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陣より出しは至高の乙女 3

 飲み込まれそうになる感傷を振り切るように首を振った後、佳乃はもう少し質問を続けることにした。まだ確認しておかなければならない事柄がある。


「ところでさ、この国って今は貧しいの? 豊かなの?」


 佳乃はそれなりに裕福な家庭で育ってきた。さすがにスイッチを押せば明かりが点いて、蛇口を捻れば水が出る現代的な生活までは期待しない。何せ周囲を照らしているのは蝋燭の火だ。

 ルキウスや、顔が見えない他の人間の時代がかった服装、機械的な物が何も置かれていないこの場の様子から判断するに、洗濯するにも結構な労力を使うレベルの文化水準なのではないだろうか。

 もちろん、こういった儀式など特別な場合だけ昔ながらの様式を踏襲しているという可能性も、充分にあるのだが。まあ、心構えだけはしておこう。


 しかし王妃という豪華な役職とは名ばかりの、継ぎをあてた衣服、スープに野菜の切れ端が浮かんでいるような食生活などはさすがに遠慮したい。さらには食い扶持を稼ぐために自ら農耕作業に従事するなんて、考えただけで嫌になる。身体を酷使する労働なんて、佳乃はしたくないのだ。

 佳乃の質問に、項垂れていた麗人は急いで顔を上げ、満面の笑顔で応えた。


「我が大陸、通称アル=ロディナ北部には幸いなる女神ロディナの象徴とされる神山、フォツナオが鎮座ましましています。太古の昔から活動を続ける火山であり、その恩寵のおかげをもちまして、作物はよく育ち、身体にも良いとされる湯水が至る所にわき出ております。沿岸部に位置する王都は海の幸も豊富。また、学業の推進にも力を入れており、中央の学舎では全世界から集まってきた留学生が勉学に励んでいます」


 なんだかいいことばかり並べ立てられているから妙な団体の勧誘に遭っているような気分になってきたが、学校がある、というのは面白そうだ。しかしそれよりも何よりも。


「温泉があるの!?」

「はい。国の主な観光収入にもなっておりまして、施設も充実しています。あなた様にもぜひ入っていただきたい」


 温泉好きの佳乃としては、かなり魅力的なお誘いだ。


「じゃあ、あともう一つ。戦争ってやっぱある?」


 この点が一番の懸念事項だった。

 平和ぼけした日本人である佳乃は、戦乱の世というのに馴染みがない。テレビからは紛争地帯のいたましいニュースが流れてきたりはするが、所詮は対岸の火事としか思えない。ただ、教科書で習った太平洋戦争や映像で見る殺戮兵器の傷跡。逃げ惑う人々や親を亡くして泣き叫ぶ子供。全く現実感は乏しくても、想像だけはできるのだ。

 やはり、戦争には関わりたくない。

 様子を窺うと、ルキウスは口元をやや固くした。


「残念なことに、戦はあります」


 ルキウスの答えを聞いて、佳乃はすぐさま帰らせていただきます、ときっぱり言い切ろうとした。


「で、ですがお待ちください」


 その気配を敏感に察知したのか、ルキウスが慌てて手振りで押し止めようとする。――知的で端正な人間にはもっとどっしり構えていてほしいのだが。乙女の夢を壊さないでほしい、と佳乃は頭の片隅で身勝手な文句を垂れつつ、ひとまずは続きを聞くことにした。


「我が国ロミアは大陸アル=ロディナの中で最も大国です。ここ何代かは無用な争いを好まない王が就かれました。いたずらに版図を広げて戦火を増やすことを厭った代々の王の、英明なご判断です。しかし知恵ある強い生物ほど、矮小な動物から短慮を起こされやすいのも事実。国同士の戦、国内では領地間のいざこざを陛下は平定なさいます」

「じゃあ、私やっぱり」

「しかしですね!」


 潔く断りの言を入れようとすると、ルキウスに遮られてしまった。


「我が国は軍事的にも最強を誇っております。他国に攻め入られようと、所詮は降りかかる火の粉を払う程度のもの。大体が国境での小競り合い程度で済む戦ですので、あなたのお心に影を落とすような事柄ではございません」


 佳乃は腕を組んでうーんと悩ましく考えた。絶対なものなどない。どれほどの武力があろうと、他に類を見ない大きな国であろうと、滅ぶときは滅びる。そう世界史でさんざん学んできた。

 それにいくら安全を保証されるとはいえ、佳乃が楽しく食事をしている一方で、国境では同じ国にいる人間が、命を賭けて戦っているという状況になるのだ。それは人道的にどうなのだろう。きっと、志願して赴く者もいれば、やむにやまれぬ事情で巻き込まれる者もいる。


 佳乃は自分の思考のあざとさに、少しだけ眉をしかめた。それは、日本でニュースを無感動に眺めていることとどう違うのか。同じ国の人間だろうが、知人でなかろうが、命の重さは同じはずなのに。多分佳乃は一応の罪悪感を抱いて、無事な位置にいる自分を正当化しようとしている。

