陣より出しは至高の乙女 1
皆川佳乃が目を開けると、そこには夢でもお目にかかったことがないような、美しい男が立っていた。
私は映画館にいたんじゃなかったっけ? と先程までを思い出す。
話題の、ハリウッドの超大作。途中で席を立つのは嫌だったが、どうしてもトイレを我慢出来なかった。コーラが祟ったらしい。欲張ってLサイズなんかにするんじゃなかった。迷惑そうな他の客の間をすり抜け、続きも気になるしで焦りながら佳乃は重い扉を開いた。暗い館内から明るい通路へ。一瞬目が眩み、まぶたを閉じた。
そして彼女は今、理解できない状況に立たされている。
やけに友好的な笑顔で自分を見返す男から目を外し、佳乃は周りを見渡した。
まず目に飛び込んでくるのは巨大な円柱。部屋、というにはあまりにも広すぎるこの空間の左右両端に、等間隔に並んでいる。優麗な模様を刻み込まれた円柱を辿りながら見上げると、支えられているのは遥か高い場所にある天井だ。
円蓋形の天井には幾つもの絵画が規則正しく嵌め込まれている。ここから眺めた限りでは、それぞれが書道の半紙ほどの大きさにしか見えないが、それはこの場所が広すぎるからだろう。実際には、両手でも抱えきれないほど大きいに違いない。ギリシャ神殿のようだ。実際に見たことはないが、イメージ的にその言葉が浮かぶ。
パズルのように並んだ絵画に取り囲まれているのは、円を描く眩しい光だった。そう思ってから、佳乃はすぐに気づいた。あれは円形の窓だ。外の光を取り込み、集約し、佳乃だけを真っ直ぐに照らし出している。
そういえば、と佳乃は天井に向いていた顔を戻し、また辺りを見渡した。ここにはあの丸窓の他、外の景色を映す物がない。だからだろうか、全体に薄暗い。補うように佳乃と同じくらいの背丈の燭台が至る所に配置され、それぞれがゆらめく灯りを精一杯に投げかけていた。
前方の男以外にもこの場には何人かいるようだが、皆燭台より背が高く、顔がよく見えない。映画で見る修道士が着ているような、ダボッとした服装をしていることだけは分かった。
円柱の向こう、石造りの壁には人物の様々な場面が描かれている。歴史画だろうか。蝋燭の火の中で、頼りなく浮かび上がっている。振り返った佳乃の背後、その向こうには光源が置かれていないらしく、闇しか見えなかった。
首を戻して前を見ると、二歩分先に煌びやかな男が相変わらずの笑みを浮かべている。佳乃に話しかけるでもなく。こちらから言葉をかけてみるべきか、そう思ったところで、目端が石床の模様を捉えた。
見下ろし、佳乃は円形の模様に取り囲まれている自分に気づいた。この場所には、円ばかりがある。頭の隅でそんなことを考えながら、記号化されたわけの分からない文字、複雑に交差する線を目でなぞる。全体的に、頭上から降り零れる光と丁度同じ大きさをしている。
男が着ているズルズルしたローブのような衣服の裾が、円陣の外に見えた。この中に入ってこられないのか、それとも意図的に入ってこないようにしているのか。ふと思い立ち、佳乃は光を受けるように両手の平を開いた。暑くない。注がれているのは太陽ではなく月の光? 建物内自体が暗くて分からなかったものの、今は夜なのかもしれない。窓に光以外が映らないということは、月が頂点に座しているということか。少しでもずれていれば、夜空が覗くはずだ。
とりあえず、佳乃は今の自分の状況を客観的に考えてみた。神殿のような場所。ファンタジーにでも出てくるような魔法陣の中に、ただ一人、スポットライトのような光を浴びて神秘的に佇んでいる自分。佳乃は顔を上げて、改めて目線の先にいる男を見た。
灯りなどなくても、自らの内から輝いているような男だった。年の頃は多分、二十代前半。背は身長百六十五センチの佳乃よりも頭一つ分は高い。佳乃は自分が光の中にいる上に、薄暗いから髪や目の色ははっきり分からなかったが、色彩が濃い系統でないことは判断できた。裏付けるように目鼻立ちはアジア人種のようなのっぺり顔ではない。しかし欧米の人ほどくどいわけでもない。ハーフの、透き通るような印象を抱かせる。
