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生まれてから死んだ後も婚約者のことが好きでしょうがなかった男

作者: アルミ缶

 ノエルは俺の婚約者だ。産まれる前から決まっている婚約者で、それはもう可愛らしい女の子だ。

 くりくりの青い瞳、緩くカールのかかった栗色の髪。小さな、桃色の唇。父親と母親の良いとこ取りとはまさにノエルのことを表す。

 容姿に悪いところなんてひとつもない、数多のドレスを着こなし、美しい姿勢で一本の道を歩く女の子だった。

 欠点と言えば、性格が厳しいことくらいらしい。俺以外のみんなが言う。

 ノエルは彼女の両親、俺、俺の両親以外に心を開かなかった。屋敷の使用人へは少し当たりがキツイ。

 俺はそれが彼女の生き方としたのであれば、否定はしなかった。ノエルにはノエルの人生があるのだから、そうなってしまったものはしょうがない。

 ただ、何も知らない使用人は気の毒なので、ノエルがキツく当たった使用人へは俺から謝罪と説明を入れていた。

 とにかく、ノエルは自分のテリトリーの中以外の人への警戒心が高い。ノエルは、テリトリー以外の人に対しては目尻は釣り上がり、眉間には皺が寄る。

 そうなると俺はダメで、はやくノエルに元の愛らしい笑顔になって欲しいとヤケになる。

 彼女に必死に語りかけ、使用人に遠くへ行くようお願いする。

 視界に使用人が居なくなると、ノエルは肩の力を抜いてくれる。柔らかい唇が弧を描くまでを見届けることで、俺も一息つく。

 俺はノエルが好きで、彼女のことを何でも知っていた。両親の決めた婚約者と言えど、俺とノエルはきっと、産まれる前からお互いにお揃いの指輪をしていた。繋ぐ手に違和感は無く、親にすら言えない、少し悪いこともお互いになら話すことができた。たとえば、こっそり料理長からクッキーをもらったこととか。

 だけど、周りは思った以上に俺やノエルを見ていないし、見える部分には限界がある。

 周りには、俺がノエルに振り回される被害者で、ノエルは性格の悪い我儘で高慢なご令嬢だと思われてしまっていた。

 ノエルはきっと気が付いていなかった。それで良かったと思う。俺はノエルに傷ついて欲しくなかった、この事は俺がみんなの誤解を解いて回れば良いし、両親にも説明してくれるように頼めば良い。