 こういう考えを偽善というのではないだろうか。


 ふと気付くと、上から降り注ぐ光の角度が変わっていた。円陣からずれている。思いついて見上げると、天井の丸窓からは夜空が覗いていた。月と思しき光源は僅かに位置を変え、奇妙な楕円になっている。

 ここに来てからまだ一時間も経っていないはずだ。その間に、随分と色々なことを考え、嫌な自分の姿を垣間見させられたような気がする。

 これから先、ここにいるとさらにこんな気分を味わうことになるのだろうか――。


 佳乃は一度目を閉じ、仰け反らせていた顎の位置を元に戻した。限界まで息を吸う。

 おもむろに両腕を広げて次の瞬間――思いっきり手を打ち鳴らす。

 物凄くいい音がした。かなり痛い。気合いを入れるのに頬をバチンと叩く場面を見ることがあるが、顔にダメージを与えたくはない。


「若いくせに、なに辛気くさいことばっか考えているんだか!」


 吐く息で、喉を振り絞って叫んだ。少し息が上がる。手がじんじんする。

 映画館で目を閉じて開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 じゃあ今は。佳乃の未来は。


 心を決めてまぶたを開くと、ルキウスが降り注ぐ光越しに、仰天したような表情でそこにいた。そんな面持ちでもなお美しいこの顔は、もう見知らぬ顔ではない。

 陣を出て、外の世界を見てみたい、と佳乃は思った。


「一体どうなさったんですか」と思案気に訪ねてくるルキウスに、佳乃は何もかもを吹っ切った、満面の笑顔で答えた。


「決めた。ここに残るよ」


 ここで鬱々あれこれ考えても仕方がない。若者は、行動あるのみだ。

 かなりやぶれかぶれではないかと自分でも若干の不安はあるが、佳乃は心の衝動に従うことにした。

 ルキウスが、おお、と感極まったような声を漏らす。


「では、この書類をよく読み、サインをお願いします」


 次の瞬間いきなり事務的に渡されたファイルを目にして、佳乃は鼻白んだ。ルキウスがふところに忍ばせていたらしい。高級感溢れる革製で、芯が入っていて硬い。開くと、何枚かに渡る文書が挟まっている。

 もう少し、感動を持続してくれてもいいではないか。若干の不平を胸中で零しながら、一緒に差し出された羽ペンを受け取る。書類もペンも陣の内側に入ってくるが、ルキウス自体はそうではない。やはり、今この内側には佳乃だけしか存在できないらしい。

 まあ、どうでもいいんだけど。そう思いながら、書面に目を通す。


 婚姻契約書

 現ロミア国王(以下甲という)、招来の陣より現れし者(以下乙という)とは、下記の通り契約する。


 そこには、サインするともう元の世界に戻れないこと。サインした時点で王の伴侶と見なされ、婚姻が成立するということ。離婚は認められないこと。生涯この国に属すること。

 その他諸々が、分かりにくい単語と言い回しでずらずらと明記されていた。


 一介の女子高生が契約文書に接することなど、普通であればまずないだろう。ご多分に漏れず佳乃もそのクチで、なんとか内容は理解できたような気がするものの、書面から漂ってくる物々しさに、ついサインを躊躇ってしまう。

 なるほど、口約束では敵わない拘束力のようなものが感じられる。よく契約書とは大事な物だと聞いたことがあるが、身を以て実感したと佳乃は思った。

 でもさ、そんなことよりもさ。


「あのさ、結婚ってこんなにあっさりしたもんなの?」


 文字の羅列から目を離すと、知らずに質問が口を突いていた。

 佳乃だって結婚にはそれなりの夢を抱いている。純白のドレスを纏ってバージンロードを粛々と進み、神父の前で誓いを立てる。俯きがちな佳乃のヴェールがそっと上げられ、目の前で微笑むのは――

 まあ佳乃はカトリック教徒ではなくて無宗教であるし、相手の顔も想像できないのだが、いくらなんでもサイン一つで済まされてしまうというのはあんまりではないか。

 いささかの不満と不安を滲ませる佳乃に、ルキウスが安心せよというように請け合う。


「もちろん、婚姻の儀は後日国を挙げて盛大に執り行われます。事前にサインしていただくのは、異界の乙女のお立場を明確にしておくためと、何よりもこの世界の人間になっていただくためです。今のままではあなたは、陣より外へ出ることができませんから」


 佳乃は思わず視線を下げて円陣をぐるりと目でなぞった。では、陣のこちらとあちらでは、同じ空間に存在しながら世界が隔たっているということか。

 試しに腕を伸ばすと、おや。陣の内側なのに、月の光より向こうに抜けられない。水が詰まった透明の壁を押しているような感触がする。

 佳乃は天井を指さして首を傾げた。


「もしかして、この陣とやらが機能しているのは、月の光が差している間限定?」

「申し上げていませんでしたが、その通りです」


 だったら早く教えてくれればよかったのに。そう言おうとして、そうか、と佳乃は気付いた。ルキアスのことだ。なるべく急かしたくなかったのだろう。

 もう何度目になるか、ルキアスの気遣いに佳乃は感心した。


「分かった。色々質問しちゃってごめんね。もう書くから」


 ルキアスに感謝と共に笑いかけ、佳乃はペンを構えた。革のファイルが下敷き代わりになる。羽ペンは幸いなことに、中からインクが出てくるタイプだ。いわゆるつけペンなんて使ったことがない。

