軟骨と慟哭
夫が死んだ。
目が覚めたら隣で冷たくなっていたのだ。
おやすみを交わした時と同じ姿勢で、穏やかな笑顔を浮かべていた。
腹の上で軽く組んだままの、節くれた細い指を見ながら、わたしはふと、
「ああ、焼肉食べたいな」
と思ったのだった。
暫くそうやって呆然としてから、重い腰をあげて電話をすると、征一がすっ飛んできた。
長男の征一は少し寂しくなった頭に汗をかきながら、方々に報せを入れていく。
嫁のめぐみが抱きついてきておいおい泣くので、わたしはすることが無くなった。
ただ、むっちりとした肉に包まれる息苦しさと温度に、若い日の夫を思い出していた。
高等学校を出たわたしは、地元の信用金庫でキーパンチャーとして勤めはじめた。
皆が競うようにキイを押し込み、ダダダダと金属質な音が響き渡る。
わたしは音楽のようなそのうねりが嫌いではなかった。
そこにいたのが夫だ。
信用金庫でテラーを務めていた夫は、入金伝票があると真っ先にわたしのところへ入力を頼んだ。
むっちりとした太りじしの、見上げるような大男だった。
「きみがいちばんロスが少ないから」と言っていたが、受け取る伝票はいつもちょっと湿っていた。
結局、信用金庫には2年も勤めなかった。
勤めを辞してすぐに征一が生まれ、陽二が生まれ、ちさ子が生まれた。
若いふたりには何につけても金がなく、ただ日々の暮らしに振り回されるように時は過ぎた。
時折、あのうねりを懐かしく思うこともあったが、高校を出て碌に職歴もない子持ち女に返り咲く場所などありはしなかった。
ふと、肉の揚がる匂いに意識が戻された。
唐揚げの匂いだ。
ここらは田舎とはいえ、近頃は葬祭センターなるものも出来たし、手間などかけなくていいと言ったのだが、OLをしているちさ子がてきぱきと段取りを調えてしまった。
料理上手のめぐみが通夜ぶるまいを取り仕切り、夫の好物を次々と拵えている。近所の奥さんも何やら持ち寄ってくれているようで、さわさわと話す声が遠く聞こえる。
大阪に赴任している陽二が帰りつくには、もう暫くかかりそうだ。
そうするといよいよ所在なく、もう仏間で夫の寝顔でも見つめている他なかった。
夫は相変わらず、笑っているような顔で眠っている。
夫はいつも、見ているようで見ていないような、糸みたいな目でわたしを見ていた。
存外、つぶらな瞳をしているのだ。
若いころは肉に埋もれていたその瞳は、今は皺に埋もれている。
夫はその糸みたいな目で本を読むのが好きだった。
新婚時代、金のないふたりはよく図書館で時を過ごした。
夫はハイネだのリルケだの、気取った詩集なんかを腸詰みたいな指でめくっていた。
字をあまり読まないわたしは早々に飽きてしまい、頁を繰る夫の腕に嚙みついた。
ふわふわと沈み込むような弾力が面白く、歯を立てて遊んでいると、夫は少し擽ったそうにしながらも、されるがままに本を読んでいるのだった。
夫はわたしを抱いて寝るのが好きだった。
並んで眠りについたはずなのに、気付けばいつも背後から腹に腕を回し、鼻をわたしの髪に突っ込んでいる。
脂身の多い身体は隙間なくわたしに纏わりついて、皮膚呼吸ができないほどだ。
前からは競うように絡みついてくる子供たちの体温。
朝目覚めたときにはびっしょりと汗をかいているのが常だった。
ちさ子が小学校に上がると、わたしは弁当屋のパートに出るようになった。
昼時分になると、ひっきりなしに唐揚げを揚げるのだ。
ぱちぱちと油の跳ねるのが、音楽のようで小気味よい。
夕方には帰れるし、たまに余り物を持ち帰れるのも有り難く、わたしはちさ子が中学を出るまでそこで働いた。
