『突貫治療』
歯医者の「音」が怖い。
ただそれだけの、ごくありふれた感覚から生まれた物語です。
目を閉じても逃げられない音。
身体を動かせなくても、耳だけには届き続ける音。
もし、その音が少しずつ「別のもの」に聞こえ始めたら――。
これは、歯科医院を舞台にした、少し変わった音響ホラーです。
突貫治療
仕事が忙しいことを言い訳に、時々走る歯の痛みをずっと放置していた。たまに頭痛薬で誤魔化してはいたが、「まあ、放っておいても大したことはないだろう」と高を括っていたのだ。
しかし、その時は突然やってきた。
「――っ!?」
右の奥歯に、真っ赤に熱した火箸を直接突き立てられたような激痛が走る。思考が吹き飛び、脂汗が全身から噴き出した。到底我慢できるレベルではない。マサトは震える手でスマートフォンを掴むと、近所の歯科医院へ電話をかけた。
「う、あ……ふあふはがへ(歯が痛くて)……今日、診てもらえますか……」
上手く回らない舌で必死に訴えかけ、奇跡的にその日の午後の最終枠に予約を取り付けることができた。
歯医者に入るなんて小学生以来だった。重いドアを開けると、消毒液の匂いとともに静まり返った待合室が迎えてくれる。マサトは受付の女性に名乗り、保険証を提出した。
「マサト様ですね。大変でしたね、もう大丈夫ですよ」
受付の女性は穏やかな笑顔で応じたが、続けて手元のタブレットに目を落としながら淡々と言った。
「ところでマサト様、本日の『治療工程』はどうなさいますか?」
「え? 治療工程……ですか?」
「はい。当院では患者様のライフスタイルに合わせた新システムを導入しております。お仕事でお忙しい方や、逆に時間に余裕のある方など、それぞれのニーズにお応えする四つのコースがございます」
そう言って受付の女性は、一枚のパンフレットを提示した。そこには縦に四つの選択肢が並んでいた。
・遅延
・通常
・迅速
・突貫
「普段仕事が忙しいので、できれば早いほうがいいのですが……それぞれの説明を伺ってもいいですか?」
「承知いたしました。『通常』はごく一般的な治療速度です。お身体への負担も最小限に抑えられます。『遅延』は主に、ご高齢者など『歯科医院を生活の居場所として長く楽しみたい』という方向けのコースです。お待ちの間に召し上がっていただける甘いお菓子とジュースもご用意しております」
(いや、甘いもので虫歯を悪化させて通院を長引かせるシステムか……?)
マサトは喉まで出かかったツッコミをなんとか飲み込んだ。
「『迅速』は通常より早く治療を進めますが、多少お身体に負担がかかります。そして最後の『突貫』ですが……こちらは究極の速攻治療となります。お身体への負担は一切度外視。とにかく一回の施術で、何が何でも治療を完了させます」
「あの……仕上がりは大丈夫なんですよね?」
「技術面は完璧です。ただ……なにしろ『突貫』ですので……」
受付の女性は急に口ごもり、すっと目線を逸らした。
マサトは一瞬躊躇した。だが、今日は無理やり仕事を休んだものの、明日からは新規プロジェクトの立ち上げで当分休めそうにない。この激痛を抱えたまま働くことなど不可能だ。身体の負担くらい、一晩寝ればなんとかなるだろう。
「……すみません、『突貫』でお願いします」
受付の女性が目を見開き、信じられないものを見るような顔でこちらを凝視した。
「……本当にお覚悟はおできですか?」
「は、はい」
異様な迫力に圧倒されながら頷くと、女性は眼鏡のフレームをくいっと指で持ち上げた。
「分かりました。ではただちに、工事……いいえ、治療に取り掛かりましょう」
奥の重厚なドアが開かれ、マサトは診察室へと通された。
そこに待っていたのは、一般的な「繊細で清潔感のある歯医者」のイメージとは程遠い人物だった。
白衣を羽織ってはいるものの、袖からはみ出た太い腕は小麦色にこんがりと日焼けし、首回りの筋肉が隆々と盛り上がっている。まるで工事現場の作業員かアスリートのような、凄まじい体格の男だった。
(この人が……歯医者……?)
戸惑うマサトに対し、ガタイの良い歯科医はガシガシと頭を掻きながら、太い腕を組んでニッと白い歯を見せた。
「ようこそ、マサトさん!『突貫コース』のご指名だな、しかと受け取ったぞ!」
声が無駄に大きく、どこか現場監督のような威勢の良さがある。
「さあ、さっそく着工……いや、診察に入るとしよう。そこの台に横になってくれ!」
言われるまま診察台に横たわると、無機質なライトがまばゆく照らし出された。金属器具がシャリン、と甲高い音を立ててバットに置かれる。歯科医はマサトの顔を覗き込み、極太の指でグッとアゴを強引に押し下げた。
「ほう……なるほど。地盤が相当緩んでいるな。土砂崩れの危険すらあるぞ」
「ふあ(え)……?」
「おい、特注の極太麻酔を用意しろ! これより突貫工事に取り掛かる!」
「はい、先生! 圧力ポンプ接続完了しました!」
衛生士たちのキリッとした声が飛び交う。迫力に圧倒されている暇もなく、太い注射器が口内にあてがわれ、冷たい液体がどくどくと流し込まれた。
じわじわと感覚が麻痺していく。視界が急速にぼやけ、両腕も両足もまるで鉛の塊になったかのように微動だにしない。完全に身体の自由を奪われた金縛り状態だ。
だが、それとは対照的に――聴覚だけが恐怖を感じるほど冴え渡っていた。
キュイーーーン……。
耳元で、歯科用ドリルがお馴染みの甲高い高音を奏でる。普段なら不快なだけのその音が、耳の奥で濁り始め、重く太い振動へと変貌していった。
キーーーン……ズズ……ズズズ……。
ブォォォォン!!
