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第一話

「今日からこの学校に転校することになりました、館林弓弦たてばやしゆずるです」


 どうして、こうなった。


「父親の仕事の関係でやってきました。よろしくお願いします」


 どうして、こうなった。


「はい。というわけでみなさん、舘林君と仲良くしてあげてね」


 どうして――こうなったんだ。


「ええっと、舘林君の席は、あの一番後ろの席です。とりあえず着席してください」


 担任が指さす方を見ると、そこにはポツンと、俺の席が並べられていた。わざわざ俺のために用意された席――一番後ろの、窓際の席で、教室の入り口からは遠い。

 ざっと見回して十人ちょっとのクラスメイト。

 俺は見世物じゃない――揃いも揃って、俺を見る視線は好奇なものであった。

 形容し難い居心地の悪さを感じながら、俺は机と机の間を歩いて行く。

 着席して、俺はふと窓の外を眺める。女性特有の、耳障りで甲高い担任の声ではあるが、俺にはどこか遠くに聞こえる。窓から見える景色は都会では考えられないものだ。

 校舎から海を見下ろすことができるなど、信じられないにもほどがある。

 それに加え、季節はまだ冬だと言うのに、一人のサーファーの姿が。

 本人からすれば、波に乗っているつもりなのだろうけれど、僕からすれば波に揉まれているようにしか見えない。


「ねえねえ、舘林君!」と、俺の前に座る女子生徒は、こちらを振り向く。

「なんだよ」

「舘林君ってさ、東京から来たんでしょ? 東京ってどんなところ? 面白い?」


 ニコニコと笑っているこいつ。何がそんなに面白いのだろう。


「別に。普通だ」

「そっかぁ……そうだよね。東京に暮らしてたら、凄さとかって分からないよねぇ……」


 首を左右に傾けているこいつの瞳からは、憧れのようなものが窺える。気に入らないな。


「用がないなら話しかけるな」


 素気無く言ってやると、何を勘違いしたのか、こいつは自己紹介をする。


「ああ、ごめんね。まだ自己紹介してなかったね! あたしの名前は綾瀬希美あやせのぞみ。希美って呼んで!」


 いきなり下の名前で呼ばせる気か、こいつは。やっぱり、俺が思った通り、気に喰わない。


「慣れ慣れしいんだよ、お前。俺が一番嫌いなタイプの女だ」


 そう言葉を吐き捨て、俺は盛大な舌打ちをかます。

 この手の人間は、ハッキリ言ってやらないと理解できないのだ。

 綾瀬希美と名乗ったこいつは、青色のピンで固定された前髪に軽く触れ、「そっか。ごめんね……」とだけ言った。

 俺は綾瀬とやらの背中を一瞥し、再び窓の外へと視線を移す。

 結局、転校初日から俺は、綾瀬を威嚇した甲斐あってのことなのか、放課後を迎えるまで誰とも口をきくことはなかった。

 別に寂しいとは思わない。そんなことを思うぐらいなら、最初から綾瀬を牽制したりはしないさ。これでいい――俺はこれで、いいんだよ。

 退屈な授業から解放され、お情け程度の暖房器具によって暖められた教室には、笑い声やら机を動かす音やら、まあとにかく、騒がしいものであった。

 俺を除いて男子生徒は五人、女子生徒は六人。

 みんなそれなりに仲が良いようで、合計十一人の生徒たちは固まって談笑をしている。

 俺にはその光景が奇妙に思えた。

 男女の仲が良いことにではなく、クラスメイト全員が仲良しなことに対してだ。高校二年生ともなれば、それなりに自我が形成され、違った価値観を持ち、あの中の一人ぐらい、クラスで孤立しそうなものだけれど。

 気持ちが悪いな。

 誰一人として、グループからあぶれるやつがいないのだから。

 立てつけの悪い扉を開け放ち、俺はすぐに教室を出た。どこもかしこも古めかしく、まるで疎開した先の学校にいるような気分。

 廊下には誰もいない。

 高校一年から高校三年のクラスが、それぞれ一つずつあると聞いていたけれど――そんな風に疑問を感じていた俺の耳に、またもや笑い声が飛び込んでくる。

 俺の教室からではなく、他の教室からだ。


「なるほど……どいつもこいつも、気味が悪い」


 さっさと下駄箱に向かい、靴に履き替える。きっと、校舎から出た瞬間に、嫌な潮風の匂いが漂ってくるのだろう。

 なんと言ってもここは田舎。

 そこにあるのは大きいだけの海とバカみたいな青空と……つまらない人間たちだけだ。


「さむっ……」


 ポケットに手をいれると俺は、汚い校舎を背中にして、長い坂道を下っていくのであった。

 不便なもので、この町には坂がたくさんある。学校近くの坂の下にはすぐ海があり、俺の家は海岸線沿いをしばらく歩いたところにある。

 親父の仕事はこの寂れた田舎の開発だ。なんでも、観光地にするとかなんとか。まだ計画途中らしいのだが、どんな長所があってどんな短所があるのかを、調べなければいけないんだとさ。迷惑なことに、その関係上俺は引っ越しを強いられたわけだ。


