、早く家に帰宅できることを祈り、俺はただただ、担任の登場を待つ。
すると、ギギ……ギギギッっと扉が開いた。
どれだけボロイ学校なのかは、もう言うまでもあるまい。
「はーい、みんな、席についてね」
緩い雰囲気を纏った担任は、そう言って教壇に立つ。
不思議なことに、この学校には号令という概念がない。おまけにチャイムも鳴らないので、教師の気分によって授業時間は変わる。
変な学校だよ、ここは。
頬杖をついて担任を眺める。
そしてようやくホームルームが始まった。
「特に報告はありません、はい、解散! あ、掃除だけはしっかりしてくださいね!」
どうやらホームルームはもう終わったらしい。
三日目に突入した学校生活。
だけれど、このホームルームの短さだけは慣れないのであった。
「舘林君! 掃除だよ掃除! 掃除しよう!」
俺の前に座る綾瀬は、クルリと身体を反転させると、掃除という単語を連呼した。
「ああ、そうだな。掃除だな」
「そうだよ掃除だよ! 掃除しよう掃除!」
「掃除、掃除うるせえな。そんなにやりたけりゃ一人でやってろ」
「だって、一人じゃ出来ないんだもん……」
俺は知っている。
綾瀬希美は、掃除のできない女だということを。そしてもう一つ俺は知っている。綾瀬希美は自分にできないことを、他人に押し付ける性格であることを。
俺は立ち上がりながら言った。
「お前、今日はちゃんとやれよ。俺に任せっきりとか、なしだからな?」
綾瀬は片手を額にあて、恐らく「了解だよっ!」という意味をこめたジェスチャーをする。
俺は何となくそれが気に入らなかったので、試しに軽く、頬を抓る。
「い、痛いでひゅ……」
「繰り返すぞ。今日はちゃんと、掃除をしろ。いいな?」
「ひゃい……」
パッと手を離してやると、綾瀬は俺にあっかんべーをした。
子供かよ――なんてツッコミは入れない。
何故なら綾瀬希美という一人の人間は、まだまだ子供なのだから。
身体の発達と精神の成長が釣り合っていない。
と思ったけれどそれもどうやら違うらしい。綾瀬は背も低いし、まあ、その、胸も大きい方ではないからな。控えちゃってるからな、綾瀬の胸は。
見上げたものだ。
主人たる綾瀬の顔をたてるために、わざわざこうして、控えているのだから。戦国時代に生きていたなら、恐らく下剋上を果たせたであろう。
織田信長でもなく豊臣秀吉でもなく、そして徳川家康でもなく、きっとこのお胸様が天下をおさめていたと思う。
「おや、おやおや? 舘林が希美の胸をガン見しているとな」と、いつの時代の人か分からない口調で、姫川が俺にそう言ってきた。
「見てないです」
「舘林が敬語になる時は、なにか後ろめたいことがある時。そう、相場が決まってる」
「そこまでこの世の中は、俺について詳しくねえよ」
しかし、たった昨日今日の関係で、そこまで見抜かれてしまうとは――恐ろしい。姫川茜は恐ろしい女だ。
「まっ、ふざけるのはここまでにしておいて、掃除に行きましょうか」
一番ふざけたことを言っていたはずの姫川は、俺たちを指揮して、掃除場へと向かう。
「ふんふん、ふっふん」
鼻歌交じりに歩く、本日の姫川のショートカットには、少し乱れが見られる。枝毛一つ見つからないのは、昨日と同じだけれど、後ろ髪がぴょこんと、はねてしまっている。
気になる。
几帳面な性格ではないが、誰かの寝癖とかを見ていると、無性に直してあげたくなってしまうのだ、俺は。
「……クッ」
だが待て。
女である姫川の髪にいきなり触ったら、良からぬ勘違いをされてしまうのではないか?
