陣より出しは至高の乙女 2
佳乃は両親、兄、姉の五人家族である。
末の娘であり、さらには上の上とまではいかないが、上の中程度の容姿に恵まれ、家族の愛を一身に受けて育ってきた。
そのような場合、普通であれば私が世界の中心、とばかりに思い上がった性格になりそうであるものの――実際結構な心根を持っているのだが――彼女はおつむの出来もなかなかによろしかった。
如何なる時でも正直な心の内をさらけ出すのが美徳とは限らない、と人と接する上で学び取り、相手を不快にさせない振る舞いを常に心掛けてきたのだ。
その為、高校でも異性間で適度な人気を誇り、同性からの反感を買わずに済んでいる。
人生で一番肝要なのは出会い。佳乃はこれを信条としている。彼女は欲張りな一生を送りたかった。一部上場企業に就職して第一線で働きたかったし、結婚をして子育ても楽しみたい。もちろん結婚相手は顔も頭もよく、経済的にも潤っていなければならない。
日本は学歴社会だ。佳乃の夢を叶えるいい出会いは、会社も結婚相手も一流大学の向こうで待っている。
両親も、兄も姉も一般的な水準よりは高いレベルに位置し、スタート地点の出会いは申し分ないと佳乃は思っている。あとは自らの努力次第。幸いなことに、彼女は努力する才能にも愛されていた。勉強だけでなく、陸上部で部活にも励み、容姿も磨くよう心掛けてきた。
やはり、神様は精進する者を見ている。いや、この場合は女神様か。
一国の王などと、最高の出会いではないか。
異界の人間に頼ろうとする根性にはいささかもの申したい気もするが、昔からの慣習であるのなら、要するに験担ぎのようなものなのだろう。神社に行って、お守りを貰ってくることと同じようなものだ。勇者扱いして魔王を倒してこい、というわけでもないし、選択がこちらに委ねられるというところもポイントが高い。
様々な考えを思い巡らし、佳乃は胸の中で快哉を叫んだ。
――異世界の女神ロディナよ、よくぞ私に目を付けた!
不安定な板の上で行きつ戻りつする佳乃の心というボールは、既に承諾という穴に向かって転がりつつあった。
佳乃が内心で盛り上がっている一方で、黙ってしまった彼女が不安と心細さの中で言い淀んでいるとでも勘違いしたのだろう。分かります、と言いたげにルキウスが微笑を湛え、説得の言を開始しだす。
「国であるばかりか世界までを隔ててしまうのです。ご婚儀が成れば、ご家族にお会いすることも不可能となります。さぞかしお寂しいことでしょう。しかし陛下は賢く雄々しく優しいお方。必ずや妃となられるあなたを大きく深い愛でお包みになり、心の充足をお約束下さいます」
「あ、別に寂しいとかそういうのは構わないんだけど」
震える子猫を懐柔するような表情と声音で諭そうとするルキウスに、佳乃はあっさり言い返した。期待はずれなリアクションをとられた当人が、聞き間違いではないかというように目を見開く。
だって、お嫁に行くようなものだもの。
そんな風に佳乃は割り切っていた。それはもちろん佳乃もまだ十八歳の女の子。愛する家族と離れるのは辛い。知り合いの一人もいない地で、覚束ない気持ちは確かにある。
しかし、例えば外交官と結婚したら、ほぼ日本にはいられなくなる。夫が携帯電波の届かない地に赴任することもあるだろう。それに、望む望まないに関わらず、事情で家族と会えない人間などどこにでもいる。
これは間違いなく奇跡的な確率で巡ってきたチャンスだ。自分の努力で引き寄せられる類ではない、難関大学を突破するよりももっと小さな可能性の先にある出会い。
幼児でもあるまいし、心細いなどという気弱な理由で台無しにしては、この先後悔の海に沈んでしまうに決まっている。
世界を跨ぐなど、何も特別なことではないのだ。重要なのは、覚悟を持って決断できるか否か。
とはいえしかし。
未だに戸惑い気味なルキウスに、佳乃は気がかりを口にした。
「私の方はね、別にいいのさ。自分で自分の状況が分かってるんだから。でもさ、家族とか友達は知らないじゃない? 私がどこへ行ってしまったのかとか、無事でいるのかどうかだとか。多分、このまま帰らなかったら警察騒ぎになると思うんだ」
別れたばかりだから、彼氏はいない。でも、映画館の座席で佳乃の帰りを待っている友人や、何より家族を泣かせるのは嫌だった。心構えが無い分、置いていかれる方が置いていく方よりも、確実に悲しみが深い。
「そういうのの対策って、何かしてくれんの?」
返答次第では、考え直そう。さすがに佳乃もそこまで人の気持ちを無視した行動は取れない。
佳乃が懸念を込めて見上げると、真顔になったルキウスが深く頷いた。なんとなく、佳乃が真っ当な人間らしい情を覗かせたことに、安堵しているような気配を漂わせている。
ちょっと私を誤解してないか?