「……嫌な匂いだ、本当に」


 寒空。波の音。鳥の鳴き声。そして、誰もいない道。

 俺は全てに嫌気がさして、思わず顔を顰めた。足取りは重く、家に帰るのすら面倒だ。けれど寄り道できるような店はない。

 コンビニの代わりに八百屋、もしくは自動販売機。

 これでいったい、どこに寄り道をすればいいと言うのか。

 反語。

 寄り道できるところなどない。

 自問自答をしていた俺の後ろから、誰かが駆けてくるような音がする。

 コンクリートで舗装されているこの道ではなく、砂浜を走る音。

 砂に足でもとられているのだろう。

 何度か「きゃっ!」という、小さな悲鳴が上がっていた。嫌な予感がする。そして、嫌な予感というのは外れるのが常であるけれど、この場合は例外だった。


「舘林君! ちょっと待って!」

「……綾瀬……希美……? 何の用だ」


 肩で息をしていて、額からは汗が流れている。俺もそうだが、綾瀬の吐く息もやはり白い。せっかくピンで前髪を整えていたのに、今ではすっかりぐちゃぐちゃだ。

 俺は砂浜にいる綾瀬を見下ろす形で、返事を待った。


「さっきは、あの、ごめんなさい……。初対面なのに、確かに慣れ慣れしかったと思う。でもね、あたしは舘林君と仲良くなりたいなって、そう思って……」

「そう思って? 続きを早く言えよ」


 ごしごしと汗を、制服の袖で拭うと、綾瀬は言った。


「そう思って……そう思って、何しようとしたんだっけ、あたし?」

「じゃあな。俺は帰る」

「ちょ、ちょっと待って! 待って待って待って!」


 そばにあった石段を駆け上り、綾瀬はコンクリートの道を歩いていた俺の前に立つ。走ったせいで体温が上昇し、綾瀬の頭からは湯気が立っていた。


「お前……どんだけ走ったんだよ……うぜえな……」

「うざくないもん」

「もん、とか可愛らしく言ってんじゃねえよ。スーパーサイヤ人みたいに湯気出てっから。まじで不気味だよ、今のお前」


 そう悪態をつくと、綾瀬は恥ずかしそうに頭を両手でおさえる。


「見ないでっ……!」

「いや……あのさ、お前ほんとに、何しに来たわけ……?」


 季節外れの海に、規格外なほどアホな綾瀬希美。どちらも見るに堪えないものであったので、俺はそのまま家に帰ることにした。


「あれ? ねえ、待って。待ってってば! ねえ舘林君!」


 ピョンピョン跳ねるウサギみたく走る綾瀬。もしかすれば、ステップを踏んでいるのかもしれない。ただ、いかんせん、下手くそだ。

 ステップにしても、ジャンプにしても、リズム感というものが皆無。


「お前さ、絶対運動音痴だろ」


 普通に歩いていた俺にようやく追いつくと、綾瀬は言った。


「うん、そうだよ。ちなみに頭も音痴だよ」

「頭が音痴とは言わない。そういうのは単に、馬鹿と言うんだ」

「なんでバカって、馬と鹿って書くんだろうね? 不思議じゃない?」

「俺はお前のその無神経さの方が不思議でならないね。ついてくるなよ。話しかけるなよ。俺を見るなよ」

「うわぁ……俗に言う、舘林君の三カ条ってやつなのかな?」

「俗に言わねえから。舘林君の三カ条なんて存在しないから」

「あはは! なーんだ。舘林君ってけっこう面白いし、良い人だね!」


 いつの間にか俺の横にぴったりと張り付いて歩く綾瀬は、屈託のない笑顔をする。


「………」


 海は灰色。そして綾瀬のヘアピンはブルー。その二つを交互に見ながら、俺は思った。やっぱり冬の海は、どこか悲しい顔をしている、と。


「舘林君? どうしたの?」

「お前には関係ない。何度も言うが、用がないならどっか行け。じゃあな」


 足を速める俺に、あくまでもついてこようとする綾瀬。けれど歩幅は小さく、俺の一歩は綾瀬の二歩分もあり、徐々に距離が離れていく。

 安心して顔を前に向けた俺であったけれど、綾瀬はまだまだ諦めなかった。諦めてはくれなかったのだ。


「なっ――」


 またもや全力疾走だ。しかも、俺を目掛けて飛びついてきやがった。冷たい地面に激しい接吻をして、さらに綾瀬の身体が俺にのっかり、またもや何もかもが嫌になった。


