番外編(其の二) コマの小さな恋
――これは、まだ錬が渚と出会うよりも少し前、とある静かな村で起こった物語である。
静けさに包まれた東の空に、少しずつ朝の光が差し込み始める午前六時頃。冷たい朝風が吹き抜ける境内の階段を、一枚の半紙がゆっくりと登っていた。
ひらひらと風に舞うのではない。まるで明確な意志を持って自らの足で歩んでいるかのように、一段ずつ着実に登っていく。
階段を登り切り、静まり返った境内の前にたどり着いたその瞬間――半紙が眩い白い光を放った。
光が収まると、そこには一枚の紙ではなく、小さな生き物が佇んでいた。犬のようでもあり、どこか狐のようでもある、ふんわりとした真っ白な毛並みを持つ小さな妖だ。
「見ーちゃった」
不意に背後から声がした。振り返ると、境内の大きな木のかげから五歳くらいの小さな少女が顔を覗かせていた。大きな瞳を輝かせている。
「かわいいーワンちゃん!」
「か、かわいくない! オイラは気高き妖だぞ!」
生まれて初めて発した言葉で威張ってみせるが、少女は怖がるどころか近づいてくると、白い妖の顔をじっと見つめた。
「かわいいお花をつけて、なんか変。話し方と合わない」
「なっ……!?」
妖は近くの水たまりを覗き込んで驚いた。そこには確かに、耳元に可憐なお花が咲いている自分の姿が映っていたのだった。
威勢の良い口調に反して愛くるしすぎる己の見た目に、妖は言葉を詰まらせる。
「あたしは鈴。ワンちゃんの名前は?」
「名前など無い!」
「じゃあ、狛犬のコマ!」
少女――鈴は、悪びれもせず太陽のように笑ってそう言った。
昇る朝日に照らされたその笑顔は、あまりにも眩しかった。
(コマか……、まあいっか……)
こうして、半紙から生まれた白い生き物の名前は、出会ったばかりの小さな少女によって「コマ」と名付けられたのだった。
◇ ◇ ◇
それから夕方になるまで、コマと鈴は二人だけの「冒険」をした。
陽射しがポカポカと温かいお昼下がり。村の子ヤギが山道で迷子になったという噂を聞きつけ、二人は探すことにした。その道中、急な傾斜で鈴が足を滑らせてしまう。
「きゃっ……!」
「危ないっ!」
コマは咄嗟に飛び出し、自分の柔らかい体で鈴の小さな体を受け止めた。二人で一緒に草むらに転がり込む。
「……ふぇ、怖かった……」
怯えて目をうるませる鈴に、コマはそっと前足を伸ばし、小さな頭を優しく撫でた。
「大丈夫だ、オイラが側にいるからな。怪我はないか?」
「うん……コマ、ありがとう……」
ぎゅっと握り返された小さな手の温もりに、コマの耳の先がふいにぽっと赤くなる。
鈴は安心したようにふわりと微笑み、コマの頬に自分の頬をすりすりと寄せた。甘いお花のような香りがした。
その時、目の前の小川に村人のものと思われる草履が流れているのが見えた。その草履を拾おうと手を伸ばした鈴が、冷たい川に落ちてしまう。コマは慌てて水に飛び込み、鈴の着物の裾を必死に口で引っ張って陸へと引き上げた。
「コマ……ありがとう」
陸に上がったコマが「ぶるるっ!」と身体を大きく揺すって水気を飛ばすと、それを見た鈴が楽しそうに笑った。
「コマってかっこいいね。あたしの御殿様みたい」
びしょ濡れの二人だったが、その笑顔につられるようにコマも照れくさそうに目を細める。
そうしてコマの頭を、鈴が愛おしそうに撫でた時――コマはくすぐったいような、胸が甘く締め付けられるような不思議な気持ちでいっぱいになった。
(なんだろう、この気持ち……。コイツの笑った顔を、もっと見ていたいな……)
名前もつかない純粋で甘酸っぱい気持ちが、コマの胸の中に静かに芽生えていた。