手にはいかにも儀式用だというような、長い金属製の杖を携えている。額には銀環をはめており、人差し指の爪ほどの丸い宝石が輝いている。エメラルドだろうか。緑、だということはかろうじて見て取れた。とてもよく男の美貌を引き立てている。髪は長く、一本の三つ編みにして肩から前に垂らしていた。胸の辺りまである。
男で長髪の人間が佳乃は苦手だったが、認識を改めた。今まで生きてきて十八年、自分にはやはり知らないことが山ほどある。世の中には、不潔感を抱かせないどころか、それがこの上なくハマっている男性もいるのだ。
やはり思い込みは自分の世界を狭くさせる、と佳乃が自分を戒めながら前にいる美麗な男に意識を戻すと、迎える笑みが一層深まる。
自分の存在全てを受け入れようとする表情に、佳乃は確信を抱いた。
私は、選ばれた人間というやつなのではないか。
心が浮き立ってくるのを感じていると、佳乃の様々な思考過程を観察してそろそろいいとでも思ったのか、男が完璧に弧を描く唇を開いた。
「突然のお喚び立て、謝罪の言葉もございません、異界のお方」
異界、という単語に佳乃はやはりと予想の正しさを知った。
しかしそれはひとまず頭の隅に追い遣り、彼女はもっと大切なことに思いを巡らせた。
見目の好い人間は声も期待を裏切らない。これでダミ声を出されていたら、興ざめだったろう。そしてこの短い始まりの言葉だけで、佳乃は男に知性を感じた。声のリズム、抑揚。語彙は知識の広さが関係してくるが、喋り方にはその人間の品位すら表れる。極上にランク付けしてもいい、と佳乃は心のメモに刻み込んだ。
そんな佳乃の思惑を知ってか知らずか、男は口元だけではなく、目元にも笑みを浮かべたまま続ける。ますます好印象。
「まずは自己紹介を。わたくしの名はルキウスと申します。以後、わたくしのことは名前でお呼びください」
よろしいか、と確認するように頭を傾けられ、佳乃はコクリと頷いた。
「さて異界のお方、色々と戸惑われることも多いかと存じますが、いまからご説明申し上げますのでまずはわたくしの話をお聞きください」
今度は目線で問われ、再び頷いた。拝聴しようではないか。現状を認識しなければ、何も行動を起こせない。
佳乃の応えにありがとうございます、と軽く頭を下げてから、男が説明を開始する。
「この世界はその名をアルケイディスと呼び習わされます。天上神イディスが女神ゼアと共に織り上げた布に息吹をかけ、生命を与えられて誕生した、と古書には伝わっております。全ての祖となる二神は、七柱の神を産み出されました。わたくしどもは敬意を込めて親和七神とお呼びしております。いずれも仲の良い姉弟神は世界の普く隅々に降臨なされ、各々六つの大陸の神として崇められていらっしゃいます。この国は親和神が一柱、火と山を司る三の神、ロディナ女神を讃えるロミア王国です」
「ちょっと待って」
相手が下手に出てくれているせいか、敬語を使う気にはならなかった。それでもチラリと様子を窺うが、特に不快な顔はされなかったので、佳乃はこの口調で進めることに決めた。
いきなりごちゃごちゃ神様の名前を出されたって、頭がおいつかない。古代史やら倫理の授業ではあるまいし、カタカナの名前は脳に刻みにくい。この世界はアルケイディスで、国はロミアという名前。どうやら王政らしい。ファンタジーのお約束っぽい。やはり日本ではないのだな、と佳乃は実感した。
頭で情報をまとめた上で、佳乃は特に重要でないものの、気になった点を質問することにした。
「説明を途中で止めてごめん」と前置きすると、ルキウスがとんでもない、と返す。「地上に降りた神様は七人いるのに、大陸は六つってなんで?」
ほんとどうでもいいことだけど、と佳乃が心の中で呟くと、ルキウスは見透かしたように首を振る。
おだやかに答えてくれた。
「第五神、第六神は双子のご兄弟なのです。二柱の神は特に仲がよろしく、同じ場所で留まることをお望みになりました」