「っ――ざけんなよ!? いきなり何しやがる!?」


 首だけ振り向け、綾瀬を怒鳴り散らす。だが、綾瀬は反省する素振りなど見せなかった。

 俺の真新しい制服に綾瀬の汗が、頬を伝ってポツリと落ちてくる。

 ゴールデンドロップ。

 まるで紅茶の最後の一滴のような、鮮やかな輝きを放ち、どことなく香しい匂いがする。


「舘林君さぁ……なんでそんなに、他人と関わろうとしないの?」


 やはり綾瀬は、あの青空のようにどこまでも自分勝手で――終わりの見えない砂浜のように我儘で、俺をどうしようもなく不快な気分にさせる。

綾瀬の笑顔は、毒だ。


「うるせえ。うるせえんだよ、お前。ていうか、さっさと俺の身体から退け」

「嫌だ。舘林君が話してくれるまで離さない」


 話すと離すをかけたのか。こんな場面で何を言い出すかと思えば……。


「地味に上手いこと言ってんじゃねえよ。気に入らねえな」

「あたしも気に入らないよ、舘林君のこと」

「はあ? そう思うなら俺に近寄ってくんなよ」

「そうじゃない」

「なに? どういうことだよ」


 ぺしんと俺の背中を叩くと、綾瀬は大きな声で言ってきた。

 鳥たちが驚いて、思わず飛び立ってしまうほどにな。


「田舎をバカにしないでよねっ!?」


 しないでよね――ないでよね――よね。

 綾瀬の声は、辺り一帯に響き渡るように、こだました。

 キーンと耳鳴りがして、俺は唇を歪める。

 一応、嫌いとはいえ、綾瀬は女だ。だから無理やり身体をどかしたりはせずに、今の状況に甘んじていたわけだけれど。


「もう……我慢の限界だ……こんなクソみたいな田舎……ウンザリなんだよ畜生がっ!」

「田舎って言わないでよねっ!? 自然豊かで素晴らしい大地って言ってよ!」

「そんな長ったらしいこと言えるかよ!?」

「言わなきゃだめ! そうじゃないと仲良くしてあげないよ? 学校で孤立しちゃうよ?」

「もう孤立してるし、別にそれでかまわない。はあ……とにかく、俺の身体からどけ」

「わっ! わわわわっ!」


 俺は痺れを切らして、強制的に綾瀬を俺の身体からどかした。


「ワンワンうるせえな。お前は犬っころかよ」

「そういう舘林君はオオカミみたいだよね、目つきが鋭いし」

「喧嘩売ってるのか?」

「今なら百円で売ってあげるよ? ちなみに税抜きだから気を付けてね」

「せめて税込にしろ」

「合計、百三円になります」

「待て、いやちょっと待て。消費税3%? え? お前いつの時代の人なわけ?」

「え? 違うの? 近所のお婆ちゃんが言ってたよ? 3%だって」

「そ、そうか……まあいい。そんなことはどうでもいい」


 綾瀬のペースにまんまと乗せられていたことに気がつき、俺は話を大きく戻す。

 少し長めのスカートについた砂埃、それを手で払っている綾瀬に、言った。


「結局お前は、俺に何の用があったんだよ」

「ええっと……あ、そうそう。一緒にお散歩しようよ!」

「なんで?」

「ここの海って綺麗だよね、人はあんまりいないしさ」


 言われて、俺は視線を海へと向ける。漂う海藻。少し荒れている波。俺は砂浜へと目を動かした。どこまでも続くこの砂浜は不安になる。終わりがあるのかないのかも分からず、俺は素直に怖いと思う。

 ふと空を見上げると、そこには一羽の鳥が自由の翼を広げていた。青く透明な空の中、茶色い身体をした鳥はなんだか酷く目立つ。俺は一通りの観察を終え、言った。


「それで?」

「それで……ええっと、うん。だからね、もっとこの場所を知ってもらいたいなって思って。だからお散歩しよう、ね?」


 そう言って、綾瀬は少し砂がついた手を差し伸べて来た。


「……断る」

「拒否権はないよ?」

「なんでだよ……」

「人からの厚意は無碍にしちゃダメ。そうお母さんが言ってたもん」


 俺は今さら気がついた。

 綾瀬は笑うと、大きなえくぼができるということに。一切の穢れを感じさせず、まるで純粋無垢な幼稚園児みたいだ。こんな無邪気な笑顔をするやつ、都会で見たことがあったかな。