田舎という小さなコミュニティーの怖さを知った俺は、知っている俺は、どうしたものかと頭を悩ませる。まずい。俺の手が勝手に、姫川の髪に触れようとしている。
「手が……手が……止まれぇ……くうぅ……」
俺がぼそぼそと呟いていることに気がついた綾瀬は、不思議そうな目で言った。
「手? 手がどうしたの――ってあれ? その手、どうしたの?」
『昨日さぁ、やけになって壁殴ってたらさぁ、出血しちゃったんだよねぇ』とは言えるわけもなく、俺は慌てて手を隠した。
「あ、ああこれはちょっとな……。昨日転んだら、手を擦り剥いて……」
姫川のちょこんとはねている髪の毛を直したい衝動がおさまり――俺はホッと一息をついた。しかしそれは、束の間の休息であった。
「ちょっとあたしに見せて」と、綾瀬がいきなり、ポケットに突っ込んだ俺の手を、引っ張り出してしまったのだ。
「ちょ! 何すんだよ!?」
「あのね、これ、ちゃんとガーゼ貼れてないよ?」
「そ、そうか……家帰ったら貼り直す……」
そう言った俺であったけれど、綾瀬はまったく聞いていなかった。
「あそこに保健室あるから、あたしがやってあげる!」
「いや、いいから。それに、もしやってもらうとしても、お前じゃなく保健室の先生にやってもらう」
「保健室の先生? もう帰っちゃったよ?」
「なんでお前がそんなこと知ってる」
「だってあのお爺ちゃん、いつもお昼前には帰っちゃうもん」
お爺ちゃん……。
しかも昼前に帰っちゃうとか、職務放棄だよ、それ。
俺たちが後ろで騒いでいたせいか、姫川は怪訝そうな顔で振り向き、言った。
「どうしたの? また喧嘩でもしてるの?」
「してない。ていうか、また、とか言うなよ」
「だって舘林、希美にだけはキツイ言い方するでしょ? だからそれに対して、希美が言い返したのかなって。だから喧嘩でもしてるのかなって」
勝手な勘違いをされた俺は、ため息をつくだけにとどめる。
一方、綾瀬は言った。
「ねえねえ、茜。悪いんだけど、舘林君のガーゼ貼り直すから、先に掃除してて! 後であたし達も行くからさ!」
「おい待て、勝手に決めてんじゃねえよ」
「あ、そういうことなら了解。ていうか、祐樹に手伝わせるから、二人はゆっくりしてていいよ、うん。まあ、そのまま二人でイチャラブしててもいいよ」
「よくねえよ」
「そっか。ありがとう茜! じゃあ、今日は頼んだよ!」
「待って。俺も頼むから話を聞いて」
ことごとく俺の言葉は流されて――結局、俺と綾瀬は二人で保健室に行くことになった。
「失礼します……」
「舘林君、誰もいないんだから、失礼も何もないよ?」
「もし誰か寝てたりしたら、悪いだろうが」
「でも、誰もいないもん」
「可能性の話をしてるんだっつうの」
こつんと綾瀬の頭を突き、俺はとりあえず丸い椅子に座る。
ちなみにこの椅子は、回転するタイプだ。
「ああ! あたしが座ろうと思ったのに!」
「お前は何しに来たんだよ、この保健室に……」
仕方ないので綾瀬に譲り、俺はそのままガーゼと包帯を探すことにした。
しかし、探してもなかなか見つからず、俺は綾瀬に聞いた。
「なあ、ガーゼとか包帯とか、どこにあるんだ?」
「ううん……どこにあるんだろうね?」
「……お前まじで、何しに来たわけ……?」
クルクルと椅子の上で回転しながら、綾瀬は「えへへ」と、笑って誤魔化した。
「ったく……もういい。自分で探すから」
保健室とか言っておきながら、さっきから見つかるのは、袋に入った干芋とか爪楊枝とか、いかにもお爺ちゃんが使いそうなものだ。
「ねえねえ舘林君、見つかった?」
「見つかんねえよ」
「あたしね、いま気づいたんだけどね」
「なんだよ」
「ここ保健室じゃなかった!」
「………」
壊れたおもちゃみたいに、俺はぎこちない動作で綾瀬の方を向く。
「いま、なんて言った……?」