弁明したい気分になった佳乃だったが、ルキウスの返事を早く確認したかったので黙っておくことにした。
「やはり女神がお選びになった乙女。お優しい方だ。歴代の王妃たちの中にも、ご家族を案じる方はたくさんいらっしゃったようです。ご安心を、と申し上げるのが妥当かどうかは分かりませんが、王の伴侶となる決意をされた場合、ご結婚の誓約書へサインしていただきます。証として招来の陣は消え、それと同時にあなたの世界での、あなたが存在したという痕跡は全て抹消されます」
抹消……と佳乃は口の中で呟いた。
応じるように、ルキウスが少しだけ目を伏せる。
「ご家族やご友人、そしてお知り合いの記憶はもちろん。あなたがお使いになっていた食器や文房具、写真に写る姿まで、何もかもが消えてなくなる。もしくは人々の間で都合良く改竄されます」
家族からも、友人の中からも、佳乃という人間はいなくなる。初めから、世界に無かったかのように。
自分から離れようとしておいて、佳乃は思わぬショックを受けていた。まるで煙のようだ、ともやがかかったような頭で考え、すぐに否定した。煙なら、風に吹かれて散っても香が残る。では、消しゴムで擦られた文字ではどうだ。これも、消しカスが残る。
ああ、パソコンのデータだ、と思い至った。デリートするだけで1と0の羅列が全て0となり、すぐさま他の1と0に上書きされる。佳乃が存在しない世界の出来上がり。
一抹の寂しさを覚えた次の瞬間、しかし佳乃の頭は霧が払われたように晴れた。
上等だ。それどころか、都合のいい話ではないか。
身勝手の結果だ。佳乃が心許なくなる資格などない。
一度頭をブンブンと振り、佳乃は湿っぽい気分を追い出した。
でもちょっと待てよ?
一つ疑問が思い浮かび、ルキウスに視線を合わせた。見返す彼の目には痛ましそうな光が映っている。佳乃の心中を慮っているのだろう。やはり、性格のいい人だ。
「生存痕跡の抹消って、どうやって分かるの?」
ルキウスが、首を傾げた。
「どうやって、とは?」
「だって、家族とか友達が私のことを忘れるって、確認できるの?」
「……できませんね」
なんだそれは、と佳乃は腰に手を当ててルキウスを睨め上げた。ルキウスが形のいい眉を下げ、困ったような表情をする。
「申し訳ありません。これについては確認のしようがなく、代々の伝承を信じるしかない状態で。女神の大いなる御技だと」
「伝承って、マニュアルみたいな物があるの? 私みたいのを呼びだす手順とか、その際の注意事項とか」
「はい。王が世代交代するたびにこの儀式は執り行われております。どの王も例外なく妃に異界の乙女を迎えられました。もう百を下らぬ回数になりますから、マニュアルは詳しく正確なものです」
「回数を重ねて補強できる事柄は詳しくても、確認しようがない部分については最初のまんまなんでしょ?」
佳乃が鋭く指摘すると、ルキアスは面目ない、というように項垂れた。
だがまあ、仕方がないか。
楽観的に構えていいのかどうか迷いはあったが、あれこれ思い悩んでも仕方がない。実証できないのだ。しょぼくれているルキウスをこれ以上糾弾する気にもなれず、佳乃はこの件について考えるのを止めることにした。
尋常でない美を持つ者は得だと佳乃は思った。
そうでない人間がするよりも確実に、憂う姿が胸を打つ。例えあちらに非があろうとも、柳眉を曇らせてしまったこちらが悪かったのではないか。などと大目に見る理由を探ってしまう。
人を魅了する美とは、正否の基準を問答無用で叩き壊す、そんな力を指すのだろう。
ふざけた思考で誤魔化しながらも、佳乃は自覚し始めていた。
例え大切な家族や友人を悲しませても、己を煙に巻くような口実を見つけてでも、この世界に残ろうとしている自分がいることを。
きっと私は冷たい人間なのさ。
後ろめたさから逃れるように、佳乃は心の中で嘯いた。