地鳴りのような重低音が喉の奥から頭骨へダイレクトに響く。ドリル音はいつしか、分厚い鉄板と硬い岩盤を穿つ巨大な削岩機の轟音へと姿を変えていた。
ガガガガガガガガッ! ゴゴン! ゴゴンッ!!
「ぐ、う……っ!?」
口を開けたまま動けないマサトの頭蓋骨に、激しい打撃と振動が容赦なく打ち込まれる。脳みそがシェイクされるような衝撃だ。口の奥で、カチカチと金属製のジャッキが組み上げられる音が聞こえる。
「くそっ、A区画の岩盤が硬すぎる! 掘削機の刃が持たんぞ!」
「先生! 奥から危険水域の体液が噴出しています! 排水ポンプを最大出力に!」
「よし、支柱を叩き込め! ハンマーを持ってこい!」
カン! カン! ガンッ! ガンッ!
頭の中で、巨大な釘を打ち込まれているかのような重金属音が鳴り響く。歯の根元からメリメリと何かが軋む嫌な音が骨を伝ってきた。
(や、やめてくれ! タイム! 一旦タイム!!)
あまりの衝撃に耐えかね、マサトは心の中で狂ったように叫んだ。
(やめて! もう十分だから! 痛くないからやめてぇぇぇ!!)
必死で手を挙げようとし、喉を引き絞って叫ぼうとする。しかし、強烈な麻酔に支配された身体は指先ひとつ動かない。舌はナメクジのように重く硬直して口底にへばりつき、唇すらピクリとも動いてはくれなかった。
いくらパニックになって悲鳴を上げようとしても、口から漏れ出るのは「……っ、……ふ……っ」という掠れた空気の音だけだ。
「ダメです、先生! 根っこが深すぎて重機が入りません!」
「チッ……時間がねえんだよ、『突貫』なんだ! 非番の現場スタッフも全員叩き起こして呼べ! 全員でワイヤーを巻きつけて引っ張り出すぞ!」
「了解! 総力戦です! せーのっ、押せぇぇぇ!!」
バキンッ!! バギィッ!!
(ぎゃあああああああああっ!!)
骨が砕ける派手な破砕音が口内で炸裂し、頭の中だけで叫び声が木霊する。衝撃で意識が一瞬飛びかける。
「せ、先生! 振動が限界値を超えています! 患者の生命反応が持ちません!」
「構わん! 『突貫』の契約を結んだんだ、なにがなんでも本体の撃滅を優先しろ!」
「了解! 最悪の場合は……発破作業に移ります!」
「導火線をセット! ダイナマイトを用意しろ!」
(ダ、ダイナマイト!? 頼むからやめてくれええっ!! 俺の口の中で何しようとしてんだよ!!)
心の中の絶叫とは裏腹に、現実は無情にも進んでいく。やがて、頭骨の奥深くから最悪の音が聞こえ始めた。
ジジジジジジジジ……。
導火線が火花を散らしながら、勢いよく縮んでいく小さな、しかし決定的な燃焼音。
カチ、カチ、カチ……。
爆破タイマーの不気味なカウントダウンまで重なって響く。
声すら出せない圧倒的な絶望の中、マサトは溢れ出る脂汗とともに深く目を閉じ、来るべき衝撃に備えた――。
5、4、3、2、1――。
ふっと、意識が浮上する。
「……マサトさん。終わりましたよ」
穏やかな声に目を開けると、そこには汗だくになりながらも、タオルで額を拭う歯科医師の姿があった。
いつの間にか脳を揺らしていた爆音や削岩音は嘘のように消え去り、あんなに苦しんでいた歯の激痛も綺麗に消え失せている。口の中に傷も血の味もなく、爆破された形跡すら感じられない。
「あ、ありがとうございました……」
マサトが掠れた声で礼を言うと、歯科医はホッと胸を撫で下ろし、診察室に漂う白い粉煙のなかで深く頭を下げた。
「いえ……いやあ、本当に危ないところでした。発破の位置が少しでもずれていたら、今頃ごっそり頭ごと……あ、いえ! なんでもありません、ゴホッ、ゴホッ……!」
診察室の壁や床には、なぜか白い粉塵がうっすらと雪のように積もっている。傍らに立つ衛生士たちも、まるで長時間のレスキュー作業を終えたかのように肩で息をし、粉塵に塗れながら「ゴホゴホ」と激しく咳き込んでいた。
狐につままれた気分のまま、フラフラと受付へ向かう。
「お疲れ様でした。お会計になります」
受付の女性も、心なしか服に白い粉がついているような気がした。提示された金額を払おうと、トレーへ視線を落としたマサトは、思わず息をのんだ。
トレーのすぐ横に、土埃と油で黒く汚れた黄色い安全ヘルメットが置かれていたのだ。
その正面には、太い黒ペンでこう書かれている。
『安全第一』
マサトは何も言えないまま、逃げるように病院を後にした。
あれは麻酔が見せた一瞬の悪夢だったのか。
それとも、自分の口の中で本当に命がけの建設工事が行われていたのだろうか。
マサトが試しに歯を何度かかみしめてみると、カチ、カチと、まるで精巧な金属部品が噛み合うような冷たい音が口の中に響いた。
西日の差す帰り道、マサトは一度だけ振り返ったが、その答えを知る者はどこにもいなかった。
おしまい