「えっと、ここ保健室じゃなくて、保健の先生の休憩部屋だった。ごめんね!」
ゆっくりと歩み寄り、かなり腹が立っていた俺は、綾瀬お気に入りの青色のヘアピンを奪い取る。そしてヘアピンを高々と掲げる。
「わわわわっ! 舘林君……? それあたしのヘアピンだよ?」
「知ってる。それからこのヘアピンは没収な」
「な、なんで……?」
俺の持つヘアピンを取り返そうと、必死にジャンプする綾瀬。
「ハッ……お前の身長じゃ、届かないだろうな」
「ひ、酷い酷い酷い! 舘林君の不届き者!」
「俺はそこまでアウトローなことはしてねえよ」
目の前でぴょんぴょんされるのは目障りだったため、俺は綾瀬の頭をがっしりと掴む。
そして、身動きの取れなくなった綾瀬は、ただジト目で俺を見ることしかできずにいた。
「見損なった……! たてb――舘林君には見損なったよ!」
「俺の名前で噛むな」
「噛んでないもん。でも、このままあたしのヘアピン返してくれないなら、噛みつくよ?」
「どんな脅迫だよ。とにかく、お前は少し反省をしろ」
手を離せば本当に噛みつかれそうだったので、俺は綾瀬の身動きを封じたままにする。
「反省? あたし何か悪いことしたっけ?」
「悪いというより、俺に迷惑をかけた。それを反省しろ」
ちぇーっと、気まり悪そうな顔をして、綾瀬は言った。
「反省文……何枚……?」
「いらない。お前の拙い文章なんて読みたくない」
「え? 反省文いらないの? やったぁ!」
「喜ぶな。反省をしろ」
「反省しました! この通りです!」
頬のあたりでピースサインをする綾瀬。恐らく、俺が何を言っても無駄なようだ。
このまま話をしていても埒が明かないので、俺はヘアピンを返す。
「それで、保健室はどこだよ? ここの隣の部屋か?」
俺からヘアピンを受け取ると、綾瀬は大事そうにそれを抱きかかえ、そして再び前髪につける。
「そうそう。ここの隣だよ」
仕切り直そうと言わんばかりに、意気揚々と綾瀬は部屋から出て行く。その後ろについていき、俺はようやく保健室に到着した。
「おおっ! 丸椅子を発見!」と、綾瀬はまたしてもあの、回転する椅子でクルクルする。
そんな馬鹿な行動をしている綾瀬は放置し、俺はガーゼと包帯を探す。まあ、思ったより早く二つが見つかり、いまはそれで処置を施そうとしているわけだ。
俺が見つけたと分かると、綾瀬はすっ飛んでくる。
「よし! それじゃあ、ここからはあたしに任せてね!」
そう言ってはいるけれど、俺は綾瀬に任せるのが怖くて仕方がない。それこそ傷口に塩を塗られるんじゃないかと、ビクビクしながら待機した。
「ちょっと痛いかもしれない。我慢してね」
「お、おう……」
意外と手際が良い。
慎重かつ丁寧にガーゼが剥がされる。
消毒液をつけたコットンのようなもので、綾瀬は俺の傷口を拭く。
「あんまり詮索しちゃいけないと思うけど、聞くね」
そんな前置きをしてから、綾瀬は言った。
「転んだぐらいで、こんな怪我しないよ。この手で……誰かを殴ったりしたの?」
「お前には関係ない」
冷たく言い放った俺であったが、綾瀬の真剣な瞳に気圧され、俺は思わず息を呑んでしまう。真剣で、だけれど凄い心配しているようにも見えて、何を言えばいいのかが分からない。
「誰かを殴ったりなんて……生まれてから一度もしたことねえよ……」
「じゃあ、舘林君はいったい何を殴ったのかな。地面? 壁? それとも――」
それとも、自分でも殴ったのかな。
そんな綾瀬の言葉に、俺はハッとした。俺が殴ったのは部屋の壁だ。けれど、こうして自分の拳を傷つけているのだから、確かに綾瀬の発言は的を射ているのかもしれない。
綾瀬は続けざまに言う。
「あたしのお母さんは、この町の看護婦さんなんだ。でもね、人手が足りないってことで、あたしもたまに手伝ったりしてる」