なるほど、と頷く佳乃にルキウスが微笑む。
「お気づきになった点は、わたくしが話している最中でも気にせずどんどんご質問ください。ご興味を抱かれた内容を知ることが、理解への最も早い道のりです」
性格もいいなぁ、この人。頭が良くても顔が極上でも、やはり性格が悪かったら人間はお終いだ。佳乃は自分の人格の程度は棚に上げ、普遍の真理を実感した。見知らぬ場所に放り出された少女の心細さには、この優しさが効く。
「では続けましょう。降臨された女神ロディナはこの地の若者と恋に落ち、二人は固く結ばれました。その若者こそが初代ロミア王、ガイアス一世です。お二方は一世陛下が冥府に旅立たれるまで四百年、よく国を治められました。戦もなく、人が飢えることのない平和な御代をお造りになったの――」
「ちょっと待った!」
佳乃は手で押し止めるようにして、まだ続けようとしていたルキウスにストップをかけた。先程自由に訊いて構わないと許可をもらったこともあり、遠慮はしないことにした。
「四百年って、あんたら寿命どんだけ長いの」
「ああ」
ルキウスが事も無げに言う。
「わたくしどもの寿命は長くても百年ほどです。今お話申し上げているのは、あくまで神話の時代の事柄です」
なんだそうなのか、と佳乃は拍子抜けした。確かに神話なら、なんでもアリだ。
彼女が納得した様子を見届け、ルキウスが説明に戻る。
「一世陛下がお隠れになった後、女神ロディナは天に帰還なさいました。その後お二方の間に産まれた王子が後を継がれましたが、政治は上手く機能せず、人心は乱れ、国は荒廃しました。さらに二代を経ていよいよ国が滅ぼうとした時、民の嘆きを一身に背負った祭司が祈りを捧げると、どうでしょう」
いきなり質問を投げかけるように、ルキウスが目を覗き込んでくる。ルキウスの勢いに押されて一歩後ずさりながら、佳乃は心の中で言い返した。いや、どうでしょうと言われても。
「女神が降りてきたとか?」
たじろぎながら答えると、ルキウスは得たり、というように首肯した。まあ、パターン的にそうだろう。
「降臨なされたロディナ神は新たに神殿を建てるよう、祭司に告げました」
ここまで聞けば、何も知らない佳乃にも薄々事情が飲み込めてくる。
考えを、口にしてみた。
「もしかして、その神殿とやらがここだったりして」
「ご名答」
「そんで、この魔法陣みたいのに、満月の晩とかに女の人が現れたんだったりして」
「これは素晴らしい」
「おかげで国は栄えて、代々の王様はこの魔法陣から出てきた女の人を娶る習わしができたとか?」
佳乃の言葉を最後まで聞いたあと、ルキウスは感無量、とばかりに尊敬すら窺わせる眼差しで、彼女を見つめてきた。自分の思考に陶酔するように、早口で喋り始める。
「一を聞いて十を知る賢知。可憐な花の精にも似た美しさ。陣の内より現れ出しは国を導く至高の乙女。女神降臨の栄誉を賜った家系に生まれついたものの、わたくしごときが国母たるお方をご招来できるのだろうかと不安ではあったが」
ルキウスがわたくしごときだったら、大方一般の人間なんて虫けらなのではないだろうか。捲し立てる綺麗な男の剣幕に戸惑いつつも、なんとも謙虚な人だ、と佳乃は感心した。映画や漫画なんかで使い古された設定を言ってみただけなのだが、ここまで感動されればそれはそれで気分がいい。誇張しすぎだが、美しいと言われたこともまんざらではない。
佳乃が内心で増長していると、ルキウスが身を乗り出さんばかりに問いかけてくる。
「そこまでお分かりなら話が早い。どうか、わが国の王、ガイアス五世陛下の妃になってはいただけないでしょうか」
「私が嫌だって言ったら帰してくれるの?」
「それはもちろん。こちらとしては残念極まりないですが、あなたという人間の一生がかかっています。無理強いなどしてはならないことです。しかし、できることならば――」
懇願するようなルキウスの視線を受けながら、佳乃は今までの自分を振り返った。