 ノエルは素敵な女の子で、可愛くて、姿勢が良くて、俺の憧れだということ。誰よりも、もしかしたら両親よりも俺のことを考えていること。

 使用人がノエルを避けるのは、ノエルにとって都合が良かったけれど、誤解をされているのは良くない。誤解を解いて、改めてノエルとの接触を控えて貰えば良い。

 そのために、ノエルのことを口外禁止にする書類だって作ったのに。

 ある日、ノエルは人が変わったように親切で、優しい女の子になっていた。



 あの日からノエルは使用人を歓迎する。庭師を労り、料理人に感謝を伝え、メイドに手を振る。ありえないことだった。

 考えられないほどの優しさが、ノエルから使用人へ向けられている。使用人へ向けられる優しさの大きさは、俺と同じくらいにもなる。

 俺は心配になった。

 そこまで使用人に近づいて大丈夫なのか、怖くはないのか、何があったんだ、と矢継ぎ早に問いかける俺に、ノエルは驚いたみたいだった。

 今まで、ノエルは俺のことで驚くことはなかった。

 「そうね……少し、考え方を変えたの」

 そう言ったノエルの表情は、見たことの無いものだった。笑顔は何度も見てきたのに、そんな風に笑うノエルを、俺は知らない。

 ノエルを避けていた使用人は、瞬く間にノエルの虜になった。

 虜になるのは当たり前だ、だってノエルは可愛かった。周りの空気すらノエルに合わせて色を変えているように見えるほどに、可愛い。

 そんな可愛さが向けられたら、使用人は自分こそが一番に大事にされていると思い込むだろう。

 一番に大事にされていたのは俺だと言うのに、自信がなくなってしまう。

 どのようにノエルが変わろうとも、ノエルはノエルだ。俺の婚約者、素敵な女の子。

 俺はとっくにノエルの全てを受け入れ、俺の全てを彼女に明け渡す覚悟をしている。それはノエルも同じで、屋敷の裏庭の、薔薇の木の下で二人だけの小さな結婚式すらした。

 だから、人が変わったように優しくなったノエルも受け入れた。

 太陽の光が優しく降り注ぐ中庭で、俺はノエルを手を繋いだ。手のひらが暖かくて、柔らかい、それだけは変わっていない。

 ふ、と横を向いたときに目線が少し違うことに気がついた。

 ほんの少しだけノエルの目の位置が下にある。まつ毛の上をよく見たのは初めてだった。

 「どうかしたの?」

 ノエルは優しく、以前とは打って変わった声色で俺に語りかけた。

 どうしたも何も、ノエルは僅かに猫背だった。

 爪先が僅かに外を向いたように歩いていた、猫背のせいでドレスに少し皺ができていた。

 ノエルは産まれてからずっと、厳しい礼儀作法の勉強してきたから、猫背なんてする訳がない。



 おかしさに気付いてしまえば、ノエルはずっとおかしいままだった。

 ナイフとフォークの使い方、言葉遣い、身体の動かし方。全てがおかしい。

 人が変わったように思えた。

 ノエルは俺を見るときは、頬を僅かに赤く染める。それを見て、俺も照れてしまって二人して赤くなって話す。

 優しくなったノエルは、一度もそれをしていない。

 ノエルは以前、俺から貰った服、人形、髪飾りの全てを使用人に売られてからひどく警戒心が高くなっていた。『全ての使用人が敵に見える』『全員が敵なわけではないとわかっているのに、身体が強ばってしまう』と言っていた。『二度と盗られたくないから、大切なものは全て鍵付きの保管庫に仕舞い込んでしまったの』と苦しげに告げていた。

 『意地の悪い老人のような婚約者でごめんなさい』とノエルは俺に言っていた。

 俺は、ノエルの対応は当然のもので、ノエルが謝る必要はひとつも無く、売られたという物の全てを再度ノエルに渡した。保管庫に仕舞われるだけであっても、ノエルが失った悲しみから立ち直る力になれたのならよかった。

 今、ノエルは俺が送った髪飾りをつけている。

 保管庫に仕舞うのはもったいないから、と栗色の髪の毛にはきらりと輝く宝石が目立っていた。

 ノエルのその警戒心の高さは、ゆっくり治していくはずだった。朝起きたら宝物が全て無くなっていたという苦しみは、消えることの無い傷になってしまったから、傷と向き合える日が来るまでノエルを支えよう、と両家の両親と俺は決めていた。

 けれど、ノエルは傷すら無くなってしまった。突然、前触れもなく、人が変わってしまったように。

 俺は、本当に、ノエルは人が変わってしまったのだと思う。

 姿形は変わらないけれど、中身だけがそのまま別人になってしまった。生まれてから作り上げられたノエルは、たった一日でどこかへ行ってしまった。

 俺は思い切って聞くことにした。このままにしておくには我慢できなかった。

 「ノエル、君はいったい、誰だい?」

 「え……私は、ノエルですよ」

 「違うよね。本当のことを言ってくれ。俺の愛したノエルは今、どこにいるんだい?」

 ノエルの顔をした誰かは思い悩み、それから意を決したように口を開く。言葉を聞きたくないような、聞きたいと願うような、曖昧な気持ちに襲われた。

 「私は、確かにノエルです。でも、以前までのノエルじゃない」

 「うん、知っているよ」

 「おかしいかもしれませんが、私は前世の記憶を思い出したのです。今は前世の私と、ノエルが混ざっています」

 前世の記憶、俺以外が聞けばノエルは心を病んでしまったかと病院に連れていかれるだろう。俺はそんな有り得ない話を信じることができるだけの根拠を知ってしまっていた。

 「今までの記憶に違和感はないです、使用人が私の物を盗んで売ったことが恐ろしいという感覚はあります。けれど、それが物語の中のようにも感じています。現実感が無い、というか。上手く言い表せないのですけれど、ノエルの記憶を追体験した私が、今この場に居るような感覚です」