「そう、なのか……」
「だから分かるの。この傷は、転んでできた傷じゃないってことが」
一通りの作業が済み、綾瀬は俺の手にガーゼを添えて、そして包帯で綺麗に巻いていく。
綾瀬の作業を見つめながら、俺は言った。
「もう、隠してもしょうがないな。そうだよ。壁を殴って、この様だ」
「これでよし」と、綾瀬は言ってから、ようやく俺の顔を見た。
「そっか。特に何かを言うつもりはないよ。でも、これだけは言わせて――」
静まり返った校舎。
とっくに他の生徒は下校してしまったのだろうか。
そして、遠くから聞こえる波音――今日の波は少しだけ、荒れていた。
俺は綾瀬を見つめ返す。
なんだか懐かしい気分がするのは、どうしてなのだろう。誰かに心配をされるのが、誰かに叱ってもらえるのが、久しぶりだから、なのか……。
綾瀬は区切った言葉の続きを、静かに怒るような声色で言ったのだ。
「自分の身体なんだから、大切にしなきゃダメだよ」
綾瀬は俺の目を見て、決して逸らそうとはしない、してはくれないのだ。身体の底から湧いてくる、不思議な温もり。
俺の手に、綾瀬は自分の手を重ねる。
「それだけだよ……あたしが言いたかったのは、それだけ……」
初めて見てしまった。
綾瀬が本気で怒る姿を、顔を、瞳を、表情を。
俺はどうすればいい。
俺はどんな言葉を、返せばいいのだ。
ありがとうと、感謝をすればいいのか?
お前には関係ないと、いつものごとく、冷たくあしらってやればいいのか?
俺はどうすればいい。
いくら考えても結論は出ない。結局、俺は綾瀬に質問をしていた。
「なんで……お前がそこまで、俺のために怒ってくれるんだよ……?」
一間も置かずに、綾瀬は言った。
「心配だからだよ。あたしは、舘林君が思ってる以上に、心配してるんだからね……? 家庭の事情とか、自分の都合とか、何かに舘林君が悩んでるのは、分かるんだよ……? あたしだけじゃないもん。茜だって祐樹君だって、みんな気づいてるんだよ……?」
「お前に俺の何が分かる……」
違う。
こんなことが言いたいわけじゃないのに。
「お前に俺の気持ちが、分かってたまるかよ!?」
やめろ。
俺の口は、どうしていつも言うことを聞いてくれないのだ。
「お前になんて絶対……分かるはず……ねえだろうが……!」
ああ、だめだ。
俺はやっぱり――何一つ変われてなんていなかったんだ。
「ふざけんな」、そう吐き捨て、俺は保健室を飛び出す。
「また逃げるの!?」
綾瀬は運動音痴の癖に、俺のことを追いかけてくる。
「この前みたいに逃げて! またあたし達が迎えに来てくれるって、助けてくれるって、そう思ってるの!?」
「お前たちの助けなんて――」
本当は仲良くしたいんだろ、俺。
綾瀬にありがとうって言いたいんだろ、俺。
それなのにどうしてまた逃げている。
逃げて逃げて、その先に何かがあるのか? あるわけないよな。何もないからこそ、俺は逃げているのだろう。何も欲しくなくて、誰にも関わって欲しくなくて。
「お前たちの……助けなんて……」
でも心のどこかでは、みんなと笑い合いたいと思っている自分もいて。
ああ、やっぱり俺は面倒な男だな。
姫川の言った通り、本当はかまって欲しくて堪らない。
「お前たちの……お前たちのこと……なんて……」
ほら、ちゃんと言ってあげろよ綾瀬に。
俺はどうすればいいのか、分からないと言ってあげろよ。
俺はお前に感謝していると言ってあげろよ。
怪我の手当てをしてくれて、ありがとう、と。
「舘林君……もう、逃げるのはやめよう……? あたしに、ぶつかっていいんだよ? たとえどんなに舘林君がぶつかってきても、あたしはそれを受け止めてあげるから」
気づいた時にはもう、俺の両足は止まっていた。保健室からわずかに離れたところで、膝から崩れ落ちている俺の姿は、さぞ滑稽なものだったろう。
