潜入準備
廃教会の地下に、地図と書類が広げられた作戦机がひとつ。
リリアナは赤鉛筆を手に、都市トランデールの貴族区周辺にいくつも印をつけていた。
「今のところ、“マリスの証言”とこのリストが一致しているのは二ヶ所。ひとつは旧マーベラス家の管理屋敷、もうひとつは裏市場“黒鉄回廊”に近い、タヴィス領の倉庫よ」
カイルが身を乗り出す。
「旧マーベラスの管理屋敷って、今は使われてないって話っすよね? 逆に怪しい……」
「ええ。しかも、そこに定期的に“荷馬車”が出入りしてるって情報もあるの。表向きは空屋敷なのに、ね」
エルドが腕を組みながら言った。
「裏市場との“物品の流通ルート”か。なら、まずは屋敷の動きを探るべきだな」
リリアナは頷き、マリスに視線を向けた。
「マリス、この屋敷について何か覚えてる? 使用人の構成とか、貴族の出入りとか」
「……たしか、あそこには父の側近だった“ヴァネール准男爵”が管理役としていたはず。だけど、最後に聞いたのは“左遷”されたって噂だった……」
「その“左遷”が本当かどうか、調べる価値はあるわね」
リリアナは机の端にあった小さな箱を開けた。中には黒革の手袋、変装用の眼鏡、通信用の小型ベル――現代でのノウハウを応用した“便利堂特製の道具”が整然と並んでいる。
「この三日間で、段階的に調査を進めるわ。まずは『周辺の監視』。次に『出入り人物の確認』。最後に『裏市場との接点を見つける』」
「証拠を掴んだら、今後起こりうる交渉の材料になるわね」
リリアナがそう呟くとカイルが目を輝かせた。
「潜入前に、事前準備の“潜調ミッション”っすね! 了解、俺、外回り得意っす!しかも、取引の材料にするなんて…」
「エルドは裏市場にツテがあるでしょ? 情報屋に声をかけて、“マーベラス家の影”を探って」
「任せろ。ああいう連中は金と交換で、ぺらぺらと口を開く」
リリアナは最後にマリスに視線を向けた。
「あなたには、内部構造の記憶を引き出してもらいたい。可能なら屋敷の見取り図も描いて。今の警備は違ってても、“使われるルート”ってのはそう簡単には変わらないから」
マリスはこくりと頷き、ノートを開いた。
「わたし、できるだけ思い出してみる。逃げたときの経路も、きっと役に立つ」
「ありがとう。これは“あなたを守る戦い”だけど、同時に“便利堂の矜持”の問題でもあるの」
リリアナは手袋をはめ、最後に呟いた。
「やるなら徹底的に。奴らに“仕組まれた罪”の代償がどれほど高くつくか、教えてあげましょう」
* * *
準備初日の夜。
カイルは夜の街を軽やかに駆けていた。背中には“折り畳み式の偽装看板”、手にはリリアナお手製の「音を吸収する靴」。
「ふふふ……“便利屋式ステルス調査セット”の実戦投入っすね」
ターゲットは旧マーベラス管理屋敷。
敷地の外塀には蔦が絡まり、所々が崩れている。カイルは慎重に裏手へ回り込み、風向きを確認してから壁を越える。
「足跡……それに、車輪痕。やっぱり“無人”じゃないっすね……」
数分間の潜伏の末、屋敷の裏口から男がひとり出てきた。馬車の荷を運んでいるらしく、荷物の包みに見慣れた“薬草商ギルド”の印章がある。
(……ギルド経由で合法物資を装って、裏に流してる……?)
カイルはそっとメモを取ると、建物の構造を簡易スケッチし、そのまま脱出した。
* * *
二日目の朝。
裏市場“黒鉄回廊”の一角に、エルドが立っていた。服装は粗野な鉱夫風に変え、顔には薄く泥を塗って変装している。
「……で、どうなんだ。最近の“マーベラス残党”の動きは?」
相手の情報屋は、小柄なドワーフの中年男。酒精の染みた声で呟いた。
「三日前にな、“副官風情”が回廊の奥で密談してた。“特例商品”の供給が滞るとかなんとか……おめえの言うとおり、あの屋敷から出てきた連中だったぜ」
「……特例商品?」
「たぶん、魔道具だ。しかも高位の。それをさばけるルートなんざ限られてる」
エルドは礼を言って、小銭袋を置いた。
* * *
三日目。
リリアナとマリスは、教会の奥の書庫で屋敷の構造再現を進めていた。
「この回廊、今も使われてると思います。使用人たちは食事運びのとき、こっちを通ってたから」
「ありがとう。非常時の避難ルートも確認できたわ。これで“内部潜入”の経路が定まる」
リリアナはマリスの頭を優しく撫でた。
「……立派な“協力員”よ。あとは、こちらの準備次第ね」
カイルが地図を持って戻ってきた。
「建物の出入り時間、荷の種類、それに衛兵の巡回コースもまとめてきたっす!」
エルドも腕を組みながら報告する。
「裏市場との流通路がはっきりした。あの屋敷、今は“魔道具の不正取引”の拠点になってる。しかも、“貴族証書”を使って堂々と通してる」
リリアナの表情が引き締まる。
「なら、証拠を押さえて、奴らの手口を逆手に取る」
「つまり、潜入、っすね?」
リリアナは静かに頷いた。
「三日後の夜、荷の運び出しに紛れて、屋敷へ入る。私とエルドが先行、カイルは外回りの監視と撤退ルート確保。マリスは教会で待機。非常時は“例の鍵”で逃げて」
彼女の瞳は、どこまでも冷静だった。
「敵の牙が伸びる前に、こちらから叩く。これが――“便利堂”のやり方よ」
こうして、リリアナたちは綿密な調査と準備を終えた。
“潜入”と“証拠奪取”。
それは、貴族の影を暴く最初の一手に過ぎなかった。