 ノエルは淡々と、客観的に身に起きた事実を語る。思いのほか冷静なのが幸いした。俺もノエルを見て冷静になれたからだ。

 「そうなんだね。君は、ノエルだけどノエルではない、でいいのかな」

 「私は……いいえ、でも、そうですね。あなたから見れば、ノエルだけれどノエルではないのですね」

 「このように聞くのは少し無礼かもしれないけれど、君は俺のことが、まだ好きなのかい?」

 「えっ。そんな、急に言われても」

 「感じたままでいいよ、言ってごらん」

 「好きかどうか、で言われたら。うーん、わかりません。なんだか、まだ物語の中に居る気分が抜けていなくて」

 「……わかったよ。ありがとう」

 彼女の答えを聞いて、俺はあることを決心した。

 彼女の好きな人が、本当に好きな人ができたのなら俺は彼女との婚約を破棄しよう。

 今のうちに、両親を懐柔しなければいけなかった。



 俺たち貴族には、貴族のみが通うことを許された学校がある。そこでは出会いが多く、婚約者を見つける者も多い。

 それは彼女も例外ではない。

 俺の両親と彼女の両親を説得して、婚約を一時白紙にまで戻してから学校へ入学した。

 元より親の決めていた結婚。子供の自由がないと主張を繰り返し、恋愛結婚も今は主流であることを熱心に伝えれば両親はようやく婚約を白紙に戻した。

 条件付き、ではあるが。

 その条件が学校で本当に好きな人を見つけることだ。

 俺はわからないが、彼女は見つけることができるという予言じみた確信があった。

 可愛い容姿と、穏やかな性格。愛らしい仕草、誰にでも気を配り幸せを願える慈愛の心。彼女は誰から見ても素晴らしい女性だ。

 俺も、彼女が素晴らしい女性であることに感心している。ただ、感心しているだけであった。

 ノエルの、俺だけに向ける感情は既になかった。

 彼女は俺の予測通りに婚約者を見つけた。皆が納得する地位を持ち、腕も立つうえに賢く聡明で、麗しい姿をしている。

 お似合いのふたりだと、学校中が祝福した。

 俺は彼女の婚約を祝った。花束を送り、親愛なる友人として祝いの言葉を伝えた。

 彼女が愛する人と結婚できることを心から祝った。

 前世の記憶が突然蘇り、大変だっただろう。様子を見ると、貴族とは関わりのない人生を送ってきたようだったから時折疲れたように空を眺めていた。

 それを乗り越えた結婚だ。幸せそうに微笑む彼女に、俺も嬉しくなる。彼女の幸せは俺の幸せでもあった。

 俺は誰とも付き合うことなく、婚約者を見つけることなく卒業して、彼女の結婚式に出てからは家業に没頭するようになった。



 「好きです」

 仕事仲間のシルビアに言われた。彼女の家業と、俺の家業は代々関わりが深く、仕事をするうえで欠かせない仲間だ。

 シルビアが俺のどこに惚れたのか全くわからなかった。態々、毎日未練がましい特注した指輪を通したネックレスを身に付けている俺の、どこに惚れる要素があるというのだろう。

 家の大きさだろうか。

 学校生活を送っているときは、誰にも告白などされたことがない。ノエルは告白以前に婚約者だったから、尚更だ。

 正真正銘、初めて告白というものをされた。

 「あなたは人を大事にできる、そういうところがずっと好きでした」

 「シルビア、ありがたいが……俺は、その」

 「あなたが誰かをずっと好きなのはわかってます。そのうえで好意を伝えました。身勝手なのは承知の上ですが、私があなたことを好きだと知って欲しかったんです」

 シルビアは仕事中に見ることのない、柔らかい笑みを浮かべる。

 その表情に見えた感情は、昔見たノエルと同じものだった。

 「その指輪の方を、ずっと愛しているあなたが素敵に見えました」

 俺は胸元にある指輪に指を添えた。シルバーの硬い感触が布越しに伝わる。中央にあしらえたノエルの瞳と同じ色の宝石が服の中で輝かんとしている。ノエルの指のサイズすら知らずに作った、独りよがりの指輪だ。