「……5分だけだ」


 あれほど綾瀬を突き放したのに、それでも執拗に関わってくるので、俺は少しだけ決まり悪かったものの、やむなく散歩をすることに。


「もう、素直じゃないね、舘林君」

「うるせえ。それで、どこを散歩すんだよ」

「あそこ!」と、綾瀬は海を指さす。

「ま、まさかお前……この時期に海で泳ごうなんて言う気じゃないだろうな……?」

「あはは……さすがにそこまで、あたしは無鉄砲じゃないよ。そうじゃなくて、砂浜を歩こうってこと」

「お、おい……」


 不意に俺の腕を掴んだと思ったら、そのまま砂浜まで駆けていく綾瀬。誰かがつけた足跡はとても小さく、俺の足はではおさまりきらない。足場は案の定悪く、柔らかい。一歩を踏み出すたびに俺の足はとられ、あともう少しで転ぶところであった。

 そしてもう一つ、案の定というか思った通りなことが起きる。


「うぎゃっ!」


 綾瀬が転んだ。しかも顔面から。

 頑張れば、綾瀬の転倒を阻止できたかもしれないけれど、俺には頑張る気など起きなかった。自業自得。そういうことにしておこう。


「うひゃあ……口の中に砂が入ったぁ……」


 制服は砂だらけ。おまけに髪の毛にも砂が。

 綾瀬は口に入った砂を気にしながら、その場にペタンと座り込む。


「お前、やっぱりバカだろ」

「バカじゃないもん……」

「バカはよく転ぶ。そう俺の親父が言ってた」

「………」


 ジト目で俺を見つめながら、綾瀬はいきなり「手」とだけ言った。


「手? 手がどうした?」

 ぷくっと頬を膨らまし、綾瀬はやはりジト目で俺を見る。


「手を貸して、ってことだよ」

「偉そうだな。手を貸してください、だろ」

「じゃあいいもん。自分で立つもん」

「最初からそうしろよ」


 汚い恰好になってしまった綾瀬を見ていて、俺は何となく疑問に思う。


「そういえばさ、お前なんでカバンとか持ってないの?」


 鳩みたいに目を真ん丸にさせ、綾瀬は自分の手元を確認する。


「あれ? あたしの荷物は?」

「知らねえよ。俺がお前を見た時には、もうなかったぞ」

「あれ……? 落としたの、かな……?」


 そいつは随分とでかい落し物だ。

 なにやら奇妙な踊りを始めた綾瀬は、目で「どうしよう?」と、訴えかけてくる。


「なんだその変てこな踊りは。目障りだ」

「お、踊り……? 踊ってるんじゃないよ! 焦ってるんだよ!」


 飛び立つ鳥が羽をばたつかせるように――腕をバタバタさせている綾瀬は、すっかり表情を暗くして、そしてそのまま落ち込む。


「これじゃあ散歩どころじゃないな。それじゃ、そういうことで。俺はもう帰る」

「ええ!? やっぱり都会の人って冷たい……。いいもん。一人で探すもん」

「おい、なんだよ。なんだこの手は」


 一人で探すと言っておきながら、綾瀬はしっかり俺の手を掴んで離そうとはしない。


「あれ、おかしいな。あたしの手が言うこと聞かない」

「………」


 ジーッと、小動物みたいな瞳で俺を見つめる綾瀬。都会の人間が冷たいのだとしたら、田舎の人間は自分勝手過ぎる。俺はそう思った。


「はあ……どうしよう。お母さんの誕生日プレゼント、入ってたのに……」


 母親にあげる、誕生日プレゼントか……。

 そんな大事なものを、不用心に落としてしまうなど、まったくもって理解できない。

 もはや怒りがこみ上げてきそうだ。


「一人で探せ。じゃあな」


 綾瀬の手を振りほどき、俺は砂浜から出ていく。一度たりとも振り返ることはせずに、俺はただただ帰宅することに専念した。


「母親か……」


 いや、専念したい気持ちで山々だったけれど、俺にはそうすることができない。綾瀬のためではなく、言うなれば綾瀬の母親のために、俺は一人で動くことにした。

 遠巻きに、綾瀬が砂浜で途方に暮れているのを確認し、固い地面を踏みつける。


「なにやってんだ……俺は……」


 白い息をまき散らし、俺は自慢の両足で駆けていく。

 恐らく、綾瀬が砂浜でカバンを落としたのだとしたら、それはすぐに見つかるだろう。あれだけ見晴らしの良い場所なら、探すのに苦労はしない。

 となれば、学校から海までの道――つまりはたった五百メートルちょっとのあの坂道で、落とした可能性を考えるべきだ。

 誰かが拾ってくれているかもしれないが、まあ、それならそれでかまわない。