 紙にペンが触れる瞬間、少しだけ躊躇った。これが引き返す最後のチャンス。もう後戻りはできない。

 しかし家族の顔が浮かんできた瞬間佳乃は、ええい、と一息に慣れ親しんだ名前を書き上げた。


 ――さよなら。父さん、母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん。


 何がしかの感慨が走る間もなく、次の瞬間何かが総身を突き抜けていったと佳乃は感じた。明確な感覚ではない。しかし、今までとは何かが違っている。

 言葉では説明しにくい。匂いは変わらない。敢えていうとすれば、肌に触れる空気。吸い込み、肺に溜まった時に身体が覚えていた感覚。だがしかし、その違和感も、感じたこと自体が錯覚だったのではないかと思えるほど次の瞬間には消えていた。

 真面目な顔をしているルキウスと視線を交わし、恐る恐る陣の外へ足を踏み出す。

 線を越える。足が出た。


 突然、周囲にガツーンと甲高い音が響いた。瞬間、火花さえ見えた。どうやら、ルキウスが持っていた金属の杖で床を力一杯打ちつけたらしい。

 いきなりなんなのだ、と驚いてルキウスを見ると、その当人が鋭く叫びだす。


「皆の者、新たな王妃がここに誕生した!」


 その声を合図としたように、周囲の明るさが段違いに増えた。どういう仕掛けなのか、壁の高い場所のランプも灯っている。歓声が上がり、佳乃は辺りを見渡した。そして驚愕に目を瞠った。

 明るくなったおかげで、今まで顔が見えなかった他の人間の造作も分かるようになった。十数人ほどだろうか。男も女もいる。


 そしてなんと。ルキウスほどではないものの。

 全員が標準以上。整った顔の持ち主。


 実は、この国には美形しかいないのだろうか。それとも、日本人から見れば、西洋人種は皆見目良く感じられるというが、その類なのだろうか。

 しかしまあ、なんでもいい。要するに、佳乃自身がどう思うかが大切なのだ。

 これは、彼らを統べる王、彼女の夫になる男の容姿にも、充分期待が持てる。

 佳乃は内心で大いに喜び勇んだが、それをそのまま表にだすのはさすがにはしたないと思い、上品に見えるよう微笑む程度に留めておいた。


「ファイルをお貸し願えますか?」


 ルキウスの要請に応じ、契約書類を手渡す。


「さすがお姿だけでなく、お書きになる字も美しい」


 中身のサインを確かめていたルキウスが大袈裟に感嘆の息を漏らした後、問い掛けてきた。


「こちらの読みは、《みながわよしの》様、でよろしいのでしょうか」

「ああ、そういえば私、名乗ってなかったね。そうだよ、よろしくね――って!」


 答えている内に、ルキウスが口に出した言葉の意味について思い当たり、信じられない思いで佳乃は目を剥いた。


「どうして読めるの!?」


 佳乃はこのうえなく日本的な小難しい契約書につられて、自分の名前を書き慣れた漢字で綴った。いや、例えアルファベットで書いたとしても、とても通じるとは思えない。

 混乱しそうに疑問で一杯の佳乃に、ルキウスが誇らしげに応じる。


「代々の王妃が操られる言語です。理解するのは王宮に仕える身としては当然のことかと」

「え? 代々の? っていうか、だったら不思議な力が働いてルキウスの言葉が分かるようになってるんじゃなくて、日本語で喋ってくれてるってこと? その文書も、漢字と平仮名と片仮名で書かれてあるの?」


 先程上がっていた歓声も、「新たな王妃万歳」だの、「我が国へようこそ王妃」だの片言でない、流暢な日本語だった。ルキウスなど、ネイティブ日本人と断言しても差し支え無い見事な丁寧語だ。

 脅しつけてでも聞き出したい事柄が頭から溢れるほどあった。

 だがしかし、佳乃はそれどころではない状況に気付いてしまった。いや、思い出したと表現する方が正しい。


 ある意味この世界に喚びだされることになった原因。

 自分自身のことでありながら、佳乃の意志ではどうしようもない、のっぴきならない生理現象。


「ルキウス。あのさ、いきなりでとっても申し訳ないんだけれど」

「はい。どういたしましたか」


 ああ、うら若き早乙女が、こんな美形に囲まれながら、どうしてその筆頭と言っていいとびきりの美貌の異性にこんな情けない事情を打ち明けなければならないのか。

 顔から火が出そう、とどれほど内心で壁に頭を打ちつけようと、自然の摂理は待ってくれないわけで。

 もう我慢出来ない。

 佳乃は恥を忍んでとうとう尋ねた。


「お手洗いどこ!?」


 こうして佳乃は、これまで己を育んだ世界に自らの意志で別れを告げた。

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