 「略奪なんて考えも出ないほどに、あなたは一途で愛に溢れている。もう、その指輪の方とは会わないのですか?」

 「会えない、からね」

 シルビアは俺を一途だと言うが、少し違う。

 諦めが悪いだけだ。貴族がこの歳で独り身であることは、良くも悪くも目線を集める。変わり者として噂話の的になる。

 噂すらどうでも良くなるくらい、ノエルのことを考えてしまうだけだ。

 「前触れも無くこのような話をして、申し訳ありません。私も、そろそろ長期休暇をいただきますので」

 「あ、あぁ。そうだったね」

 「あなたのような人と出会い、仕事ができて良かったです。休暇明けにまた会いましょう」

 シルビアはその場を去った。

 強い人だと思う。彼女は目の前に道を作りながら歩く人だ。

 翌日、シルビアは結婚した。仕事のような笑顔を貼り付けて白いドレスを着る彼女は綺麗だったが、それだけだった。

 長期休暇に入る前日、俺に告白をしたシルビアの心境を想い泣いてしまった。

 結ばれない辛さは、俺もよく知っているのだから。



 縁談の話が無かったわけがない。むしろ多すぎたくらいだ。俺が昔の失恋を引きずっていると思っている両親はノエルとは似てもつかない子を何人も紹介した。良い子たちばかりで、良い男性はいくらでも見つかるだろう。

 彼女たちに俺なんて男は勿体ない。子供のような恋をしたままの俺が彼女たちの誰かと結婚してしまえば、彼女たちに失礼だ。

 未だに俺の恋は一度だって終わりを告げていないままだ。この先も終わることは無いだろう。

 家を継ぐ子は必要なことは事実だ。しかし、なにも結婚をして子供を作らずとも良い。だから養子を取った。

 ノエルとは似てもつかない金髪に、緑色の瞳をした男の子だ。

 名前をナターレと言う。

 「俺は仕事ばかりしてきて、父親としては期待できないかもしれない。けれど、ナターレの生涯が幸せに満ちるよう、責任をもって君を育てよう」

 「ぼくは、ぼくは……ここに来れただけで幸せだよ」

 ナターレは謙虚な子供で、物を欲しがらず、俺に対してもよそよそしさが中々抜けない。養子と養父という関係なのだから、難しいものがあるのだろう。

 ナターレを引き取り、暫くした頃だろうか。

 彼女が女の子を産んだと聞いた。

 ナターレは暫くたって、彼女の子供と出会い、ふたりとも転げ落ちるように恋に落ちた。

 俺は初めてナターレが強請るのを見た。週末は毎週のように彼女の家に行き、彼女の子供と屋敷の中を歩き回っていた。小さなデートは、彼らの仲を更に深めていく。

 いつかの俺とノエルのように、裏庭で小さな結婚式を開いているのを窓から見てしまった。



 ナターレは大きくなり、彼女の子供と結婚した。ナターレに家業を引き継ぎ、孫娘のクリスも産まれ、隠居した俺はクリスの遊び相手だ。

 「おじい様、初恋のお話聞かせて!」

 クリスは椅子に座る俺の膝に乗り上げ、俺の目を見て言った。彼女も同じ、青い瞳だ。ノエルを彷彿とさせる、澄んだ瞳をしている。

 「初恋、初恋か」

 「私、恋が気になるの!どんな風に恋に落ちるの?お父様とお母様は雷に撃たれたみたい、って言っていたけど、雷に撃たれたら死んじゃうわよね?」

 「あはは、そうだね。雷に撃たれたら死んじゃうね。でも、恋は、それくらい突然訪れるものだったんだよ」

 「えー?ほんとに?それじゃあ、おじい様も雷に撃たれたみたいだった?」

 「……見つけたって、思ったかなぁ」

 「見つけた?」

 クリスは不思議そうに首を傾げた。

 もう数十年前にもなる、ノエルと出会った日を思い出す。

 確かに俺は、ノエルを見つけたと歓喜した。ずっと探していたものが見つかったのだと、手を離してはいけないと焦燥感に駆られた。俺はノエルのために生まれてきたのだと、理由もなく納得したような。

 「ずっと探してた人が、目の前に現れたんだ。だから、少しだけ必死になったものだよ。手を離してはいけない、目を離してはいけない、ってね」

 「ふーん。よくわからないわ」

 「まだ、わからないだけかもしれないよ。でも恋には色々あるんだ。ゆっくり、気がついたら好きだった、なんてこともある。恋の自覚なんて、人それぞれなんだよ。……ノエルおばあ様に話を聞いてみるといいかもね」