「まだまだ……鈍ってはくれないみたいだな、俺の脚は……」


 走りながらの独り言。

 それにしても、どういうわけか、俺は走ることが気持ちいいらしい。あれほど嫌った潮風も、今ではすっかり馴染んできている。

 波の音。

 四六時中鳴り響く波の音は、時には楽しそうに、時には悲しそうに、まるで一つの意思を持った生き物のように喋るのだ。


「うわぁ……きついな。さすがにこの坂道は、厳しいかも」


 きついとか厳しいとか言っている癖に、俺はわずかに笑ってしまう。まあ確かに、これまでに乗り越えて来た逆境と比べてしまえば、こんな坂など屁でもない。

 綾瀬のカバンが落ちていないか探す。右も左も確認するけれど、やはり見つからない。

 校舎まであと百メートルほど。それぐらいの距離まで来た俺は、数人の生徒の姿が目に入った。女一人に男一人だ。


「あ、あのすいません!」と、速度を落として話しかける。

「ここら辺で、カバンを見ませんでしたか?」

「「カバン?」」と、おうむ返しに聞き返す生徒たち。

「はい……カバンです」

「どんなカバンだ?」


 並んでいる二人のうち、右にいた男が、俺にそう聞いてきた。


「えっと……あれ、どんなカバンだろう……」


 言われて初めて思い出した。この学校には指定のカバンはなく、自由である。つまり俺は、綾瀬がどんなカバンを持っていたのかすら分からない。

 もしかしたらカバンではなく、リュックの可能性だってある。


「どうした?」と、男は訝しげな顔で俺に言う。

「あの……綾瀬、希美という、俺のクラスメイトのやつが、カバンを落としたそうで……」


 こう説明する他なかった。

 いい具合に身体は温まってきて、俺の頬は赤くなっているかもしれない。


「綾瀬希美? ていうかお前、俺たちのクラスメイドじゃん」

「え……?」


 言われてみれば、こんな男がいた気がする。黒髪短髪で、身長は俺より小さい。あんまりこれと言った特徴がないけれど、細く整えられた眉毛が印象的だ。

 今度は男の隣にいた女子生徒が言った。


「あ、そういうえばそうだね。えーっとなんだっけ? 舘林だっけ?」

「そうですけど……」


 やっちまったな。

 無我夢中で走っていたから、顔なんてまったく見ていなかった。クラスメイトと仲良くする気はなかったけれど、話をするつもりもなかったけれど――やってしまった。

 いや……別に今回だけ、ほんの少し話す程度なら、何も問題はないだろう。

 汗ばむ頭皮を掻きながら、俺は伏せていた視線を元に戻す。

 男は言った。


「まあ、いいや。それで舘林、なんでお前は希美のリュックを探してるんだ?」


 なんだやっぱり、カバンではなくてリュックだったのか。


「落としたって、綾瀬が言ってるからです」

「いや……希美が落し物するのはいつものことだ。そうじゃなくて、なんでお前が希美のリュックを、わざわざ、探してあげてるんだよってこと」


 わざわざ、か。

 それこそわざわざ、この男はそこの箇所を強調して言ってきた。どことなく喧嘩腰ではあるけれど、それは仕方がない。あれほど綾瀬に酷いことを言ったのだから、他のやつらは俺のことが気に入らないのだろう。


「ちょっと祐樹ゆうき、なんでそういう言い方しかできないの? 舘林は希美のリュックを探してくれてるんだよ?」


 余計なフォローを入れる女子生徒をしり目に、俺は言った。


「あ、いや。別に平気です。それで結局、綾瀬のリュックは見かけましたか?」

「見かけたも何も、希美のやつ、机に置きっ放しだったからな。ほら」


 言って、男は背中をクルリと俺に向ける。そこには、男が背負うには相応しくない、可愛いクマの人形がぶら下がったリュックが。


「……そうですか。あったなら、良かったです。それじゃあ」


 恩着せがましいことを言いたいわけではないけれど、俺の苦労を返して欲しい。バカみたいに走って損をした気分だ。

 特にこれといった話をするつもりもなく、俺はそのまま元来た道を引き返して行く。


「たてばやしぃー、あんた意外と、良いとこあるじゃーん!」


 後ろからの声は、聞こえなかったことにしておこう。

 とにもかくにも。

 転校初日から俺は、厄介な田舎者に引っ掻き回されるのであった。

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