拳に巻かれた包帯が目に入る。
「舘林君はもう、悩まなくていいんだよ。たっくさん、悩んだんでしょう? 素直になれない自分が嫌になって、自分を傷つけた。だから今度は、素直になれた自分を褒めて、それで自分を抱き締めてあげなよ? そうすればきっと、苦しくないよ」
綾瀬が近づいてくる足音は、とてもゆっくりとしたものだった。
一歩を踏み出すたびにその音は、俺の心で反響をする。
今までにあった嫌な出来事が、思い出が、一つ一つ消えていく。
代わりに俺の頭に生じたのは、たった数日の間、一緒にいただけのはずの綾瀬の笑顔。それに姫川が九條を叩く光景。そして最後に――この町の景色。
俺は冬の海が嫌いだ。俺は夏の海も嫌いだ。けれど走りながら見る海は嫌いじゃなかった。そしてまた、綾瀬と見る海も、嫌いじゃないのかもしれない。
綾瀬はそっと俺のことを抱き締める。後ろから、そっと。
わずかに香る綾瀬の匂いは、ほんのりしょっぱい潮の匂いがする。
「舘林君は不器用だもんね……だから今は、あたしがこうして、抱き締めてあげる。自分のことを褒めてあげられない舘林君を、あたしが褒めてあげる。だから舘林君、笑って?」
照れ臭いとは思う。けれどこの瞬間は、恥ずかしいとかそんなことよりも、涙を流さないように必死に笑ってやった。ぐちゃぐちゃで、みっともない笑顔は、果たして後ろの綾瀬に見えたのだろうか。
どちらにしても。
俺は綾瀬の身体の温もりが、愛おしく思えて仕方なかった。抱き返してしまいたいほどに、俺の気持ちは満たされていた。
これで良かったのかな。
いや、良いはずがないか。
もっと最初から素直になれていれば、周りの人間を困らせることなどなかったのだから。
俺は自分勝手な人間だった。
誰も俺のことを見てくれないとか、そう考えていたけれど、誰しもが俺のことを心配してくれていたのだ。
綾瀬に姫川に九條に、他のクラスメイトとはまだ溝が埋まっていないけれど、少なくともこの三人は、俺のことを……な。
「うっわぁ……まさかとは思ってたけど、ええ……まさかねえ」
「あ、茜……こういうのは、見て見ぬフリをするべきだろ……」
そんな、姫川と九條のやり取りが聞こえたので、俺は慌てて綾瀬から離れる。
振り返ってみればそこには、ニヤニヤと意地悪な笑顔をしている姫川と、目を両手で覆っている九條の姿があった。
「や、やめろ! 勘違いするなよ!」
「うん? 舘林君? 勘違いってどういうこと?」
そんな風に、姫川の冷やかしを理解できていない綾瀬。
「そうだよ舘林。何をどう、うちらが勘違いするって?」
純粋な疑問を抱いている綾瀬と、全て分かっている姫川の視線は、俺にはどうしようもなくキツイものであった。
「なんでも……ねえよ……」
「ああっ! 舘林君! さっきあたしと約束したよね? これからは素直になるって!」
「してない、と思うぞ……」
「とにかく。ダメだよ? ちゃんとあたしに教えてよ。何をどう勘違いしちゃったのか」
「そうだよそうだよ舘林ぃ……言っちゃいなさいよぉ」
素直になれと言われても、素直になるべきじゃないことだってあると思う。先程からずっと見て見ぬフリをしているらしい九條の救援は望めず――俺は結局、逃走するのであった。
「ああっ! 舘林君が逃げた!」
「さあ、祐樹の出番よ!」
「嫌だよ……だって俺じゃあ、追いつけないし」
バシンという背中を叩くような音が聞こえた。恐らく、というか確実に、姫川が九條のことを叩いたのだろう。
「海で待ってるからね、舘林君!」という、綾瀬の大きな声が聞こえ、俺はどうするべきかを迷う。逃げた癖にノコノコと海に出向くなんて、おかしいかもしれないな。
けれど俺は、走りながら後ろに向けてこう言ってやった。
「先に海で待ってるからな! 来なかったら承知しないぞ!」とな。




