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動き出す影

 風が止んだ。


 廃教会の外れに立つ黒装束の男は、しゃがみ込み、土を指先で撫でる。微かに残る熱気と、草木の押し潰れた形状。どちらも、最近誰かがこの地に足を踏み入れた証。


 「ここが……“便利堂”か。面白い。今のうちに潰しておくべきか、それとも……」


 背後から、カサリと草を踏む音。


 「報告を。マーベラス家の依頼主は?」


 男はゆっくり立ち上がり、声の主に向けて囁く。


 「既に“処理人”が一名、首都から派遣されたとのことです。“対象の少女”と、その庇護者を即刻始末せよと」


 「ふむ……ならばこちらも、相応の手札で応じるとしよう」


 そのまま男は、影の中へと消えた。


 * * *


 翌朝。


 教会の地下、整備された隠れ家スペースには、ほのかな朝日が差し込んでいた。リリアナは焚き火の前で書類を整理しながら、マリスの様子をちらりと見る。


 少女は簡易ベッドに座りながら、持ち込んだ小さなノートに何かを書いていた。


 「……日記?」


 リリアナが声をかけると、マリスは少し驚いた顔をして、頷いた。


 「うん……逃げる途中、いろんなことがあったから。忘れたくないの」


 「偉いわね。記録するのって、意外と勇気がいるものよ。見たくないことまで書くことになるから」


 「……うん」


 そのとき、地下への階段をバタバタと駆け下りてくる音。


 カイルが息を切らせて飛び込んできた。


 「大変っす! 表の掲示板に、“指名手配書”が貼られてました!」


 「……誰の?」


 「マリスさんです。“脱走貴族令嬢・重罪人。見つけ次第、報告を”って……しかも報奨金付きで!」


 マリスの顔が青ざめる。リリアナはすぐさま立ち上がり、指示を飛ばす。


 「カイル、エルドに伝えて。教会の外周に設置した監視糸の見回りを強化して。異常があったらすぐ知らせるように」


 「了解っす!」


 走り去るカイルを見送ると、リリアナはマリスに向き直った。


 「……いよいよ本格的に動いてきたわね。正面からは来ないでしょうけど、奴らは“影の仕事”が得意。見えない刃に気をつけなきゃ」


 マリスは不安そうに手を握りしめた。


 「私のせいで……リリアナさんたちまで危険に……」


 「違うわ。これは“私たちの仕事”よ。便利堂は“依頼を受ける”ことが仕事。そして、依頼を完遂するために動く。それだけ」


 リリアナはにっこりと笑って、手を差し出した。


 「あなたは、ただ“生きる意志”を忘れないで。それが一番の協力だから」


 マリスは震える手で、その手を取った。


 * * *


 その夜。


 便利堂の帳場には、珍しく緊張した空気が漂っていた。カウンター越しに現れたのは、旅装の商人風を装った男だった。


 「……これはこれは、噂の“なんでも屋”とお見受けします」


 「どうも、いらっしゃいませ。依頼のご相談かしら?」


 リリアナは笑みを浮かべながらも、内心では警戒を強めていた。男の瞳は、明らかに“観察者”のものだった。仕草、距離感、視線――全てが計算されている。


 男は懐から封筒を取り出し、静かに差し出す。


 「こちらに記された人物の“所在確認”が依頼内容です。報酬は先払い、金貨五十枚」


 「……高額ね。依頼主は?」


 「匿名。記録も残さぬよう、ご配慮願いたい」


 リリアナは封筒を開き、内部の紙を見て目を細めた。


 ──記されていたのは、“マリス・フェルミナ”の名と、彼女の素顔を写した鉛筆画。


 静かに、封筒を机に戻す。


 「……申し訳ありませんが、当店では“所在確認”の依頼は原則として引き受けておりません」


 男の目が細くなる。


 「そうですか。……それは残念だ」


 「ご理解に感謝します。どうぞ、良い旅を」


 男は一礼して店を後にした――が。


 リリアナの目は、扉が閉まったあともしばらく、その先を睨んでいた。


 「始まったわね……“狩り”が」


 カイルが低く唸った。


 「完全に狙われてますね、俺たち」


 「ええ。でも、こちらも手はある。マリスの情報をもとに、少し“探り”を入れてみましょう」


 リリアナは棚の奥から、一冊の黒いノートを取り出す。


 「これは……?」


 「過去の依頼で得た、“裏市場”と貴族の関係リスト。奴らの動きを読めれば、先手が打てる」


 エルドが目を光らせた。


 「つまり、攻勢に出る……?」


 「情報戦の第一歩よ」


 そのとき、背後の階段からマリスの声がした。


 「……私、協力したいの。リストの中に知ってる名前があるかもしれない」


 リリアナは、わずかに驚いた顔を見せた後、頷いた。


 「じゃあ、あなたは“特別協力員”ね。身分を隠したまま、敵の内情を暴いていきましょう」


 マリスが小さく微笑む。


 「はい、“便利堂の一員”として……」


 ――こうして、リリアナたちの初めての“対貴族依頼”が、本格的に動き出す。


 それはまだ、始まりにすぎなかった。


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