実は、鈴は村の片隅に咲く「白詰草の花の精霊」だったのだ。人々の小さなお願いや温かい心に反応して姿を現し、村に小さな幸せを分け与える存在だった。
夕暮れ時、村はずれの小高い丘の上で、茜色に染まる空を見上げながら二人で並んで腰を下ろした。鈴の体が微かにきらきらと光の粒を放っている。
「ねえ、コマ。ずっとここで一緒に暮らそう?あたし、コマのこと……だいすきだよ」
鈴は小さな両手でコマの身体をそっと抱きしめ、背中に顔を寄せた。
二人で寄り添いながら過ごす、静かで温かい時間。ずっとこうして、鈴の隣で暮らしていけたら、どれほど幸せだろう。コマの胸は愛おしさで満たされていた。
けれど、コマは静かに首を振った。
「……オイラ、この姿になる前の記憶がないんだ。自分がどこから来たのかも分からない。……でもな」
コマは沈みかけの太陽を見つめた。その眼差しは、いつになく遠く、どこか切ない。
「ずっと悲しい顔をしているヤツを、幸せにしないといけないんだ。……名前も思い出せねぇけど、オイラは一刻も早く、そいつのところに行かないといけない気がするんだよ」
コマの小さな胸の奥で、消えかけの灯火のようにずっと疼いている記憶の欠片。悲しみに暮れ、今にも折れてしまいそうな誰かの背中。
コマの言葉を聞いた鈴は、寂しそうに目を細めたが、やがてコマの前足に自分の手をそっと重ね、優しく微笑んだ。
「それって……レン……? 何となく、そんな気がした」
「……レン……?」
その響きを聞いた瞬間、コマの胸の奥から懐かしく愛おしい気持ちが溢れ出してきた。
「うん。コマが会いに行かなきゃいけない人は、きっとその『レン』っていう人だよ」
鈴は自分の首元から、ちいさな金色の「鈴」を外した。光の糸で編まれた紐がついた、可憐な音の鳴る小さな鈴だ。
「これ、持っていって。コマが寂しくなったとき、あたしがいつでも見守ってるから」
鈴はコマの首に、そっとその鈴を結びつけてあげた。チリン、と澄んだ美しい音が静かな丘に響き渡る。
「ありがとうな、鈴。……オイラ、行くよ」
「うん。またね、コマ。レンさんを、絶対に幸せにしてあげてね」
夕闇が迫る中、コマが歩き出すと、背後の鈴の姿は柔らかな白い花びらとなって風に舞い、草むらへと溶けていった。
◇ ◇ ◇
――それから月日が流れた。
コマの首元には、あの日少女からもらった小さな鈴が、今も大切に結ばれている。
「チリン……」
隣を歩く錬の横顔を見上げながら、コマは首元の小さな鈴を静かに鳴らした。
後ろからは「錬さん」「待ちなよ錬!」「錬ちゃん」「歩くのが速いですわ!」と、賑やかな四人の少女たちの明るい声が追いかけてくる。
かつての魔法が使えなかった弱虫な少年は、今では大切な仲間に囲まれ、宿敵であった景時との決戦を乗り越え、幕府に仕える頼もしい存在となっていた。
あの日、あの丘で交わした幼い精霊との約束。
『レンさんを、絶対に幸せにしてあげてね』
(……見たかよ、鈴。……オイラ、ちゃんと錬を幸せにしてやったぞ)
夕陽に照らされる錬の凛々しい横顔が、滲んで霞んで見える。コマはそっと前足で目元を拭い、照れくさそうに、けれど誰よりも愛おしそうに目を細めた。
風が吹き抜け、首元の鈴がもう一度、やさしく「チリン」と音を奏でた。
まるで遠い空から、あの子が微笑み返してくれたかのように。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
物語は「番外編其の一」で一旦終了致しましたが、多くの方からリクエストをいただき、其の二を執筆いたしました。
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改めまして、物語を見届けてくださり、本当にありがとうございました!