あのときもふと目覚めると、夫はわたしを抱いて寝ていた。
油のにおいの染みついたわたしの髪に鼻を突っ込んで。
子供たちもいい加減それぞれに眠るようになり、寝室はふたたび夫婦のものになっていた。
わたしが煩く言ったおかげで夫は少し萎んでいて、新婚の頃ほど暑苦しくはなかったが、持ち帰るようになった総菜のせいでまたぞろ膨らんだ。
喉が渇いたが腹に回された腕の重みで動けそうになく、悪戯心にかられたわたしは夫の手を取って口に入れてみた。
その指は既に腸詰のようではなく、ごつごつしていて、思ったより大きい。
——このまま食べてしまったら、どんな味がするのだろうか。
酔狂な妄想に寸の間、陶然としたあと、パジャマの袖で濡れた指をそっと拭った。
夫は目を覚まさなかった。
ただ、腹に回された腕にほんの少し、力の籠ったような気がした。
「母さん」
はっとした。
いつの間に薄暗くなっていたのか。陽二の点けた電灯に目が眩んだ。
刺すような光につんと視界が滲む。
「そろそろ、お寺さんくるけど……。大丈夫か、母さん」
久しぶりに見た陽二は心なしかぽっちゃりして、少し夫に似てきたようだ。わたしはうっすらと笑みを返した。
「年寄りだもの。年寄りは死ぬものよ」
もう、あのころのように火力は強くない。
喜びも、怒りも、悲しみも。
玄関先で車の音がして、陽二が出迎えに行くと、わたしは再び夫とふたりになった。
ふと、悪戯心を起こして、夫の細く乾いた指を口に入れてみる。
——関節の骨なら、嚙み砕けるだろうか。
薬指に軽く歯を立てても、夫は少し擽ったそうに、されるがままに笑っていた。
立つ、お辞儀、座る。
立つ、お辞儀、座る。
木魚に合わせて、ひたすらお辞儀を繰り返す。
リズムを追いかけるのに必死になっているうちに、気づけば弔問も途切れていた。
通夜に合わせて、夫はもう他人行儀な白い箱に入ってしまった。
箱には小さな窓があるきりで、細長い指はもう見えない。
傍らには花や果物が上品に飾られ、自分の家ではなくなったようだ。
わたしは残り物の唐揚げを取ってくると、見せつけるようにむしゃむしゃと頬張った。
次の日も木魚に振り回されているうちに葬儀が終わり、用意されたマイクロバスに押し込まれた。退屈なクラシックを聴かされながら随分待たされて、カラカラの真っ白な骨とご対面する。
食べるところなんてこれっぽちも残っていやしない。
大柄な夫の骨は骨壺にはうまく収まりきらず、係員は申し訳なさそうに、
「うちで一番大きいやつなんですけどね」
と言い訳しながら夫を詰め込んだ。
引き留める息子たちを振り切って、駅前で手近な店に飛び込んだ。
「……しゃーせ。おひとりさますか」
黄色い髪をした店員は一瞬だけ目を見開いたが、そのまま奥のテーブルに通された。
生ビールと軟骨焼きを頼んだ。店員は手早く運んで火を点けると、どこかへいなくなった。
喪服姿の老女が、焼肉屋でひとり。
わたしの代わりに泣いてくれるひとは、ここにはいない。
飲みつけない酒をぐいとあおると、網の上にひとつずつ並べていく。
腸詰の指、ごつごつした指、冷たくて細い指、白くてカラカラの指。
乗せた瞬間にジュッと小さな音がして、それは脂を滲ませながらじりじりと形を変えてゆく。
焼き網の上で、ぱちぱちと歌うように軟骨がはじけた。
それでわたしはやっと、声をあげて泣いた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は「やきにく短編料理企画」参加作品です。
お口直しに、活動報告におかわり焼肉へのリンクをご用意していますので、ぜひお運びください。
付け合わせに挿絵もありますよ。