 「ノエルおばあ様は、おじい様とは違う恋をしたの?」

 「そうだよ、彼女の恋は雲のように穏やかだったんだ」

 「今度ノエルおばあ様の屋敷に行くときに、聞いてみるわ!」

 クリスはぴょん、と膝から飛び降りて廊下の方へかけて行った。秘密のおやつタイムなのだろう、見つかって怒られなければいいが。

 俺はノエルに、何度目かの懸想した。



 誰にだって寿命は来る。

 俺にも来る、目はほとんど見えないが声だけは聞こえた。

 大往生だ、人生に悔いはない。

 彼女は幸せになったし、ナターレの生涯も幸福に溢れているだろう。クリスも成人し、仕事が楽しいと毎週のように話しかけてくれる。

 幸せだった、自分なりの人生を全うできた。

 けれど最期、俺はノエルに向かって手を伸ばすような気分になる。

 生涯、恋人のひとりも作らなかった俺の心残りとも言えない、執着のようなものだ。

 ずっと昔のノエルにだけ恋をしていた。ノエルだけが好きだった。前世を思い出したあとの彼女を、愛することができなかった。

 裏庭の薔薇の木下での香りが懐かしい。ノエルとの日々は、随分前に終わりを告げてしまった。

 ノエルだけしか愛せなかった俺だけが悪い。

 もう一度、あの頃のノエルが現れてくれたら俺は走ってノエルの元へ向かうだろう。髪が乱れても、着崩れてみっともない格好になったとしてもノエルの元へ走り出す。

 光の届かなくなった視界の耳元で、声がした。

 『また、薔薇の木下で会いましょう』

 懐かしい、彼女ではないノエル。

 死にかけの老人に見せる幻覚にしては、よくできすぎている。信じられない、有り得ないことだ。死に際の夢なのだろうと、自分に言い聞かせる。

 『指輪を持って、私のところまで来てくださいね』

 ノエルの指輪は、ずっと胸元にあった。結婚のできる年齢になったその日に買いに行き、寝たきりになるまで胸元から指輪が無くなることはなかった。今は誰も知らない隠し収納にしまっている。

 『寂しい思いをさせてごめんなさい。不可抗力だったの。でも今は、ちゃんとあなたと結婚できるわ』

 俺は思い切り目を開けた。

 懐かしい裏庭の薔薇の木下、ノエルはあの日そのままの姿で立っていた。

 俺は皺だらけの手ではなくて、子供の手をしている。けれど、手の中には指輪があった。俺が買った、あの指輪だ。

 もしこれが夢であれば、俺は滑稽で哀れな男だと笑われるだろう。だけど、これが夢でも構わない。ノエルが目の前にいるのならなんだって良い。

 愛した人に、ずっと会いたかった。

 『待たせてごめんなさい。こうなるまで時間がかかってしまったの』

 薔薇の木下で微笑むノエルは、俺だけに向けた愛情を惜しげも無く溢れさせ、桃色の唇は抑えきれない喜びに弧を描いている。

 俺は駆け出して、震える手でノエルの手を取った。

 『一生愛することを、誓います』

 「一生愛することを、誓います」

 一度でノエルの指に指輪が嵌ったのは奇跡だ。涙で視界が歪み、手は震えていた。

 『こっちでお話しましょう。あなたのお話が、ずっと聞きたかったの』

 「俺も、ノエルの声が、ずっと聞きたかった」

 指輪はノエルに似合っている。諦めることはできなくても、叶うことは無いと温度を無くしていた恋が熱を帯びていく。

 この夢はいつまで続くのだろう、走馬灯とも言えない、俺の理想の具現化のような夢の終わりが恐ろしい。

 その恐ろしさを覆い隠すように、俺はノエルの手を強く握った。

 耳元で、聞き覚えのある男性と女性の泣きながら俺を呼ぶ声が聞こえたが、そのうち聞こえなくなる。彼らに会えなくなることを寂しいと思いながらも、夢から覚める気配はない。

 誰が見せているのかわからない夢の中で、俺のノエル共に同じ歩幅で歩き出した。


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